列
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
唱和は止んでいた。
だが、あの重低音は、まだ山のどこかに残響していた。
霧は晴れ、陽が差し、天王山には静けさが戻っていた。
兵たちは槍を下ろし、柵の修繕を始め、狼煙台の火種は水で消された。
戦は、終わったはずだった。
和睦は成った。
勅命は届き、光秀は隠居を受け入れた。
秀満と利三は領地を分け合い、それぞれ信孝・信雄の配下に入ることとなった。
坂本城には米が満ち、兵の食は保たれ、民の不安も和らいだ。
宗翔の策は、形としては成功していた。
だが、宗翔の胸には、わずかなざわめきが残っていた。
霧が晴れても、心は晴れぬ。
静けさの中に、何かが潜んでいる。
風が止み、鳥が戻り、兵が笑い始めたその瞬間にこそ、何かが崩れる――そんな予感が、宗翔の背を冷やしていた。
「足軽たちを、先に帰還させましょう」
宗翔は光秀に進言した。
「彼らは民です。戦が終わった今、故郷へ戻すべきです」
光秀は頷いた。
「そうだな。……だが、道中が心配だ」
「護衛をつけます。武将たちの命も、彼らの列に紛れさせましょう。
戦が終わった今、武装の形を保つより、民の列に紛れる方が安全です」
宗翔の策は、戦の終わりを信じきれぬ者のものだった。
だが、光秀はそれを受け入れた。
利三は黙って頷き、秀満は槍を逆さに持ち、足軽たちの列に加わった。
彼らは声を上げず、槍を地に向け、ただ静かに坂本へ向かった。
「列を乱すな。声を上げるな。……生きて帰れ」
宗翔は、そう言って彼らを見送った。
その背に、山の霧が再び立ち昇るような気がした。
*
その頃、秀吉は京の陣屋にいた。
火灯りの中、勅命の写しを手に、笑っていた。
その笑みは、冷たく、乾いていた。
「和睦したのは織田家であって、わしではない」
その声は、火の揺らぎよりも冷たかった。
勅命など、彼にとっては紙切れに過ぎなかった。
「勅命? そんなもの、わしの田畑には届かん。
わしは、わしのやり方で決める。
光秀が生きている限り、わしの天下は始まらん」
側近たちは黙っていた。
誰も、止められなかった。
秀吉の目には、戦の終わりなど映っていなかった。
彼にとって、和睦は“始まり”であり、“裏切り”だった。
*
夕刻、天王山の陣屋に伝令が駆け込んだ。
馬の蹄は泥を跳ね、兵たちの視線が一斉に集まった。
「秀吉軍が、せまっております!」
宗翔は、目を閉じた。
その胸のざわめきが、確信へと変わった。
風が止み、空が曇り、鳥が再び鳴き止んだ。
終わったはずの戦が、再び始まろうとしていた。
歴史という大きな歯車が、音を立てて回り始めた。
そしてその歯車は、誰の祈りも、誰の策も、誰の命も――
待ってはくれなかった。




