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『光秀異聞』 円明寺遺譚  作者: 双鶴


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7/9

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」


唱和は止んでいた。

だが、あの重低音は、まだ山のどこかに残響していた。

霧は晴れ、陽が差し、天王山には静けさが戻っていた。

兵たちは槍を下ろし、柵の修繕を始め、狼煙台の火種は水で消された。

戦は、終わったはずだった。


和睦は成った。

勅命は届き、光秀は隠居を受け入れた。

秀満と利三は領地を分け合い、それぞれ信孝・信雄の配下に入ることとなった。

坂本城には米が満ち、兵の食は保たれ、民の不安も和らいだ。

宗翔の策は、形としては成功していた。


だが、宗翔の胸には、わずかなざわめきが残っていた。

霧が晴れても、心は晴れぬ。

静けさの中に、何かが潜んでいる。

風が止み、鳥が戻り、兵が笑い始めたその瞬間にこそ、何かが崩れる――そんな予感が、宗翔の背を冷やしていた。


「足軽たちを、先に帰還させましょう」

宗翔は光秀に進言した。

「彼らは民です。戦が終わった今、故郷へ戻すべきです」


光秀は頷いた。

「そうだな。……だが、道中が心配だ」


「護衛をつけます。武将たちの命も、彼らの列に紛れさせましょう。

 戦が終わった今、武装の形を保つより、民の列に紛れる方が安全です」


宗翔の策は、戦の終わりを信じきれぬ者のものだった。

だが、光秀はそれを受け入れた。

利三は黙って頷き、秀満は槍を逆さに持ち、足軽たちの列に加わった。

彼らは声を上げず、槍を地に向け、ただ静かに坂本へ向かった。


「列を乱すな。声を上げるな。……生きて帰れ」

宗翔は、そう言って彼らを見送った。

その背に、山の霧が再び立ち昇るような気がした。



その頃、秀吉は京の陣屋にいた。

火灯りの中、勅命の写しを手に、笑っていた。

その笑みは、冷たく、乾いていた。


「和睦したのは織田家であって、わしではない」


その声は、火の揺らぎよりも冷たかった。

勅命など、彼にとっては紙切れに過ぎなかった。


「勅命? そんなもの、わしの田畑には届かん。

 わしは、わしのやり方で決める。

 光秀が生きている限り、わしの天下は始まらん」


側近たちは黙っていた。

誰も、止められなかった。

秀吉の目には、戦の終わりなど映っていなかった。

彼にとって、和睦は“始まり”であり、“裏切り”だった。



夕刻、天王山の陣屋に伝令が駆け込んだ。

馬の蹄は泥を跳ね、兵たちの視線が一斉に集まった。


「秀吉軍が、せまっております!」


宗翔は、目を閉じた。

その胸のざわめきが、確信へと変わった。

風が止み、空が曇り、鳥が再び鳴き止んだ。


終わったはずの戦が、再び始まろうとしていた。

歴史という大きな歯車が、音を立てて回り始めた。


そしてその歯車は、誰の祈りも、誰の策も、誰の命も――

待ってはくれなかった。


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