表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『光秀異聞』 円明寺遺譚  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」


九字護身法の唱和は、なおも続いていた。

霧は薄れつつあったが、声は山に染み込み、空気を震わせていた。

その重低音は、もはや呪ではなく、軍の呼吸そのものだった。


戦は、明智軍の優勢で始まった。

仕掛けは機能し、狼煙は正しく伝わり、敵の進軍は分断された。

火矢が走り、谷に落ちた敵兵の叫びが霧に吸い込まれていった。


だが、光秀は動かなかった。

追撃の号令は出されず、柵の内側で兵は静かに構えを保った。

斎藤利三が、血のついた槍を手に、陣屋へ駆け込んだ。


「殿、今こそ突くべきです。敵は乱れております。押せば崩れます!」


光秀は、火灯りの中で首を横に振った。

「押せば、民が巻き込まれる。足軽が死ぬ。勝っても、何も残らぬ」


「だが――!」


「利三。勝つことがすべてではない。……兵を一人でも多く生きて帰すことが、今は肝要だ」


利三は拳を握りしめ、何も言わずに頭を下げた。

宗翔はそのやり取りを黙って見つめていた。

光秀の声には、疲労と覚悟が滲んでいた。



そのとき、陣屋の外に馬の蹄が響いた。

勅使が到着したのだ。

朝廷よりの和睦の勅命を携え、使者は静かに文を広げた。


「織田家よりの和議。明智光秀、朝敵にあらず。

 秀吉との戦を止め、織田家の一門として復帰せよ」


陣屋に、ざわめきが走った。

宗翔は、光秀の横顔を見つめた。

その目は、わずかに揺れていた。


「内容は――」

秀満が低く問うた。


「光秀殿は隠居し、高野山にて出家。

 領地は、明智秀満に半分、斎藤利三に半分を割譲。

 秀満は信孝配下、利三は信雄配下に属す。

 秀吉は、光秀を討たぬことを誓う」


「……降伏ではない、復帰か」

光秀が呟いた。


「名を捨て、命を拾う道です」

宗翔が言った。

「討たれぬこと。それが、今の勝利です」


利三は唇を噛んだ。

秀満は、目を閉じて頷いた。

光秀は、しばし黙し、そして静かに言った。


「よい。和議を受けよう。……命を残す。未来のために」


宗翔は、深く頭を下げた。

その瞬間、彼の中で何かがほどけた。

この戦は、終わったのだ――そう思った。



天王山に、静けさが戻った。

火は消され、狼煙は上がらず、兵たちは槍を下ろした。

霧は晴れ、空には薄い陽が差していた。


だが、宗翔はその光を見ながら、胸の奥に微かなざわめきを感じていた。

何かが、まだ終わっていない。

何かが、動き出そうとしている。


光秀は、陣屋の外に立ち、山を見つめていた。

「これで、終わるのか」


宗翔は、答えなかった。

ただ、心の中で呟いた。


終わるはずだった。

だが――


歴史という大きな歯車が、それをゆるさなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ