陣
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
九字護身法の唱和は、なおも続いていた。
霧は薄れつつあったが、声は山に染み込み、空気を震わせていた。
その重低音は、もはや呪ではなく、軍の呼吸そのものだった。
戦は、明智軍の優勢で始まった。
仕掛けは機能し、狼煙は正しく伝わり、敵の進軍は分断された。
火矢が走り、谷に落ちた敵兵の叫びが霧に吸い込まれていった。
だが、光秀は動かなかった。
追撃の号令は出されず、柵の内側で兵は静かに構えを保った。
斎藤利三が、血のついた槍を手に、陣屋へ駆け込んだ。
「殿、今こそ突くべきです。敵は乱れております。押せば崩れます!」
光秀は、火灯りの中で首を横に振った。
「押せば、民が巻き込まれる。足軽が死ぬ。勝っても、何も残らぬ」
「だが――!」
「利三。勝つことがすべてではない。……兵を一人でも多く生きて帰すことが、今は肝要だ」
利三は拳を握りしめ、何も言わずに頭を下げた。
宗翔はそのやり取りを黙って見つめていた。
光秀の声には、疲労と覚悟が滲んでいた。
*
そのとき、陣屋の外に馬の蹄が響いた。
勅使が到着したのだ。
朝廷よりの和睦の勅命を携え、使者は静かに文を広げた。
「織田家よりの和議。明智光秀、朝敵にあらず。
秀吉との戦を止め、織田家の一門として復帰せよ」
陣屋に、ざわめきが走った。
宗翔は、光秀の横顔を見つめた。
その目は、わずかに揺れていた。
「内容は――」
秀満が低く問うた。
「光秀殿は隠居し、高野山にて出家。
領地は、明智秀満に半分、斎藤利三に半分を割譲。
秀満は信孝配下、利三は信雄配下に属す。
秀吉は、光秀を討たぬことを誓う」
「……降伏ではない、復帰か」
光秀が呟いた。
「名を捨て、命を拾う道です」
宗翔が言った。
「討たれぬこと。それが、今の勝利です」
利三は唇を噛んだ。
秀満は、目を閉じて頷いた。
光秀は、しばし黙し、そして静かに言った。
「よい。和議を受けよう。……命を残す。未来のために」
宗翔は、深く頭を下げた。
その瞬間、彼の中で何かがほどけた。
この戦は、終わったのだ――そう思った。
*
天王山に、静けさが戻った。
火は消され、狼煙は上がらず、兵たちは槍を下ろした。
霧は晴れ、空には薄い陽が差していた。
だが、宗翔はその光を見ながら、胸の奥に微かなざわめきを感じていた。
何かが、まだ終わっていない。
何かが、動き出そうとしている。
光秀は、陣屋の外に立ち、山を見つめていた。
「これで、終わるのか」
宗翔は、答えなかった。
ただ、心の中で呟いた。
終わるはずだった。
だが――
歴史という大きな歯車が、それをゆるさなかった。




