皆
天王山の朝は、霧に沈んでいた。
谷から立ち昇る白煙は、まるで山そのものが息をしているようだった。
明智軍一万八千。秀吉軍二万。数では劣る。だが、空気は、こちらに味方していた。
柵は完成し、吊り橋は張られ、落とし穴には枯葉が敷かれた。
狼煙台には火種が仕込まれ、矢玉は並び、油壺は布で覆われていた。
兵たちは声を発せず、ただ静かに槍を立てて待っていた。
その静寂の中で、響き始めた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
九字護身法。
明智軍の全兵が、霧の中で、低く、ゆっくりと唱え始めた。
声は重低音となって霧を震わせ、山を包み込んだ。
風が止み、鳥が鳴き止み、秀吉軍の前衛が足を止めた。
繰り返される九字護身法の唱和は、
秀吉軍に――仏罰が迫るような、圧倒的な威圧感と恐怖感を叩き込んだ。
「……何だ、この音は」
「霧の中で、何かが……唱えている」
「数が……見えない。だが、何かが、来る」
秀吉軍の斥候が声を震わせ、馬が鼻を鳴らした。
兵の足が止まり、陣形が揺らいだ。
宗翔は、陣屋の高台からその様子を見ていた。
「音は、恐怖を呼ぶ。静けさは、想像を膨らませる。数ではなく、空気で圧するのです」
光秀は頷いた。
「戦は、始まる前に決まることもある」
*
午の刻、狼煙が上がった。
赤三本――敵接近。
白一本――突撃開始。
信号旗が翻り、明智軍が動いた。
霧の中から、槍が突き出され、火矢が放たれた。
吊り橋が落ち、敵の先鋒が谷へ崩れた。
油壺が割れ、炎が走った。
「押せ!」
斎藤利三が叫び、森成利が先陣を切った。
秀満は後方から指揮を取り、宗翔は狼煙の調整を続けた。
秀吉軍は混乱していた。
旗の意味が読めず、霧の中で敵の数を測れず、進路を誘導されていた。
「明智軍、数が増えているぞ!」
「いや、旗が偽だ! 罠だ!」
叫びが飛び交い、馬が暴れ、兵がぶつかり合った。
霧の中で、音だけが戦場を支配していた。
*
その混乱の中、秀吉本陣には次々と報が舞い込んだ。
「丹羽長秀、京にて兵を引いたとのこと!」
「池田恒興、進軍を拒否し、播磨に留まった模様!」
「細川殿、未だ動かず!」
伝令が駆け込み、口々に叫ぶ。
だが、その報の真偽は、誰にも分からなかった。
宗翔が放った偽密書と偽使者が、敵の背後に混乱を撒き散らしていた。
「長秀が寝返った? 本当か?」
「恒興が敗走? いや、別の報では進軍中と……」
「どちらが本当だ!?」
秀吉軍の幕僚たちは地図の上で声を荒げ、指揮系統は乱れ始めた。
誰が味方で、誰が敵か。霧の中で、情報すらも霧に包まれていた。
宗翔は、陣屋の高台からその混乱を見下ろしていた。
「戦は、剣ではなく、疑いで崩れる」
光秀は静かに頷いた。
「敵が敵を疑い始めたとき、こちらは一つになれる」
そのとき、霧の向こうから再び響いた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
九字護身法の唱和が、再び山を震わせた。
秀吉軍の兵たちは、霧の中で立ち尽くした。
その耳に届くのは、味方の声ではなく、仏罰のような重低音だった。
*
その頃、京では勅命が整えられていた。
宗翔が手配した和睦の文が、朝廷に上奏される。
「明智光秀、朝敵にあらず。秀吉は、戦を止めよ」
その文は、使者の手により、天王山へ向かっていた。
宗翔は、戦場の隅でその報を受けた。
「あと少し。あと少しで、戦は終わる」
だが、霧はまだ晴れていなかった。
戦は、まだ終わっていなかった。




