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『光秀異聞』 円明寺遺譚  作者: 双鶴


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5/9

天王山の朝は、霧に沈んでいた。

谷から立ち昇る白煙は、まるで山そのものが息をしているようだった。

明智軍一万八千。秀吉軍二万。数では劣る。だが、空気は、こちらに味方していた。


柵は完成し、吊り橋は張られ、落とし穴には枯葉が敷かれた。

狼煙台には火種が仕込まれ、矢玉は並び、油壺は布で覆われていた。

兵たちは声を発せず、ただ静かに槍を立てて待っていた。


その静寂の中で、響き始めた。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」


九字護身法。

明智軍の全兵が、霧の中で、低く、ゆっくりと唱え始めた。

声は重低音となって霧を震わせ、山を包み込んだ。

風が止み、鳥が鳴き止み、秀吉軍の前衛が足を止めた。


繰り返される九字護身法の唱和は、

秀吉軍に――仏罰が迫るような、圧倒的な威圧感と恐怖感を叩き込んだ。


「……何だ、この音は」

「霧の中で、何かが……唱えている」

「数が……見えない。だが、何かが、来る」


秀吉軍の斥候が声を震わせ、馬が鼻を鳴らした。

兵の足が止まり、陣形が揺らいだ。


宗翔は、陣屋の高台からその様子を見ていた。

「音は、恐怖を呼ぶ。静けさは、想像を膨らませる。数ではなく、空気で圧するのです」


光秀は頷いた。

「戦は、始まる前に決まることもある」



午の刻、狼煙が上がった。

赤三本――敵接近。

白一本――突撃開始。


信号旗が翻り、明智軍が動いた。

霧の中から、槍が突き出され、火矢が放たれた。

吊り橋が落ち、敵の先鋒が谷へ崩れた。

油壺が割れ、炎が走った。


「押せ!」

斎藤利三が叫び、森成利が先陣を切った。

秀満は後方から指揮を取り、宗翔は狼煙の調整を続けた。


秀吉軍は混乱していた。

旗の意味が読めず、霧の中で敵の数を測れず、進路を誘導されていた。


「明智軍、数が増えているぞ!」

「いや、旗が偽だ! 罠だ!」


叫びが飛び交い、馬が暴れ、兵がぶつかり合った。

霧の中で、音だけが戦場を支配していた。



その混乱の中、秀吉本陣には次々と報が舞い込んだ。


「丹羽長秀、京にて兵を引いたとのこと!」

「池田恒興、進軍を拒否し、播磨に留まった模様!」

「細川殿、未だ動かず!」


伝令が駆け込み、口々に叫ぶ。

だが、その報の真偽は、誰にも分からなかった。

宗翔が放った偽密書と偽使者が、敵の背後に混乱を撒き散らしていた。


「長秀が寝返った? 本当か?」

「恒興が敗走? いや、別の報では進軍中と……」

「どちらが本当だ!?」


秀吉軍の幕僚たちは地図の上で声を荒げ、指揮系統は乱れ始めた。

誰が味方で、誰が敵か。霧の中で、情報すらも霧に包まれていた。


宗翔は、陣屋の高台からその混乱を見下ろしていた。

「戦は、剣ではなく、疑いで崩れる」


光秀は静かに頷いた。

「敵が敵を疑い始めたとき、こちらは一つになれる」


そのとき、霧の向こうから再び響いた。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」


九字護身法の唱和が、再び山を震わせた。

秀吉軍の兵たちは、霧の中で立ち尽くした。

その耳に届くのは、味方の声ではなく、仏罰のような重低音だった。



その頃、京では勅命が整えられていた。

宗翔が手配した和睦の文が、朝廷に上奏される。

「明智光秀、朝敵にあらず。秀吉は、戦を止めよ」


その文は、使者の手により、天王山へ向かっていた。

宗翔は、戦場の隅でその報を受けた。


「あと少し。あと少しで、戦は終わる」


だが、霧はまだ晴れていなかった。

戦は、まだ終わっていなかった。


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