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『光秀異聞』 円明寺遺譚  作者: 双鶴


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4/9

天王山の朝は、霧に包まれていた。

夜のうちに陣を移した明智軍は、山腹に柵を築き、槍を並べ、静かに迎撃の構えを整えていた。兵たちは声を荒げず、足音を抑え、粛々と動いていた。


「あと九日」

その数字が、空気を引き締めていた。

宗翔が告げた未来の時間軸は、兵たちの心に緊張と規律をもたらしていた。勝利ではなく、生き延びるための戦。守るべきもののための九日間。


斎藤利三は、柵の角を確認しながら言った。

「九日で勝てるか否かではない。九日で、形を残すのだ」


明智秀満は、地図を広げたまま筆を走らせていた。

「坂本の米が、兵の心を支えている。宗翔の策は、戦の形を変えた」


森成利は、槍の穂先を磨きながら呟いた。

「堺で米を買うなど、僧のすることか……いや、僧だからこそか」



その頃、堺では宗翔が動いていた。

本願寺の商人筋を通じて、米を大量に買い占めた。銭は尽きた。だが、坂本城には米が満ちた。兵の食は保たれ、民の不安は和らいだ。


「米は、命です」

宗翔は商人にそう告げた。

「戦は、命を奪うものではなく、命を守るためにあるべきです」


商人は笑った。

「僧が戦を語るとは、世も末ですな」


宗翔は微笑を返した。

「末ではなく、始まりかもしれません」


その米は、戦の勝敗を左右するものではなかった。

だが、敗れた後に残るものとして、宗翔はそれを選んだ。坂本城は銭を失い、米で満ちた。戦の後に、民へと渡る糧として。



陣屋では、迎撃の準備が進んでいた。

狼煙台が築かれ、昼夜の連絡手段として訓練が始まった。矢玉は坂本から運ばれ、火矢の準備も進められた。油壺が並び、火攻めの布陣が整えられていく。


「仕掛けはどうだ」

斎藤利三が問うと、森成利が答えた。

「落とし穴は三箇所、吊り橋は二本。敵の進路を誘導できます」


「よし。宗翔の策、活きておるな」


そして、山の尾根には巨大な信号旗が掲げられた。

赤、白、黒――風に翻るその色は、敵に向けた偽の指令だった。突撃、退却、包囲――旗の意味は、敵の混乱を誘うために仕込まれていた。


「旗は敵を惑わせるためのもの。味方には狼煙で伝える」

秀満が兵に告げると、皆が頷いた。



その頃、情勢は動いていた。

細川は迷い、中川と高山は進軍した。

それに焦った織田信孝ら遺児たちは、京を離れた。朝廷への根回しも進み、綸旨の手配が整いつつあった。


秀吉側の士気は、微妙に揺らいでいた。

米の流通が滞り、兵の不満が広がり始めていた。

天王山の確保と経済戦の影響が、じわじわと戦況を変えつつあった。



宗翔は、陣屋の一隅で灯明を見つめていた。

その胸には、葛藤が渦巻いていた。


「私は、歴史を変えるために来たのではない。残すべきものを守るために来た。だが、それが誰かの命を救うなら、迷う理由はない」


彼は、未来の記憶を封じ込めた。

秀吉を討つことは、目的ではない。

光秀が生きながらえ、次の時代に何かを残すこと――それが、宗翔の願いだった。


火の灯りが揺れた。

その揺らぎの中で、宗翔は静かに目を閉じた。

そして、決意した。


「この戦を、終わらせる。命を守るために」


その言葉は、誰にも聞かれなかった。

だが、天王山の霧の中で、確かに響いていた。


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