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『光秀異聞』 円明寺遺譚  作者: 双鶴


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2/9

陣屋の空気は、熱を孕んでいた。

本能寺の炎はまだ遠くで燃えている。夜風に乗って、焦げた匂いが軍議の場にまで届いていた。


「信長公、討ち果たしたぞ!」

「京の町は、すでに我らの手に!」


雑兵たちの声が、陣屋の外から響いてくる。槍を掲げ、甲冑を鳴らし、興奮と勝利の余韻に酔っていた。だが、その喧騒の奥には、次なる戦への焦りが潜んでいた。


「細川は、まだ動かぬのか?」

「中川と高山はどうした?」

「筒井からの援軍は?」


陣屋の中では、重臣たちが地図を囲み、声を潜めて言葉を交わしていた。斎藤利三は眉をひそめ、明智秀満は筆を走らせながら、時折、唇を噛んだ。森成利は、地図の端に指を添え、兵の配置を思案していた。


「秀吉は、どう動く?」

火の灯りが揺れ、地図の上に影が踊る。

兵の報告が次々と届き、使者が走り、馬の蹄が土を打つ音が絶え間なく響いていた。外では、酒を回す者、信長の首を探す者、次の標的を口にする者――熱と混乱が交錯していた。


そのとき、陣屋の入口に一人の男が連れられてきた。

僧衣をまとい、顔には煤と血の痕が残っている。目は怯えながらも、何かを見据えていた。


宗翔は、囲まれるようにして座していた。周囲には、明智軍の重臣たち――斎藤利三、溝尾茂朝、明智秀満、そして若き将・森成利らが控えていた。皆、甲冑の隙間から汗を滲ませ、目は鋭く、手は刀の柄に添えられている。


「名を申せ」

斎藤利三が低く言った。声には疑念と苛立ちが混じっていた。


宗翔は、深く一礼し、静かに答えた。

「真言宗の僧、宗翔。円明寺より参りました。……先の世より、御仏の導きにより、この刻に至りました」


その言葉に、場がざわめいた。溝尾茂朝が眉をひそめる。

「先の世? 戯言か。斬るべきだ、殿」


「待て」

光秀が手を挙げた。声は静かだが、場の空気を制する力があった。

「不思議で、信じがたい。だが、これもまた現実だ。……この者の目は、嘘を語る者のそれではない」


宗翔は、光秀の目を見返した。そこには疲労と焦燥、そして何かを悟った者の諦念があった。


「未来の世では……本能寺の変は、裏切りと語られております。殿は、信長公を討った逆臣として記されております」


その言葉に、森成利が息を呑んだ。明智秀満は、拳を握りしめたまま、目を伏せた。斎藤利三は、目を閉じて深く息を吐いた。


「……やはり、そうか」

光秀は呟いた。誰に向けた言葉かは分からなかった。


「歴史は、勝者が塗り替えます。謀叛の事実は変えられません。ですが、誠は、伝えられます」


宗翔の言葉に、利三が肩を落とした。

「誠など、戦の場には不要だ。勝たねば、何も残らぬ」


「だからこそ、誠が必要なのです」

宗翔は、声を強めた。

「人は、選び、悔い、そして語り継ぐ。私は、そのためにここに来たのかもしれません」


沈黙が落ちた。火の灯りが揺れ、壁に映る影が伸び縮みする。

外の喧騒が遠くなり、陣屋の空気が一つの問いに沈んでいた。


光秀は、ゆっくりと立ち上がった。

「よい。そなたを、味方として迎え入れよう。信じるには足りぬが、疑うには惜しい」


宗翔は、深く頭を下げた。


「事実を、申し上げます」

宗翔は、言葉を選びながら語り始めた。

「細川殿は離反し、中川殿と高山殿も秀吉方に付きます。筒井殿は傍観を決め込み、援軍は望めません。秀吉は、毛利との和睦を急ぎ、中国より大返しを果たします」


「……大返し、だと?」

明智秀満が顔を上げた。

「それほどの速さで戻れるものか」


「未来では、それが語り草となっております。殿の敗因として」


光秀は、しばし黙した。

その沈黙の中で、誰もが息を潜めていた。戦の行方が、今、言葉によって揺らいでいた。


「ならば、先手を打つしかあるまい」

光秀は、静かに言った。

「先ずは天王山を奪取し、陣を敷く。秀吉の進軍を迎え撃つ準備をしてください」

そう策を献じた宗翔に、光秀はふと目を細めた。

「貴僧も、戦うつもりか?」


「戦うのではありません。誠を貫くのです。今はそれだけをお考えください」


斎藤利三が頷き、明智秀満が地図を広げた。森成利は、すでに兵の配置を思案していた。

溝尾茂朝は、宗翔の背を一瞥し、何かを言いかけて黙った。


光秀は、宗翔を見た。

「これより、軍議を開こう」


火の灯りが、再び揺れた。

戦の幕が、音もなく、だが確かに上がった。


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