表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『光秀異聞』 円明寺遺譚  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/9

臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

密教の九字護身法を唱える低音の響きが、霧の中の静寂を震わせる。

その声は、まるで仏罰が迫り来るような圧倒感を伴い、戦場の空気を包み込んでいた。

そして、炎の先に蘇る静寂。

その「戦い」を記そう。

まずは、順番に紐解いていこう。



円明寺は、円明寺川のほとりに静かに佇んでいた。

この地は、かつて羽柴秀吉と明智光秀が激突した「山崎の合戦」の跡地である。天王山を背にしたこの一帯は、戦国の終焉を告げる血と火の記憶を今も土に宿している。


寺の境内には、秀吉を讃える石碑と、光秀を悼む供養塔が並び立つ。勝者と敗者、英雄と逆賊――その両者が同じ聖域に祀られているという奇妙な構図が、かえって人々の興味を引き寄せていた。観光客は絶えず、歴史愛好家は語り、地元の子らはその名を遊びに使う。


若き僧・宗翔は、そんな寺の空気に育てられた。歴史家ではない。だが、日々訪れる参拝者との対話の中で、自然と光秀と秀吉の物語に通じるようになっていた。彼にとって歴史とは、過去の出来事ではなく、「人がいかに生き、いかに選び、いかに悔いたか」を映す鏡だった。


この日も、宗翔は不動堂で護摩を焚いていた。堂内には、薪の爆ぜる音と、真言を唱える彼の声だけが響いていた。炎は天へと昇り、煙はゆるやかに天井を撫でる。祈りの中で、彼は己の心の奥底に沈む問いと向き合っていた。


「人は、なぜ裏切るのか。正義とは、誰が決めるのか」


先ほど、境内で出会った観光客が言った。


「勝者が歴史を書き換える。だから、光秀は裏切り者の悪、となってしまったんでしょうな」


その言葉が、護摩の炎の中で、宗翔の胸に残響していた。光秀は本当に「悪」だったのか。裏切りとは、ただの背信か、それとも――。


炎が、突如として大きく揺れた。風もないのに、火柱が天井を舐めるように伸び、戦場の空気が歪んだ。耳鳴りがした。視界が白く染まり、宗翔の意識は、炎の中に吸い込まれていった。

「地震か?」その戸惑いも浮かべる暇もなく、宗翔は気を失った…気がした。


戦場の空気。

それは、護摩の煙とはまるで異なるものだった。

焼け焦げた木材の匂いに混じって、血の鉄臭さが鼻腔を刺す。耳には金属のぶつかる音、怒号、悲鳴、そして馬の嘶き。空気は重く、湿っていた。火の粉が風に乗って舞い、肌を焼くように痛い。


宗翔は、地に膝をついたまま、目を開けた。

目の前には、崩れかけた堂宇。屋根が燃え、柱が黒煙を吐き、仏像が炎の中で崩れ落ちていく。地面には僧侶の亡骸が転がり、数珠が血に濡れていた。経巻が風に舞い、空に消えていく。


「……ここは……」


声は震えていた。夢ではない。だが、現実とも思えない。

宗翔の五感は、戦場の空気に圧倒されていた。


「敵だ! まだ残っておるぞ!」


怒声が飛んだ。振り返ると、数人の兵が槍を構えて駆けてくる。宗翔は咄嗟に手を挙げたが、言葉が出ない。喉が焼けついていた。


「斬れ!」


「待て!」


鋭い声が、兵の動きを止めた。炎の向こうから、ひとりの男が現れた。痩身で、鋭い目をした男。甲冑の上に羽織をまとい、腰には太刀。兵たちが一斉に頭を垂れる。


「……誰だ……?」


宗翔は、ただその姿を見つめた。どこかで見たような顔。だが、思い出せない。いや、思い出してはならない気がした。


「その装束……僧か?」


男が言った。宗翔は、かすかに頷いた。


「この混乱の中、僧が現れるとは……」


男は宗翔を見下ろし、しばし黙した。兵の一人が進み出る。


「殿、怪しき者にございます。斬り捨てるべきかと」


「……いや」


男は手を挙げて制した。


「この者、怯えてはおるが、敵意はない。……それに、何か……妙だ」


宗翔は、ようやく口を開いた。


「ここは……どこですか……?」


男は目を細めた。


「……本能寺、だ」


その名を聞いた瞬間、宗翔の背筋に冷たいものが走った。頭の奥で、何かが弾けた。護摩の炎、観光客の言葉、円明寺の不動明王、そして――「光秀」の名。


「……あなたは……」

教科書の写真、文献の絵巻物、掛軸の肖像画…頭の中にフラッシュバックする様々な心の中の憶測が一つの名前に集約され導いていった。



男は、静かに言った。

「明智十兵衛光秀。――それが、余の名だ」


宗翔は、再び地に膝をついた。視界が揺れた。これは夢ではない。だが、現実とも思えない。ならば、これは――


「……地獄か……?」


呟いたその言葉に、光秀は微かに笑った。


「いや、僧よ。これは、まだ地獄の入口にすぎぬ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ