第七話:白のひび割れ
地下水道の冷たい闇を抜け、リアムたちが郊外の森に隠された隠れ里にたどり着いたのは、夜が白み始める頃だった。
アルバンやサラたちが、涙ながらに彼らを出迎える。リアムと仲間たちの生還は、このささやかな抵抗組織にとって、何にも代えがたい勝利の証だった。
傷の手当てを受け、温かいスープを啜りながら、エラが地下牢での出来事を語って聞かせた。仲間たちは、国王自身がリアムたちを逃したという信じがたい事実に、驚きの声を上げる。
「王様は、一体何を考えているんだ?」
エラの問いに、誰も答えることはできなかった。
リアムは、黙ってスープカップを握りしめていた。
彼の脳裏には、自分の騎士団長に剣を向け、たった一人でそこに立つアレクシオスの姿が焼き付いていた。あの瞳は、敵意に満ちたものではなかった。むしろ、助けを求めるような、孤独の色を湛えていたようにさえ思えた。あれは気まぐれか、それとも…。
その同じ夜、王城では静かな嵐が吹き荒れていた。
アレクシオスの王命一下、騎士団長バルトムに率いられた騎士団が宰相府に突入し、宰相オルクスを国家反逆罪の容疑で拘束した。オルクスは一切抵抗せず、書斎で悠然と椅子に座ったまま、騎士たちに腕を引かせた。
連行される道すがら、彼は廊下で待つアレクシオスとすれ違う。
「陛下」
オルクスは、不気味なほど穏やかな笑みを浮かべていた。
「あなた様は、大きな過ちを犯されましたぞ。純白の理想は、現実という泥の中では決して輝きませぬ。むしろ、泥をより際立たせるだけ……すぐに、お分かりになるでしょう」
その予言めいた言葉を残し、彼は闇の中へと連れ去られていった。
◇
夜が明けると、王都は新たな局面を迎えていた。
アレクシオスは、オルクスの身柄を拘束した勢いをそのままに、彼の派閥に連なる貴族や役人たちの一斉摘発に乗り出した。
それは、彼自身が作り上げた「清廉潔白な国家」の根幹を、自らの手で破壊していく作業に他ならなかった。
調査が進むにつれ、おぞましい事実が次々と明らかになる。密告制度を利用して政敵を陥れていたこと。没収した財産を横領し、私腹を肥やしていたこと。厳格な法の支配の裏側で、オルクスとその一派は、王の掲げる正義を隠れ蓑に、先王の時代を遥かに凌ぐ腐敗と汚職に手を染めていたのだ。
報告書が山積みになった執務室で、アレクシオスは自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。自分は、ただ清潔な舞台の上で、理想の王を演じていただけの人形だったのかもしれない。その舞台そのものが、腐った泥でできていたことにも気づかずに。
騎士団長バルトムは、王命に忠実に、粛清の剣を振るい続けた。しかし、彼の心は晴れなかった。彼が忠誠を誓ったのは、一点の曇りもない、絶対的な正義を体現する若き王だった。
だが、今の王は違う。苦悩し、迷い、あまつさえ断罪すべき反逆者を見逃した。その迷いは、国家の基盤を揺るがす危険な兆候だと、バルトムは感じていた。彼の揺るぎない忠誠心に、初めて「疑念」という影が差し始めていた。
◇
数日が過ぎ、リアムたちの隠れ里でも、今後の進路を巡る会議が開かれていた。
「王城が混乱している今こそ、千載一遇の好機だ!」
エラが、テーブルに置かれた王都の地図を叩いて主張した。「国王のメッキは剥がれた。今こそ私たちが攻め込み、民衆を解放し、新しい政府を打ち立てるべきだ!」
その急進的な意見に、何人かが同調の声を上げる。
しかし、アルバンが静かにそれを制した。
「待て、エラ。国王は我々を逃した。彼が自らの過ちを正そうと、もがいている最中かもしれん。その相手に、今剣を向けるのが、我々の正義か?」
「甘いよ、じいさん!」
エラが噛みつく。
「あいつは気まぐれで私らを逃しただけかもしれない。明日にはまた『清廉潔白』とか言い出して、あたしたちを殺しに来ないとも限らない!」
議論が白熱する中、リアムが口を開いた。
「戦うべきじゃない、とは言わない。でも、今はその時じゃないと思う」
皆の視線が、彼に集まる。
「国王は今、自分が信じていた世界が、偽りだったと知ってしまった。彼は孤独だ。そして、おそらく初めて、自分が何をすべきか分からなくなっている。僕たちが戦うべき相手は、圧政そのものであって、迷っている一人の人間じゃないはずだ。今は、彼の変化を見極めるべきじゃないだろうか」
リアムの穏やかな、しかし芯の通った意見に、エラは不満げに腕を組んだが、それ以上は反論しなかった。
その時、見張りの若者が息を切らして会議の小屋に飛び込んできた。
「大変です! 王都から来た商人から、確かな報せが!」
若者は、一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。
「宰相の粛清によって、王都の統治が麻痺! その混乱に乗じて、東方の複数の地方領主たちが、『国王陛下は反逆者に誑かされ、正気を失われた』として、一斉に反旗を翻した、とのことです!」
小屋の中が、水を打ったように静まり返った。
オルクス派の粛清が、王国そのものを分裂させる、最悪の内乱の引き金となってしまったのだ。
アレクシオスは今、内部の裏切り者を一掃しながら、外部から迫る反乱軍とも戦わなければならないという、絶望的な状況に追い込まれていた。
そしてそれは、リアムたちにとっても、運命の選択を迫られる瞬間だった。
この内乱に乗じて、第三勢力として革命を成し遂げるのか。
それとも、自らを逃し、孤独な戦いを始めた若き王と、手を結ぶ道を選ぶのか。
リアムは、戦火に包まれようとしている王都の方角を見つめた。
「……彼は今、たった一人で、自分が作り出した世界の瓦礫の中に立っているのかもしれないな」
王国の歴史の舵は、今や、この名もなき本屋と、彼が率いる「鼠」たちの手に、確かに握られていた。




