第六話:王と鼠と本屋
松明の光が揺らめく地下牢は、異様な静寂と緊張に支配されていた。
三者が、それぞれの思惑を胸に、互いを睨み合う。
床の穴から這い出てきた、泥と決意にまみれた「鼠」たち──リアムとエラ。
階段の上から絶対的な権威をまとって現れた、純白の「王」──アレクシオスと、彼が率いる騎士団。
そして、その両者の足元には、王の知らぬところで暗躍し、鼠たちに打ち破られた宰相の私兵たちが転がっている。
騎士団長バルトムの額に、青筋が浮かんだ。国王の御前で、反逆者が武器を構え、あまつさえ囚人たちが牢から出ている。騎士としての彼の忠誠心が、この状況を許さなかった。
「反逆者どもめ! 神妙にせよ!」
剣を抜き放ち、その切っ先をリアムに向ける。騎士たちが一斉に盾を構え、じりじりと包囲網を狭めてきた。エラはリアムを背後にかばい、短剣を逆手に握りしめる。絶望的な戦力差。だが、彼女の瞳からは闘志が消えていなかった。
もはや、これまでか。誰もがそう思った瞬間、それを制したのは、最も力を持つはずの王自身の声だった。
「待て、バルトム」
アレクシオスの静かな声に、騎士たちの動きが止まる。だが、彼の視線はリアムたちには向いていなかった。
彼はゆっくりと階段を降り、おもむろに足元に転がる黒い鎧の兵士の兜を、ブーツの先で転がした。その兜に刻まれていたのは、王家の紋章ではなく、宰相オルクスの私家の紋章だった。
「……バルトム」
アレクシオスの声は、凍てつくように冷たかった。
「説明しろ。なぜ、宰相の私兵がここにいる。地下牢の警備は、お前の騎士団のはずではなかったのか?」
バルトムは言葉に窮した。
「そ、それは……宰相閣下が、陛下の御身を案じ、万が一にも反逆者が逃亡せぬよう、特に屈強な兵を、と……」
そのしどろもどろな答えを聞き、リアムは好機と見た。
「陛下」
彼は、エラの背後から一歩前に進み出た。
「ご覧なさい。これが、あなたの『完璧な白』の世界の現実です」
アレクシオスが、初めてリアムに視線を向けた。その瞳は、怒りでもなく、憎しみでもなく、深い混乱の色に揺れていた。
「あなたの目が届かぬところで、あなたの掲げた清廉潔白な正義は、宰相のような男の私利私欲の道具にされている。あなたは国を白く塗ることに躍起になるあまり、その白いペンキの下で、己の欲望という黒い色を隠そうとする者たちがうごめいていることに、気づいてすらいなかった」
「黙れ!」
バルトムが怒鳴る。
だが、リアムは続けた。
「本当に戦うべき相手は、私のような本屋や、そこにいるパン屋のフィンではないはずだ。あなたの理想を汚しているのは、あなたの一番近くにいるその男だ」
「その通りだよ、王様」
エラが、嘲るように言葉を継いだ。
「あんたの忠実な宰相閣下はね、あたしたちがここに来ることを読んでいたのさ。そして、あんたが処刑を迷い、恩赦なんて言い出す前に、この場でリアムを『事故』で殺すつもりだった。全部、あんたの知らないところで、ね」
リアムとエラの言葉は、二本の鋭い矢となって、アレクシオスが心の内に築いていた最後の砦を射抜いた。
疑念が、確信へと変わる。自分の理想が、最も信頼していたはずの側近によって、歪められ、利用されていた。民衆の歌声が、リアムの言葉が、そして今、目の前の光景が、そのおぞましい真実を突きつけている。アレクシオスの中で、怒りの炎が燃え上がった。しかし、その矛先は、もはやリアムたちには向いていなかった。
「……問答無用!!」
その王の心の変化を、騎士団長バルトムは許さなかった。彼の忠誠は、国王個人ではなく、国王が体現する「揺るぎない秩序」そのものに向けられていた。王の迷いは、秩序の乱れ。それを正すのが自分の役目だと信じていた。
「反逆者は、反逆者だ! 全員、捕らえろ!」
バルトムの号令一下、騎士たちが雄叫びを上げて突撃する。フィンや囚人たちが、再び粗末な武器を手に騎士の前に立ちはだかり、地下牢は剣戟と怒号が渦巻く混沌の坩堝と化した。
エラはリアムの腕を掴んだ。
「行くよ!穴へ!」
この乱戦の中を抜け、床の穴から地下水道へ逃れるしかない。だが、屈強な騎士たちを相手に、それは絶望的な賭けだった。そして案の定、二人の前に、鬼神の如き形相のバルトムが立ちはだかった。
「逃がさん!」
振り下ろされる長剣。エラが短剣で受け止めるが、その重さに体ごと吹き飛ばされそうになる。万事休す。
その瞬間、地下牢に鋼の絶叫が響き渡った。
「そこまでだ、バルトムッ!!」
アレクシオスだった。彼は自ら剣を抜き、バルトムの長剣を弾き飛ばしていた。
国王と騎士団長の剣が、火花を散らして鍔迫り合う。
「陛下!正気ですか!反逆者を逃がすおつもりか!」
「私の正気は、私が決める!」
アレクシオスはバルトムを力で押し返すと、リアムたちを背にかばうように立ち、誰に言うでもなく、しかしはっきりと聞こえる声で呟いた。
「……行け」
エラはその一言の意味を瞬時に理解した。彼女はリアムの手を強く引き、床に開いた穴へと走る。
「陛下!」
バルトムが追おうとするが、アレクシオスの剣が、その行く手を阻んだ。王の目は、バルトムを真っ直ぐに見据えている。
「私の敵は、彼らではない」
リアムは、穴に飛び込む直前、一度だけ振り返った。
そこには、自らの騎士団長に剣を向け、たった一人で立つ、若き王の姿があった。
彼の瞳には、もはや純粋な理想の輝きも、狂信的な光もなかった。自らが信じた正義の脆さと、現実の濁流を知ってしまった、苦悩に満ちた王の瞳が、そこにあるだけだった。
リアムとエラ、そして生き残った仲間たちの姿が、地下水道の暗闇へと消えていく。
それを最後まで見送ることなく、アレクシオスはバルトムに向き直った。
「騎士団長バルトム。今この時をもって、宰相オルクスを国家反逆罪の容疑で拘束せよ。これは、王命である」
王の静かだが揺るぎない声が、混沌の静まった地下牢に響き渡った。
白き圧政の時代は、その中心にいた王自身の手によって、大きな転換点を迎えようとしていた。




