第四話:白き王の惑い
広場を埋め尽くした歌声は、その日の夕暮れには力ずくで鎮圧された。警備隊は歌っていた者たちを無差別に捕らえ、王都は再び鉛色の沈黙に包まれた。
しかし、一度響いた声は、人々の記憶から消えることはなかった。水面下に投じられた石の波紋のように、それは静かに、しかし確実に広がっていく。
夜、窓を固く閉ざした家々の中から、あるいは暗い路地の奥から、誰かが口ずさむ子守唄が、忍び泣きのように漏れ聞こえることがあった。王都の完璧な静寂は、もう二度と戻らなかった。
王城の最も深い場所にある地下牢。リアムは冷たい石の床に横たわり、浅い息を繰り返していた。全身を殴られた痛みで、指一本動かすのも億劫だった。
だが、彼の心は不思議なほど穏やかだった。暗闇の中で瞼を閉じれば、あの広場の歌声がまだ耳の奥で響いている。
「……あんたが、やったのか」
隣の牢から、かすれた声がした。見れば、痩せこけた男が格子からこちらを覗いている。
「広場で、王様に一言かましたって聞いたぜ。おかげで、俺たちみたいな罪人への当たりも、昨日よりひでえ」
男はそう毒づいたが、その声に険はなかった。
「あんた、何者だ?」
リアムはゆっくりと体を起こし、壁にもたれかかった。
「……本屋だ」
「本屋ね」
男は少しだけ笑った。
「本屋が、国を動かすたあな。たいしたもんだ」
その時、リアムは気づいた。牢獄のさらに奥、いくつものうめき声に混じって、微かに聞こえる陽気な鼻歌。
それは、彼がよく知る、パンをこねる時のフィンの癖だった。リアムは壁に耳を澄ませた。フィンは、生きている。それだけで、胸に温かいものが込み上げてくるのを感じた。
◇
一方、王城の執務室では、国王アレクシオスが一人、窓の外に広がる王都の夜景を見つめていた。彼の前には、側近である宰相オルクスと、王都警備隊を束ねる騎士団長バルトムが控えている。
「陛下、ご決断を」
オルクスが、蛇のように粘着質な声で言った。
「反逆者リアムを即刻、広場で処刑し、その首を晒すべきです。抵抗する者には死あるのみと、愚民に知らしめるのです」
「いかにも」
武骨なバルトムがそれに続く。
「広場で歌っていた者共も、同罪として厳罰に処さねば、示しがつきませぬ。寛容は、さらなる反逆に繋がるだけです」
彼らの言葉は正論だった。少なくとも、今までのアレクシオスにとっては。反逆の芽は、小さいうちに徹底的に摘み取る。それが、国を「白く」保つための絶対のルールのはずだった。
だが、アレクシオスは即座に「然り」と答えることができなかった。
彼の脳裏に、リアムの言葉が蘇る。『生きることそのものが罪になってしまう』『色がたくさんあった、あの頃の歌を』。そして、あの歌声。それは憎しみに満ちた鬨の声ではなかった。
むしろ、悲しみに満ちた祈りのように聞こえた。なぜ、民は自分の理想を理解しない? なぜ、過去の「穢れ」を懐かしむように歌うのだ?
「……少し、考えさせる」
アレクシオスが絞り出した声に、オルクスとバルトムは顔を見合わせた。これまで、国王の決断が揺らいだことなど、一度もなかったからだ。
「しかし、陛下……」
「下がれ」
アレクシオスの低い声には、有無を言わせぬ響きがあった。二人は不満を隠しきれない様子で一礼し、執務室を下がっていった。
一人残されたアレクシオスは、玉座に深く身を沈めた。彼は幼い頃、先王の宮廷で腐敗と裏切りが渦巻く様を見てきた。貴族たちは私利私欲のために民を食い物にしていた。
その醜悪な「色」に満ちた世界を憎み、全てを洗い流す純白の世界を夢見た。彼の正義は、その憎悪から生まれていた。民を救うための、絶対の正義のはずだった。
(私は、間違っているのか……?)
初めて彼の心に生まれた小さな疑念は、純白の壁に穿たれた、最初の亀裂だった。
彼は立ち上がった。
「衛兵」
扉の外に控えていた衛兵が入室する。
「例の反逆者がいる地下牢へ案内せよ。一人で行く」
自分の正しさを、確かめねばならなかった。あの男の言葉が、民を惑わすただの詭弁であることを、自らの耳で。
◇
地下牢の冷たい空気が、アレクシオスの頬を撫でた。松明の光が、彼の白い礼服を不気味に照らし出す。牢の前に立ったアレクシオスを、リアムは静かに見上げた。傷だらけの顔には、驚きも、恐怖もなかった。まるで、彼が来ることを知っていたかのように。
「何の用だ、国王陛下」
「貴様に聞きたいことがある」
アレクシオスは、格子を隔ててリアムを睨みつけた。
「なぜ、私の理想を邪魔する? 私はこの国から不正と犯罪を一掃し、誰もが安心して暮らせる清らかな国を作りたいだけだ。それが、なぜわからない」
「あなたの理想は美しい」
リアムの声は、穏やかだった。
「だが、それは人間の弱さや不完全さを、一切認めない。水が清すぎれば魚が棲めないように、完璧すぎる正義は、私たちを窒息させるのです」
「詭弁を弄するな!罪は罪だ。弱さや不完全さは、それを正当化する理由にはならん」
「では、パン屋のフィンは?」
リアムは静かに問い返した。
「彼の冗談は、死罪に値するほどの罪でしたか? 昼寝をしたエラの兄は? 飢えた孫のためにリンゴを盗んだ老婆は? あなたは『罪』という一つの言葉で、人のささやかな人生の物語を塗りつぶそうとしている。そこに、人の営みへの敬意はあるのですか?」
アレクシオスの瞳が、激しく揺れた。
「黙れ。貴様のような扇動者がいるから、民は惑うのだ」
「いいえ」
リアムは首を振った。
「人々が歌ったのは、私に扇動されたからじゃない。彼らがただ、思い出しただけです。かつて、何の気兼ねもなく歌を口ずさめた日々を。あなたの白い世界では、あの歌さえもが『穢れ』になるのでしょう? 私たちが失ったのは、そういうものだ」
対話は決裂した。アレクシオスは、リアムの言葉を認めることができなかった。認めてしまえば、彼がこれまで信じ、行ってきた全てが崩れ去ってしまう。
「……貴様は、やはり害悪だ」
アレクシオスは憎しみを込めて吐き捨てた。
「貴様の言葉は、国を蝕む毒だ」
◇
アレクシオスはリアムに背を向け、地下牢を去った。彼の心に突き刺さった棘は、抜けるどころか、さらに深く食い込んでいた。執務室に戻った彼は、待機していた宰相オルクスに、震える声で命じた。
「三日後……反逆者リアムを、処刑せよ」
しかし、その声には、かつてのような揺るぎない確信は、もはや欠片も残っていなかった。
その報せは、王都に張り巡らされたエラの情報網を通じて、すぐに王都の外にいる仲間たちにもたらされた。
「国王、リアムと密会。三日後に処刑決定」
短い伝言を受け取ったアルバンたちの間に、緊張が走る。
「リアムを見殺しにはできない!」
「しかし、今、王都に乗り込むのは自殺行為だ!」
仲間たちの意見が割れる中、エラは一枚の地図を広げた。それは、王城の地下へと繋がる、古く忘れられた水道の地図だった。
「処刑は三日後。やるか、やらないか。決める時間も、残されていないよ」
彼女の目は、暗闇の中で狩りの機会をうかがう獣のように、鋭く光っていた。リアムが灯した火を、彼らもまた、命がけで守り抜く覚悟を迫られていた。




