第十一話:本屋の戦場
本陣の丘の上に、絶望という名の風が吹き抜けた。
騎士団長バルトムの裏切り。それは、ただ単に戦術が崩壊したというだけではない。アレクシオスが信じてきた「騎士道」という理想そのものが、彼の目の前で音を立てて崩れ去った瞬間だった。
彼は、自分の王国が砂上の楼閣であったことを知り、そして今、その楼閣を支えていた最後の柱すらもが、己を裏切ったことを悟った。
「……終わりだ」
玉座からではない、心の底から漏れたような、か細い声。アレクシオスは、眼下で繰り広げられる同士討ちと、反乱軍の総攻撃を、ただ呆然と見つめるだけだった。的確な指揮を下すべき王は、その魂を抜かれ、ただの人形と化していた。
「陛下ッ!」
その王の肩を、乱暴に掴む者があった。リアムだった。
「しっかりしてください! あなたが諦めれば、本当に全てが終わる!」
本屋の青年に胸ぐらを掴まれ、アレクシオスは虚ろな目で彼を見返した。
「……もう、私には何もない。信じるものも、信じてくれる者も」
「いる!」
リアムは叫んだ。
「少なくとも、俺はまだあなたに賭けている! あの地下牢で、俺たちを逃がしたあなたの決断に! 腐敗した過去より、過ちを認めて苦悩する今を選んだ、あなたの未来に!」
リアムの声は、命令でも、諫言でもなかった。それは、一人の人間が、もう一人の人間に送る、魂の叫びだった。
その叫びに、アレクシオスは、はっと我に返った。
リアムは、王が再起するわずかな時間を稼ぐため、そしてこの全滅必至の状況を覆すため、これまでの人生で読んできた数多の書物の記憶を、猛烈な速度で手繰り寄せていた。
歴史書、戦記物語、英雄譚……その全てが、今この瞬間のための知識だった。
彼は、王に代わって声を張り上げた。その声は、震えてはいたが、不思議と丘の上に響き渡った。
「全軍、聞こえるか! ただちに戦闘を中断し、この丘の上まで後退せよ! 陣形を立て直す! これは王の代理としての、私からの命令だ!」
兵士たちは、平民であるリアムの命令に戸惑う。だが、その背後で、アレクシオスが力なく、しかし確かに頷いたのを見て、混乱しながらも後退を始めた。
次に、リアムはアレクシオスに向き直った。
「陛下。あなたにしかできないことがあります。近衛兵の中から、最も屈強な騎兵だけを率いてください。そして、エラたちが包囲されている森の、東側から突撃を。目的は救出ではありません。派手に暴れ、敵の注意を引くだけでいい。あなたが自ら戦う姿を見せれば、必ず敵の包囲に隙が生まれる!」
それは、王を最も危険な囮にするという、狂気の沙汰とも言える策だった。しかし、リアムは、今の彼にはその役割こそが必要なのだと確信していた。
アレクシオスは、リアムの目をじっと見つめた後、静かに頷いた。そして、傍らの近衛騎士から剣を受け取った。
「……分かった。私の理想は、ここで一度死んだ。ならば、王としてではなく、一人の戦士として、この国に殉じよう」
そしてリアムは、最後に残った数名の伝令兵を呼び寄せた。
「お前たちは、王都へ、そして街道沿いの村々へ走れ。そして伝えろ!『国王は、裏切り者と腐敗した貴族に挟み撃ちにされている! だが、民と共に戦うことを選んだ! この国を、過去の亡霊たちの手に戻したくなければ、武器を取ってこの丘へ集え!』と」
◇
二つの戦場で、死闘が繰り広げられていた。
森の中では、エラとフィンたちが、木の陰や岩を利用して、絶望的な抵抗を続けていた。しかし、多勢に無勢。じりじりと包囲の輪は狭まり、矢も尽きかけていた。
「これまで、か……!」
エラが死を覚悟した、その時。森の東側から、甲高い角笛の音と共に、地響きのような騎馬の突撃音が響き渡った。反乱軍の包囲部隊が、明らかに動揺している。
「王だ……王様が来たんだ!」
誰かが叫んだ。白いマントを翻し、自ら剣を振るって敵陣に切り込むアレクシオスの姿は、まさしく物語の中の英雄王そのものだった。敵の注意がそちらにそれた、一瞬の隙。
「今だ! この隙に西へ抜けるぞ! 全員、続け!」
エラはその好機を逃さなかった。
一方、リアムが立てこもる本陣の丘は、反乱軍の波に洗われていた。後退してきた兵士たちをまとめ、リアムは書物の知識を元に、盾兵を前面に押し出し、弓兵をその後ろに配置する基本的な防衛陣を組ませる。だが、素人が付け焼き刃で組んだ陣形など、猛攻の前では風前の灯火だった。
「持ちこたえろ! 諦めたら、そこで終わりだ!」
リアムは、自らも剣を抜き、負傷した兵士を庇いながら叫び続けた。本屋の店主が、生まれて初めて、命のやり取りをする戦場の中心に立っていた。
反乱軍の第一波を辛うじて押し返した、その時。丘の麓に、新たな部隊が現れた。森を突破してきた、エラとフィンたちの部隊だった。満身創痍ながらも、その目は死んでいない。
「よお、本屋! 派手にやってるじゃねえか!」
フィンが叫びながら、丘の側面から反乱軍に突撃する。さらに、陽動を終えたアレクシオスの近衛隊も、血まみれになりながら丘へと合流した。分断された同盟軍が、再びこの丘の上で一つになったのだ。
だが、それは一時の猶予に過ぎなかった。三つの部隊が合わさっても、なお反乱軍の兵力は圧倒的だった。敵はすぐに体勢を立て直し、丘を完全に包囲し、第二波、第三波の攻撃を仕掛けてくる。
もはや、これまでか。誰もが、血と泥にまみれた大地に、己の墓標を見た。
リアムは、丘の上から戦場全体を見渡した。そして、その視界の端、遥か西の地平線に、無数の土煙がもうもうと立ち上っていることに気づいた。
敵の援軍か? いや、違う。
その土煙は、ゆっくりと、しかし確実に、この丘を目指して広がってくる。
それは、リアムの最後の賭けに応えた、民の声だった。伝令の言葉を信じ、鍬や鋤、猟銃を手にした村人たち。国王の危機を知り、なけなしの武具を手に駆けつけた王都の市民たち。
彼らは、正規の軍隊ではない。ただの、名もなき人々の群れだった。
しかし、その数は、この戦場の力関係を根底から覆すには、十分すぎるほどだった。
「……来た」
リアムは、血と汗にまみれた顔で、笑った。
「来たぞ! 我々の、本当の援軍が!」
リアムが信じた最後の切り札、「民衆の力」が、今まさに、その姿を現したのだ。
白き圧政によって声と色を失っていた人々が、自らの意思で、歴史の作り手として、戦場に立とうとしていた。




