僕たちは比喩で自分を隠す。
その日も、文芸部の部室には僕と綾瀬だけがいた。
当たり前のことだ。部員は二人だけなのだから。
窓の外は雨。規則正しい滴の音が、沈黙の代わりに部屋を満たしていた。
僕はノートを開いたが、白紙が睨み返してくるようで、何も書けなかった。
一方、綾瀬のペンは相変わらず滑らかに動いている。
「……よくそんなに書けるな」
僕は思わず呟いた。
綾瀬は顔を上げず、淡々と答える。
「書かないと、頭の中が腐っていくから」
「腐る?」
「うん。冷蔵庫に入れ忘れた果物みたいに。気づけば匂い出して、手に負えなくなる」
(なんという比喩表現。情景がよーく目に浮かぶな…)
そんなことを思いながら僕は遠くを見つめた。
「俺の頭の中なんて、最初から腐ってるけどな」
そう。僕の頭の中はすでに腐っているのだ。
綾瀬がちらりと僕を見た。
「じゃあ、あなたは歩く生ごみ袋?」
「ひどいな」
(あながち間違ってはないか…)
「でも……腐敗も発酵に変わることがある。捨てられるか、お酒になるかは、周りの環境次第」
中々に面白い比喩表現をするものだ。
思わず感心してしまった。
彼女の言葉は冗談めいているのに、どこか真実を突いていた。
「綾瀬はさ……よくそんなに比喩を出せるな」
「比喩に隠れないと、直視できないから」
「何を?」
「……自分」
その言葉の後、しばらく沈黙が落ちた。
窓を叩く雨音だけが、彼女の告白を包み隠す。
僕は、胸の奥に小さな共鳴を感じた。
僕もまた、自分を直視できずに、皮肉や哲学に逃げてきたから。
「じゃあさ、俺は……なんだろう」
僕は冗談めかして訊いた。
綾瀬は顎に手をあて、考えるふりをしてから口を開いた。
「……棺桶」
「またそれかよ」
「最初に書いてたでしょ。あなたにぴったり」
「なんで」
「動いてるのに死んでるみたいだから。でも、中に言葉を詰めれば、少しは生き返るかもしれない」
彼女の声は冷静なのに、妙に温かさを帯びていた。
棺桶。
彼女にそう呼ばれて、嫌悪感よりも安心を覚えた。
“名付けられる”ことは本来、僕の嫌う行為のはずだ。
けれど彼女にだけは、名前を与えられてもいいと思えた。
「……じゃあ、お前は?」
「私?」
「比喩にすると」
綾瀬は少し迷ってから、かすかに笑った。
「……透明なガラス瓶」
「割れそうだから?」
「ううん。中身を見せてるようで、実は何も入ってない」
「でも、光を通す」
「……」
その言葉に、綾瀬は一瞬だけ目を丸くして、すぐ視線を逸らした。
雨はまだ止まない。
けれど部室の空気は、最初よりもずっと温かくなっていた。
比喩を投げ合うことで、僕らは少しずつ自分を差し出している。
正直に告白するよりも、不器用で遠回しで――だからこそ、本音に近づける。
これは友情か。
それとももっと歪で、甘いものか。
答えはまだ、雨に溶けて見えなかった。
少し長くなってしまいましたが、読んでいただきありがとうございます。