二人だけの箱庭。
翌日。
放課後、案内された文芸部の部室は、古びた図書室の隅をさらに仕切った小部屋だった。
本棚には古い全集や黄ばんだ文芸誌が並び、窓から差し込む夕陽のせいで、どれも埃の中に眠っている化石のように見えた。
僕と綾瀬、二人だけ…
先生は「好きに過ごしていいわ」と笑って去って行った。
(好きに過ごせって言われても…)
静寂が降りた。
時計の秒針の音だけが、僕らの存在を証明している。
柄にもなく、まだ見ぬ未来に淡い思いをはせていた。
綾瀬は窓際の席に腰を下ろし、ノートを広げた。
僕も向かいの席に座る。
だが、何をすべきか分からない。
文芸部なのだから、文章を書く? 本を読む?
いや、それ以前に、どうして僕はここにいるのだろう。
机に肘を置いたまま、視線を泳がせていると、綾瀬のペンが動く音が聞こえた。
カリカリ、カリカリ。規則正しくなる音から僕の耳は逃げられない。
――彼女は迷わないんだな。
その横顔を盗み見る。
細い指先、伏せた睫毛、無表情の中に潜む熱。
そこに自分が入り込む余地などない気がして、胸の奥がざわついた。
僕はなぜここにいるのだろう…いやいていいのか
という疑問が浮かんでくる。
「……何、書いてるの?」
気づけば口が動いていた。沈黙に押し潰されるのが怖かったのだ。
綾瀬はペンを止めずに答えた。
「ただの落書き。……言葉の落書き」
(言葉の落書き?なんだそれ)
「見せてくれる?」
「嫌」
即答だった。
でも、その拒絶は刃のように鋭いわけではなく、むしろどこか子供っぽい照れを帯びていた。
僕は苦笑した。
やっぱり彼女は、僕と似ている。
心の奥を簡単に明け渡すほど、器用にはできていない。
“似ている”――その感覚が、同時に僕を不安にさせる。
似ているからこそ、ぶつかれば壊れるのも早い。
そして壊れたとき、二人きりの文芸部には何も残らない。
そんなあるかもわからない未来がたまらなく怖かった。
しばらくして、綾瀬がこちらを見た。
その視線は、相手を測る天秤のように冷静だ。
「じゃあ、あなたは何を書いてるの?」
「……何も」
「ふうん。文芸部員なのに」
彼女の言葉にはからかいではなく、淡い挑発があった。
“あなたは本当にここにいるつもりがあるの?”と問いかけるように。
心が読めるなら素直にそう言ってほしいものだ。
男子高校生の頭の中を覗こうなんて野暮なことだ。
僕は答えに詰まりながらも、机の上に転がっていたペンを手に取った。
そしてノートの端に、適当な言葉を走り書きした。
――「棺桶」
綾瀬の目がわずかに動いた。
その一瞬の変化を見逃さなかった。
「……どうしてそれ?」
「思いついたから」
「……変わってる」
そう言いながら、彼女は少しだけ笑ったように見えた。
二人の間に交わされたのは、たった一言二言。
けれど沈黙の質は、最初とは違っていた。
重さの中に、かすかな熱が混じり始めていた。
それが何を意味するのか、まだ僕には言葉にできなかった。
ただ、この奇妙な文芸部が、僕の日常を少しずつ侵食し始めている――その予感だけが、胸に残った。
見ていただきありがとうございます。
次回もマイペースに更新していきます。
ぜひ フラッと立ち寄ってください。