とある放課後 招かれざる招待。
チャイムが鳴り終わってからの教室は、海から水が引いたあとの砂浜に似ている。
人の気配が徐々に薄れ、机と椅子だけが残され、そこに取り残された僕は、貝殻のように無意味に転がっていた。いや、潮干狩りでたまに見かけるクラゲのほうが近いかもしれない
なんてちょっとした自虐をしながら
――帰るか。
そう思い立った瞬間、肩に柔らかな気配が降ってきた。
「相沢くん、ちょっといい?」
振り向くと、国語科の水沢先生が立っていた。
年齢は二十代半ばだろうか。派手さはないが、どこか芯のある目をしている。
その瞳が、僕をすっと射抜いていた。
「最近、放課後どこで過ごしてるの?」
先生は何気なさを装うように尋ねてきた。
「……家です」
答えながら、心臓がわずかに跳ねた。
“嘘”をついたわけではない。ただ、僕の放課後は廊下の影や図書室の隅に沈んでいる時間の方が多い。
「ふうん。でも、図書室でよく見かけるよ。ノート開いて、何か書いてるよね」
図星だった。
僕は一瞬言葉を失い
「……暇なんで」
自分の声かと自分で疑ってしまうほど小さな声で答えた。
別にいつも一人だから久しぶりにしゃべった。というわけではない。
先生はふっと笑った。その笑いは、見透かすようであり、同時に庇うようでもあった。
「先生、何の話ですか」
声が割って入った。
振り向けば、そこにいたのは綾瀬紗世。僕と同じく浮いている存在で、クラスではほとんど声を聞かない彼女だ。
先生は目を細めた。
「綾瀬さん。あなたも放課後、教室に残ってることが多いでしょ?」
「……別に」
綾瀬は短く返す。その声には棘と無関心の両方が含まれていた。
だが、その冷たさの裏に、僕と同じ種類の孤独を感じ取ってしまう。
しかし、僕と彼女は違うのだ。
そう…自分に言い聞かせた。
先生は二人を交互に見つめて、言った。
「文芸部に入らない?」
一瞬、空気が固まった。
文芸部。聞いたことはあるが、活動しているのを見たことがない。
「……部員なんて、いないでしょ」
綾瀬が言った。
「いない。だからちょうどいい。二人で始めればいいの」
先生の声は驚くほど穏やかだった。
「何もない空間だからこそ、あなたたちの居場所にできる」とでも言うように。
きっとこの先生は優しいのだろう。
柄にもなくそんなことを思った。
僕の中で何かがざわめいた。
“居場所”――それは僕にとって最も遠い言葉だった。
クラスにも家にも、僕の形に合う隙間はない。
けれど「文芸部」という名の空白が、そこに口を開けて待っているように思えた。
それに綾瀬紗世と二人で同じ部活である。それは幾ばくか魅力的である。
彼女の嘘を。彼女が日々何を考え、何を感じ生きているのかを知りたい。
そんな僕にとってこの提案は一枚の羽根のように、ふと目の前に舞い降りた好機だった。
「……どうする?」
先生が柔らかく促す。
綾瀬は横目で僕をちらりと見た。
彼女の瞳は深い湖のように冷たく、それでいてわずかな期待を含んでいるように見えた。
いや、そうやって僕が見ただけなのかもしれない。
僕は息を吸い込み、吐いた。
「……いいです。入ります」
その言葉が出た瞬間、僕自身が一番驚いた。
綾瀬は少しだけ間を置いてから、同じように呟いた。
「……じゃあ、私も」
先生の表情に安堵が浮かぶ。
「ありがとう。これで文芸部は、再始動ね」
放課後の廊下を並んで歩く僕と綾瀬。
会話は一言もなかったが、不思議なことに沈黙は重くなかった。
代わりに、名前を持たない小さな炎のようなものが、二人の間に灯った気がした。
それが恋なのか友情なのか、あるいはもっと歪んだものなのか――僕にはまだ分からなかった。
少し長くなってしまいましたが、読んでいただきありがとうございます。