邂逅
その日の放課後。ほとんどの生徒が帰り、教室は沈んだ空気に包まれていた。
僕は帰る気になれず、窓際でぼんやり外を眺めていた。
ふと視線を移すと、教室の隅に彼女がいた。机に肘をつき、文庫本を開いている。カバー越しでも分かる。哲学書だ。表紙には「ニーチェ」の文字。
「……高校生が読むもんじゃないだろ、それ」
思わず声に出してしまった。
彼女は顔を上げ、少し首をかしげた。
「どうして?」
「いや、そんなもの読んだって幸せにはなれない。現実逃避にしては苦すぎるだろ」
「幸せになりたいから読んでるわけじゃない」
彼女はあっさりと言った。
「世界がなぜこんな形をしてるのかを知りたいだけ」
僕は笑った。
「知ったところで、世界は優しくならないぞ」
「でも、知らなければ――私はもっと孤独になる」
その言葉に、僕は返す言葉を失った。
彼女は孤独を直視している。僕は孤独を避けるために皮肉をまとっている。
彼女の輝きの傍らに立つたび、僕は自分の曇りを知りながら、それでもその光から目をそらすことができなかった。
僕ら二人はどこか似ていると、そう勝手に思い込んでいた。
しかし僕らは似ているようで、決定的に違う。
その帰り道、僕は自分に呆れていた。
――何だよ、あの会話。
普段なら誰にも興味を持たないくせに、あの無表情な少女にはつい言葉を投げてしまった。
「幸せにはなれない」なんて、まるで僕が幸せに興味ある人間みたいじゃないか。
皮肉を言えば言うほど、彼女の言葉に追い詰められる。
そして気づく。
僕はもう、彼女のことを気にしている。
自分の信条を曲げてまで、彼女の嘘を、彼女の本音を知りたいと思ってしまっている。
これがあの”落書き”かどうかなんて僕にはまだわからない。
けれど胸の奥に芽生えたこの感情は、恋と呼ぶには幼く歪であるが、憧れや尊敬などと片付けるには
熱を帯びすぎていた。