クラリス編「書庫の隅で、ささやくように」
――王立図書館・閉ざされた個室書庫にて
私の指先は震えていた。
けれど、それは冷えでも恐れでもない。
この胸の奥で、静かに、けれど確かに芽吹いてしまった想いのせいだった。
「……“聖女リアナ、彼の背に立ち、闇に祈る”……」
古文書のページをなぞる。言葉は古く、意味は曖昧で、だけどどこか私の心に刺さってくる。
――あなたは、彼の隣に立てるの? 姫として? それとも、ひとりの女性として?
気づけば、文献に目を落としながらも、心は別の問いに揺れていた。
「クラリス」
その声が、閉ざされた扉の向こうから届いたとき、心臓が跳ねた。
思わず本を閉じる手が止まり、私は立ち上がる。
「……イッセイ様」
重厚な扉の向こうから現れた彼は、変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
けれど、それが今日は少しだけ近くて、やさしすぎて、私の呼吸を乱した。
「探したぞ。本ばかり見てないで、少しは休めって言っただろ?」
「……ええ。でも、止められなかったんです。どうしても、知っておきたくて……」
彼の顔が近づく。
まるで、光が射すようだった。
思考が霧散する。口を開こうとするたび、声が胸に押し戻されていく。
「クラリス、そんなに焦らなくてもいい。お前はもう、十分に……」
「……違うんです」
気づけば、私は彼の言葉を遮っていた。
声が震えていた。でも、逃げたくはなかった。
「私は……ただの姫としてではなく、あなたに見てほしいんです。知識を集めるだけの存在でも、使命だけの器でもなくて……」
「クラリス……」
「私は……っ、一人の女として、あなたの隣にいたい。あなたに……触れられたい」
心の声が、溢れてしまった。
そして私は、ふるふると揺れる手を彼の頬に伸ばしていた。
イッセイ様の目が見開かれる。だけど、拒まない。受け入れてくれる。
私はそっと――ほんとうに、そっと――唇を彼に重ねた。
静寂の中、本のページがめくられるような、柔らかな音が耳の奥で響く。
彼のぬくもりが、確かに私を包んでいた。
まるで、長く閉じていた書物の封印が解かれていくような感覚だった。
(ああ……これが……)
言葉にならない幸福が胸を満たす。
唇は離れたのに、心はまだ触れ合っている。
「クラリス……」
「……ごめんなさい。驚かせてしまって」
「いや……。嬉しかった」
彼の手が、私の髪に触れた。
優しく、愛おしむように。
「俺も……お前を、姫としてじゃなく、クラリスという人として、ちゃんと見てる。旅の中で、何度もそう思ったよ」
胸がきゅっと痛くなる。
嬉しくて、苦しくて、でもとても幸せで――まるで、夢の中にいるようだった。
私はそっと目を閉じた。
ささやくように言葉を零す。
「これが……私の物語の、一ページになるなら……次も、あなたと、同じ本の中にいたい」
イッセイ様は笑って、頷いた。
その微笑みが、私の世界すべてを照らしてくれるように思えた。
本の隅で始まった、小さな恋の記録。
それは、静かに――けれど深く、私の心に刻まれていった。




