エピローグ 涙の跡に咲く花
《嘆きの神殿》を後にした俺たちの足元には、いつの間にか、小さな白い花が一面に咲き誇っていた。
それは、まるで女神が流した千年の涙が、俺たちの答えによって昇華され、希望となって咲き誇ったかのようだった。
神殿を包んでいた重く哀しい空気は嘘のように晴れ渡り、空はどこまでも青く、風は心地よく頬を撫でていく。
「……綺麗ね」
リリィが、その花をそっと一輪摘み、栗色の髪に飾った。
その横顔は、いつもの快活な商人の顔ではなく、ただ純粋に美しいものに見とれる、一人の少女の顔だった。
「うん。哀しいことの後には、きっと良いことがあるって、そう言ってるみたいウサ」
フィーナが、久しぶりに心の底から明るい歌を口ずさむ。
それは即興の、他愛もないメロディだったが、不思議と力が湧いてくるような、温かい歌だった。
彼女の歌声に合わせて、白い花々が優しく揺れる。まるで、大地そのものが喜んでいるかのようだった。
俺は、手にした《赦しの聖杯》を握りしめる。それは、ひんやりとしているが、どこか確かな温もりがあった。俺たちの涙と、決意と、そして未来への祈りが、この杯に宿っている。
(……これが、俺たちの掴んだ最初の答えか)
「……ねえ」
不意に、ルーナが俺の袖をくいっと引いた。
「さっきの試練、あたし、ちょっとだけ怖かった。……ううん、本当は、すごく怖かった」
彼女は、悪戯っぽい笑みの仮面を外し、珍しく素直な瞳で俺を見つめていた。
「“本当のあたしなんて、誰も見てない”って、あの幻影に言われた時、本当にそうかもって……思っちゃったから」
「ルーナ……」
「でも、イッセイくんの声が聞こえた。“お前の本当の笑顔が好きだ”って。……あれ、本当?」
その問いは、あまりにも真っ直ぐで、俺は少しだけ言葉に詰まった。
「……ああ。本当だ。俺は、お前が公爵令嬢として完璧に振る舞う姿より、こうして俺をからかったり、無茶したりして、心の底から笑ってる顔の方が、ずっと好きだ」
俺がそう答えると、ルーナは一瞬だけ目を見開いて、次の瞬間、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……ば、馬鹿じゃないの。そんなこと、今さら言わなくても……知ってるわよ」
その強がりが、どうしようもなく愛おしかった。
「わたくしも……同じですわ」
クラリスもまた、静かに口を開いた。
「民を見捨てた無力な王女。それが、わたくしの心の奥底にあった恐怖でした。ですが、イッセイ様の声が……『独りで背負うな』というあなたの言葉が、わたくしを縛っていた“王族”という名の呪いを解いてくれました。……わたくしは、もう独りでは戦いません。あなたの、そして皆の隣で、共に戦うと誓いますわ」
彼女の瞳には、もはや迷いはなかった。それは、新たなる覚悟を決めた、次代の女王の瞳だった。
「拙者もだ、イッセ-イ殿」
サーシャが、俺の隣に並び、遠い空を見つめた。
「過去の亡霊に、拙者の剣は重く、鈍っていた。だが、貴殿の言葉で思い出したのだ。この剣は、失われた過去を嘆くためではなく、今ここにある命を守り、未来を切り拓くためにあるのだと。……我が剣は、今、かつてなく軽い。そして、鋭い。この刃、すべてを貴殿に捧げよう」
一人、また一人と、仲間たちが、試練の中で見つけた“答え”を口にしていく。
それは、まるで誓いの儀式のようだった。過去の痛みを告白し、それを乗り越えた今の想いを、俺という存在に預けてくれる。その信頼が、何よりも重く、そして何よりも温かかった。
俺は、手の中の聖杯に視線を落とす。その時、聖杯がふわりと温かい光を放ち、その光が俺たちの身体を優しく包み込んだ。
「……あ……」
オリオンとの戦いで負った傷が、心の試練で負った疲労が、その光に触れると、雪解け水のようにすっと消えていく。
「これは……聖杯の力?」
「いえ、違います」
シャルロッテが、微笑みながら言った。
「これは、私たち自身の力ですわ。私たちが流した涙と、それでも前に進むと決めた“想い”が、この聖杯に力を与えたのです。……これは、“乗り越えた者の祝福”なのです」
神々の理不尽な試練は、まだ始まったばかりだ。
だが、俺たちの心は、もう揺るがない。
仲間たちの笑顔、そして胸に宿るリアナの想い。それさえあれば、俺たちはどこまでも行ける。
俺は、オリオンが告げた次なる目的地――《歓喜の城塞》の方角を見据え、力強く一歩を踏み出した。
「行くぞ、みんな」
俺の言葉に、仲間たちは、これまでで最高の笑顔で頷いた。
涙の跡に咲いた白い花畑の中を、俺たちは歩き出す。
その足取りは、もう重くない。
神々に挑むという、無謀な旅。だが、俺たちの心は、不思議なほどの希望に満ちていた。
だって、俺たちはもう知っているからだ。
哀しみの後には、必ず希望が咲くということを。
そして、その希望を咲かせる力は、俺たちの“絆”の中にこそあるということを。
俺たちの、本当の戦いは、今、始まったばかりだ。




