それぞれの“嘆き”と、心の試練
オリオンの試練は、俺たちの絆を引き裂くように、さらに過酷なものとなった。
俺が放った反撃の叫びを合図にするかのように、黒水晶の鏡の壁が突如として音もなくせり上がり、俺たちは一人ひとり、自らの過去を寸分違わず再現した悪夢の空間へと、強制的に閉じ込められてしまったのだ。
分断され、孤立させられた魂は、己が最も恐れる幻影と一対一で対峙させられる。
これは、神が仕組んだ、あまりにも残酷な精神の拷問だった。
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サーシャ:届かざる剣、血に染まる故郷
燃えている。
拙者が生まれ育ったヒノモトの城下町が、燃えている。
「……やめろ」
目の前で、見知った顔の民が、敵兵の刃に倒れていく。
拙者の剣は、まだ短い。非力だ。振るっても、振るっても、憎き敵兵の鎧に弾かれるだけ。
「姉上! お逃げくだされ!」
声がした。振り返れば、まだ幼さの残る敬愛すべき兄が、拙者を庇うように立ちはだかっていた。
「兄上こそ! 共に!」
「ならぬ! カグヤの血は、貴女が繋ぐのだ!」
兄はそう叫ぶと、数倍の体格の敵将へと斬りかかっていった。無謀な突撃。結果は見えていた。
「――なぜだ! なぜ拙者の剣は届かぬのだ!」
俺の絶叫が、炎の中で虚しく響く。
兄の身体が崩れ落ちる様が、スローモーションのように見えた。
その瞬間、拙者の着ていた戦装束が、まるで罪を暴くかのように、幻影の刃によって切り裂かれた。
ザシュッ、と音を立てて、胸元のサラシが露わになる
また一閃、袴が裂け、汗に濡れた太ももが晒される。
これは物理的な斬撃ではない。守れなかった後悔が、拙者の誇りである武士の装束を、一枚、また一枚と剥ぎ取っていくのだ。
『お前だけが生き残った』
血に濡れた兄の幻影が、哀しげに囁く。
『我らの命を礎にして……。その剣は、我らの死体の上に成り立っている』
「違う……違うのだ!」
最後には、下着姿同然の無防備な姿で、燃え盛る故郷の中心に立ち尽くしていた。
羞恥よりも、守れなかった無力感が、冷たい刃となって拙者の心を貫く。
もう、剣を握る力も残っていなかった。
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クラリス:無力な玉座、届かぬ祈り
ここは、王宮の玉座の間。しかし、華やかな装飾は色褪せ、窓の外には絶望に満ちた民の呻き声だけが響いている。
「……水を……誰か……」
「母様、死なないで……!」
眼下では、民が原因不明の疫病に苦しみ、次々と命を落としていく。
わたくしは、ただこの豪奢な玉座に座り、何もできずにいるだけ。
「わたくしには、何もできない……! この玉座は、ただの飾り……!」
無力感という名の毒が、わたくしの心を蝕んでいく。
王女として生まれ、民を愛し、国を守ると誓ったはずなのに。この手は、誰一人救えない。
『姫様……我々の祈りは、届かなかったのですか……』
やつれた民の幻影が、玉座の足元に現れ、怨嗟の瞳でわたくしを見上げる。
その無数の視線が、わたくしの纏う豪奢なドレスを、まるで実体があるかのように引き裂いていく。
ビリビリと絹が裂ける音。
肩が露わになり、胸元がはだけ、王族の権威の象徴であったドレスは、見るも無惨なぼろ切れへと変わっていく。
「や、やめて……!」
肌を晒す恥ずかしさよりも、民の苦しみに応えられない自らの無力さを突きつけられる痛みの方が、ずっと深かった。
『貴女の祈りは、我々の腹を満たしてはくれなかった……!』
『我々を見捨てて、貴女だけが、その玉座の上で安寧を貪るのですか!』
違う、違うのです! わたくしは、ただ……!
幻影たちの手が伸び、ついにわたくしを玉座から引きずり下ろそうとする。
もう、抵抗する気力もなかった。
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ルーナ:仮面の裏の孤独
仮面舞踏会の会場。
きらびやかなシャンデリア、流れるようなワルツ、そして笑顔の仮面をつけた貴族たちの囁き声。
「まあ、ルーナ様、今宵もお美しいですこと」
「さすがは公爵家のご令嬢ですわ」
誰もが笑顔で、誰もが嘘をついている。
本当のあたしなんて、誰も見ようとしない。
ただ、“公爵家の令嬢”という役割を演じる人形を、褒めそやすだけ。
「本当のあたしは、どこにもいない……」
華やかな喧騒の中で、あたしは絶対的な孤独に苛まれていた。
誰でもいい。誰か、この仮面の下にある、本当のあたしに気づいて……。
そう願った瞬間、会場の時間が止まった。
そして、あたし以外の全員の仮面が、ぱり、と音を立てて砕け散った。
だが、素顔が現れるわけではない。仮面の下には、また同じ仮面があるだけ。
そして、あたしのつけていた仮面だけが、ふわりと宙に舞い、砕けた。
『あら、見て。ルーナ様だけ、素顔だわ』
『なんて無防備なのかしら』
会場中の視線が、あたし一人に突き刺さる。それだけではなかった。
視線が刃となって、あたしの着ていた豪奢なドレスを切り裂き始めたのだ。
肩のストラップが切れ、胸元のレースがはらりと落ち、スカートの生地が透けていく。
「いや……見ないで……!」
嘘で塗り固めた世界で、素顔の、そして半裸のあたしだけが、品定めされるように晒される。
これがあたしの最も恐れること。
本当の自分を、誰にも受け入れてもらえないという恐怖。
もう、どこにも居場所なんてなかった。
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彼女たち一人ひとりが、自らの最も深い傷と対峙させられていた。
リリィは、飢えに苦しむ幼い頃の家族の幻影に「お前だけが幸せになるんだね」と責められ、その場で泣き崩れていた。
セリアは、かつて守れなかった主君の幻影に「お前は、やはり無力だな」と断じられ、剣を落としていた。
フィーナは、歌声を誰も聞いてくれない孤独な舞台の上で、ただ立ち尽くし、
ミュリルは冷たい路地裏で、誰にも名前を呼ばれないまま、ゆっくりと身体が消えていく幻覚を見ていた。
シャルロッテでさえ、精霊たちが彼女を拒絶し、その存在を無視する悪夢の中で、ただ震えていた。
このままでは、心が折れてしまう。一人、また一人と、絶望の淵へと沈んでいく。
(くそっ……! オリオンめ……! なんて悪趣味な試練だ!)
俺もまた、前世の記憶が作り出した悪夢の中にいた。
俺の目の前には、疎遠になっていた両親の幻影が立っていた。
彼らは、俺が死んだことすら知らずに、穏やかな老後を過ごしている。
『一誠……あの子は、今頃どこで何をしているのかしらねぇ』
『さあな。だが、あいつはあいつの人生だ。俺たちにできることは、もう何もない』
その会話は、俺の心を抉った。俺は、親不孝な息子だった。連絡もろくにせず、心配ばかりかけて……そして、何も返せないまま、独りで死んだ。
『お前は、私たちを捨てたんだ』
前世の俺の幻影が、再び嘲笑う。
『家族からも逃げ、人生からも逃げ、そして死からも逃げた。この異世界は、お前にとって都合のいい、最後の逃げ場所なんだよ』
その通りかもしれない。俺の心に、暗い影が落ちる。
だが。
俺は、震える手で、腰の剣を握りしめた。
(……俺はもう、独りじゃない!)
そうだ。この手には、確かな重みがある。《精霊剣リアナ》。
その柄を握ると、不思議と心が落ち着いてくる。
俺は剣に、仲間たちの顔を、彼女たちと交わした誓いを、強く、強く念じた。
クラリスの気高い瞳、ルーナの悪戯な笑み、リリィの快活な声、セリアの不器用な優しさ、サーシャの揺るぎない忠誠、シャルロッテの清らかな祈り、フィーナの太陽のような歌声、そしてミュリルの無垢な温もり。
リアナの、そして仲間たちの想いが、光となって俺の心を支えてくれた。
俺は、幻影に向かって、はっきりと告げた。
「ああ、そうかもしれない。俺は、逃げたのかもしれない。だがな、逃げた先で、俺は出会ったんだ。命を懸けてでも守りたい、かけがえのない仲間たちに!」
俺の言葉に、両親の幻影が、少しだけ驚いたように目を見開いた。
「俺はもう、過去の俺じゃない。イッセイ・アークフェルドとして、この世界で、こいつらと共に生きていくって決めたんだ! 俺の後悔は、俺が背負う。だが、その足で、俺は未来へ歩いていく!」
俺がそう叫んだ瞬間、俺を囲んでいた悪夢の空間が、ガラスのように砕け散った。
そして、俺の魂の叫びは、物理的な壁を越え、悪夢に囚われた仲間たちの心へと、直接届いたのだ。




