原初の精霊と、神々の“罪”の囁き
《精霊剣リアナ》が、岩石の巨人の指に触れた瞬間、キィン、と万物の始まりを告げるような、澄み切った音が俺たちの魂に直接響き渡った。
それは物理的な音ではなかった。
この大陸の理そのものが、剣に宿るリアナの記憶と共鳴し、俺たちの意識を強制的に世界の深淵へと引きずり込んでいく。
視界が光に塗りつぶされ、時間の感覚が溶けていく。
俺たちは、ただの傍観者として、この大陸が刻んできた創世の記憶を「追体験」させられていた。
――光があった。混沌の中から神々が生まれ、その御業によって世界は形作られた。
――生命が生まれた。神々はそれを慈しみ、地上に緑豊かな楽園を築いた。
――しかし、光が強ければ、影もまた濃くなる。生命は成長と共に、喜びだけでなく、悲しみ、怒り、憎しみ、嫉妬といった負の感情をも生み出していった。
――完璧な楽園を望んだ神々は、その“影”を存在しないものにしようと考えた。
そして、神々は“器”を創った。
世界のあらゆる負の感情を、穢れを、罪を、たった一身に受け止めさせるための、生贄の器を。
その“器”は、最初はただの概念だった。だが、無数の魂の嘆きを吸い込むうちに自我を持ち、自らが生まれた意味を知り、その理不尽な運命を呪い、そして……世界そのものを憎んだ。
それこそが、後に“魔王”と呼ばれる存在の、あまりにも哀しい始まりだった。
「……そんな……」
記憶の奔流が途絶えた時、最初に声を漏らしたのはクラリスだった。
彼女は王女として、民を守る者として、生まれながらの“悪”の存在を信じて疑わなかったはずだ。
だが、今突きつけられた真実は、彼女の信じる世界の形を根底から覆すものだった。
「魔王は……生まれながらの悪ではなかった……? 神々が……自分たちの都合で、創り出したというのですか……?」
彼女の声は震えていた。その瞳には、深い絶望と、そして神々への静かな怒りの炎が揺らめいていた。
「……ひどいウサ……。ただ、みんなの嫌な気持ちを押し付けられただけなんて……。そんなの、あんまりだウサ……」
フィーナは、ぎゅっと唇を噛み締め、その大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。
誰かの痛みに寄り添う彼女の優しい心にとって、この真実はあまりにも受け入れがたいものだった。
「……これが、“正義”なの? 誰かを犠牲にして成り立つ平和なんて、そんなの……!」
ルーナが吐き捨てるように言った。
彼女の瞳には、冷たい怒りの色が浮かんでいる。
公爵令嬢として、世界の裏側を覗いてきた彼女だからこそ、この“システムの欺瞞”に対する嫌悪感は人一倍強いのだろう。
俺の隣で、サーシャが静かに刀の柄を握りしめていた。
その指先が、白くなるほどに力が込められている。
「……許せぬ。それは、武士の道に反する。弱き者を切り捨て、己の安寧を貪るなど……それは神ではなく、ただの臆病者だ」
彼女の低い声には、静かだが燃え盛るような怒りが満ちていた。
リリィもまた、腕を組んで厳しい表情で巨人を見上げていた。
「ビジネスとして考えたって最悪よ。リスクを全部、一つの存在に押し付けるなんて。そんなの、いつか破綻するに決まってるじゃない。……なんて、馬鹿げた経営判断……」
商人としての彼女の視点は、この神々の行いが、いかに短絡的で無責任なものであったかを的確に捉えていた。
「……だから、リアナ様は……」
シャルロッテが、はっとしたように顔を上げた。
「だから彼女は、魔王を“討つ”のではなく、“救う”ことを選んだのですね。同じように、世界の理不尽さに苦しんだ
魂として……」
そうか。そうだったのか。
俺の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つに繋がった。
リアナがなぜ、自らの存在を歴史から消してまで、魔王を封印したのか。
それは、神々の犯した罪を、彼女がたった一人で背負い、その哀しき犠牲者である魔王を、誰にも知られず、ただ静かに抱きしめるためだったのだ。
俺が呟いた。
「神々の“罪”……。それこそが、魔王の根源……」
その言葉に呼応するように、原初の精霊たちの、言葉にならない哀しみが、重い波動となって俺たちに伝わってきた。
彼らは、すべてを知っていた。神々の行いを、魔王の誕生を、そしてリアナの孤独な戦いを。
だが、世界の理そのものである彼らは、それに介入することができなかった。
その止められなかった後悔が、今もなお、この大地に重くのしかかっているのだ。
俺は精霊剣を握りしめた。
リアナの想いが、剣を通じて俺に流れ込んでくる。
(……独りで、戦ってきたのか。ずっと……)
そのあまりにも大きな孤独と優しさに、胸が締め付けられそうになる。
「……イッセイ様」
俺の心中を察したのか、セリアが静かに隣に立った。
「……命令を。私たちは、あなたの剣です。たとえ神々が相手であろうと、あなたが道を切り拓くというのなら、我らはそれに続きます」
その不器用だが、揺るぎない忠誠の言葉に、俺は顔を上げた。
そうだ。俺は、もう独りじゃない。
リアナが果たせなかった想いを、俺たちは継ぐことができる。
俺は、岩石の巨人――原初の精霊に向かって、はっきりと告げた。
「俺たちは、行く。神々が押し付けたこの哀しい運命を、終わらせるために。……道を示してくれ。俺たちが、何をすべきなのかを」
俺の決意に応えるように、巨人はゆっくりと頷いた。そして、その巨大な指が、大陸のさらに奥深く――聳え立つ、天を突くかのような巨大な塔を指し示した。
そこから、今まで感じたことのない、冷たくも神聖な気配が漂ってきていた。
俺たちの、神々に抗う旅が、今、本当に始まろうとしていた。