湯気の向こうの“責任”と、新たな誓い
一瞬の静寂。それは、嵐の前の静けさというには、あまりにも多くの情報量が詰め込まれた、濃密な沈黙だった。俺の脳内では、先ほどまでの数秒間が無限にも思えるスローモーションで再生されていた。クラリスの胸の柔らかさ、ルーナの背中の滑らかさ、フィーナの尻の弾力、リリィの谷間の香り、ミュリルの膝の温もり、セリアの襟元の秘境、サーシャが掴んだ俺の未来、そしてシャルロッテと交わした魂の会話……。
情報過多でショートした俺の思考回路が再起動するよりも先に、爆発したのは乙女たちの羞恥心だった。
「ななな、なによあなた! 破廉恥ですわ! 変態! この痴れ者ぉぉぉ!」
最初に我に返ったクラリスが、顔を林檎のように真っ赤にして叫んだ。その手には、湯船に浮かんでいた檜の桶が握られている。王族とは思えぬ、しかし見事なフォームで、それは俺の脳天めがけて飛来した。
「ぐはっ!?」
「待てクラリス、話を聞け!」
俺が悲鳴を上げるが、一度点火した王女の怒りは止まらない。
「問答無用ですわ! 天に代わって成敗します!」
桶が、石鹸が、軽石が、湯船に浮かぶあらゆるものがミサイルのように俺めがけて飛んでくる。まさに弾幕。俺は必死に腕で顔を庇う。
「あらあらイッセイくん……計画よりずっと大胆じゃないの。ふふっ、見てしまったからには、ちゃんと“責任”、取ってくれるわよね?」
その弾幕の中を、ルーナがまるで戦場の女神のように優雅に、しかし確実にに歩み寄ってくる。湯けむりを纏ったその姿は妖艶そのもの。彼女の言う「責任」という言葉が、今の俺には死刑宣告よりも重く響いた。
「違う! これは事故なんだ、本当に信じてくれ!」
俺は必死に弁解するが、湯けむりと混乱の中では説得力など皆無だった。
「きゃーっ! イッセイくんのせいで、お湯が波打ってるウサ!」
「にゃーん、もう何がなんだか分からないにゃ!」
フィーナとミュリルは、状況を理解できずにパニックを起こし、なぜか俺の身体にしがみついてくる。そのせいで俺の動きはさらに制限され、クラリスの投げる桶が的確にヒットする。まさに四面楚歌、いや、八方美人(物理)状態だ。
「イッセイ! いい加減にしなさいよ! あたしを盾にするんじゃないわよ!」
背後からはリリィの抗議の声。いつの間にか、俺は彼女をクラリスの弾幕から身を守るための“肉の盾”にしていたらしい。もちろん、そんなつもりはなかったが、結果として俺の背中には彼女の柔らかな身体がぴったりと密着していた。
「皆さん、落ち着いてください! まずは状況の確認を! イッセイ様、ご自身の現状を報告してください!」
セリアが護衛らしく叫ぶが、その声も上ずっている。彼女もまた、先ほど俺に見られた光景を思い出して、冷静ではいられないのだろう。
このカオスを収拾したのは、意外にも、最も動揺していたはずのサーシャだった。
彼女は、ふぅ、と一つ息を吐くと、静かに湯から上がった。濡れた黒髪を片手でかき上げ、落ちていたバスタオルを流れるような動きで腰に巻く。その所作には一切の無駄がなく、まるで武士が戦支度を整えるかのようだった。
そして、彼女はもう一枚、巨大なバスタオルを手に取ると、混乱の渦の中心――すなわち、俺の元へと歩み寄ってきた。
「……イッセイ殿。事情は後で聞こう。だが今は、ここから退避するのが最善と判断する」
その言葉は、まるで戦場からの撤退命令のようだった。彼女は有無を言わさず、その巨大なバスタオルで俺の身体を簀巻き(すまき)のようにぐるぐる巻きにすると、次の瞬間、俺の身体はふわりと宙に浮いた。
「なっ!?」
サーシャは、俺を軽々と米俵のように担ぎ上げたのだ。
(武士の腕力、恐るべし……!)
俺はなす術もなく、彼女の肩の上で逆さまになりながら、遠ざかっていく楽園(地獄)を眺めるしかなかった。
「あっ、待ちなさいサーシャ! その痴れ者をどこへ連れて行くのですか!」
「そうよ! 尋問はこれからよ!」
「私たちの作戦が……!」
ヒロインたちの抗議の声が背後から聞こえてくるが、サーシャは意に介さず、黙々と男湯を経由して脱衣所へと向かう。
担がれていく俺の背中に、ヒロインたちの様々な感情が籠った視線が突き刺さる。怒り、羞恥、呆れ、そして……ほんの少しの、楽しげな光。
彼女たちの作戦は頓挫したが、結果として俺の頭の中は、完全にヒロインたちのことで埋め尽くされていた。俺の誇る鉄壁の鈍感力に、初めて致命的な亀裂が入った瞬間だった。
宿の部屋に戻ると、サーシャは俺を畳の上にどさりと降ろした。
「……イッセイ殿、まずはその格好をどうにかしろ」
「……言われなくても」
俺は簀巻きにされたタオルを解き、近くにあった自分の浴衣に急いで袖を通した。心臓はまだバクバクと鳴り響いている。
俺が帯を締めていると、襖が勢いよく開かれた。
「「「「「「「……」」」」」」」
そこには、同じく浴衣に着替えたヒロインたちが、仁王立ちで俺を取り囲むように立っていた。その目は、笑っていない。これは……裁判か?
俺は正座させられた。俺の目の前には、腕を組んだクラリスとルーナ。左右にはリリィとセリア。背後にはサーシャとシャルロッテ。そして、なぜか俺の膝の上には、ちょこんとミュリルとフィーナが座っていた。……囲まれている。物理的にも、精神的にも。
「さて、イッセイ様」
最初に口を開いたのはクラリスだった。その声は氷のように冷たい。
「まずは、弁解をお聞きしましょうか。なぜ、わたくしたちが湯浴みをしている最中に、壁を破壊してまで乱入するという暴挙に出たのですか?」
「だ、だから、あれは事故なんだ! 《紅蓮の湯》のせいで魔力が暴走して……!」
「あらあら、事故ですって?」
今度はルーナが、妖艶な笑みを浮かべて俺の顔を覗き込む。
「じゃあ、その後のこともぜーんぶ事故だったのかしら? クラリスの胸を鷲掴みにしたのも? フィーナちゃんのお尻を触ったのも? リリィの胸に顔をうずめたのも?」
「うぐっ……!」
次々と挙げられる罪状に、俺はぐうの音も出ない。
「……私は忘れません。私の魂に、あなたのパニックと……ほんの少しの興奮が流れ込んできたことを……」
シャルロッテが、顔を赤くして小さな声で追い打ちをかける。
「……分かった。悪かった。俺が全面的に悪かった。だから、許してくれ……」
俺が深々と頭を下げると、クラリスはふん、と鼻を鳴らした。
「許す許さないの問題ではありませんわ。これは、“責任”の問題です」
「そうよ。見てしまったからには、責任、取ってもらわないとね」
ルーナが再びその言葉を口にする。だが、今度は冗談の響きではなかった。
「……責任って……」
俺が戸惑っていると、リリィが口を開いた。
「つまりね、イッセイ。あんたはもう、あたしたちのことを『ただの仲間』とか『妹みたいなもの』とか、そういう目で見ることはできないはずよ。……違う?」
その問いに、俺は答えられなかった。
脳裏に焼き付いた、湯けむりの向こうの彼女たちの姿。それは、仲間や妹などという言葉では到底表現できない、生々しく、そして抗いがたいほどに美しい、“女”の姿だった。
「……そう、だな」
俺は、観念して呟いた。
「みんな……すごく、綺麗、だった……」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がふわりと和らいだ。ヒロインたちの顔に、満足げな笑みが浮かぶ。
「……! やっと言いましたわね!」
「ふふっ、素直でよろしい」
どうやら、彼女たちが聞きたかったのは、謝罪の言葉ではなく、この一言だったらしい。
俺は、彼女たちの掌の上で踊らされていたのだ。
「……よろしいですわ」
クラリスは扇で口元を隠しながら、宣言した。
「今回の件は、イッセイ様の魔力制御不行き届きによる事故、ということで不問に付します。ただし!」
彼女は、俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「その代わり、これからはわたくしたちのことを、きちんと一人の女性として扱い、その想いに真摯に向き合っていただくことを、ここに誓っていただきますわ。よろしいですわね?」
それは、もはや拒否権のない、王女命令だった。
俺は、ただ頷くことしかできなかった。
その瞬間、俺の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。そう、それは鉄壁を誇っていたはずの、俺の“鈍感力”という名の鎧だった。
湯けむりの向こう側で、俺たちの関係は、もう元には戻れない場所へと、確かに一歩、踏み出してしまったのだ。