崩落の壁と、楽園へのダイブ
その頃、俺は一人、女湯の喧騒から逃れるように別の温泉を試していた。
その名は《紅蓮の湯》――体内の魔力を強制的に活性化させるという、少し危険な香りのする真っ赤な湯だ。
湯船に足を入れた瞬間、ビリリと軽い電気が走るような感覚と共に、身体の芯から力がみなぎってくるのを感じた。
「……すごいな、この湯。まるで魔力そのものに浸かっているようだ」
泉質は極めて濃厚。湯に溶け込んだ高純度の魔素が、肌を通して直接魔力回路に流れ込んでくる。
さながら、超高級マナポーション風呂といったところか。
(これなら、日頃の戦闘で溜まった魔力の澱も浄化できそうだ。それに……最近、力の制御が大雑把になっていた自
覚もある。ここで少しだけ、精密な魔力制御の訓練でもしてみるか)
そう、それがすべての間違いの始まりだった。俺の中に眠る、自分でも底が見えない規格外の魔力。そして、この《紅蓮の湯》が持つ、異常なまでの増幅効果。その二つが組み合わさった時、どんな悲劇……いや、喜劇が起きるのか、この時の俺は知る由もなかった。
俺は湯船の隅にある、頑丈そうな岩を標的に定めた。
(よし、あの岩に、指先ほどの小さな火の玉を当てるだけだ。魔力の消費は限りなくゼロに近いレベルで……集中……集中……)
俺は慎重に、体内の魔力を練り上げる。普段ならバスケットボール大の火球を程度の生み出せる魔力量を、米粒ほどにまで圧縮する。完璧な制御だ。これならば、岩肌を少し焦がす程度で済むはず。
「……《フレイム》」
詠唱と共に、指先に灯るはずだった小さな炎。しかし、その瞬間、俺の身体を駆け巡っていた《紅蓮の湯》の魔力が、俺の意思を無視して奔流のように指先へと殺到したのだ!
「なっ――!?」
米粒だったはずの魔力核が、一瞬にして太陽のように膨れ上がる。俺の指先から放たれたのは、もはや《フレイム》などという可愛らしい魔法ではなかった。それは、直径数メートルはあろうかという、城壁すら穿つ灼熱の魔力塊――もはや分類するなら《フレア・インフェルノ》級の超熱量だった。
「――しまった!」
俺の絶叫は、自らが放った爆音にかき消された。
灼熱球は、男女の湯を隔てていた巨大な岩壁に直撃。数百年、あるいは千年もの間、この秘湯のプライバシーを守り続けてきたであろう古びた岩壁は、凄まじい轟音と共に、まるでビスケットのように脆く砕け散った。
ゴゴゴゴゴォォォォンッ!!!
爆風と崩落の衝撃で、湯船が津波のように荒れ狂う。バランスを崩した俺の身体は、為す術もなく宙へと放り出された。スローモーションのように流れる視界の端で、砕けた岩の向こう側――湯けむりに包まれた、信じられない光景が見えた。驚きに見開かれた、八人八様の美しい瞳。そして、湯に濡れた無数の柔らかな肌……。
(……終わった……)
俺の人生、第二章。今、ここで、社会的に終わった。
放物線を描いて宙を舞った俺の身体は――
「「「「「「「きゃああああああああああっ!!!(ウサッ)(にゃっ)」」」」」」」
――ヒロインたちが待つ女湯の、ど真ん中に、見事な水飛沫を上げて着水した。
視界が真っ白になった。いや、乳白色か。ここは《月光の湯》。肌を美しくするという、ヒロインたちの楽園。
そして、俺にとっては地獄の釜の底だ。
凄まじい水飛沫と衝撃で、俺は湯の中に沈んだ。何が起きたのか、一瞬理解が追いつかない。
(……俺は……死んだのか……?)
混乱する意識の中、俺の伸ばした左手が、何か信じられないほど柔らかく、それでいて弾力のあるものに触れた。湯の中だから感触は鈍いが、それは明らかに岩ではない。なんだ、この完璧な球体は……? スライムか?
「……ひゃっ!?」
耳元で、聞いたことのある悲鳴が響いた。俺は慌てて水面に顔を出す。そこには、顔を真っ赤にして、信じられないものを見るような目で俺を見下ろす、気高き王女殿下の姿があった。……そして、俺の手は、彼女の豊かな胸の片方を、見事に鷲掴みにしていた。
ーーーーー
第一の悲劇:クラリス・レインズ・フェルデン
「い、今のは違う! これは事故で、その、手が滑って……!」
「こ、この……この痴れ者ぉぉぉぉっ! わたくしの、わたくしの純潔な胸に……! 万死に値しますわ!」
俺は感電したかのように手を離す。だが、その神々しいまでの感触は、俺の左手に永遠に刻み込まれてしまった。
俺がクラリスから距離を取ろうと後ずさった、その瞬間だった。背後から「きゃっ!」という声と共に、別の柔らかな感触が背中を襲った。着水時の波に煽られたルーナが、俺の背中に激突してきたのだ。
ーーーーー
第二の悲劇:ルーナ
濡れた肌が、背中にぴったりと密着する。彼女の豊かな双丘が、俺の背骨のラインをなぞるように押し付けられる。
「あらあらイッセイくん……背中からなんて、情熱的じゃない♡」
「違う! お前がぶつかってきたんだろ!」
俺が振り向きざまに叫ぶと、彼女は妖艶に微笑んで俺の肩に顎を乗せてきた。耳元で囁かれる。
「ふふっ、でも、嫌じゃないでしょ?」
その言葉に、俺の理性が焼き切れそうになった。
ルーナを振りほどこうと身をよじった俺の足が、湯船の底の苔で滑った。
「うおっ!?」
今度は前方によろめく。そこには、驚きに目を丸くしたフィーナがいた。倒れまいと伸ばした俺の両手が、彼女を支えようとして――滑った。
ーーーーー
第三の悲劇:フィーナ
俺の手は、彼女の華奢な背中をつるりと滑り落ち、最終的に、その小さくもキュッと引き締まった可愛らしいお尻を、両手でがっしりとホールドする形になった。
「うさぁぁぁっ!? イッセイくんの、えっちな手! お尻! お尻つかんでるウサ!」
「わざとじゃない! 本当に、苔が……!」
その言い訳は、もはや誰の耳にも届かない。
フィーナから手を離そうと慌てた俺は、完全にバランスを失い、顔面から湯船に倒れ込んだ。
……そして、俺の顔は、信じられないほどの幸福感と、窒息感に包まれた。
ーーーーー
第四の悲劇:リリィ
リリィだ。俺の顔は、見事に彼女の胸の谷間に埋まっていた。湯の熱さと、彼女の肌の温かさ、そして花のようないい香りが、俺の思考能力を完全に奪う。
(……死ぬ……! これは、幸福という名の圧殺……! だが、悪くない……いや、ダメだ、俺!)
俺は最後の理性を振り絞って、リリィの胸から顔を上げた。
しかし、勢いよく起き上がったせいで、今度は後ろにひっくり返る。後頭部を強打……するはずだった。だが、そこにあったのは岩ではなく、クッションのように柔らかい何かだった。
ーーーーー
第五の悲劇:ミュリル
「……にゃ?」
見上げると、眠そうな顔をしたミュリルが、俺を見下ろしていた。俺の頭は、湯船の段差に座っていた彼女の膝の上に、完璧な形で収まっていた。……いわゆる、膝枕状態だ。
「……イッセイくん、重い、にゃ……。でも、あったかいから、まあいいかにゃ……」
彼女はそう言うと、俺の濡れた髪を、猫が毛づくろいでもするかのように優しく撫で始めた。その無垢な優しさが、今の俺には一番堪えた。
「イッセイ様! ご無事ですか!?」
そこに、護衛としての使命感に燃えるセリアが駆け寄ってきた。彼女は俺の安否を確認しようと、俺の顔を覗き込むように屈んだ。その瞬間、緩んでいた彼女の浴衣の襟元が、重力に従ってぱかりと開いた。
ーーーーー
第六の悲劇:セリア
俺の視線の先には、湯に濡れて輝く、形の良い二つの膨らみが……。すべてが、見えてしまった。
「……だ、大丈夫だ……怪我一つない……むしろ、栄養過多だ……」
俺が顔を真っ青にして答えると、彼女は不思議そうに首を傾げた。……頼むから、気づかないでくれ。
もう、これ以上の悲劇はたくさんだ。俺がミュリルの膝から起き上がろうとした、その時だった。
「イッセイ殿、しっかりしろ!」
最後に動いたのはサーシャだった。彼女は俺を助け起こそうと、力強く俺の腕を掴んだ。……掴んだつもりだった。だが、湯けむりと混乱の中で、彼女が掴んだのは、俺の腕ではなかった。それは、もっと、こう……俺の股間近くにある、非常にデリケートな……。
ーーーーー
第七の悲劇:サーシャ
「…………」
「…………」
時が、止まった。サーシャの手の中にある“それ”の感触に、彼女の顔がみるみるうちに紅潮していく。武士としての冷静な判断力も、この事態には対応できなかったらしい。
「……す、すまぬ……。目標を、誤った……」
「……それ、絶対間違えちゃいけない目標だからな!?」
俺の魂の叫びが、湯けむりの中に木霊した。
そして、最後に残されたシャルロッテ。彼女は一連の騒動を、少し離れた場所から呆然と見ていた。彼女だけは無事か……そう思った矢先、彼女は皆を落ち着かせようと、清浄な精霊魔法を放った。
「皆さん、落ち着いてください! 清らかな風よ――」
だが、俺の暴走した魔力と、ヒロインたちの混乱した感情、そしてこの地の強すぎる霊力が混じり合い、彼女の魔法は暴走した。
ーーーーー
第八の悲劇:シャルロッテ
放たれたのは、清浄の風ではなかった。
それは、俺とシャルロッテの精神を直接繋ぐ、魂の回線――テレパシーだった。
俺の脳内に、彼女の純粋な驚きと羞恥心、そして「(……なんて、破廉恥な……! でも、イッセイ様が、皆に……! わ、わたくしも……!)」という、声にならない心の叫びが流れ込んでくる。
同時に、俺のパニックと罪悪感、そしてほんの少しの興奮が、彼女に伝わってしまった。
「「――っ!!」」
俺とシャルロッテは、顔を見合わせたまま、金縛りにあったように固まった。
肌を触れ合うよりもずっと深く、魂が触れ合ってしまったのだ。
……終わった。俺の平穏な日常は、今、完全に、跡形もなく終わった。
湯けむりの向こうで、八人のヒロインが、それぞれ違う理由で顔を真っ赤にしている。そこは間違いなく楽園だった。そして同時に、俺の人生最大のピンチを告げる、地獄の始まりでもあった。