表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
181/191

七色の誘惑と、乙女たちの準備運動

宿の奥、俺たちに割り当てられたのは、二十畳はあろうかという広々とした和室だった。

い草の青々しい香りが心地よく、障子戸の向こうには手入れの行き届いた庭園が広がっている。

長旅の疲れを癒すには、これ以上ない環境だ。


そして、その部屋の中央には、女将が用意してくれたのであろう、色とりどりの浴衣が山のように積まれていた。

それを見つけた瞬間、ヒロインたちの瞳が一斉に輝きを放った。


「うわぁっ! 見て見て、可愛い浴衣がいっぱいウサ!」

「にゃーん、これは迷うにゃ……どの柄も素敵だにゃ……」


フィーナとミュリルが真っ先に駆け寄り、絹の布地をうっとりと撫でている。

その光景は、まるで戦場での凛々しさが嘘のような、年頃の少女そのものだった。


「ふふん、あたしはこれに決めた! 商売繁盛を願って、景気のいい山吹色よ!」


リリィは快活な市松模様の浴衣を手に取り、その場でくるりと回って見せる。


「イッセイ! どう!? この浴衣姿のあたしを看板娘にしたら、売上倍増間違いなしじゃない!?」

「……その発想がすでにあたおかしいと思うが……まあ、似合ってるんじゃないか」


俺が素直に感想を述べると、リリィは「でしょー!」と満面の笑みを浮かべた。


その一方で、静かなる火花を散らしている者たちもいた。


「わたくしはこの紫紺の蝶柄を選びますわ。王族としての気品を損なわず、それでいて夜の闇に映える……完璧な選択ですわね」


クラリスが優雅に浴衣を広げると、すかさずルーナが対抗するように、少しだけ襟元が広く、肌蹴させれば艶やかさが増しそうな紅色の花柄を手に取った。


「あらあら、姫様は相変わらずお堅いのねぇ。あたしはこっち。情熱の赤よ。……ね、イッセイくん? どっちのあたしが好き?」


悪戯っぽくウインクを飛ばしてくるルーナに、クラリスが「は、はしたないですわ、ルーナ!」と顔を赤くして抗議する。その光景はもはや、俺たちの旅における様式美と化していた。


そんな喧騒をよそに、セリアとサーシャは実用的な視点で浴衣を選んでいた。


「この生地は……動きやすい。帯の締め方次第では、即座に臨戦態勢に移行可能ですね。合格です」

「うむ。袖が邪魔にならぬよう、こうしてたすきを掛ければ、抜刀にも支障はなさそうだ」


セリアに至っては、浴衣の縫い目を指でなぞり、耐久強度まで確認している始末だ。……頼むから、リラックスしてくれ。


「シャルロッテさんはどれにするウサ?」

「……わたくしは、この……風に舞う若葉のような柄が……。精霊たちが、喜んでいる気がしますので」


シャルロッテは、少し照れくさそうに淡い緑色の浴衣を胸に抱いた。その初々しい姿に、俺の心臓が不覚にも少しだけ跳ねた。


(いかんいかん、俺は保護者、いや、リーダーとしてだな……断じてやましい気持ちなど……!)


俺が内心で葛藤していると、ヒロインたちは次々と俺を捕まえては「どう?」「似合うかしら?」と感想を求めてくる。さながら、俺一人を審査員にした浴衣ファッションショーだ。そのたびに、うなじの白さや、いつもとは違う和装の艶やかさが目に飛び込んできて、俺の精神力はゴリゴリと削られていった。


浴衣に着替え、一行は陽が落ち始めた庭園を抜け、温泉へと向かう。石灯籠がぼんやりと足元を照らし、カランコロンと下駄の音が心地よく響く。

だが、そんな風情あるひとときも、長くは続かなかった。


「きゃっ!?」


石畳の僅かな段差に、慣れない下駄の鼻緒が引っかかったのだろう。俺の数歩前を歩いていたフィーナが、可愛らしい悲鳴と共にバランスを崩した。


「危ない!」


俺は反射的に駆け寄り、その小さな身体を支えるべく腕を伸ばす。間に合った。彼女が地面に倒れ込む寸前、その身体をぐっと引き寄せて抱きとめる。


……抱きとめて、しまった。


俺の右手は、彼女の腰をしっかりとホールドしていた。だが、左手。その左手は、柔らかく、しかし確かな弾力を持つ何かに、すっぽりと包まれていた。具体的に言うと、フィーナの胸の膨らみ、その片方を、鷲掴みにするような形で。


「…………うさ?」


フィーナは目をぱちくりさせ、次の瞬間、顔から火を噴くかのように真っ赤になった。


「い、い、イッセイくんの……手が……! む、胸に……ウサァァァァ!」

「わ、悪い! これは不可抗力だ! 違う、助けようとしただけで、決して俺の煩悩が具現化したわけでは!」


俺は感電したかのように手を離し、全力で後ずさる。だが、掌に残る柔らかな感触は、あまりにも鮮明だった。

背後で、リリィが「ちっ……先を越されたわね、『うっかり転倒ラッキースケベ』の型は古典にして至高なのに……!」と悔しげに呟いているのが聞こえた気がした。


そんなハプニングもありつつ、俺たちはついに目的の《翠玉の湯》に到着した。男女の湯を隔てるのは、女将の言った通り、申し訳程度の高さしかない竹垣と、立ち上る濃密な湯けむりだけだ。

俺はそそくさと男湯に入り、一人、静かに湯に浸かった。翡翠色の湯は、じんわりと身体の芯まで疲れを溶かしてくれる。最高の気分だ。


……そう、向こう側から聞こえてくる、天使たちの嬌声さえなければ。


「きゃっ! このお湯、本当に肌がすべすべになるウサ!」

「見て見て、ミュリルの尻尾、お湯の中でふわふわしてるにゃん!」


その無防備すぎる会話に、こちらの心臓は落ち着かない。

聞くまい、聞くまいと思えば思うほど、耳が彼女たちの声を拾ってしまう。


(頼むから静かに入ってくれ……! これはもはや精神修行だぞ!)


俺が煩悩と必死に戦っていると、すぐ隣の竹垣の向こうから、ルーナの声が聞こえた。


「あらあら、この竹垣、少し隙間が空いてるじゃない。風通しが良くていいわねぇ」


その言葉と共に、カコン、と軽い音を立てて竹の一本が外れた。そして、その隙間から、悪戯っぽく輝く赤い瞳が、こちらを覗き込んだのだ。


「――みーつけた♡」


「うおっ!?」


俺は思わず湯の中に沈んだ。隙間の向こうには、湯けむりに霞むルーナの満面の笑みと、そして……湯に濡れて肌に張り付いた髪、きらめく鎖骨、その先の、豊かな谷間までがはっきりと見えてしまっていた。


「ふふっ、イッセイくん、いい身体してるじゃない。もっとよく見せてくれてもいいのよ?」

「見るな! というか、お前こそ見せるな! これは犯罪だぞ!」


俺が慌てて背を向けると、ルーナの楽しげな笑い声が響いた。


(くそっ、あっちの隙間は危険すぎる……!)


俺は湯船の反対側、障子が張られた壁際へと移動する。ここなら安全だろう。

そう思った矢先、今度はその障子の向こうに、優美なシルエットが浮かび上がった。湯から上がり、壁際で長い髪を洗うクラリスの姿だった。


月明かりに照らされたその影は、彼女の美しい身体のラインを、芸術的なまでに完璧に映し出していた。豊かな胸のカーブ、引き締まった腰、そして滑らかな脚の線……。

直接的ではないからこそ、想像力を掻き立てられるその光景は、ルーナの奇襲とはまた違う、破壊力抜群の精神攻撃だった。


(姫様ぁぁぁ! あなたという人は、無意識に人を誘惑する天才ですか!?)


俺が頭を抱えていると、クラリスの「ふふん」という、勝ち誇ったような小さな声が聞こえた気がした。


もうダメだ、この湯船に安息の地はない。

俺が半ばやけくそになって湯船の中央に戻った、その時だった。


「きゃーっ! カエルさんウサ!」

「にゃっ!?」


女湯の方で、フィーナとミュリルの短い悲鳴が上がった。どうやら、どこからか紛れ込んだカエルに驚いたらしい。次の瞬間、俺の視界の端で、信じられない光景が繰り広げられた。

猫の本能が騒いだのか、ミュリルがカエルを追いかけて、なんと身軽な跳躍で、低い竹垣をひらりと飛び越えてきたのだ。


「にゃーん、捕まえるにゃ!」


当然、彼女はタオル一枚すら身に着けていない、生まれたままの姿だった。小さな身体、白い肌、そしてぴょこんと揺れる猫耳と尻尾。そのすべてが、俺の目の前に、無防備に晒される。


「ミュリル!? だ、ダメです、戻りなさい!」


慌てたセリアが、彼女を連れ戻そうと竹垣から身を乗り出す。そのせいで、彼女の上半身もまた、俺の視界に……。


「うわああああああああっ!!」


俺はついに理性の限界を迎え、両手で顔を覆って湯の中に沈んだ。


聞こえるのは、ヒロインたちの様々な感情が入り混じった声。


「あらあら、ミュリルちゃん、大胆ねぇ」

「なんて破廉恥な……! でも、少しだけ……羨ましい、かも……」

「……いいデータが取れたわ。男性は、不意打ちの無垢な肌に最も弱い、と……メモメモ」


俺は一人、静かに湯の中で誓った。


(……もうだめだ。平和な時間は、終わった。ここからは、俺の貞操と理性を賭けた、総力戦だ……!)


そう、この時はまだ、これがほんの「準備運動」に過ぎないということを、俺は知る由もなかったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ