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風王の哀しみ

激闘の末に静寂を取り戻した方舟は、まるで傷ついた巨鳥が翼を休めるように、穏やかな風の中を静かに航行していた。

機関区画の暴走は止まり、マナ貯蔵庫を覆っていた禍々しい闇も、今はもうない。俺たちの仲間――ヴォルトとノクティス、二柱の英雄の魂は、確かに怨嗟の呪縛から解放されたのだ。


「……ふぅ。なんとか、なった、みたいね」


操舵室の床にへたり込んだまま、リリィが安堵と疲労の混じった息を吐いた。彼女の額には汗が光り、いつもの快活な表情にもさすがに疲れの色が滲んでいる。


「ええ。方舟全体の魔力循環が、正常値に戻りつつありますわ。墜落の危機は、ひとまず去ったと見てよいでしょう」


クラリスもまた、壁に背を預けながら冷静に状況を分析する。だが、その声は微かに震えていた。誰もが、限界ギリギリの戦いを強いられたのだ。


「二人とも、本当にお疲れ様ウサ……。浄化の歌、届いてよかった……」

フィーナは床に座り込み、まだ少し蒼白な顔で微笑んだ。彼女の歌声がなければ、闇の神柱ノクティスを救うことはできなかっただろう。


「にゃ……ミュリル、もう一歩も動けないにゃ……」

「私もです。イッセイ様、しばらくこのまま休息の許可を……」

ミュリルとセリアは、まるで糸が切れた人形のように甲板に大の字になっていた。

(……よく頑張ってくれたな、みんな)


俺は仲間たちの姿を見渡し、胸の奥から込み上げてくる温かいものを感じていた。

だが、戦いはまだ終わっていない。《風の怨嗟》そのものは、まだこの空のどこかに潜んでいる。そして何より――


(風王の、真実……)


なぜ、英雄たちはあのような後悔を抱え、怨嗟に囚われてしまったのか。

そして、風王アナフィエルは、なぜ自ら封印される道を選んだのか。

その答えを知らない限り、本当の意味でこの空を救うことはできない。


俺がそんな思いに沈んでいると、ふいに、空間が淡い光に包まれた。


「……! この気配は……」

シャルロッテがはっと顔を上げる。

光の中から、二つの人影がゆっくりと姿を現した。それは先ほど光の粒子となって消えたはずの、雷の英雄ヴォルトと、闇の英雄ノクティスの霊体だった。


「……礼を言う、風を継ぐ者たちよ」

ヴォルトの声は、狂戦士のそれとは似ても似つかぬ、理知的で穏やかな響きを持っていた。

「汝らの“声”がなければ、我らは永遠に怨嗟の中で彷徨うところだった」

ノクティスもまた、静かに頭を下げる。その表情には、千年の孤独から解放された安らぎが浮かんでいた。


「あなたたちの魂が、まだここに……?」

俺が驚いて問うと、ヴォルトは頷いた。

「我らはもはや、神柱としての核を失った残響にすぎぬ。だが、完全に消え去る前に、伝えねばならぬことがある」

「風王アナフィエル様の……真実を」


ノクティスの言葉に、俺たちは息を呑む。

そこに、新たに目覚めた双子の神柱、シルフィアとラプシアの気配も加わった。四柱の英雄の魂が、まるで失われたピースを埋めるかのように、共鳴を始める。


《我らの記憶は、断片的……》

《ですが、四つの魂が揃えば……》

「王が最も隠したかった、あの日の記憶を……再現できる」

《風を継ぐ者たちよ。見る覚悟は、ありますか?》


その問いに、俺は迷わず頷いた。

「ああ。そのために、俺たちはここにいる」


俺の答えに、四柱の英雄たちは微笑んだ。

そして、彼らの霊体が眩い光となり、俺たち全員を包み込んだ。

視界が白一色に染まり、意識が急速に引き込まれていく。これは、ただの映像ではない。彼らの魂が持つ記憶そのものを、俺たちは今から「追体験」するのだ。


(シャルロッテ視点)


光が収まった時、そこに広がっていたのは、信じられないほど平和で、美しい光景でした。

眼下には、雲海に浮かぶ白亜の都市――千年前の《蒼穹方舟》。

風は歌い、精霊たちは喜びの舞を踊り、空の民たちの笑い声がどこまでも響き渡っていました。


(……これが、第一次崩落前の……)


そして、その中心にある玉座。そこに、一人の男性が座っていました。

長く流れる金色の髪、空の色を映したような碧眼。その佇まいは王の威厳に満ちていながら、民に向ける眼差しはどこまでも慈愛に満ちていました。

彼こそが、風王アナフィエル。


「王よ! 今日の風も、あなたの御心のように穏やかです!」

民の一人が声をかけると、アナフィエルは玉座から立ち上がり、優しく微笑みました。

「民が笑ってくれるのなら、風は常にお前たちの味方だ」


その声を聞いた瞬間、風の精霊たちが歓喜の声を上げるのが、私には聞こえました。

彼は、本当に世界に愛され、そして世界を愛していたのです。


ですが、その平和は、突如として引き裂かれました。


ゴオオオオオオッ!!


空が、裂けたのです。

蒼穹に、血を流す傷口のような黒い亀裂が走り、そこから、今まで見たこともないような禍々しい瘴気を纏った異形の軍勢が溢れ出てきました。


「なっ……!?」

「敵襲! 敵襲だ!」


方舟は一瞬にして戦場と化しました。

民の悲鳴、建物の崩れる音、そして空を汚す瘴気の匂い。

精霊たちが苦しげに呻き、風が悲鳴を上げていました。


(これが……“第一次崩落”……!)


アナフィエルは、即座に十二人の騎士――後の神柱となる者たちを率いて前線に立ちました。

「民を、方舟の奥へ! 一人たりとも死なせるな!」

彼の声は、絶望的な状況下にあっても、決して揺らぎませんでした。


しかし、敵の力はあまりに強大でした。

瘴気は精霊の力を蝕み、物理的な攻撃は再生され、方舟は少しずつ崩壊していきます。


追い詰められたその時、アナフィエルは決断しました。

「……もう、これしかあるまい」

彼は玉座の間へと戻ると、世界の根源たる「風の混沌」が封じられた祭壇の前に立ちました。それは、神々ですら扱うことを禁じた、万物を創造し、そして破壊する原初の力。


「王よ、お待ちください! その力を使えば、あなた様の魂が……!」

騎士の一人、若き日のヴォルトが叫びます。

だが、アナフィエルは静かに首を横に振りました。


「この世界が、民が失われるよりはいい。私は王だ。この身に代えても、この空を、未来を守る」


彼は祭壇に手をかざし、禁断の力を解放しました。

凄まじい風が、方舟全土を、いや、世界全体を吹き荒れます。

その力は絶大で、空の裂け目も、異形の軍勢も、一瞬にして飲み込み、消滅させていきました。


戦いは、終わりました。

しかし、代償はあまりにも大きかったのです。


混沌の力は、敵の瘴気と混じり合ってしまいました。

純粋だった風の力は「穢れ」を帯び、アナフィエルの魂の奥深くに、黒い染みのようにこびりついてしまったのです。


私は、見てしまいました。

民の歓声に応え、勝利を宣言するアナフィエルの瞳の奥に、一瞬だけよぎった、黒い破壊衝動の光を。

精霊たちが、彼を恐れ、後ずさるのを。


(……ああ、なんてこと……)


世界を救った英雄は、その瞬間に、世界を壊しかねない「闇」を、その身に宿してしまったのです。


(三人称視点)


記憶の追体験は、さらに核心へと進んでいく。

戦いから数年後。方舟には平和が戻っていたが、アナフィエルの苦悩は日増しに深まっていた。

彼は自室に閉じこもり、己の中に巣食う「穢れ」と戦っていた。時折、抑えきれない破壊衝動が風となって彼の周囲を荒れ狂わせる。愛する民を、仲間を、この美しい世界を、自分の手で壊してしまうかもしれないという恐怖。


それは、英雄にとって死よりも辛い拷問だった。


そしてある夜、彼は最も信頼する十二人の仲間を、玉座の間に集めた。

ヴォルト、ノクティス、シルフィア、ラプシア……後の神柱となる英雄たち。彼らは、王のやつれた姿に言葉を失った。


「……皆、聞いてくれ。これが、私の最後の王命になるやもしれぬ」


アナフィエルの声は、か細く、しかし決然としていた。


「私を、封印してくれ」


「なっ……!?」

「王よ、何を仰せられるのですか!」

仲間たちが動揺する。だが、アナフィエルは構わずに続けた。


「私の魂は、もはや穢れてしまった。このままでは、いつか私はこの世界を破壊するだけの存在になるだろう。そうなってしまう前に……この愛する世界を、私の闇で汚してしまう前に、私を封じてほしい」


それは、王としての命令ではなかった。

世界を愛しすぎた、一人の男の、悲痛な願いだった。


「……嫌です」

ノクティスが、涙ながらに首を振った。

「我らは、あなたと共に戦うと誓った! あなた一人に、すべてを背負わせはしない!」


「そうだ! 王の闇とて、我らが共に分かち持てば……!」

ヴォルトも叫ぶ。


だが、アナフィエルは哀しげに微笑んだ。

「お前たちのその心が嬉しい。だが、この穢れは、誰にも分かち合うことはできぬ。触れれば、お前たちの魂すら蝕むだろう。……だから、頼む。私を独りにしてくれ。そして、お前たちには、未来を守ってほしいのだ」


彼は十二人の前に膝をつき、深く頭を下げた。

王が、臣下に。

その姿に、誰もが言葉を失った。


やがて、ヴォルトが震える声で言った。

「……分かり、ました。王の、その覚悟……我らが、受け継ぎましょう」

彼は剣を抜き、自らの胸に当てた。

「この魂、あなた様をお守りする盾とするために。我は、永遠の柱となりましょう」


その言葉に続くように、十一人もまた、それぞれの覚悟を決めた。

それは命令されたからではない。

愛する王の哀しみを受け止め、その願いを叶えるため。そして、彼が守ろうとした世界を、今度は自分たちが守るため。

彼らは、自らの意志で「神柱」となる道を選んだのだ。


壮絶な封印の儀式。

十二の魂が光の柱となり、アナフィエルを包み込んでいく。

彼は、その光の中で、最後に穏やかに微笑んだ。


「……ありがとう、我が友よ。……これで、いい」


それが、千年の眠りの真相だった。


光が収まり、俺たちの意識はゆっくりと現実の方舟へと引き戻された。

誰もが、言葉もなく立ち尽くしていた。頬を伝う涙を拭う者もいた。


風王の眠りは、敗北でも、罰でもなかった。

世界を、そして仲間を愛するがゆえの、あまりにも気高く、そして哀しい自己犠牲。

そして《風の怨嗟》とは、その時に切り離された、彼の「穢れ」と「誰にも言えなかった哀しみ」の塊なのだ。


すべてを、理解した。


俺は、静かに、しかし力強く拳を握りしめた。

仲間たちが、決意を宿した瞳で俺を見る。


「……なら、俺たちのやることは、一つだ」


声が、震えなかったのは奇跡に近い。


「風王を、その千年の哀しみごと、俺たちが救い出す。それが、この記憶を見せてくれた神柱たちへの、そしてアナフィエルへの、俺たちなりの答えだ」


その言葉に、仲間たちは力強く頷いた。

方舟を撫でる風が、ほんの少しだけ、温かくなった気がした。

俺たちの決意は、きっとこの空に届いている。

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