囚われの神柱、救出作戦
静寂は、嵐の前の不気味な予兆に過ぎなかった。
《風の怨嗟》が方舟の深層部へと侵入してから、わずか数刻後。船全体を、地獄の釜が開いたかのような激しい揺れが襲った。
「きゃあああっ!」
「船体が傾く! 体勢を立て直せ!」
俺――イッセイ・アークフェルドは、操舵室のコンソールに手をついて叫んだ。窓の外では、祝福の光を放っていたはずの風の精霊たちが、苦しげに明滅しながら飛び交っている。
「イッセイ様! 方舟の複数区画で、高エネルギー反応を感知! これは……間違いありません、神柱の力です!」
シャルロッテが悲鳴に近い声で報告する。彼女が指差す魔力マップには、二つの巨大な光点が禍々しい紫黒のオーラを放ちながら、方舟の心臓部を破壊し始めていた。
一つは、船の動力を司る《魔導機関区画》。
もう一つは、方舟の魔力全体を貯蔵する《マナ貯蔵庫》。
「……二柱、同時に目覚めやがったのか!」
俺が歯噛みすると、隣にいたシルフィアとラプシア――目覚めたばかりの双子の神柱が、哀しげに首を横に振った。
《あれは、目覚めではありません。怨嗟に魂を囚われた……哀れな傀儡です》
「雷を司る“ヴォルト”と、闇を司る“ノクティス”……かつて、誰よりも気高かった英雄が……!」
ラプシアの言葉に、俺たちは息を呑む。かつての英雄が、今は方舟を破壊する尖兵と化している。これ以上ない皮肉であり、そして最悪の状況だった。
「このままじゃ、機関部と貯蔵庫が破壊されて、方舟は浮力を失って墜落する……!」
リリィの分析は、常に冷静で、だからこそ残酷な現実を突きつけてくる。
「二箇所同時……。分かれて対応するしかないわね」
クラリスが凛とした声で言う。その瞳には、王族としての覚悟が宿っていた。
「ああ。俺たちの力を二つに分ける。だが、それでも勝つ!」
俺は即座に判断を下した。
「機関部は暴走するエネルギーそのものだ。パワーと精密さで叩く。俺とサーシャ、そしてクラリス様で行く!」
「承知。我が刃、雷光とて断ち切ってみせよう」
サーシャが静かに頷き、腰の刀に手を添える。
「わたくしの魔法が、必ずやイッセイ様の道を切り拓きますわ!」
クラリスも力強く応えた。
「残るマナ貯蔵庫は、闇の神柱。力押しだけでは通用しない可能性がある。搦め手と支援、そして“心”で戦う必要がある」
俺は、残りのメンバーを見渡した。
「ルーナ、セリア、フィーナ、頼めるか!」
「ふふっ、任せて。闇が相手なら、ちょっとだけ燃えるもの」
ルーナが小悪魔的に微笑む。
「イッセイ様の背後を脅かす者は、たとえ神柱であろうと排除します」
セリアは既に戦闘態勢だ。不器用だが、これ以上ないほど頼もしい。
そして、フィーナは……。
「……うん、やるウサ。わたしの歌が届くかは分からない。でも、哀しい声が聞こえるなら……応えたいウサ!」
その瞳には、もう迷いはなかった。
「よし、行け! 絶対に、全員で生きて戻るぞ!」
俺の号令と共に、二つのチームは方舟の未来を賭け、汚染された英雄を救うべく、それぞれの戦場へと駆け出した。
◆ 闇に響く癒しの歌
マナ貯蔵庫は、その名の通り方舟の魔力が集まる場所だ。本来ならば、壁一面に埋め込まれたマナクリスタルが青白い光を放ち、幻想的な空間であるはずだった。
だが今、その場所は《風の怨嗟》に汚染された神柱――ノクティスの“闇”によって、底なしの深淵へと変貌していた。
「うわ……空気が重い……。魔力そのものが、嘆いているみたい……」
ルーナが眉をひそめ、杖を構える。
光はほとんどなく、足元すらおぼつかない。ただ、空間の中央に、人型の影が静かに佇んでいるのが気配で分かった。
「……誰だ。我の眠りを妨げるのは……」
声は低く、そして深い絶望に満ちていた。影がゆっくりとこちらを向く。その姿は黒い霧のようで、実体があるのかどうかすら判然としない。
「神柱ノクティス! 私たちはあなたを傷つけに来たわけではありません! どうか、その怨嗟の呪縛から……!」
セリアが呼びかけるが、闇は嘲笑うかのように揺らめいた。
「呪縛……? 否。これは我自身が望んだ力。闇こそが、我に安寧を与えたのだ……」
その言葉と共に、闇が触手のように伸び、三人に襲いかかってきた!
「させない!」
セリアが瞬時に前に出て、短剣で触手を切り裂く。だが、斬られた闇はすぐに再生し、再び襲いかかる。
「くっ、キリがない……!」
「フィーナ、援護するわ! 《光弾連射》!」
ルーナが光の魔法を放つが、それもまた闇に吸収されてしまう。
「ダメよ、この闇……光さえ喰らう気!?」
「二人とも、下がってウサ!」
フィーナが叫び、両手を広げる。
「《聖光の泡》!」
彼女の足元から、浄化の力を持つ無数の光る泡が生まれ、闇の触手を包み込んでいく。ジュワッ、と闇が蒸発する音が響き、ノクティスの動きが一瞬だけ止まった。
「……浄化の力か。だが、無駄だ。我の後悔の深さは、その程度の光では照らせぬ」
ノクティスの声と共に、フィーナたちの脳裏に、直接“記憶”が流れ込んできた。
それは、かつて英雄ノクティスが体験した絶望。闇の力に手を染めてまで守ろうとした仲間たちが、彼の力を恐れ、彼を裏切り、孤独の中で死んでいった記憶だった。
《なぜだ……なぜ我だけが……! この力は、守るために……!》
「うっ……!?」
フィーナが、そのあまりに深い哀しみに胸を押さえて膝をついた。
「フィーナ! しっかりして!」
セリアが駆け寄るが、彼女自身もまた、その絶望の波動に精神を蝕まれかけていた。
「……そう。これが闇。これが絶望。汝らも、ここで共に眠るがいい……」
ノクティスの影が、ゆっくりと三人に迫ってくる。
だが、フィーナは顔を上げた。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……違うウサ」
「フィーナ?」
「あなたは……眠りたいんじゃない。本当は……誰かに、分かってほしかっただけウサ……!」
フィーナは杖を置き、ゆっくりと立ち上がった。
そして、震える唇で、歌い始めた。
――♪ 哀しい夜は そっと寄り添って
――♪ 傷ついた羽 休めていいの
それは、戦闘の歌ではない。ただ、優しく、温かい子守唄のような旋律だった。
声が出せる喜び、仲間がいる温もり、そして、目の前にいる哀しき英雄への共感。そのすべてが、彼女の歌声に溶け込んでいた。
「……なんだ、その歌は……やめろ……」
ノクティスの闇が、戸惑うように揺らめく。
「やめろと言っている! 我に光など……!」
「光じゃないウサ。これは、ただの“声”ウサ。あなたの痛みに、応えたいっていう、わたしのわがままな歌ウサ!」
フィーナは歌い続ける。
ルーナとセリアも、はっとしたようにフィーナの意図を理解した。彼女たちは武器を構えるのをやめ、フィーナの背中を守るように立つ。
やがて、ノクティスの闇の中から、嗚咽のような響きが漏れ始めた。
千年の孤独の中で、誰も聞いてくれなかった魂の叫びが、フィーナの歌によって、少しずつ溶かされていく。
闇が、薄れていく。
黒い霧の奥に、傷だらけの鎧を纏った青年の姿がおぼろげに見えてきた。
「今よ……!」
ルーナとセリアは、攻撃ではなく、浄化の魔法陣を同時に展開した。
「「――闇を払い、魂に安らぎを! 《双聖浄化》!」」
二人の光が、フィーナの歌声と重なり合い、ノクティスを優しく包み込んだ。
黒い怨嗟の霧が、完全に晴れていく。
「……ああ……温かい……。これが……赦し……」
英雄ノクティスは、安らかな表情で微笑むと、光の粒子となって消えていった。彼の魂は、ようやく千年の呪縛から解放されたのだ。
「……やった、ウサね」
フィーナは、その場にへたり込んだ。だがその顔は、達成感に満ちていた。
◆ 雷鳴轟く英雄の魂
同時刻、魔導機関区画。
そこは、暴走する雷の神柱――ヴォルトによって、地獄の様相を呈していた。
「はっはっは! 来たか、小童ども! 我が雷で、塵にしてくれるわ!」
ヴォルトは巨躯を揺らし、黒い雷を纏った大斧を振り回していた。その様は英雄というより、破壊を楽しむ狂戦士だ。
「ちっ、話が通じそうにないな!」
俺は《精霊剣リアナ》を構え、ヴォルトの攻撃を受け流す。ビリビリと腕に走る衝撃が、彼の力の強大さを物語っていた。
「サーシャ、側面から! クラリス様、機関部の防衛を!」
「心得た!」
「任せなさい!」
サーシャが疾風のように駆け、ヴォルトの死角から鋭い一閃を放つ。《神威霞流》の剣技が、雷の鎧に火花を散らす。
「小賢しい!」
ヴォルトが斧を薙ぎ払うが、サーシャは紙一重でそれを躱す。
その隙に、クラリスが巨大な氷の壁を生成し、機関部の炉心をヴォルトの攻撃から守った。
「《王家の氷壁》! これで炉心は守りますわ! イッセイ様、ご武運を!」
「助かる!」
俺はヴォルトの懐へと踏み込む。だが、彼の戦闘経験は伊達じゃない。俺の動きを読み、カウンター気味に雷撃を放ってきた。
「ぐっ……!」
咄嗟に剣でガードするが、数メートル吹き飛ばされる。
《力が……力が、制御できぬ……! 我は、守るためにこの力を得たはずなのに……!》
まただ。戦いの最中、彼の魂の叫びが脳内に響いてくる。
ヴォルトの後悔。それは、制御不能な自らの強大な力によって、かつて守るべき民や仲間を傷つけてしまったという過去だった。
(こいつも、ノクティスと同じか……。自分の力に、心を喰われている)
力でねじ伏せるだけではダメだ。彼の魂を、怨嗟から解放しなければ。
どうすれば……。
「イッセイ殿、彼の狙いは炉心ではない! 貴殿だ!」
サーシャの鋭い声。その通りだった。ヴォルトの攻撃は、すべて俺に集中している。
(俺が……試されているのか)
その時、俺はある覚悟を決めた。
「クラリス様、サーシャ! 次の一撃、俺は避けない!」
「なっ、何を言っているのですか!?」
「いいから、俺を信じろ!」
俺は剣を下ろし、ヴォルトに向かって仁王立ちになる。
「来い、ヴォルト! お前の全力、この身で受け止めてやる!」
「面白い! 望み通り、消し炭にしてくれるわ!」
ヴォルトが咆哮し、最大出力の黒い雷をその大斧に宿す。
絶望的な光景に、クラリスとサーシャが息を呑んだ。
だが、俺は動かない。
雷が俺の身体を貫く、その寸前。
俺は叫んだ。
「お前の力は呪いじゃない! 誰かを守るためにあった、誇り高い英雄の力だ! それを否定するな!」
ドンッ!!!
凄まじい衝撃。だが、痛みはなかった。
黒い雷は、俺の身体に触れる寸前で、リアナの剣が放つ淡い光に阻まれていた。
「……な……ぜ……」
ヴォルトの動きが止まる。
「お前の魂が、本当は破壊を望んでいないからだ。……もういいんだ、ヴォルト。お前は、十分に戦った」
俺の言葉が、彼の心の奥底に届いたようだった。
黒い雷が、ゆっくりと本来の黄金の輝きを取り戻していく。
「……今だ、サーシャ!」
「応!」
サーシャが踏み込み、ヴォルトが持つ大斧――怨嗟の力が宿る元凶を、精密な一撃で砕き割った。
パリン、と軽い音を立てて斧が砕け散る。
同時に、クラリスが最大級の浄化魔法を詠唱した。
「――聖なる光よ、その魂に安らぎを! 《天上の讃歌》!」
黄金の光がヴォルトを包み込み、怨嗟の気配が完全に消え去った。
「……ふぅ。……そうか、我は……」
鎧の隙間から、穏やかな青年の素顔が覗く。彼は満足げに微笑むと、ノクティスと同じように光の粒子となって消えていった。
俺は、その場に膝をついた。
「……はぁ、はぁ……無茶、しすぎたか……」
「当たり前ですわ、この馬鹿!」
クラリスが駆け寄り、涙目で俺の胸を叩いた。
「……でも、さすがですわ。あなたらしい、やり方でした」
サーシャも、静かに俺の隣に立ち、頷いた。
「見事な覚悟だった、イッセイ殿」
二人の英雄を解放し、俺たちは操舵室へと戻った。
仲間たちも無事で、方舟の暴走も止まっていた。
だが、戦いはまだ終わらない。
風王の哀しみの根源、《風の怨嗟》そのものは、まだこの空のどこかに潜んでいる。
俺は、仲間たちの顔を見渡し、静かに拳を握った。
次こそ、本当の元凶を断つ。