響き渡る魂の歌
《この音なき地に、世界で最も美しい音を響かせなさい》
双子の神柱から告げられた試練は、あまりにも無慈悲で、そして絶望的だった。
俺たち――イッセイ・アークフェルド一行は、水晶に眠る神柱たちを前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
音のない世界。
ここでは鳥のさえずりも、風の囁きも、自分の心臓の鼓動すら聞こえない。
そんな場所で、「音」を響かせろ? しかも、「世界で最も美しい」音を?
(……無理難題にも程があるだろ)
俺の隣で、フィーナが蒼白な顔で唇を噛み締めていた。彼女の長いウサ耳は力なく垂れ下がり、その瞳からは輝きが消えかけている。
歌姫から歌を奪うことが、どれほど残酷なことか。彼女の武器も、誇りも、存在意義すらも、この静寂の世界では意味をなさない。
リリィも同じだった。いつもなら真っ先に声を上げ、その商魂たくましい弁舌で場を引っ掻き回すはずの彼女が、今は何も言えずに俯いている。彼女にとって「声」とは、人を動かし、商売を成立させるための最強の武器だ。その武器を封じられ、無力感に苛まれているのだろう。
『……どうすればいいのですか』
セリアが魔導ボードに厳しい表情で書き込む。彼女は常に冷静であろうと努めているが、その文字の運びには焦りの色が滲んでいた。
『物理的に音を発生させられない以上、魔法的な手段を考えるべきです。例えば、空間そのものを振動させる魔術とか……』
『試してみる価値はあるかもしれませんわね』
クラリスも同意するように書き込むが、その表情は険しい。
『ですが、「美しい」という定義が曖昧すぎます。どのような音色が、神柱にとっての“美”に相当するのか……』
『うーん、こういうのって芸術点の採点みたいなものよねぇ。審査員の好み次第ってこと?』
ルーナがボードに書きながら、困ったように首を傾げた。
シャルロッテは静かに目を閉じ、精霊たちに問いかけているようだった。だが、しばらくしてゆっくりと目を開けると、小さく首を横に振る。
『精霊たちも……ただ、待っている、としか……。“魂が震える音”を、待っている、と……』
魂が震える音。
その言葉が、俺の心の奥に小さな棘のように引っかかった。
(フィーナ視点)
もう、ダメかもしれない。
イッセイくんたちが何か話し合ってるみたいだけど、わたしの頭には何も入ってこなかった。
「最も美しい音」
その言葉が、鉛のように重くのしかかる。
美しい音……それは、わたしの歌のことじゃなかったの?
心を込めて、みんなを励ますために、世界に希望を届けるために歌ってきたわたしの歌が、一番美しいって……そう信じてきたのに。
でも、声が出ないこの場所で、わたしに何ができるの?
わたしは、ただの足手まといだ。
みんなが必死に考えてくれてるのに、わたしだけが、この試練の前で完全に無力だった。
悔しくて、情けなくて、涙が出そうになる。でも、ここで泣いたら、もっとみんなに心配をかけてしまう。
ぎゅっと拳を握りしめて、俯くことしかできなかった。
イッセイくんの役に立ちたい。みんなの力になりたい。
そう思えば思うほど、自分の無力さが際立って、心がきしむ。
(ごめんなさい、みんな……ごめんなさい、イッセイくん……)
心の中で謝罪を繰り返していた、その時だった。
ふわりと、温かいものがわたしの頭に触れた。
顔を上げると、すぐ目の前に、イッセイくんの優しい瞳があった。
彼は何も言わなかった。声が出ないから。
でも、その眼差しは、どんな言葉よりも雄弁に語りかけてくれていた。
――『大丈夫だ』、と。
そして、彼は魔導ボードに、ゆっくりと文字を書いていく。
『フィーナ。君の歌は、声だけでできているのか?』
……え?
どういう、意味……?
わたしが戸惑っていると、彼はさらに言葉を続けた。
『俺は、そうは思わない。君の歌は、君の“想い”そのものだ。誰かを励ましたい、笑顔にしたいっていう、その温かい心が音になってるだけだ。だから――』
彼の指が、力強く、最後の言葉を綴った。
『――声が出なくても、君の魂は、今も歌っている』
魂が、歌っている……?
その言葉が、雷のように私の心を貫いた。
そうだ。わたしは、ただ声を出していただけじゃない。
嬉しいとき、悲しいとき、楽しいとき、いつも心が先に動いて、それが歌になっていた。
わたしの歌の源は、声帯じゃない。この、胸の奥にある……魂なんだ。
「……っ!」
涙が、一粒こぼれた。
でも、それはさっきまでの悔し涙じゃなかった。
温かくて、嬉しい涙だった。
イッセイくんは、わたしのこと、ちゃんと見ててくれたんだ。
声が出なくても、わたしはわたしだって、信じててくれたんだ。
わたしは涙を拭うと、彼に向かって、今までで一番の笑顔で頷いた。
もう、迷わない。わたしも、戦う。
この、魂で。
(三人称視点)
フィーナの瞳に再び光が灯ったのを見て、俺は静かに頷いた。
そうだ。諦めるのはまだ早い。
神柱の試練は、いつだって俺たちの“本質”を問うてきた。力だけでなく、心そのものを。
ならば、この試練の答えも、きっとそこにある。
(音とは何か? 美しいとは何か?)
俺は思考を巡らせる。
前世、俺はゲーム開発者だった。サウンドエフェクトやBGMの設計にも関わったことがある。
音とは、物理的には物体の「振動」が、空気などの媒体を伝わって耳に届く現象だ。
この《静寂の海》には、その媒体となる「空気の振動」が存在しない。だから音は伝わらない。
だが、本当にそうか?
この世界には「魔力」があり、「精霊」がいる。
空気だけが、唯一の媒体じゃないはずだ。
(振動……そうか、振動だ)
風の神柱。風王。
この章のテーマは、ずっと「風」だった。
そして、「風」とは何か?
――空気の移動、つまり「空気という媒体の振動」そのものじゃないか。
(音が空気の振動で、風も空気の振動……なら、音と風は本質的に同じものだ!)
点と点が、線で繋がった。
この音なき地は、風なき地でもある。神柱は「音」と「風」の両方を封じているんだ。
だから、物理的な音を発生させるのは不可能。
では、「世界で最も美しい音」とは?
美しい、という感覚は主観的なものだ。ある人にとって美しいメロディも、別の人には雑音かもしれない。
だが、万人が、いや、この世界の精霊や神々までもが「美しい」と感じる普遍的な音があるとすれば……それは何だ?
シャルロッテが言っていた。
『魂が震える音を、待っている』
魂の振動。
生命の鼓動。
想いの響き。
(――それだ!)
俺は確信した。
神柱たちが求めているのは、楽器や歌声といった物理的な音じゃない。
俺たち自身の「魂の振動」――つまり、「魂の歌」なんだ。
俺は魔導ボードを掲げ、仲間たちに書き記した。
『答えがわかった。俺たちが響かせるべき音は、外にあるんじゃない。俺たちの“内側”にある』
仲間たちが怪訝な顔で俺を見る。
『音の本質は振動だ。そして、最も純粋で美しい振動は、俺たちの“魂”そのものだ。みんなの想いを一つに重ねて、共鳴させる。それがきっと、「世界で最も美しい音」になる』
突拍子もない提案。だが、俺の目は真剣だった。
俺はフィーナに視線を送る。彼女は力強く頷き返してくれた。その瞳には、もう迷いはない。
『どうやって……?』
セリアが問いかける。
『エリュアの音叉を使う。あれは風を束ねるものだと言っていた。風が振動であるなら、魂の振動も束ねられるはずだ。俺が中心になって、みんなの想いを音叉に集める。そして、一つの“歌”として、この神殿に響かせるんだ』
俺の言葉に、仲間たちの間に動揺が走る。だが、それはすぐに決意の色に変わっていった。
今の俺たちには、これしか道はない。そして、イッセイ・アークフェルドという男が、決して根拠のない無謀な賭けはしないことを、彼女たちは知っていた。
『……信じますわ、イッセイ様』
クラリスが凛とした表情で書き込む。
『ふふっ、面白くなってきたじゃない。魂のセッションってわけね!』
ルーナが楽しげに笑う。
『よし、決まりだな』
俺は神柱たちに向き直り、心の内で告げた。
(待っててくれ。今から、俺たちの最高の歌を聴かせてやる)
俺たちは輪になり、そっと手を繋いだ。
ひんやりとしたフィーナの手、少し汗ばんだリリィの手、固く引き締まったセリアの手……それぞれの体温が、想いが、掌から伝わってくる。
俺は中央に立ち、風王の音叉を両手で静かに構えた。
目を閉じる。
「……いくぞ」
声にはならない、心の声。
仲間たちに、そして自分自身に語りかける。
(思い出せ。俺たちが何のために旅をしてきたのか)
――クラリスは、王女としての責務と民への愛を。窮屈な王宮を飛び出し、仲間と共に世界を知り、守るべきもののために戦うと決めた、その気高き魂を。
――ルーナは、公爵令嬢としての仮面を脱ぎ捨て、一人の少女として仲間との絆を求めた。イッセイの隣で笑い、支えると誓った、その一途な魂を。
――リリィは、商人として夢を追い、ぷるぷるの泡で世界を笑顔にすると決めた。仲間を癒し、未来を切り拓こうとする、その快活な魂を。
――セリアは、守られるだけの侍女ではなく、主君の背中を守る剣になると誓った。不器用な優しさと、秘めた恋心を力に変える、その忠誠の魂を。
――フィーナは、歌を奪われた絶望を乗り越え、魂で歌うことの意味を知った。誰かを元気づけたいと願う、その純粋な魂を。
――ミュリルは、孤独だった過去を越え、仲間という家族を得た。この温かい居場所を守りたいと願う、その無垢な魂を。
――シャルロッテは、精霊の声を聞き、人間と自然の架け橋になると決めた。世界の調和を祈る、その清らかな魂を。
――そして、俺は。転生者として、多くの仲間と出会い、この世界で“生きる”と決めた。彼女たち全員の未来を、この手で守り抜くと誓った、この魂を。
それぞれの想いが、祈りが、願いが、温かい光となって胸から溢れ出す。
その光は手と手を伝って繋がり、輪を描き、そして中央に立つ俺の身体へと流れ込んできた。
音叉が、熱い。
まるで生き物のように脈打ち、共鳴を始める。
音は、ない。
だが、空間が震えている。
神殿の石畳が、柱が、天井の水晶が、俺たちの魂の振動に呼応して、微かに、しかし確かに震えている。
キィィィィン――!
音叉から放たれた光の波紋が、神殿全体に広がっていく。
それは音なき歌。言葉なき詩。
俺たちの魂が紡いだ、たった一つのハーモニー。
その時、水晶の中で眠っていた双子の神柱のまぶたが、ゆっくりと開かれた。
白銀の髪の少女と、深紅の髪の少女。
その瞳は、俺たちの魂の歌を、確かに捉えていた。
《……ああ、なんと……美しい……響き……》
《これこそが、生命の歌……世界の始まりの音……》
シルフィアとラプシアの声が、優しく、そして感極まったように心に響く。
水晶が淡い光を放ち、ゆっくりと溶けていく。二人の神柱が、千年の眠りから、ついに覚醒したのだ。
《試練を越えし者たちよ。我らの名は静寂のシルフィア、喧騒のラプシア》
《汝らの魂の歌、しかと聞き届けました。我らもまた、風王の柱として力を貸しましょう》
音が、世界に戻ってきた。
神殿の外から、穏やかな風の音が流れ込んでくる。
「……あ……」
フィーナの唇から、小さな、しかし澄んだ声が漏れた。
「……歌える……」
彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、そして、歓喜の歌声となって神殿に響き渡った。
『目覚めの礼として、真実の一端を伝えましょう』
シルフィアが静かに語りかける。
『風王アナフィエルが長き眠りについたのは、世界を守るため』
ラプシアが言葉を継ぐ。
『――そして、自らの心に生まれた“穢れ”を、その身に封じ込めるためでした』
「穢れ……?」
俺の問いに、二人の神柱は哀しげに頷いた。
『かつて風王は、あまりに強大な力故に、その魂に影を宿しました。愛する世界をその影で汚さぬよう、自らを十二の柱で封印したのです』
『ですが、その封印も永遠ではありません。風王の目覚めが近い今、その“穢れ”もまた、目覚めようとしています……』
その言葉は、俺たちの心に新たな戦いの予感を刻み込んだ。
だが、今はただ、音が戻ってきたこの世界で、仲間たちの声が聞こえる喜びを噛み締めていた。
フィーナの歌声が、まるで祝福のように、神殿に響き渡っていた。
それはまさしく、「世界で最も美しい音」だった。