静寂の神殿、音なき試練
予備動力で静かに航行する《アルセア号》の船首が、ゆっくりと異質な空域へと進入していく。
そこは、空図に記されていた《静寂の海》。
境界線がどこにあるのか、肉眼では判別できない。だが、船が数メートル進んだ、その瞬間だった。
世界から、音が消えた。
「――っ!?」
ゴゴゴ…と鳴り響いていたはずの魔導炉の駆動音が、ぷつりと途絶えた。甲板を叩いていた俺たちの足音も、風を切る船体の音も、ヒロインたちの賑やかなおしゃべりも、すべてが一瞬にして虚無へと吸い込まれた。
「……な……!?」
隣にいたリリィが何かを叫んだように口を大きく開けたが、声帯が震える感触すらないのだろう、驚愕と混乱に目を見開いている。
「みんな、落ち着け!」
俺は叫んだつもりだった。だが、自分の口から発せられたはずの音もまた、どこにも響かない。まるで、分厚いガラスの向こう側で必死にもがいているような、もどかしい感覚。
これが《静寂の海》。音が存在しない世界。理屈では分かっていたが、実際に体験すると、その異常性は魂を直接揺さぶってくる。
「……すごい、ウサ……」
フィーナが呆然と呟いた――ように見えた。彼女の唇は確かにそう動いたが、愛らしい語尾も、弾むような声色も、今は存在しない。彼女のアイデンティティとも言える「歌」や「声」が、この世界では意味をなさない。その事実に気づいたのか、フィーナの表情から急速に血の気が引いていくのが分かった。
(まずいな……これは精神的にくる)
俺はすぐさま懐から、緊急時用に準備しておいた魔導式の筆談ボードを取り出した。手のひらサイズの板に指で文字を書くと、空中に淡い光の文字として表示される仕組みだ。
『パニックになるな。ここは音のない世界だ。筆談かジェスチャーで意思疎通を!』
俺がボードを掲げると、仲間たちははっとしたように頷き、少しだけ落ち着きを取り戻した。さすがは数々の修羅場をくぐり抜けてきたメンバーだ。順応性が高い。
『イッセイ様、前方に……何か見えますわ』
クラリスが指差す先、静寂の霧の中に、巨大な建造物の影がぼんやりと浮かび上がっていた。風化し、蔦に覆われた古代の神殿。あれが、双子の神柱が眠る場所か。
『よし、あの神殿を目指す。だが、音がない分、他の感覚を研ぎ澄ませろ。特に視覚と気配。セリア、ミュリル、頼りにしてるぞ』
俺がそう書き込むと、セリアは凛とした表情で頷き、無言で剣の柄に手を添えた。彼女の鋭い瞳は、すでに神殿の構造や周囲の地形を分析し始めている。一方、ミュリルは猫のようにしなやかに身をかがめ、ぴくりと耳を動かした。
『にゃんだか……逆に、いろんな“音”が聞こえる気がするにゃん』
彼女がボードに書いた言葉に、俺は眉をひそめる。
『音? 聞こえるのか?』
『ううん、耳じゃないにゃ。肌で感じる“気配の音”だにゃ。この先の神殿……すごく静かなのに、すごく“うるさい”』
ミュリルの獣人としての鋭敏な感覚が、聴覚を失ったことで、他の領域へとシフトしているらしい。これは頼もしい。
俺たちはアルセア号を神殿近くの浮島に停泊させ、浮遊パネルを使って神殿の入り口へと降り立った。
(フィーナ視点)
音が、ない。
自分の足音も、風の音も、イッセイくんの指示する声も聞こえない。
世界が、一枚の絵になってしまったみたいだった。
いつもなら、こういう時、わたしは歌う。
怖いときも、不安なときも、みんなを励ましたいときも。
わたしの歌は、みんなの心を繋ぐ魔法だって、そう信じてた。
でも、ここでは……わたしは、ただの“声が出ないウサギ”だ。
唇を動かしても、声にならない。喉が震える感覚すらない。
みんなが筆談ボードでやり取りしてるのを見ながら、わたしはぎゅっと拳を握りしめた。
(……無力、だ)
リリィちゃんも同じみたいだった。いつもなら真っ先に声を張り上げて、みんなを引っ張っていくのに、今は静かに唇を結んで、どこか心細そうにイッセイくんの隣を歩いている。声が武器の彼女にとっても、この世界はあまりに過酷だ。
神殿の中は、ひんやりとしていて、薄暗かった。
イッセイくんが先頭に立ち、セリアさんとミュリルちゃんが左右を警戒している。
わたしは、ただその後ろをついていくだけ。
(……わたし、何ができるんだろう)
足手まといにだけはなりたくない。
そう思った時、ふと、イッセイくんが振り返って、わたしに笑いかけてくれた。
そして、ジェスチャーでこう伝えてくれたんだ。
――『フィーナの“耳”は、音だけじゃなく、“気”も聞けるだろ?』
わたしの長い耳が、ぴくんと動いた。
そうだ。わたしの耳は、ただの飾りじゃない。遠くの音を聞き分けるだけじゃない。空気の揺らぎ、魔力の流れ、精霊の囁き……そういう、声にならない“音”を感じ取ることができる。
(……やってみせる)
わたしは大きく深呼吸して、瞳を閉じた。
聴覚を閉ざし、全身の神経を耳に集中させる。
……聞こえる。
壁の向こう側、石が擦れる微かな振動。
天井の奥、魔力が淀んでいる気配。
そして、ずっと奥の方から……誰かの、悲しい“寝息”のような響きが……。
わたしは目を開けて、イッセイくんに向かって力強く頷いた。
大丈夫。わたしは、まだ戦える。
(三人称視点)
神殿の探索は、困難を極めた。
音による警告が一切ないため、視覚や気配に頼るしかない。だが、それを得意とする者にとっては、むしろ好都合な戦場だった。
「――っ!」
セリアが突如足を止め、腕を広げて後続を制止した。彼女の視線は、数メートル先の床の一点に注がれている。
他の者にはただの石畳にしか見えないが、彼女の騎士として鍛え上げられた動体視力は、僅かな埃の乱れと、石の継ぎ目の不自然な隙間を見抜いていた。
『罠だ。圧力感知式。踏めば、左右の壁から矢が飛ぶ』
セリアがボードに書き込むと、リリィが青ざめた顔で壁に埋め込まれた無数の射出口を指差した。声が出ない代わりに、その表情がすべてを物語っている。
(……マジかよ、こんな古典的な罠あるのかよ!)
『ミュリル、重さは?』
イッセイが問うと、ミュリルは尻尾をふわりと揺らし、床に手を当てて集中する。
『猫の体重でもアウトだにゃ。羽のように軽くならないと無理だにゃん』
『鑑定スキル起動……解除方法は、三秒以内に同じ重さのダミーを五か所に同時に置くこと……無理ゲーだな』
(いや、無理ゲーって書くなよ俺!)
俺は心の中で自分にツッコミを入れる。
『……わたくしたちなら、できますわ』
静かにボードを掲げたのはクラリスだった。彼女はルーナと視線を交わし、凛とした表情で頷き合う。
『ルーナ、タイミングを合わせますわよ』
『ええ、姫様!』
二人は同時に杖を構え、無言の詠唱を開始する。魔力が練り上げられ、五つの小さな光の塊が生まれる。そして、イッセイの合図で、寸分の狂いもなく五つのダミーウェイトが同時に罠の上に置かれた。
カチリ、と微かな振動だけが伝わり、矢が発射されることはなかった。
「……ふぅ」
クラリスとルーナは、額の汗を拭いながら安堵の息をつく。完璧な連携だった。
「……すごい」
フィーナが、尊敬の眼差しで二人を見つめていた。自分は何もできなかった。歌も歌えず、声も出せず、ただ見ていることしか……。その悔しさが、彼女の心をちくりと刺す。
一行はさらに奥へと進む。
壁には朽ち果てた巨大な竪琴や、音叉を模した装飾が施されており、この神殿がかつて「音」を司る神聖な場所であったことを物語っていた。その光景が、今の静寂をより一層不気味に際立たせる。
やがて、一行は巨大な両開きの扉の前にたどり着いた。
ミュリルがくんくんと匂いを嗅ぎ、扉に耳を当てる。
『この奥……すごく静かなのに、すごく“大きい”気配が二つ。眠ってるにゃ』
ここが最奥。双子の神柱が眠る場所だ。
イッセイが扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
ギィィ……という音は、もちろんしない。
ただ、重い扉が滑る抵抗感だけが腕に伝わり、静かに光が差し込んできた。
そこに広がっていたのは、巨大な水晶に覆われた広間だった。
天井からは柔らかな光が降り注ぎ、空間全体が神聖な気に満ちている。
そして、その中央。
二つの巨大な水晶の中に、二人の少女が眠っていた。
一人は、長い白銀の髪を水中に漂わせるように広げ、安らかな表情で目を閉じている。その佇まいは、まるで雪の結晶のように静謐で美しい。
もう一人は、対照的に燃えるような深紅の髪を持ち、少しだけ眉を寄せ、どこか情熱的な寝顔をしていた。
静寂と喧騒。まさに、伝承通りの姿だった。
俺たちが息を呑んで見つめていると、不意に、直接脳内に声が響いてきた。
それは、二人の少女の声が重なり合ったような、不思議な響きを持っていた。
《……よくぞ参りました、風を継ぐ者たちよ》
言葉だ。音ではない、思念による直接的な対話。
声が出せないもどかしさから解放され、フィーナとリリィの表情がわずかに和らぐ。
《我らは風の神柱。静寂のシルフィアと、喧騒のラプシア》
《長き眠りより我らを目覚めさせんとするならば、試練を越えよ》
『試練……?』
俺が心の中で問い返すと、二人の声は厳かに告げた。
《この音なき地に、世界で最も美しい音を響かせなさい》
その言葉に、俺たちは絶句した。
最も、美しい音?
この、一切の音が存在しない場所で?
楽器を奏でることも、声を張り上げることもできないこの地で、どうやって「音」を響かせろというのか。
「……そんな、無茶な……」
フィーナの唇が、声にならない絶望を紡いだ。歌を奪われた彼女にとって、それはあまりにも残酷な試練だった。
無理難題だ。だが、そうでなければ神柱の試練とは言えないということか。
俺は水晶の中で眠る二人の神柱を見据える。彼女たちの表情は変わらない。ただ、静かに俺たちの答えを待っているようだった。
さあ、どうする。
俺たちの魂は、この静寂の世界で、どんな“音”を奏でることができるのだろうか。
答えの見えない試練が、今、静かに幕を開けた。