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祝福の航路と新たな神柱の影

「はぁ〜……風がうめぇ……!」


竜巻の中心で繰り広げられた死闘が、まるで遠い昔のことのように感じられる。

風王アナフィエルの祝福を受けた空中船《アルセア号》は、雲ひとつない蒼穹を、まるで天上の軌道を滑るように進んでいた。風は慈愛に満ちた母親の手のように穏やかで、磨き上げられた白銀の船体を優しく撫でていく。これぞまさしく、順風満帆。いや、神風満帆と言うべきか。


「見てくださいイッセイ様! 空の色が、前よりもずっと澄んで見えますわ!」


甲板の縁に立ったクラリスが、弾むような声で空を指差す。風に煽られた茶髪のポニーテールが、太陽の光を浴びてキラキラと生命力豊かに輝いていた。その隣では、ルーナが猫のようにしなやかに両手を広げ、全身で風を浴びながら深呼吸している。


「ん〜っ、極上! まるで天空の高級リゾートね。これならお昼寝も捗りそうだわ。ね、イッセイくん?」


悪戯っぽくウインクを飛ばしてくるルーナに、俺――イッセイ・アークフェルドは苦笑を返すしかない。

(……おいおい、ついさっきまで世界の危機だったんだがな)

この切り替えの早さ、そしてどんな状況でも楽しみを見つけ出す心の強さ。王族と公爵令嬢、育ちの良さは伊達じゃないということか。


俺は操舵輪の隣で静かに魔導コンソールを監視しているシャルロッテに目を向けた。


「航路は安定してるか?」

「はい。風の精霊たちが、まるで道案内をしてくれているようです。この先に、これほど穏やかな空路があったなんて……」


シャルロッテは表示される安定した魔力波形に目を細め、どこか感極まった様子で呟いた。彼女にとって、風が穏やかであることは、世界が健やかであることと同義なのだろう。その銀髪が風に揺れる様は、まるで精霊そのもののように幻想的だった。


「にゃははーっ! 空の散歩、最高だにゃーん!」

「ウサーッ! このまま世界の果てまで飛んでいきたいウサー!」


そんなしっとりとした空気を、景気良くぶち破る声がマストの上から降ってくる。見上げれば、ミュリルとフィーナが命綱もつけずにマストのてっぺんで軽やかにバランスを取っていた。空の青と二人の鮮やかな髪色が、見事なコントラストを描いている。


「お前ら、落ちても知らないぞ!」

「大丈夫にゃ! ミュリルは猫だから、ちゃんと四本の足で着地できるにゃん!」

「わたしもウサギだから、ぴょーんって跳ねて衝撃を吸収するウサ!」

(……種族の特性を過信しすぎだろ。物理法則をもうちょっと勉強してくれ)


俺が頭を抱えていると、船室からリリィとセリアがひょっこり顔を覗かせた。その手には何やら分厚い羊皮紙の束が握られている。嫌な予感しかしない。


「ちょっとイッセイ! この航路、完全に観光資源になるわよ! 『風王の祝福・天空クルーズ』って名前で売り出したら、王都の貴族からの予約が殺到すること間違いなしね! 早速、事業計画書と投資家向けのプレゼン資料を――」

「リリィさん、今は休息の時間です。それに、その計画書はすでに私が五パターンほど作成済みですのでご安心を。収益モデル別のリスクヘッジも記載しております」

「えっ、抜け駆けはずるいわよセリア! 商売の基本はスピードでしょ!」

「ビジネスに抜け駆けも何もありません。あるのは勝機と、不備のない契約書だけです」

(……うん、知ってた)


いつも通りだな。この騒がしくも頼もしい仲間たちがいる。それだけで、どんな困難も乗り越えられる。そんな確信が胸に満ちてくる。


俺は胸ポケットに手を入れ、風の巫女エリュアから託された《風を束ねる音叉》にそっと触れた。ひんやりとした金属の感触が、どこか心を落ち着かせてくれる。風王の試練、そして祝福。この音叉は、そのすべてを見てきた証人だ。


その、瞬間だった。


キィン――。


音叉が、微かに、しかし確かに共鳴して震えた。それはまるで、遠い呼び声に応えるような、澄んだ響きだった。


「……ん?」


俺の表情の変化に、いち早く気づいたのはルーナだった。彼女はくるりとこちらを向き、不思議そうに顔を覗き込む。

「どうしたの、イッセイくん? 何かあった?」

「いや、今……」


俺が言いかけたのと、シャルロッテが計器から顔を上げたのは、ほぼ同時だった。

「イッセイさん! 音叉に強い反応が! これは……次の神柱の気配です!」


シャルロッテの声に、甲板にいた全員の視線が操舵室に集まる。

コンソールに表示された古の空図がひとりでに更新され、遥か南方の空域に、新しい光点が二つ、明滅し始めた。今まで何の反応も示さなかった、未知の領域だ。


「目的地……《静寂の海》……?」


シャルロッテが読み上げたその名に、俺たちは顔を見合わせた。


「静寂……? 風がない、ということか?」

俺の問いに、シャルロッテは古文書のページを高速でめくり、険しい表情で頷いた。

「はい。古文書によれば、その空域は一切の風が流れず、音すらも存在しないとされています。かつて、ある神柱が自らの力を封じるために作り出した“無風にして無音の結界”だと……」


風のない空。それは空中船乗りにとって死を意味する。俺たちの《アルセア号》は風の精霊の力で飛んでいるが、その媒体となる風の助力がなければ、性能も大きく落ちるだろう。ましてや、“音”すらないとは。


「そこに、次の神柱が……それも、二人いるみたいにゃ」

マストの上から、ミュリルが目を凝らして報告する。その声には、いつもの陽気さとは違う真剣味が宿っていた。

「光点が二つ、寄り添うように明滅してるにゃん。まるで双子みたいに」


「双子の神柱……ですの?」

クラリスの言葉に、シャルロッテは目当てのページを見つけ出したようだった。

「ありました……! 『静寂を司る姉と、喧騒を司る妹。二柱は常に共にあり、互いの力を以て世界の調和を保つ』……と。名は……記されていません」


静寂と喧騒。正反対の力が、一つ所に眠っている。

厄介な試練になりそうだ。誰もがそう思った、その時。


ガコンッ!


船体が不意に大きく揺れた。床に叩きつけられるような衝撃と共に、推進機関のある船尾から甲高い異音が響き渡る。

「な、なんだ!?」

「イッセイ! 魔導炉の出力が急激に低下してるわ! 何かがエネルギーを吸い取ってるみたい!」


リリィが叫ぶ。同時に、船内の照明が明滅し、船体がゆっくりと、しかし確実に高度を下げ始めた。

「まずい! このままじゃ――」


墜落する!


俺はすぐさま機関室へと駆け出した。

「リリィ、シャルロッテ、来てくれ! 原因を特定する!」


機関室に飛び込むと、むわりとした熱気と共に、異様な光景が目に飛び込んできた。魔導炉を覆う巨大な精霊結晶が、禍々しい紫の光を放っている。炉心には、見たことのない黒い幾何学紋様が蛇のように浮かび上がっていた。

「これは……呪詛魔導か!」

「ガイアルの置き土産……! あいつ、船の設計段階でトラップを仕掛けてやがったのね!」


リリィが悔しげに歯を食いしばる。ガイアルは元々、方舟の技術者だった。彼なら、この船の構造に干渉し、時限式の呪詛を仕込むことも可能だっただろう。風王の祝福で航路が開かれたことをトリガーにしたのか。


「精霊回路が汚染されて、エネルギーが逆流しています! このままでは炉心そのものが暴走を……!」


シャルロッテの悲鳴に近い声が響く。

どうする。俺の前世の知識で、この異世界の魔導炉の複雑なシステムを完全に理解できるか?


(いや、迷ってる暇はない! やれることをやるだけだ!)


思考を切り替え、俺は即座に指示を飛ばす。

「シャルロッテ、精霊回路の強制遮断は可能か!?」

「できます! でも、動力が完全に停止します! 船はただの鉄塊に……!」

「リリィ! 予備動力の魔石はあるな!?」

「あるわ! ぷるぷるスパの非常用電源からくすねてきた最高級品の“超高密度マナクリスタル”がね!」

(……なんでそんなもん個人的に持ってるんだ、この商魂たくましい娘は)


ツッコミは心の中だけに留めて、俺は叫んだ。

「よし、俺の合図で回路を遮断しろ! 同時にリリィが予備魔石を接続! 一瞬のタイムラグで動力を切り替える!」


「り、両方ともタイミングがコンマ1秒でもずれたら、船ごと吹き飛ぶわよ!?」

リリィの言う通り、リスクは高すぎる。だが、他に手はない。

「やるしかない! 俺がタイミングを合わせる! 俺を信じろ!」


俺は目を閉じ、炉心に手をかざす。指先に伝わる魔力の流れ、呪詛の禍々しい脈動、そして船全体の“呼吸”を感じ取る。前世のプログラマーとしての経験が、複雑なエネルギーフローと呪詛のコードを、脳内で高速シミュレートさせた。見える。流れの結節点が、見えるぞ。


……3、2、1……


「――今だッ!!」


「遮断します!」

「接続っ!」


シャルロッテの魔法とリリィの素早い作業が交錯する。

船内が一瞬、完全な暗闇と無音に包まれた。重力がふっと軽くなり、奈落へ落ちていくような強烈な浮遊感が全身を襲う。心臓が凍りつくような、永遠とも思える一瞬。


――そして。


ゴゴゴ……と低い駆動音が再び響き渡り、予備動力となった魔石の淡い青い光が機関室を照らした。

船体の激しい揺れが、ゆっくりと、しかし確実に収まっていく。


「……やった……のか?」

「……やった、みたいね……」

汗だくのリリィとシャルロッテが、その場にへたり込んだ。俺も大きく息を吐き、汚染された精霊結晶を睨みつける。

「……あいつ、とんでもないものを残していきやがったな」


甲板に戻ると、仲間たちが心配そうな顔で駆け寄ってきた。

「イッセイ! 大丈夫だったの!?」

ルーナが俺の腕を掴む。その指先が微かに震えていた。

「ああ、なんとかな。だが、本格的な修理が必要だ。この予備動力じゃ、あの《静寂の海》は越えられない」


俺の言葉に、誰もが表情を曇らせる。

だが、俺は不敵に笑って見せた。


「だから、近くの浮島に一旦降りて、船を修理する。……ついでに、キャンプと洒落込もうじゃないか」


災難すらも冒険の一部に変える。それが、俺たちの旅のやり方だ。

遠くの空に、不気味なほど静まり返った無風地帯が、ゆっくりとその姿を現し始めていた。風が、そこだけを避けるように流れている。


「さあ、次の試練のお出ましだ」


俺は、再び前を見据えた。

この空の先に待つ、音なき世界へ。俺たちの魂の歌を響かせるために。

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