風の王座、呼び声は天より
瘴風を払った空は、しばし穏やかさを取り戻した。
方舟の上空には、薄く白い雲が流れ、青が深く広がっている。
「……静か、ですね」
広場の縁でエリュアがそっとつぶやく。頬に触れる風は心地よく、つい数日前までの緊張が嘘のようだ。
「本当に、あの嵐が嘘みたいだよ」
リリィが肩にかかる髪を払いながら空を見上げる。彼女の笑顔に、ようやく安堵が滲む。
だが、イッセイの胸の奥はまだざわついていた。
ヴェイアとの共鳴の時に見た光景――空の奥に眠る巨大な影の残像が、脳裏から離れない。
(……あれが、風王……なのか?)
その瞬間、耳をくすぐるような低い音が風に混じった。
ヒュゥゥゥゥ……ゴォォ……
ただの風の音にしては、妙に心臓に響く。思わず振り返ると、シャルロッテも眉をひそめていた。
「……イッセイ、今の聞こえましたか?」
「ああ……風が、鳴いているみたいだ」
彼女は小さく頷き、足元の精霊陣を指でなぞる。
「風の精霊たちが落ち着きません……まるで、呼ばれているように」
その言葉に、エリュアが息を呑む。
「……まさか、風王が……?」
瞬間、方舟全体に低い震動が走った。
空の色がわずかに濃くなり、遠くの雲が吸い寄せられるように回転を始める。
「おいおい……まさか、もう次のトラブルかよ……」
ミュリルが耳を伏せ、尻尾を揺らしながら呟く。
「これは……不穏だウサね……」
フィーナも耳をピンと立て、周囲を警戒する。
その時、広場に駆け込んできたのは空の民の学者、シオンだった。
「皆さん、古文書庫から緊急報告です! 古の記録にありました……」
彼は息を整えながら、手にした羊皮紙を広げる。
「風王は――十二柱がすべて揃う前に覚醒すれば、必ず“空を試す”……と」
その言葉に、広場の空気が凍る。
「試す……って、どういう意味?」
リリィが恐る恐る尋ねる。
「古文書にはこうあります。
――《風は己を映す。強き魂は守られ、弱き魂は墜ちる》」
エリュアの顔色が青ざめた。
「まさか……空全体が、選別の試練に……」
その時だった。
空一面に、低く唸るような風が走り、陽光が遮られる。
「……え?」
リリィが見上げ、目を見開く。
遠く、雲の群れが渦を巻き始めていた。
竜巻――いや、もっと巨大で、空そのものがひっくり返るような回転。
中心から伸びる影が、まるで大きな手で空を裂くかのように迫る。
「ひ、ひぃっ……な、何あれ……!」
フィーナが耳を塞ぐ。
イッセイは無意識に息を呑み、目を凝らした。
風が形を成している――それは、巨大な影の輪郭だ。
(……風王……! 俺たちを……見ている……!)
脳裏に直接響くような低い声がした。
――来たれ、選ばれし者よ。
次の瞬間、方舟の周囲の風が逆巻き、竜巻がいくつも生まれた。
空の青が裂け、白い閃光が交錯する。
「全員、退避を!」
セリアが叫ぶが、足がすくむ空の民も多い。
イッセイは胸に手を当て、心臓の鼓動を感じた。
(怖い……でも、逃げられない。ここで立ち向かわなきゃ……!)
エリュアが隣に立ち、風を掬うように両手を広げた。
「……この風は、呼んでいる……イッセイ、あなたに!」
風の唸りがさらに強くなる。
まるで空そのものが心臓を持ち、脈打つような音。
「……分かった。逃げないよ」
イッセイは剣の柄を握り、仲間たちに振り向いた。
「みんな、覚悟はあるか!」
「当然だにゃ!」
「ウサッ、やるしかないでしょ!」
「ええ、空は……私たちの旅の道ですもの」
空の王座に向かう試練が、今、幕を開けようとしていた――。