泡と香りと商売と
「あのさリリィ、最近思ったんだけど――この世界、美容に関しては驚くほど未開だよね」
「……いきなり何の話!?」
王都《クリム商会》の事務所で帳簿と格闘していたリリィが、眉をしかめながら顔を上げた。
僕はさりげなく、袋から小瓶を数本取り出して机の上に並べる。
「これはね、僕が作った“美”のアイテムたち。名前は……シャンプー、リンス、トリートメント、化粧水にファンデーション」
「どれも聞いたことない名前ね。……魔道具?」
「違う。魔法でも薬でもない、ただの液体。でも、使えば人生が変わるよ」
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始まりはほんの些細な会話だった。
母上の「最近、髪がまとまらないのよね」に、姉様たちが「乾燥して肌がカサつくわ」と嘆いていた日のこと。
この世界には香油や薬草湯はあっても、髪や肌を“整える”という文化がない。ならば、作ってしまえばいい。
「今から、ひとつ試してみよう。モデルは君、リリィ」
「へっ!? ちょ、ちょっと待って!? いきなり!?」
「安心して。目は開けていていいよ。君の髪と肌に敬意を持って丁寧にやるから」
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商会裏手の湯処。くしゅくしゅと泡を立てながら、僕は指で優しくマッサージをする。
「うぅっ……な、なにこれ……泡!? ぬるぬるするのに……気持ちいい……」
「頭皮をほぐすことで血行が良くなり、泡が汚れと匂いを包み込んで落としてくれる。そしてこれがリンス、潤いを残す仕上げさ」
ザブン、と湯をかければ、リリィの赤髪は見違えるようにしっとりと艶めいた。
「……あ……すごい……私の髪、別人みたい……!」
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「これ、売ろう。絶対に売れる!」
湯上がりの彼女は、自分の髪を撫でながらすぐさま帳簿を取り出していた。
「上流貴族向けは高級瓶で香り別、平民向けは小分けで展開。試供品も用意して、まずは話題性を……!」
「ブランド名は《ヴィーナス・ブレッシング》。女神の祝福って意味さ」
「……ほんと、変なところでセンスあるんだから」
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数日後、貴族街の体験会。
「こちらは“洗う香り”という新しい文化です。頭皮を洗い、髪を整える。ただし泡で、です」
「まぁ……ふわふわ……」「香りがほんのり残るのが上品ね!」
上品な婦人たちの髪がふわりと揺れるたび、会場に香りが立ちのぼる。
彼女たちの目は驚きと期待に満ちていた。
「あなた……ただの少年ではないわね?」
「ええ、ただのお手伝いです。今日の主役は、この泡と香りですから」
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その夜。
「ねぇイッセイ……もしかして、世界変えられるかもしれないよ?」
「うん、そう思う。これはまだ序章。次は“香る旅人セット”を作る予定。携帯用の泡ボトルと香り袋付きのね」
「……マジで本気なんだ。面白いじゃない……ついていくわよ、どこまでも」
リリィは瞳を輝かせながら言った。
その表情は、ただの商人以上に、未来を見据えるパートナーの顔だった。