異形
「綾也、こんなところにいたの?みんながバースデーパーティーの相談をしようって。もう十六歳になるんだから早いわよね」
言いかけたレイナはラボラトリの片隅で足を止めた。
ほとんどがコンクリートとアスファルトで覆われている庭に、唯一残された自然の土。
綾也は手が汚れるのもかまわずに、必死に少ないその黒土を山にする作業に没頭していた。
ここへ来て四年が経つ。それでも未だに彼は一歩もラボラトリから出たことはなかった。彼だけが毎日のようにくり返される過酷な訓練にさらされていた。
「綾也?」
いつも強気で怖い顔ばかり見せるレイナが、優しく彼の肩に手を触れる。綾也はそれを追い払おうとした。
「いつまで続ける気なの?いくつ、墓碑を建て続ければ気が済むの?」
「…昨日の仔は目の大きなかわいい子犬だった。茶色くて人なつこくて、僕の手も顔もぺろぺろなめて。どうして?どうしてこんな実験を毎日くり返さなきゃいけないの?僕があの仔を殺したんだ!首をひねり、一瞬で!声も出さなかった。僕は……」
泥だらけの手に、涙がぽたぽたと落ちてゆく。墓碑は毎日のように増えていった。といっても綾也がどこかからか見つけてきた板きれに適当に名前を書いた粗末なもの。名前だって、被験動物が死ぬたびに彼が考えた。辛い辛い作業。
「一瞬で死ねたのなら、きっと苦しまなかったに違いないわ。あなたの精一杯の優しさね」
レイナは自分でも酷いことを言っているとはわかっていた。しかしそう声をかけるしかなかった。私たちはS。いつかは実戦部隊として戦わなくてはならない。
「レイナは平気なの?僕は、僕はいつかこうやって人を殺さなくちゃいけないの?」
立ち上がり、涙で顔をぐちゃぐちゃにした綾也は叫んだ。
ふと、背後に人の気配を感じた。レイナが振り向く。
いつも冷静沈着な漆原博士がそこにはいた。その表情に陰があるように見えたのは、そうレイナが思いたかっただけなのか。
「いざ戦争が始まれば、何千何万という尊い命が失われる。その前に元凶を排除してしまえば、被害は最小限で済む。わかるか、綾也」
「わかりたくない!それがどうして僕なの?」
オマエガソノチカラヲモッテイルカラダ。オマエガジンルイヲスクウノダ。
ここには誰もテレパスはいないはずなのに、漆原の思いはそれぞれの心に直接響いてきた。
あとは踵を返すと、博士は建物の中へと戻っていった。
「じゃあ行ってくるからお留守番頼んだわよ、綾也。バースデーケーキはいちごをたくさん載せてもらうね。プレゼントはちゃんと別に用意してあるけど、他にも何かおみやげで欲しいものある?」
月に一度の外出日には、ラボラトリの子どもたちは思い思いに街へと繰り出した。家に帰るのは長期の休みのときだけだから、これはどちらかというと外出訓練といった方が正しい。
Sの連中も例外なく外出は楽しみにしていた。ルカとレイナは新しい洋服やアクセサリーを見るのだと張り切っている。特にルカはラボラトリ生まれなので、この外出がなければ外の世界を知ることができない。
残される子どもは、綾也ただ一人。外で自己のコントロールができない彼は、まだ危なくて外には出せないのだ。
しばらく黙っていた綾也は、レイナに向かってぼそっと言った。
「…じゃあ、新しい本が欲しい」
それを聞いてレイナはくすりと笑った。
「何だかんだ言ってまだお子ちゃまなんだから。何の本?推理小説?冒険もの?ファンタジー?わかった、マンガでしょう」
にこにこ顔のレイナに向かって、綾也は冷静にこう答えた。
「分子生物学・バイオインフォマティクスのためのアルゴリズム入門」
ひくっ、レイナの頬が片方ゆがみ、両手のこぶしに思わず力が入る。
きーっ、かわいくないガキ!思わず捨て台詞を吐く。
「それってネイル・ジョーンズの新刊だろう?大きな本屋に行けばあると思うから。楽しみに待っていろ」
トオルが優しく声をかける。それに、行くわよ!とレイナの厳しい声。
「……行ってらっしゃい」
この光景ももう四年目だ。最初こそ寂しさも感じたが慣れっこになってしまった。
かえって僕はこのまま外に出られない方がいいのかもしれない。綾也の胸にうっすらとわき上がる寂寥感。
しんとしたラボラトリに、足音が響く。この正確な足取りはおそらく…漆原博士。
綾也がそっと顔を上げる。いつも無表情な漆原が痛々しげな目を向ける。
「綾也、おまえも外へ出たいか?」
「……いえ、別に」
それでもいつかは。漆原はそれ以上言わずに綾也へトレーニングルームへと来るよう指示した。
「今から?今日はトレーニングは休みでしょう?」
返事をすることもせず、漆原は歩き出した。仕方なく綾也もそのあとをついてゆく。
彼に逆らおうとしても無駄だ。それはこの四年間で十分わかったこと。
「先生は僕を外に出したいんですか?」
思い切って綾也は漆原に問うた。彼は無言だった。
「それは、みんなと同じように外の世界を味わわせたいから?それとも僕を……」
息を飲んで、唇を噛む。おそらく本当の父親よりも、物理的には彼と一緒にいる時間の方が長い。
心の交流など期待してはいなかったけれど、それでもそばにいることは特別な感情を育てることになる。甘いのだろうか、僕は。こんなに冷たい無表情な人を父代わりに思うなんて。
「僕を、早く殺人兵器として使いたいから?」
しばらく漆原は無言だった。右手で目頭を押さえ、小さくため息をつく。まるで血の通った人間のような仕草。綾也はその姿を見るだけで胸がいっぱいになった。
「愚問だな。答えるまでもない」
それきり漆原は何も言わなかった。トレーニングルームまでの道のりがやけに長く感じた。
その日から、本格的に綾也へ対する徹底した自己コントロール訓練が開始された。淡く朱い虹彩が閉じられたとき、彼の力はトーンダウンする。ならばとさまざまなシールドやゴーグルが試された。しかし、一般社会で通用するものとなると非常に限られてくる。ガラス繊維強化プラスチック製の眼鏡が一番適しているのではないかと絞られたのは、実験を始めてだいぶ経ってからであった。それまで何百何千もの実験に、綾也は黙って耐えた。コントロールできなければ電極を使った行動療法が行われることには変わりない。と、並行して後催眠による暗示療法。とにかくメガネをかけていればPKは現れない。そう綾也の精神と身体に覚え込ませるまでは幾度となく訓練はくり返された。
半年にわたる訓練の結果、ようやく覚醒時における綾也の自己コントロール力は標準値に達した。背は伸び、手も足も長く大きくなったけれど、彼の表情は今までの子どもらしさをなくしてしまっていた。
いよいよ始まる。
「プロジェクトSのメンバーに告ぐ。至急、第七ミッションルームへ集合しなさい」
漆原の声が冷たく響く。戦闘服に身を包んだ三人と、どうしてもアンジェリック・プリティのブランド服しか着ないと言い張ったルカと、黒しか着られないと拒絶反応を起こした綾也の五人は、表情を引き締めて第七ルームへと向かっていった。
これから行われるミッションへの畏れと興奮とを胸に。
「細かい背景はおまえたちに説明するまでもない。ターゲットはシブラク大統領だ」
恐怖の独裁政治をしいてる、イマドキ珍しいヤツだね。アツシが面倒くさそうにつぶやく。
第七ミッションルームは空調の音だけが響き、壁の一面にはある部屋の見取り図が映し出されていた。
「ここが当日、大統領の宿泊する部屋になる。警備の状況を、トオル、出しなさい」
漆原に言われたとおり、トオルがスイッチを操作する。するとそこは数多くの人員を配備した画面へと切り替わった。
「ひゅう、すごい警備だね。どっから入ることを想定してるの?」
「対立勢力がおそらく正面か、こちらの窓から入ることを考えているのだろう。どうしてもこの辺りが手厚くなる」
漆原のレーザーポインターが一点を指す。綾也以外の四人はクククッと忍び笑いをもらした。
「じゃあ僕らはその真ん中、超手薄の誰もいない辺りに登場してやろうか。さぞかし驚くことだろうね」
「余計なことはしなくていいのよ、アツシ。我々の任務を忘れないで」
「シブラクの命だけ?Sの初ミッションにしたらずいぶん寂しくなあい?」
ルカがあどけない声で物騒なことを言う。漆原はみなを見回した。
「それだけなら何も全員に集まってもらうほどではない。ヤツは石油などと呑気なことを口にしているが、本来の目的は、核だ」
「!」
Sのみなが博士に注目する。どういうことだ?
「もちろん表向きは原子力発電所の開発に関する資料を手に入れること。しかしその中にはかなり突っ込んだ内容も含まれている」
「だって、それを持ってるのは国防省でしょ?渡さなきゃいいだけじゃん!」
渡さなければ、石油取引を引き上げると脅しをかけてきた。その言葉に、なるほど、とアツシは鼻で笑う。
「何それ、国防省は自分で渡しといて、Sに取り戻させるって訳ね。めんどくさいなあ」
トオルはルカを含めて全員を戦闘配備につかせること。アツシはシブラクとその側近の内言語を探り、資料の場所を特定すること。
レイナはアツシとコンタクトを取り、その場所に確実に資料があるか確認し、ルカと協力して取り返すこと。
「ちょっと待ってよ、先生!私が資料係ってことは誰がシブラクを始末するっていうの?」
しばしの沈黙のあと、全員の目が綾也に注がれた。
「……ぼ、僕?」
作ったばかりの銀縁のメガネは、掛け慣れていないせいもあってフレームが当たって痛かった。ときおり綾也はその支柱を押し上げながら、目をしばたたかせた。
「そうだ綾也。おまえが確実にシブラク大統領を殺すのだ」
「僕は人なんか殺せない!絶対にイヤだ!」
綾也は叫んだ。その言葉にみな、小さくため息をつく。
「何のための訓練よ。今までさんざん苦労してきたのはこのSのファーストミッションのためでしょう?」
レイナが呆れ声を出す。他のメンバーも、いい加減にしろよといううんざり顔だ。
「でも、でも僕には人なんか無理だよ!お願い、許して!」
じゃあ、私がかわりにやるからいいわよお兄ちゃま。言いかけたルカを漆原は手で制した。
「前にも言ったはずだ、綾也。ここでシブラクを殺せば死者は一人だ。もし彼が本国に帰り、核兵器を作ればその被害者は何千何万となるのだ。わかっているだろうが」
こんなヤツがいたら、うまく行くミッションもダメになるよ。アツシがつぶやく。
四人のメンバーは白けた顔つきで綾也を見つめた。
綾也は入り口に立ち、唇を噛んでいる。
「どうするのぉ?漆原先生。お兄ちゃまは本当にSとしてやっていけるの?」
ルカの声を聞き流して、漆原はつかつかと綾也のそばへ近づいていった。
そして、思いきりその頬を叩いた。
ばしっ。
かけていたできたばかりの特注メガネが吹き飛ばされる。誰もがその迫力に息を飲んだ。
左を向き、黙っていた綾也がゆっくりと正面に向き直った。
その瞳は淡く朱く燃えたぎるような異形の色。
Sのメンバーはハッとなって彼を見つめた。
これが……綾也?
彼の目はわずかに細められ、口元はほんの少しゆがめられた。笑顔のように見えなくもない邪悪な表情。
「ど…どういうこと?」
ルカの声は嗄れていた。
不意にミッションルームのテーブルがふわりと浮いた。そしてそのまま、原形をとどめることのないほど、細かく砕かれた。音さえも立てず。
「彼のPK能力を押し隠す過程で、綾也の人格は完全に二つに分裂を起こしていた。ほとんど能力を持たぬ穏やかな彼と、すべてをも破壊するほどの威力を持つサイコキノとしての彼。おそらく訓練の過程で解離を起こしたものと思われる」
漆原が淡々と説明する間にも、第七ミッションルームの備品は壊され続けていた。綾也自身は妖しげなアルカイックスマイルを浮かべつつ。
「その辺にしておきなさい、綾也」
その言葉でおとなしく彼は力をおさめた。四人のメンバーたちの青ざめた顔を残して。
「…それで?誰がターゲットだって?」
口元をゆがめたまま、綾也は写真を見つめた。ふっ、と笑い声を立てると、つまらないと言い捨てる。
「たった一人?どう殺ればいいの?」
「好きなようにしなさい。おまえの力を確かめたい」
目を細めつつ、Sの仲間たちを見つめる綾也はいつもの穏やかさも優しさのかけらもなかった。
殺人兵器。これが本来の彼の力?
ルカは、自身のサイコキネシスの能力と比べ、桁違いの破壊力に思わずぞっとした。
シブラク大統領の宿泊ホテルはもちろん極秘にされ、当日は一般客は全くシャットアウトされた。彼の身に危険が迫っていることはSATの梶原にもよくわかってはいたが、それにしても厳重な警備だぜと、腹の中で捨て台詞を吐いていた。
…そんなに命が惜しけりゃ、自国の大統領官邸から一歩も出なきゃいいんだよ。さんざんあくどいことをやり放題してやがるくせに…
ついそんな愚痴めいた思いもわいて出る。
一般の警備隊員である梶原らにはなぜ彼をそこまで、という情報は伝えられていなかったからだ。
そもそも国賓級の警備を行うのはSPと呼ばれる警護課だけで十分だろう。なぜ俺たちSAT(特殊急襲部隊)が協力要請を引き受けなきゃならないんだ。隊員の中にそんな不満が渦巻いている。それで足りないって言うんなら、国防省でも防衛隊の一個小隊でも連れてきやがれ。
警視庁公安部管理官の藤堂は現場の不満も重々承知していた。しかし実働部隊には伝えられないが、何らかの不穏分子が動いていること、それは国防省も把握していながら協力を求めても国家機密に関わることであるので、省としては動きが取れないとの一言で片付けられてしまうこと。
さまざまな情報を元にすると、シブラクに何らかの危機が迫っていることは確実と言えた。
もし、日本国内でシブラクに何かあったりしたら。
それならとにかく警察の持ち玉で、できうる限りの対策を取るまでだ。
都心からやや離れた隠れ家的な高級ホテル。部屋数も少なく、入り口も二箇所しかない。
そこさえ封鎖してしまえば侵入は非常に難しくなる。そもそも門自体が大きな城壁のように人びとを拒絶している建物なのだ。
外には一般の警察官を配備した。そして、建物内にはSATを。それぞれに高性能のボルトアクションライフルもしくは対物ライフルを持たせてある。テロリストを発見次第、発砲の有無にかかわらず射殺してもかまわない。もちろん極秘裏に出された特例中の特例命令だ。大統領の間近には、要人警護に慣れたSPを多数。
おそらく敵が襲撃を行うとすれば、首相と対談の行われた今夜の可能性が高い。シブラクは自国にかなり有利な交換条件を、日本国から引き出しているはずだ。それを快く思わない敵は……。
それを考えるのは私の仕事ではない。藤堂は軽く頭を振ると、これからの指示系統についてもう一度確認するために建物内へと向かっていった。
梶原は何気なく空を見上げた。満月が少しずつ雲に隠れてゆく。闇夜か、イヤな夜だぜ全く。ライフルを持ち直すと玄関先を守る仲間と打ち合わせる。俺の仕事はここから一歩もテロリストを建物内に入れないこと。ここから来るとは限らんがな。
午前零時をまわっても何も変化はなかった。人間の緊張感にも限度がある。藤堂にとってはそれが怖かった。不意を突かれたら。
当のシブラク大統領は、やはり不安で眠れそうもないようだった。自国から連れてきた軍人に囲まれながら強い酒をあおっている。
実際には聞こえないはずの秒針の音さえ、聞こえるほどの静けさ。
そのとき、建物の中央で物音がした。警備部員すべてに緊張が走る。中にいたSATとSPが駆けつける。
もやの中から現れたのは白いドレス。そして黒い戦闘服。
全員が息を飲む中、誰もいないはずの広いロビーに突如現れた四人の若者と子ども。
「…どこから入った?子どもは外へ出なさい」
いつも冷静沈着な藤堂でさえ、よほど混乱していたに違いない。あり得ないシチュエーションに思わず発した言葉。
レイナが静かに右手を挙げる。戦闘開始の合図だ。彼らは黙ってそれぞれの配備につく。ようやくこの少年少女たちこそが敵だと認識したSATとSP、そしてシブラクの側近たちは彼らに銃を向けた。
すかさずルカがそれらの銃身を折り曲げてゆく。あるものははたき落とされ、あるものは考えられない角度で力を加えられた。
トオルは瞬時に彼らの身をテレポートさせ、決して何十ものライフルの的にならぬよう援護した。そしてアツシは彼らの脳を直接スキャンして、すばやく情報を読み取ってゆく。彼にとっても必要な作業であるとともに、やられた側にとっては頭の中に手を突っ込まれ、かき混ぜられるようなものすごい苦痛感を伴う。そこかしこに、頭を押さえ、のたうち回る大人たちを冷ややかに見下ろす。
「レイナ!お兄ちゃまがいないわ!さっきからどこにも!」
「逃げたのか、この期に及んで」
トオルがうなり声を上げる。
その頃、梶原はライフルを構えて一人の少年に狙いをつけていた。
庭を警備していた何十人もの警察官は、それぞれ地面に叩きつけられた状態で気を失っていた。
手足をへし折られたもの、頭から、口から血を流し、うめいているもの。
少年は全く手を動かしていない。警官に触れてもいない。なのに彼に近づくものすべてが吹き飛ばされ、瀕死の重傷を負わされていた。
その中央に立つのは、全身を黒い服に身を包み、口元をゆがめ、真っ朱な瞳で邪悪な微笑みを見せる少年一人。
百戦錬磨のはずの他のSATの連中でさえ腰が引けている。叫び声を上げて突っ込んでいった一人の仲間は、軽々と空中に持ち上げられてそのまま地面に真っ逆さまに落ちていった。
「ク、ク、ク」
少年は目を細めながら部屋の中へと入っていった。そばにいる警備隊員などをすべてなぎ倒しながら。
イヤな笑い声だぜ、全く。これでも海外での傭兵体験もあるんだ。悪いな小僧、てめえが何者か知らねえが、そんな手品にはびびらねえ。
梶原は追いかけていって、特殊ライフルの引き金を引こうとした。その瞬間、彼の手と腕が意志に背き、上に挙げられていった。
「な、何だ、こりゃ…」
ぐぐぐと銃身が曲げられ、彼の顔めがけて近づいてゆく。
「どうする?それでも引き金を引く?吹っ飛ぶのはあなたの頭だよ」
これ以上なく楽しげに、彼は笑った。
「綾也!何をしているの?あなたの任務を果たしなさい!」
彼を見つけたレイナが叫ぶ。シブラクはあたふたと部屋を逃げまどうばかりで恐怖におののいている。
「ちっきしょう!」
梶原はライフルを捨てて、自動小銃を手に綾也へと向かっていった。
しかし、あと一歩のところでその銃もあっさり弾かれてしまう。内ポケットから取り出したナイフで彼に突っ込んでゆく。
その身体を、彼は軽々と持ち上げた。もがいてももがいても、どうすることもできない。ナイフは落ち、梶原の両手は自分の首へと向かって伸びていった。自分の意志など全く通用しない。ぐいぐいと力を入れられ、締め付けられる梶原の喉。
これは、これは手品なんかじゃ……。
「ば……化け物…」
その言葉に綾也は目をカッと見開いた。
「僕を!僕を化け物と呼ぶな!」
伝わるのは激しい怒り。もはや誰も彼を止めることはできない。
朱い閃光と激しい振動。そしてどこからか現れた燃えたぎる火を持つ何百もの鳥たちが部屋中を満たす。旋風が巻き起こり、Sのメンバーでさえ、支え合っているのがやっとだった。
その場にいる警備隊員すべては壁に叩きつけられ、身動きするものもいなくなった。その中にはむろん、シブラク大統領自身も。
いや、動くものがただ一人。梶原は最後の力をふりしぼってそばにあったMP5を手に取った。綾也に向かって撃とうとしたそのとき、彼の瞳は燃えたぎり、機関銃は暴発した。
それきり梶原の意識はなかった。
Sの他の四人はあまりの綾也の威力に言葉を失い、呆然と立ちつくした。
あっという間の出来事に、応援部隊を集め、現場に戻った藤堂は、目を疑った。
トオルが、いまだ興奮状態の綾也をとりあえず抱え、その場を消えたのと、藤堂が彼らに向かって銃を発砲したのは同時だった。
行き場を失った自動小銃の銃弾は、虚しく豪華な壁にのめり込むばかりだった。
梶原はそこでいったん言葉を切ると、かろうじて動く左手でカップを持った。すぐさま彼の妻がそれを支える。梶原は水分を取ると軽くむせた。
哲平と田村は、あまりの内容に何も言うこともできず、ただ息を飲むばかりだった。
それをすばやく察知したのだろう、自嘲気味に梶原が顔をゆがめる。
「信じなくたっていいやね。俺だって未だに信じられねえからな」
田村にとっては未知の世界であろう。そんなことがこの世にあるはずがない、本人がそう思っているのなら梶原はかなりの精神的ダメージを受けたのだろう、と。
しかし哲平にとってはごく当たり前のことだった。
「あんたは驚かないんだな。津雲さん、って言ったっけ?週刊誌の記者ってのはそんなに心臓が強くないとやってけないのかい?」
これだけの言葉を話す間にも、彼はかなり辛そうだった。右手は見た目にもわかる義手、そして電動の車椅子。身体一つで世界を回ってきた彼にとってどれだけもどかしい思いだろうか。
「梶原さん、おれはただ…知ってるんだ。それだけだよ」
さすが情報の世界に生きる人間だな。梶原は感心したようにつぶやいた。
「誰かに話したのですか?そうすればその少年らがどんなものか調べもついたのでしょう?」
半信半疑の田村が口を挟む。梶原はそっと首を振った。
「ああ、何度も何度も、たくさんの人間に話したよ。警察にもSATにもSPにも、公安やもっと上層部にも事情聴取されて。もっとも俺は今よりもっと酷い状態だったから、話せる内容も限られていたがね。でも誰も信じちゃくれなかった」
「だって他の目撃者だっているんでしょう?その管理官は?」
「藤堂さんか?あの人は沈黙を守った。わけなんか知らねえ。知りたくもねえ。俺の考えることでもないんだろう」
田村は負った傷のせいで話しづらそうにしている梶原に、それでも何とか情報を引き出そうと質問をくり返していた。
哲平は、そのやりとりを聞きながら朱い瞳の少年に思いをはせた。
梶尾…綾也。
たった一人で警官とSATとSPをなぎ倒したのか。怒りにまかせて。
彼の心の中を思うと痛々しさに唇を噛む。
「不思議なことを教えてやろう、津雲さん」
不意に話を振られて、慌てて哲平は顔を上げた。
「あれだけの戦闘にもかかわらず、死者が出なかった。誰一人としてな」
「!」
その言葉に、二人は心底驚いた。おそらくその場のすべての警備部員が命を落としたものと思っていたからだ。都市伝説は本当だったのか、田村がぞくっと身体を震わせる。
「もちろん、酷いケガは負わせられた。この通り半身不随で社会復帰もできねえ仲間も少なくない。ただ、誰も死んでないんだ。シブラクの野郎ですらもよ」
その情報は掴んではいた。彼は幸い重傷で済み、秘密裡に特別機で母国に逃げ帰ったあとそのまま亡命した、と。結果、かの国は独裁政治から解放され、民主的に大統領が選出されて復興への道を歩んでいる。もちろん前途多難ではあるが。
綾也は誰も殺してはいない…のか。
それは彼の良心から来るものか、何らかのストッパーがかけられているものなのか。
梶原の姿に、果たしてそれがなぐさめになるのかどうかわかりはしなかったが、少なくとも殺人者にはなっていなかったことにほんの少しばかりの安堵感を持った。
それは哲平らしくもない感情だった。これだけ酷い障害を負わせられ、苦しめられている人間が多数いるのに、おまえはただ一人の少年の味方をするのか。
「すみません、あまり起きていると梶原も疲れますので」
彼の妻が申し訳なさそうに伝えるのを聞き、急いで二人は席を立った。非礼をひたすらわびる。
「津雲さん」
息苦しさに乱れがちな声で、彼はこう告げた。
「俺の話を真面目に真正面から聞いてくれたのは、あんただけだったよ。お礼にもう一つだけ話してもいいかな」
哲平は田村と目を見合わせてから、梶原の発言に注目した。
「俺の介護費用がどこから出てるか知ってるかい?」
しばらくの沈黙、おそらくは口止めされている情報なのだろう。哲平はじっと待った。
「……警察じゃねえんだ。これがさ、不思議なことに」
…国防省だよ…梶原はささやいた。
国防省、か。
また一つ、絡んできやがった。あいつらは本気で超能力者を集めて、生物兵器として使うつもりなのか。綾也の能力は確かに国防省にとって魅力的だっただろう。だが、結果としてヤツらは彼を手放したのではなかったのか?
黙って頭を下げると、二人は重たい気持ちを抱えて彼の家を出た。
「おそらくあまりにも酷い精神的なダメージを受けすぎて、集団幻覚を起こしたんでしょうね。あれだけの実戦経験者でも、人によってはメンタル面で弱いところがありますから。気の毒といえば気の毒ですが、かなり大がかりなテロリスト集団か、共和国側の反乱分子が敵だったという訳ですかねえ」
田村は大の甘い物好きで、スーツ姿でも平気でメロンスィーツプリンパルフェなんぞ注文して食っていた。
そう思っていればいいさ。哲平は苦い気持ちを押し込めてコーヒーを流し込む。
「なあ田村、何でおまえらはモデルガンを手に人殺しのゲームに興じるんだ?」
人殺しのゲーム?ああ、サバイバルゲームのことですね。言われ慣れているのだろう、なんてこともないような顔で田村は言葉をつなぐ。
「本来のサバイバルゲーマーは平和主義者です。実際に辛く痛く怖い思いを味わうことによって、戦争など起こさない方がよほどマシだと実感しようと。まあ優等生的に平たく言えばそんな感じですかね」
おれは本音が訊きてえんだ。哲平の口調が暗くなる。
「だからにらまないでくださいったら。津雲先輩は、ホント真面目な顔すると怖いんだから。あなたにだから正直に言いますよお。銃を持って人を撃ったときの高揚感、あれを一度でも味わうと忘れられませんねえ」
田村は、うまそうにプリンの部分を口に頬張りながら、目だけをぎらつかせた。
「だったら梶原のように実戦に関わればいい」
冗談じゃないですよ、即座に田村が切り捨てる。
「痛いのはイヤだし、死ぬのは怖い。肉体的にダメージを受けるのはゴメンですからね。そんな野蛮な争いより、実生活では僕ならここで戦います」
そう言いながら彼は自分の頭を指さした。確かに田村が有能な弁護士であることは認めるさ。
じゃあ綾也はどうなる。あいつはおそらくおまえの何十倍も何百倍も賢いんだぜ。ヤツはひっそりと一研究者として過ごしたいというささやかな願いを持っているだけだ。
あいつは戦いたいなど一度も思ったことなどないはずだ。それなのになぜ。
おれの戦うべき相手は国防省なのか?ちっきちょう、敵があまりに…でかすぎるぜ。
おまけに綾也は今、青龍会の元にいる。谷田貝が始末された以上、青龍会が求めているのは綾也の持つであろうPSDの情報。
綾也が酷い目に遭うか、それとも青龍会の前で彼が力を抑えきれないか。どちらにしても哲平には望んでいない展開だ。
どちらから行く気だ?津雲哲平よ。
彼は自分自身に必死に問いかけていた。
もうすぐ十七歳の誕生日が来る。
綾也は見慣れたコンクリートの独房で、そんなことを考えていた。
もうすっかりなじんだはずのメガネフレームが、耳元に当たって痛い。でも少しでもはずせば僕はどうなるんだろう。
あの日から誰も綾也に近づくものはいなかった。漆原博士はおろか、Sのメンバー誰一人さえ。
食事が与えられ、ただそれだけ。
自分でもわかっていた。彼に与えられた指令は「大統領の抹殺」それのみ。他は傷つけるな。むやみに警察と摩擦を起こしたくない。冷たい博士の言葉。
結局、僕はどれをも果たせなかった。
その場にいた警備隊員たちはすべて倒れ、酷い怪我を負ったことだろう。なのにおそらく大統領の命は失われてはいないに違いない。
あれだけの嵐の中、僕の心の片隅で何かが叫び続けていた。
…コロシテハダメ…
涙とともに浮かぶ母の顔。彼女が息を引き取る直前に僕へ伝えた、ただ一つのメッセージ。なのに僕は、母を殺したんだ。
綾也は固く目をつぶった。足音が近づいてくる。漆原ではない。あれはたぶん国防省の役人。
独房の鍵が開けられ、外へ出るようへと促される。明るい面会室に連れて行かれると見知らぬスーツ姿の男たちが待っていた。
「笹倉法律事務所の笹倉です。お父上にはいつもお世話になっております」
慇懃無礼な物言い。温かい言葉を発する大人を、そういえば見たことがないんだな。妙に場違いなことを綾也は感じていた。
「さあ綾也さん、帰りましょう。ご自宅という訳には参りませんがこちらで部屋をご用意させていただきましたので」
瞬時に状況を把握した綾也は、国防省の役人に向かって叫んだ。
「どういうこと…なの…。僕への処分は、Sはどうなるの?ねえ、漆原博士は?」
国防省の関係者と思われる男は、綾也を冷ややかに見つめた。
「どれにも答える義務はない。君はSTEにとってもはや不必要だ。君が情報を流すとは思えないが、ここであったことは内密に願いたい」
「あれだけのことをして、僕は処分されないの?」
綾也の悲痛な叫びを聞き、役人はわずかながら表情をくもらせた。それは綾也のためというよりは、おそらく作戦の壊滅的な失敗に対する落胆する思いなのだろう。
初めて人間らしい肉声で、彼は吐き捨てた。
「梶尾綾也、おまえはもう要らない」
それだけ言うと、踵を返して彼は部屋を出ていった。
綾也は何も言えず、唇を噛みしめた。
珍しく白日夢の中にいた綾也はすぐさま現実へと引き戻された。テレビや映画の世界のような、時代がかったセットなどないただの応接室。しかし目の前にどっかりと腰を下ろしているのは、とても通常の生活を送っている人間とは思えなかった。
オールバックにいかつい顔。白いスーツに細くストライプのラインが見える。おそらくオーダーしたものなのだろう、鍛え抜かれた身体にぴったりとそれは似合っていて、細身で頼りなさ気な綾也とは好対照だった。
「よう、梶尾さん。そろそろ話してくれねえか?」
青龍会若頭、加勢はそれでも辛抱強く綾也の答えを待ち続けていた。こいつがPSDの情報を持っていることは間違いねえ。じゃなければ警察も検察も、あれだけしつこくこいつを離そうとしない訳がない。みすずへの傷害容疑なんざおまけもいいとこだ。あいつらの目的は…。
綾也は一言も話さず、黙りこくっていた。肯定も否定もしない。口を開けば情報を与えることになる。それは哲平がさんざん教えてくれたこと。
谷田貝の線が切れた以上、こちらとしても死活問題だ。加勢は言葉をつなぐ。
「我々はねえ、昔みてえな極道とは訳が違うんですよ。ちゃんと会社組織を持って経済活動を行っている至極真っ当な団体だ。ただ、扱うブツが一般には出回りにくい物であるということだけでね。だからあんたを力ずくで手荒に扱いたかないし、無理やり口を割らせたくはねえ。そりゃいくらでも方法はありますがね」
これ以上なく陰惨な笑い顔で、加勢は綾也を睨め付けた。
加勢が焦る理由はもう一つある。これでPSDと東都大学とのあいだとのつながりが全く途絶えたら、ヤツらが黙っちゃいねえだろうということだ。青龍会がようやく得た巨大な資金源。せっかくつないだ細い線を、こんなガキ一人にぶっ潰されてたまるか。
それでも綾也は無言を貫き通す。もう市場にPSDなど出回らせることなどあってはならないし、何の意味もない。こいつらはその意味すらわかってはいない。ただのメジャートランキライザーの一つくらいにしか思ってない。
なぜ超心理学を好む若い世代がこれに熱狂するのか。そしてそれをヤツらが見逃しているのか。その本当の恐ろしさをほんの少しすらもわかってないじゃないか。
叫びたいくらいの思いを、綾也は必死に抑える。
「まあ、話してくれないとなれば仕方ねえな。こちらとしてはこちらのやり方にのっとるだけだ。おい」
加勢は若い者たちに合図をすると綾也を無理やり立たせた。
「部屋でやってもいいんですがね、聞くところによると変な手品がお得意とか。こちらもそんなつまらないもので邪魔されても困るのでね。場所を変えやしょうや」
綾也の両手は拘束され、身体はつねに両側から若い連中に押さえつけられていた。身動きもできない。
逃げ出すか。しかし、ここで力を出したら逆にこいつらはそれに目をつけるだろう。
僕さえ黙ってことが済むのなら。
綾也は、これから始まるであろう光景に思いをはせていた。痛みなど大したことではない。どうかそれであきらめてくれますように。
綾也は、悲しい祈りを願った。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved