非情
警察の拘置所内の独房で、うっすらと目を開けた綾也は薄闇の中、黒い袖をそっとめくってみた。みすずに触れられた感触がよみがえる。ひきつれ、焼けただれたような跡。両腕と両脚と、そして背中。
みすずは優しくそれらを愛撫した。そのたび心に残る痛みはすっと消えてゆくかのように感じた。それは確かなのに、今また悲しみとともに傷の存在を主張している。
会いたい。
みすずに会いたいと綾也は不意に強く思った。僕の力を見てもなお、抱きしめてくれた聖母。喉の渇きを癒す温かな口づけ。辛さをすべて忘れさせる優しい手の柔らかさ。
僕を受け入れると言った彼女。
そして、集中治療室で僕を激しく拒絶した…彼女。
こつこつ、と見回りの看守の足音が響く。綾也はまた、強く目をつぶった。
連日のラボラトリでの訓練は過酷さを増していった。電気ショックによる行動療法。どんな手を使ってでも彼が自分の力を少しでもコントロールできなければ、ラボでの集団生活すらできない。
野生で育てられた手負いのオオカミのように、彼を一生独房に閉じこめておくのか。それとも。
研究員らも必死だった。
そして、漆原でさえも。
「いやだ!」
朝のラボラトリに綾也の叫び声が響く。研究員には任せておけないのか、漆原自ら綾也の部屋に迎えに行くのが日課になっていた。今朝も嫌がる彼の腕を掴み、引きずり出す。
もうすでに綾也の目には涙が光り必死に抵抗していたが、大人の、それも鍛え抜かれた漆原の力にかなうはずもなかった。
「離せ!トレーニングルームなんかに行かない!絶対にもう僕は!」
その声に、周りの子どもたちも振り返るがどうしようもない。少なからず自分らも通ってきた道。特にラボラトリに来たばかりの頃を思い出し、涙ぐむ少女もいる。
そう、みな親元を離れ、ここにいるのだ。いつかは二度と帰れないかもしれないと思いつつ。
綾也は叫ぶ。
「もうこんなとこにはいたくない!離せ!僕は帰る、帰るんだ!」
訓練なんか二度としない、そう言いかけた綾也の頬を漆原は思いきり叩いた。
打たれた箇所が赤みを帯びる。手で押さえて漆原をきっと睨む。
そんな綾也に、冷ややかに漆原は言い放った。
「いいかげんにしろ。またあの薄暗い地下室に一人、幽閉される惨めな生活に戻りたいのか?それとも…」
綾也は唇を噛んだ。
「このまま野に放たれ外の世界へと出てゆき、はた迷惑な力をまき散らし不気味なモンスターとして、一般市民から忌み嫌われ、石を持って追われる存在になりたいのか」
綾也の理解力は子どものそれを遙かに超えていた。漆原の言いたいことはそのまま直接彼の脳に突き刺さっていった。
僕は化け物。
僕がママを殺した。
このまま外に出れば、僕はすべてを破壊し尽くすモンスター。
僕は、僕は…。
「おまえの生きる場所はここにしかないのだ、綾也」
最終宣告を告げる漆原の言葉が胸を貫く。
「ぼくは…ボク…は、うっ、うう……うわーん」
子どもらしい泣き声が辺りに響く。誰もがその切なさに言葉をなくす。しばらく綾也は泣きじゃくっていた。研究員の誰もが止めるものさえいなかった。
しかし、漆原は非情にもそんな綾也に声をかけた。
「…訓練を始める。来なさい」
その言葉に、ゆらりと綾也は立ち上がった。抵抗する気力さえもう残っていない。過酷な訓練はいつものように、また始まりを告げるのだった。
それでも、こうして一般社会に出られるほどになれたという点に関しては、僕は漆原博士に感謝しなくてはいけないんだろうな。綾也は自嘲気味の苦笑を浮かべた。
少しずつほんの少しずつ、コントロールできるようになった綾也のPK能力は、ラボラトリ内でむやみに力を出すことがなくなってきた。相変わらずベッドにはボルトをつけ、椅子も固定されてはいたけれど、彼はようやく独房から出られるようになった。
そして彼にとってルカ以外に初めて会う仲間たち、「プロジェクトS」の他のメンバーと引き合わされた。
最年少のサイコキノ、ルカ。綾也より一つ上のテレパス、アツシ。この二人は歳も近いせいか、笑顔で綾也を迎えてくれた。よろしくと手を出す仕草にとまどう綾也の手を、ぐいと無理やり引っぱって握手をする。
それをやや冷ややかに見つめるテレポーターのトオル。表情が硬い。彼は綾也より三つ上だ。そしてトオルと同い年ながら一番彼らを統率するかのように、腕組みをしながら綾也を見下すのはクレヤボヤンスのレイナだった。
レイナが口火を切る。
「ここでは共同生活よ。自分のことは自分でする。食事から掃除、入浴に至るまで当番制でこなす。一般人としての生活を身につけておかないとここを出てからが大変だから」
「ここを、出る?」
綾也は面食らった。一生この空間で僕は生き続けるものだとばかり思っていたのだから。
「バカね、あたしたちはS。五人で協力してミッションを行わなくてはならない。わからない?戦闘要員なのよ」
戦闘…要員。誰と戦うというのか。
「もちろん生活の拠点はここ、ラボラトリであることには変わりない。でも、ターゲットが誰になるかはその都度変わる。いつでも柔軟に対応できなくては作戦は執行できない」
「僕が、戦うの?」
おどおどと綾也がレイナに問うた。誰と、何のために、そしてそれは誰のために?
「そのためのラボラトリでしょう?何でここにいるか、わかってないの?」
何も知らない、何も聞かされていない。僕はここへ無理やり連れてこられて今まで過酷な訓練を受けさせられて、それが一生続くのだと思っていた。実験動物のモルモットのように。
はあ、大きなため息をつくとレイナは綾也に雑巾を押しつけた。彼にとって見たこともないもの。とまどう綾也にレイナはほえ立てた。
「いいからさっさと掃除する!文句言ったらこのレイナ様が許さないからね!」
他の三人は怖さを知っているのか、黙って自分の戦闘配置についた。ルカがずるをして一番軽いモップを持って宙に浮くのを目ざとく見つけると、レイナの叱責が飛ぶ。
「ルカ!むやみに浮くな!ほら綾也、何ぼうっと立ってんのよ。バケツを持ってきて雑巾を絞りなさい!」
ぞうきん、バケツ…。どれをどうしたらよいものか彼は固まっていた。
「あんたまさか、今まで全部お母さんがやっててくれたとか言うんじゃないでしょうね。学校でも一度も掃除したことないとか、ふざけたお坊ちゃんぶりをほざいてくれるんじゃないんでしょうねえ」
レイナの低音はけっこう迫力ある。まあまあ、とアツシが間に入るけれどレイナは容赦しない。
「もうお母さんはやってくれないのよ?十二歳なんでしょう?自分でやるの!」
「お母さんなんて、ママなんていない」
耐えきれずに綾也はつぶやいた。雑巾なんて見たことない、この円筒形の中空の物体は何?
「じゃあ掃除は誰がやってくれたんだい?」
それまで一言も口を利かなかったトオルが冷たく聞き返す。使用人がと言う綾也の答えに、どんだけのお坊ちゃまよ!とレイナがほえる。
「部屋なんか出たことなかった。学校って何?掃除の仕方が書いてある資料があったら読ませてよ、すぐに覚えるから。僕はどこにも出たことなんてない!出てはいけないと言われていたから、出られる訳がなかったから!僕がママを殺したから、人殺しの化け物だから!僕は悪魔の子どもだから!パパがそう言ったんだ!」
四人を前に、綾也は叫んだ。何も知らない。僕は何もしたことがない。僕がいたのはコンクリートの狭い部屋。
綾也の言葉に誰もが黙った。化け物、悪魔の子。言われずに育ったのなどおそらくルカぐらいだろう。
レイナは思わず綾也の頭を抱えた。トオルは静かに彼に向かって言った。
「悪魔の子なんかじゃない。おれたちは選ばれし神の子だ」
辺りに静寂が訪れた。五人の子どもたちは黙って立ちつくしていた。
『堂島商事』
看板は立派なもんだし、清潔なビルはつねに手入れが行き届いていてまるで本当のオフィスビルのようだった。出入りする人間たちもスーツにアタッシェケース。黒縁のメガネが光る。
そこへ哲平は、いつもの開襟シャツにチノパンといったラフな格好で乗り込んでいった。天然パーマは寝ぐせつきだ。人を朝早く起こして掃除するような几帳面ではた迷惑な家主が、今は留守をしているものだから。
「けっ、なあにが堂島商事だよ。よく言うよ。さあてとどっから乗り込んでやろうかな」
正面玄関から堂々と入ろうとした哲平は、すぐさま警備員に引き留められた。警備会社で雇われたようなひょろひょろの頼りなさ気な若者でも、年配のじいさんでもない。おそらくかなり鍛え上げられた本職の警備担当員。
「失礼ですがここから先は」
「おまえ、新入りだな?おれの顔を知らないってことはよ。若頭の加勢に伝えてくれ。文化ジャーナルの津雲が久しぶりに会いたがっているとな」
アポイントはお取りですか?その言葉に哲平は丸いグラサンを下げてギラギラ光る目で睨め付けた。その迫力にさすがの相手も顔をひきつらせる。
「こじゃれた言葉を知ってんじゃねえか、最近の警備員さんはよ。青龍会も金回りがよくなったな」
「それくらいにしておいてくれねえか、津雲。会社の大事な顔である正面玄関にてめえみてえな小汚ねえのがうろちょろされると、会社の品位に関わるんでね」
青龍会若頭の加勢は、押し出しのいい体躯をイタリア製の高級スーツに包み、周りを四、五人の若者に囲まれて哲平に近づいてきた。
「これはこれは、羽振りのいいことで。おれがシャバにいなかったたかだか二年の間に組織もずいぶんと発展されたようで」
「…何が言いたい、津雲。まあここでは何だ。不本意だが中で話させていただこう」
オールバックにあごの割れたいかつい顔は、たとえどんな服装で隠そうともその危うさを伝えていた。
少なくとも堅気ではない。誰が見てもそう思える風貌。
哲平はそれでも恐れることなく、腕を組みながら彼のあとをついて行った。若い連中が哲平をにらむが、彼はこれっぽっちも気にしちゃいなかった。
こんな連中にビビって文ジャでスクープが取れるかってんだ。大先輩にたたき込まれた度胸と自分自身が生来持つ気性の荒さ。そしてそれに全く似合わないほどの知性をたたえた瞳。回転が速く切れる頭脳。
全く彼こそ昔ながらのブンヤという言葉が似合う男もいないだろう。
豪華な応接室には趣味の悪い毛皮がはり付けられていた。家具もすべて舶来ものと思われる。
これらがすべてPSDによってもたらされたと?ふざけてやがる。ただのオタク野郎どもからいくら金を巻き上げようと、こんな金は流れ込みやしねえよ。こいつら、どっから資金を。
ソファに浅く腰掛けるのは、哲平の癖だ。何があってもすぐに対処できるように。こんな連中と渡り合うには一瞬の気のゆるみが命取りになる。
コーヒーを持ってくるのも、やたら姿勢のいい男。ここには全く無駄がない。最近の暴力団組織なんてものは企業と変わりない。その資金源が人前で言えるか言えないかの違いだけだ。
「こちらも忙しい、話なら手短に願おう」
加勢はコーヒーに手をつけることもせずに口を開いた。
そんなに焦るなよ、行儀悪くテーブルに肘をついた哲平は下から加勢の顔をのぞき込んだ。
「おれはこむずかしい小細工だの交渉だのが苦手でね。単刀直入に言わせてもらおう。みすずをやったのは誰だ?」
くくっ。哲平の言葉を聞くなり加勢は鼻で笑った。てめえにも、あれだけ酷い目に遭わせた恋女房を心配する気持ちがあったとはな。
「褒めていただいて恐縮ですよ、若頭。青龍会が絡んでいることは確かだ、そうだろう?」
顔色一つ変えず哲平は切り返した。苦笑いをしつつ加勢は息を吐き出した。
「悪いが、見当違いも甚だしい。みすずがやられて困ってんのはこっちだよ」
「何?」
「あれだけ便利な女はいなかった。まだまだ使える手駒を殺るほどこちらとしても余裕はないんでね」
「それは東都大の谷田貝教授のことか。それとも梶尾…綾也?」
「梶尾?ああ、あのボンボンか。とっつかまって拘留されてるって?さぞ女不信に陥っていることだろうよ。気の毒にな。あの坊ちゃんがどうかしたのか」
平然とした態度でタバコに火をつける加勢をじっと見つめる。こいつらのターゲットは谷田貝か、綾也か。それだけでも見極めたい。
こうなりゃ正面突破しかねえな。哲平は腹をくくった。
「小暮と谷田貝が組んでるのは掴んでんだ。広域指定暴力団組長と国立東都大教授の組み合わせは非常にまずいんじゃねえのか?大学構内は逆に人目がないと油断していたのか?」
加勢の右眉がわずかに動いた。動揺したときのヤツの癖だ。
「谷田貝にみすずを差し向けたのはてめえらか。それでPSDの情報を寝物語に聞き出すか、あるいはまたつながりを密にして連絡を取り合う。多分に古くさいやり方だが下手にPCなんぞでやりとりして証拠が残るよりは、直接会って話す方が何かと確実だ」
よくできた作文だな。いや、紙芝居か。バカにしたように加勢が横を向く。
「PSDの出何処はどこだ?一研究室で作れるもんでもねえだろ?谷田貝はどことつながっている?」
「それを聞いてどうする?ずいぶんと頭に血が上ってるようだな津雲。そんなにみすずが恋しいか。そんな話を聞いて生きてこの部屋から出られると本気で思っているのか?」
ゆらりと加勢が立ち上がる。ドアには構成員がすでに退路を塞いでいる。
そっと哲平がグラサンを外す。殺気を帯びたにらみ合い。
意外にも先に視線をはずしたのは哲平だった。大きな右手で額を押さえる。
「参ってんだよ、加勢さんよお。みすずはおれにとっても大きな金づるでな。あいつがいつまでもあの状態でいられたら、おれは何も動けねえ」
「よく言うよ。浮気はする、金遣いは荒い、家には帰ってこねえ、文句を言えば殴る蹴る。こんな最低な男はいねえってよくみすずがこぼしていたっけなあ」
奇妙な関係。二人はお互い腹に一物持ちながら苦笑いした。
「おれと加勢さんの仲じゃねえか、おれの顔に免じて一つだけ教えてくれ。みすずと谷田貝の関係はいつからだ?」
「……」
しばらく加勢は無言だった。おそらく頭の中ではすばやい計算をしていることだろう。
「なぜ知りたい?」
「不貞だったかどうか、ってな。おれがいながら関係が続いていたんなら、ちょっくら谷田貝を揺さぶってみようかと」
最低な野郎だぜ、あいにく二年も前じゃねえよ、と加勢は吐き捨てるように言い放った。
「おれがご立派にお勤めを果たしている間にねえ。ありがとさんよ。じゃあな」
ドアに向かって哲平は歩いてゆく。構成員たちに、どけ、と一言だけ。
その迫力に思わず彼らもゆく道を空けた。
ばたん、とドアが閉まる。
「ゲスめ」
どっかと足を投げ出して、加勢はソファに座り込んだ。津雲の目的がわからないのが不安だった。なぜあいつがPSDを知っている?そしてなぜ追いかけていやがる?谷田貝だと?どっからその情報を。ちっきしょう、あの野郎。目障りで仕方がねえ。
物騒な思惑を加勢が抱いていることも気にせずに、哲平はビルから出てきた。どうやらヤツらと谷田貝の関係はかなり深いようだということがわかった。これはどうしても教授をつついてやらにゃ気が済まねえ。
綾也はたまたま谷田貝研究室にいたから巻き込まれただけか。それとも…。
待ってろ綾也。おれが必ず。外はもう薄暗闇だった。
綾也が日々感じている独房の色。もちろん哲平にわかるはずもなかったが。
哲平は風を受けながら、裏社会の情報が集まる街へとたった一人で歩き始めた。
綾也に対する異様に長い拘留期間、そして事件に関しても逮捕に関しても全く表に出ない報道管制。検察もグル…か。ちっきしょう。
だだっ広い真っ白な部屋は、哲平には贅沢すぎた。こんな場所に住んだことなどない。落ち着かねえ。だいたい、ろくな家具もありゃしねえ。
梶尾綾也。
知れば知るほど不思議な存在。ヤツが決して穏やかで優しいだけの人間でないことはわかっている。ひょっとしたらおれは、間違った道を歩んでいるのかもしれない。
綾也を助けることが本当にいいことなのか。取り返しのつかないことになるのではないか。だが、彼に一度でも接したものはその魅力に引き込まれる。
生きることに不器用で、それでいて必死にこの世界に適応しようともがく彼に、手を差し伸べたくなる。
ヤキが回ったか、津雲哲平。
主のいない部屋でようやくバカラのグラスを手に入れた彼は、バーボンを飲み干した。
「お姉ちゃん止めて!」
「こういうことははっきりさせた方がいいのよ!あんたは黙ってなさい!」
綾也のマンションのエントランスで、管理人に事情を話し始めるのは中村理香子だった。大手出版社のコネを使って弁護士事務所に話を通し、管理人からとにかくマンションの共有廊下部分に入ることには成功した。ここから先は交渉次第。
いきなり、おそらく部屋に居座っているであろうあの男に会う度胸は、理香子にもなかった。いくら有名大学を優秀な成績で卒業し、すんなり高文社の花形雑誌、週刊春秋に配属された新人だとしても。
綾也の部屋の前につき、呼吸を整えてからドアホンを鳴らす。
後ろから心細そうな顔で姉の服を引っぱるのは、もちろん中村加奈子だ。綾也と連絡が取れなくなってもうだいぶ経つ。メールも電話も何もかも。研究室に行っても誰もわからない。また入院でもしたのでは、と噂はあるんだけど。博士課程の学生たちも心配はしていたがどうすることもできなかった。教授が事情があって大学を休んでいるとしか言わないからだ。
大学の友人たちには誰も引っ越し先を教えてはいなかったようで、とうとう加奈子は姉に泣きついた。
「こんばんは、中村です。梶尾くん?」
理香子は冷たい声でとりあえず問いかける。わざとらしい機械的な声がふざけて返ってきた。
「……梶尾はただいま留守にしております。ご用の方は、ピーという発信音のあと…」
かっとなって思わず理香子は大きな声を張り上げた。
「ちょっとあなた!津雲さんね?ふざけてないでここ開けなさいよ!」
ハイハイ、何だよ。中村なんて知らねえよ。新聞なら間に合ってるからな。
面倒くさそうにドアを開けた哲平に、これ以上なく冷ややかに理香子は言い放った。
「津雲哲平、元文化ジャーナル記者。ライター界じゃ知る人ぞ知る業界ゴロ。恐喝および傷害容疑で実刑受けられたんでしたっけ?」
「何だ、てめえ!ケンカ売ってんのか、このやろう!」
女だからと容赦はしない。どうやら同業者だと見た哲平は強気で言い返す。
「わかったでしょう?加奈子。あなたの愛しの梶尾くんはこういうヤクザまがいのお方と一緒に住んでらっしゃるのよ?」
加奈子に言い聞かせるように、静かに姉は言った。心細げに、お姉ちゃんとつぶやく加奈子。
それを見て、合点がいった哲平はため息をついた。
「中村、加奈子。綾也の新しい彼女…か」
リビングに通された理香子はさっそく哲平に名刺を差し出した。
「高文社週刊春秋編集部、中村理香子です」
「こりゃどうもごていねいに。大手出版社の一流週刊誌の記者様でいらっしゃいましたか。それはそれは大変失礼いたしました」
慇懃無礼というより、すっかりふざけきった声で哲平がからかう。理香子のポーカーフェイスにぴきっとひびが入る音が聞こえてきそうだった。
それでも気を取り直して、必死に態勢を立て直す。
「梶尾くんをどこにやったの?」
どういう意味だ?いぶかしる哲平に理香子は声を荒げた。
「どうせあなたがらみのトラブルに巻き込まれたんじゃないの?彼はどこにいるのよ」
涙を抑えきれずにしゃくり上げながら加奈子が続ける。
「大学もずっと休んでるって。携帯もメールも全然つながらないんです。こんなこと今までなかったから私……」
仕立てのいいワンピースにブランド品のバッグ。いいところのお嬢さまってとこか。
ああそうさ、綾也だってまともに育ちゃ、こういう娘が一番似合っているはずなのに。
「ああ、綾也ね、あれだよあれ。父ちゃんのいるイギリスに行ってるからしばらく帰ってこねえんじゃねえの?」
しれっと哲平が答える。
「仲が悪いと聞いていました。もう会うこともないだろうって」
加奈子の声にばつの悪そうな顔をする哲平を、さらに理香子が追求する。
「彼の実家や弁護士事務所に確認すればすぐにわかることなのよ?嘘言わないで!」
「……やな女だよ、全く」
「何ですって?」
浅く腰掛けた白いソファから身を乗り出し、哲平はあごに手をやった。真っ直ぐ加奈子を見つめる。彼女はその思いがけない聡明そうな瞳にドギマギした。この人が本当にヤクザまがいで刑務所にいた人なの?
「あのさあ、加奈子ちゃんって言ったっけ?おたく、あいつに避けられてるとは思わねえの?」
どういうこと?加奈子は目を見開いた。
「携帯もメールも出ねえ、会いもしねえ。行き先も言わずにばっくれる。やり方としてはまあ、まずいけど、綾也もこう正しい男女交際の経験てのが少ねえしな」
「私が嫌われたってことですか?」
「っつうか、そもそも付き合ってたの?おたくら。もう寝た?」
津雲さん!たまりかねて理香子が叫ぶ。
「何かさ、端で見てて彼女気取りでつきまとわれて、綾也もその気持ちが重たくて何もかも逃げ出したくなったとか、さ」
「ひ…どい」
「それにな、あいつには年上の彼女がいるんだよ。もうこれがいい女でな。器量よし愛嬌よし、三歩下がって男を立てる身も心も相性のいい極上の品のいい女でさ」
耐えきれずに加奈子は席を立ち、玄関から飛び出そうとした。それを必死に理香子が押さえる。加奈子はその場にしゃがみ込み泣き崩れた。
「どういうつもり?津雲さん。加奈子に酷いことを言ってこの場をごまかそうというの?」
「おれはいつでも本当のことしか言わねえよ?」
一人冷静に哲平は言葉をつなぐ。
「それは私も加奈子と梶尾くんの交際には反対だわ。あなたという存在がいる限りね。あなたに言わせればこの子たちなんて交際以前なんでしょうけれど。でも、梶尾くんの消息が掴めないことは事実だわ。私たちを煙に巻いて、真実から目をそむけさせるの?」
きっぱりと理香子は言った。妹を心配する姉というよりも今は綾也がいないことを隠そうとする哲平の態度が気になって仕方がなかったのだ。
「真実…ねえ。世の中には知らない方がいいこともあるといつも綾也にくぎを刺されてんだ。そうは言っても、ジャーナリストのたぎる血とはやる心が、真実を追究したいという欲望を抑えきれないんだよねえ」
軽くため息をついて、哲平は薄く笑った。その瞳は真面目に理香子をとらえていた。同業者としての思い。おまえならわかるだろ?そうでも言いたげな。
「あなたがジャーナリスト?」
「そ、あんたと同じ」
理香子は思わず目をそらし、頬をうっすらと赤らめた。これはきっと怒りだ。そう思うことにした。
「同類項で括らないでくださる?不愉快だわ。あなたがあくまでも白を切るというのなら、私は私で取材するまでよ」
てめえなんかにゃ到底できやしねえよ、取材なんか。
哲平のほんの小さなつぶやきを聞いてしまった理香子はカッとなった。
「何ですって?」
「てめえみてえなお嬢ちゃんにはよ。この世界はそんなに甘かない」
その言い方があまりに寂しげで、なぜか理香子は次の言葉を続けることができなかった。
電話で谷田貝とアポイントメントを取り付ける。哲平はとりあえず高文社を名乗ってみた。なぜか谷田貝は非常に焦りを感じているようで、マスコミでも何でもこの際、頼れるものならと話に乗ってきた。渡りに船といった感じか。
PSDの中心には必ず谷田貝恒夫教授の名前があった。もちろん陰の陰、全く表社会には出てこない情報ではあったが。そして、青龍会とのつながり。ここまでは哲平でも掴むことができた。
しかし何かが足りない。
何億という資金と設備をつぎ込んだ企業の研究所ではないのだ。
たかだか大学の一研究室に何ができる。谷田貝とPSDをつなぐもの。それはどこだ?
そしてなぜ、この話題に限って綾也は口をつぐんだのか。
今それをいくら考えても、哲平には答えを出せそうにはなかった。
谷田貝教授は高層ホテルの一室で、おびえつつ哲平が来るのを待っていた。とにかく自分一人でこの情報を握っていることが怖くて仕方なかった。
青龍会の締め付けはだんだんと厳しくなる。最初は友好的で資金援助も自らの身の安全も守ってくれるとの話だったのに、彼らの要求は、とどまることを知らなかった。
これ以上、PSDを世に出す訳にはいかない。ましてや谷田貝本人がこっそり企業に作らせ持ち得ている薬の絶対量自体、もう底をつきかけている。
それがばれれば青龍会は直接、本部に乗り込んでゆくだろう。
かといって、PSDの構造式だけは誰にも渡すことはできない。これだけは自分を守る切り札だ。
なぜあのとき、青龍会の口車に乗って情報をもらしてしまったのか。すべてはあの女のせいだ。今さら後悔しても遅いが憎んでも憎みきれない。
かたん。
わずかな音が聞こえた。高文社と言えば一流の出版社だ。そこの記者と話し、ある程度情報を流すことで警察側と接点を持つことができれば。谷田貝教授のかすかな望みは、しかし、その現れた姿によって絶たれつつあった。
最初は白く淡いもやのようなもの。それがだんだん形作ってゆく。大きくふくらんだスカートに山のように縫いつけられたフリルとリボン。細い手足。人形のようなあどけない表情に巻き毛がふわりとかかる。
ルカは宙に浮いたまま、教授を冷ややかに見下ろした。もうすでにその瞳は金色に輝いていた。
「だ、誰だ君は!どこから入ってきた!」
訊いても無駄なことを教授は口走った。ラボラトリにはさまざまな能力を持つ子どもらがいることは、谷田貝自身よくわかっていたはずなのに。
「クックックッ」
ルカのあざけり笑いが部屋にこだまする。いつのまにかその後ろには三人の男女が立っていた。
その三人とは、もちろんアツシ、トオル、そしてレイナ。それぞれもうすっかり大人になり、戦闘服を身につけていた。あどけなさの残るビスクドールはルカだけ。
「PSDの構造式を渡してもらおう。そうすれば我々はすぐに退却する」
トオルの冷たい声。一人でテレポートもできるルカ以外のメンバーをここに連れてきたのは彼だ。
「どうやら情報を他にも流す気らしいよ。今度は週刊誌の記者だって。懲りないおじさんだなあ」
すばやく彼の内言語を読み取って、アツシはつまらなそうにつぶやいた。ついでに、この人の頭の中には構造式全部は入ってないみたいだし、と呆れた声を出す。
「そうそうグラフィックメモリーのできる人間が、ごろごろいてたまるもんですか。洋服の中にも何もそれらしき記憶媒体機器は持ち合わせていないようね」
身体中をレントゲンのように見通したレイナが、他のメンバーを見回す。
「どうするぅ?PSDの情報も持ってなければ、警察とか記者とかにも話そうとするみたいだしぃ、第一暴力団とのつながりがねえ。最初の計画通りやりますか?」
何だかわくわく楽しげに、ルカが浮いたまま皆へとそう告げる。
「Sとの仕事としては、まあしょぼいミッションだけどね。このまま情報をあちこちにばらまかれても、こっちとしては困るだけだし」
アツシがレイナに視線を向ける。
レイナは厳かに右手を挙げた。
その途端、ルカの瞳がはめ殺しの高層ホテルの窓に向けられる。
ほんの少し目をカッと開くだけで、分厚いガラスは内側からガシャンと粉々に割れ、飛び散った。
「何を…する気…だ」
教授の声は震えていた。レイナは彼にうっすらとした微笑みを向ける。
「あなたのおかげですわよ、谷田貝教授。我々もPSDの恩恵を受けておりますので」
谷田貝は顔をひきつらせた。自分の意志に反してからだが全く動かない。
ルカの瞳はますます野性味を帯び、教授の身体を少しずつ持ち上げてゆく。そしてそのままゆっくりと窓の外へ……。
「やめてくれ!助けてくれ!こんなことしたら、構造式など全くわからなくなるのだぞ?」
四人のSのメンバーは、含み笑いでそれに応えた。我々が知らないとでも思っているのかと言いたげに。
「残念ね、谷田貝教授。もはやあなたのところには完全なる構造式は存在しない。そもそもPSDを最後まで完成させたのはあなたではない。だから市場には粗悪品が出回ることになり、我々は最後のピースを探してこうやって走り回っている。私たちには少しばかりの薬物投与で効果は出るけれども、S以外のメンバーにはそういう訳にはいかない。PSDは我々の潜在能力を高める効果がある。ほんの少しでもESP能力に感応性があれば、効果が見られるはずのもの。あなたはそれを私物化しようとした」
レイナの声は冷静だった。それに反して教授の顔はどんどん青ざめてゆく。
「PSDを本当に完成させたのは…」
そこまでレイナが言いかけたとき、教授の借りた号室のドアが開けられた。異変を察して哲平は壊された窓のある部屋に飛び込んできた。
全員の目が哲平に注がれた。
哲平は息を飲んだが、この状況をすぐに察し、いつでも飛びかかれるようにと自然な体勢をとった。
「どういうこったい、こりゃ。そこにいるのはいつぞやのロリータ姉ちゃんじゃねえか。ってことは、この面々は『プロジェクトS』ってヤツかい?お会いできて嬉しいよ」
誰だおまえは、低い声でトオルが唸る。
「お兄ちゃまの仲間よ。私を見ても顔色一つ変えなかった。ESP能力など何も持ち合わせていないくせに」
「綾也の?」
誰もが驚きの声を上げた。そしてレイナは冷静に言葉を続けた。
「それでSのことを知っている、という訳ね。綾也もずいぶんと一般人となって危機感すら持たなくなってしまった。情けないわね」
窓の外では谷田貝がもがいているのが目に入る。何とかして助け出さなければ情報がここでも途絶えてしまう。哲平は焦った。
「頼む!助けてくれ!私の知っていることはすべて君らに伝えるから!」
「もう、その必要もないようね。教授が生きていることで情報がどんどんもれていくことの方が十分危険だもの」
くすっ、ルカがつい口をすべらしたのをレイナは叱責した。余分なことは言わないで!
じりじりと窓に近づいて、哲平は手を伸ばした。何とかして届かないものか。しかし教授は全くの空中に浮いていて、手で助け出すことは不可能だった。高層ホテルの四十階。落ちたらどうしようもない。
「どうする気だ?」
「もちろんこのまま、うふっ」
ルカはあくまでも楽しげに続ける。おれもここから落とすつもりか?思わず訊いた哲平にレイナは冷たく言い放った。
「記事にしたければ記事にしたら?あなたはエリート記者から一瞬にして閑職に回されることでしょうね。心中する?それとも犯人になってみる?」
「おれは反対だ」
それまであまり話さなかったトオルが口を出す。
「なぜ?」
皆の視線を浴びたトオルは当然のように言った。
「綾也の恨みは買いたくない。そうは思わないか?」
その言葉に、みな白けたように一瞬にして哲平に興味をなくしたようだった。
隙をついて窓に駆けより、谷田貝教授にささやき声をかけた。
「おい先生!あんたのバックは国防省だな?」
こくこくと、必死にうなずく谷田貝に思いきり手を伸ばす。それをじらすかのようにルカが距離を引き離す。ちっきしょう。
「誰が持ってるんだ?その最後のピースってのは!」
谷田貝が口を開きかけた途端、ふっとルカが力を抜いた。
一瞬、時が止まったように感じ、そのまま谷田貝教授は地上へと落ちていった。
粉々に砕かれたガラスの窓枠に手を置き、哲平は目を見開いた。
彼にしては長い長い時間が経った。そのあとに微かに聞こえる悲鳴。ざわめき。
哲平が慌てて我に返って振り向いても、もちろんそこにはSの誰一人残ってはいなかった。テーブルの上に残された、谷田貝自筆と思われる遺書の封筒が五通。
用意のいいこって。
目の前であっさり人を殺められた怒りと、助けられずにいた自分。
そして出し抜かれた悔しさに、彼はこぶしで机を叩きつけた。
「警察も検察もこれ以上不法長期拘留は無理と見たんでしょうねえ。どうします?出てきたところを突っ込んで奪回しますか?」
港署の裏口の陰に車を止めて、哲平と連れはそのときをじっと待っていた。
ピンストライプのスーツをスッキリ着こなして、七三分けにした見るからに切れ者の男は、哲平に向かってかなり物騒な言葉を口にした。
多少何にぶつかってもいいようなRV車にしたとはいえ、そこまで手荒なまねをするつもりは哲平にもなかった。
港署からいよいよ検察に身柄が移される。その情報をキャッチした彼は古い付き合いである、これでも一応弁護士の田村に声をかけた。自分よりやや若い田村は、普段は企業間の交渉なんぞに当たっているくせに、こう見えても恐ろしいほどの軍事マニアなのだ。
「先輩、言ってくれれば傭兵上がりも防衛隊経験者もいくらでも集められたのに」
自分だって高級マンションの一室に軍服を飾り立て、数少ない休みのたびにサバイバルゲームにのめり込んでいるようなヤツだ。
「あのなあ、田村。おれは別にここで綾也を奪い返そうなんざ思っちゃいねえよ。そんなことしてみろ。あいつは一生、表社会に出られなくなる。ようやく人並みの生活ができるようになったんだ。陰の世界に戻したかねえ。ただ、交渉時にはおそらく一悶着あるだろうからとおまえを呼んだんだからな」
「わかってますって、津雲先輩。僕はこの不法申立書を手に、真っ正面からこの拘留は不法であると言いまかせばいいんでしょ?事件と身柄の移送が秘密裏に行われないために」
ああそうだ。綾也のことに関しては、いつもこれっぽっちも表に出ねえ。
警察そして、検察は何を恐れているんだ。少なくともこれだけのことをするってことは、警察にとって綾也は味方ではないということ。警察、検察の敵はどこだ。
「そういえば先輩。ちょっと面白い話を聞いたことがあるんですけど、知ってます?」
綾也がPK能力者であることは伝えてある。まあ話半分にしか聞いちゃいなかったが。
「彼がサイコキネシス?それの持ち主だと聞いてちょっと調べてみたら、すごい事件が秘密裡に処理されてたようですよ」
どういうことだ?田村の情報は侮れない。思わず助手席にむかって哲平は身を乗り出した。
「四年前、来日したアフリカの大統領が体調不良ですぐに帰国したことがあったでしょう」
しばらく哲平は考え込んでいた。あいにく国際関係は彼の管轄じゃない。しかしまだ文化ジャーナルにいた頃の話だ。記憶の糸を丹念に解きほぐす。
「シブラク…とかいう大統領か?独裁政治で名をはせた」
「そう、そのシブラクですよ。本来なら日本と石油関係の話し合いを詰めるために緊急に来日したはずなのに、あっけなく帰国してしまった。なぜだと思います?」
もったいぶらずに早く言え!哲平は整えてある田村の頭を押さえつけた。
「やめてくださいよお!セットに三十分はかけてるんだから!あくまでも噂ですよ?それも軍事オタクの願望入りまくりの夢物語だと聞いてくださいよ?」
シブラクは独裁者の恐怖政治をしいていた。国に帰ってもつねに命を狙われている。来日中に何かあったら国際問題だ。警察は通常のSPだけでなく、SAT(特殊急襲部隊)を配備した。一人の要人に対し異例の三十人体制で当たっていたと言われる。
もちろん、大統領本人も本国から警備要員を多数引き連れての来日だ。
「それで?」
「ちょっと先輩、にらまないでくださいったら。本気で怖いんだから。そのね、百戦錬磨のはずのSPとSATすべてが、ただ一人の少年によって倒されてしまったという話があるんです」
死者が出ることはなかったが、ほとんどの者が戦闘不能になるまでダメージを受けていたという。
「それに恐れをなしたシブラク大統領は帰国し、不法に得た財産だけを持ち出してすぐさま亡命してしまったということです。いくら権力の座に居座っていても、たった一人の少年に狙われる体験なんぞをした日には、命あっての物種だと思ったんでしょうね」
四年前。まさか……。
「少年の髪は薄茶色、肌の色は抜けるように白く、手足が長くほっそりとしていて、その瞳は朱く光り輝いていた、と」
「!」
まあ、都市伝説の一つでしょうけどね。せいぜいがスプーン曲げ、そんな超能力を実際に持つ人間なんているわけがない。何事にも淡泊な田村はそう言ってフロントガラスの向こうを見つめた。
「ほらほら、検察の車も来ましたよ」
そろそろおれたちも準備するか。二人は書類をもう一度確かめると車から出ようとした。ふと、後ろからゆっくりと大型の乗用車がやってきた。落ち葉マークかよ。確かに運転手はしわの刻まれたよぼよぼのじじいだ。間違えて入ってきてしまったのだろう。
警官があわててその車に近づき、誘導を始める。かなりの歳で耳が遠いらしく、何度も聞き返している。
哲平はそのやりとりに、不意に不穏なものを感じた。
「おい!田村急げ!とにかくあの検察官らがいるところまで走るぞ!」
何ですか急に!口先だけ文句は言うが、さすが普段から鍛えているだけあって、かなりの距離があるにもかかわらず田村はしっかりとついてきた。止めようとする警官に弁護士バッチを見せつける。
綾也が警察署の建物から出てきた。かなり痩せてしまってはいるが、足取りはしっかりしている。
「綾也!」
思わず哲平は大声をかけた。
驚いて綾也が振り向く。哲平さん。声にならない声。
「何だね君たちは?」
「梶尾綾也に対する長期不法拘留についての申立書です。この移送は待っていただきたい」
田村が声を変え、弁護士らしいきっぱりとした言葉を発するのに、検察側は面食らった。
「不法申立書?失礼ですが、どちらの弁護士事務所の方でしょうか」
バッチの威力ってのはすごいねえ。哲平が感心していられたのも一瞬だった。
先程のじじいの乗用車が、アクセル全開でこちらに向かってきたのだ。
最初はアクセルとブレーキの踏み間違いかと思った。しかし、後部座席から身を乗り出すヤツらは。
「危ない!」
哲平は慌てて田村の身を地面に伏せさせた。高性能ライフル。実弾だ。
田村は本物の威力に身を震わせている。あたり前だ。当たってもアザになるだけのソフトガンとは訳が違う。下手をすれば命を落とす。
助手席から顔を出した男に見覚えがあった。趣味の悪い応接室でコーヒーを出した姿勢のいい男。
「青龍会か?」
その言葉に今度は男のライフルが哲平を向く。警察官があわてて守備位置に着く。
「早くしろ!そんな男にかまっている暇はねえ!」
車の中で誰かが叫ぶ。
乗用車はタイヤをきしませながら、建物と検察車両との間に割り込んでゆく。
もちろん果敢な警察官は身体を張って止めようとするが、なにぶん相手はフル装備だ。
ある者は車にはねとばされ、またある者はライフルで腕を打たれて転がり、唸り続けている。
後部座席が開いて、綾也が無理やり押し込められる。哲平たちは自分の車に急いで戻り、かなりなスピードで追いかけた。助手席からヤツがこちらを狙っている。
運転するのは哲平。田村はもうすでに頭を抱え、うずくまっている。その方がいい。足手まといにならないでいてくれた方が何かと楽だ。
何度もこちらに向かって発砲してくるのを、ハンドルを切りまくって避けきる。
しかし、急にヤツが銃口を下に向けると、冷静にタイヤを狙って一発撃って来やがった。
哲平の命よりも、確実に逃げることを選ぶ、か。ずいぶんとまあ、いい教育を受けてやがる。
がくんという音を立てて、RV車は止まった。
「ちっきしょう!」
あと一歩で少なくとも綾也の身柄だけは、勝手に検察に送られずにすむだろうと踏んでいたのに。誰にも知られず秘密裡に処理されることだけは避けたいと思っていたのに。
なぜ、今度は青龍会があいつを狙う?足をがくがくさせながら転がり出てきた田村に向かって哲平は、言い放った。
「シブラク大統領の件、詳しく聞こうじゃねえか。覚悟はできてるんだろうな」
田村は答える代わりに、顔をひきつらせてただただ哲平を見つめるばかりだった。
(つづく)
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