混沌
綾也は立ち上がり、画像付きのインターフォンのスイッチをおそるおそる押す。綾也の友人がこの部屋を訪ねてくるはずもないし、ましてや哲平が自分の居所を人に知らせるはずもない。
いったい誰が。
「…はい、梶尾です」
「夜分遅く恐れ入ります。港署の山口と申します」
山口はモニターにはっきりと写るように、警察手帳の身分証明書部分を押しつけた。その後ろには若い刑事か。名前を言ったが音を拾いきれなかったようだ。
「あの、どういったご用件で」
とまどい気味の綾也は、そっと哲平を振り返った。いつになく険しい表情。ある程度予測していたということか。
ここでは話せないという彼らを、とりあえずロックを外してエントランスから中に入れた。
「哲平さんはどうしますか。どこかの部屋にでも」
「今さら逃げも隠れもできねえよ。警察だってバカじゃねえ。おれたちが同居してこうしていることは掴んでやがった。あれでこっちへの捜査は打ち切りかと淡い期待は持ってたんだがな」
椅子に座ったまま、彼は動かない。じっとドアを見据えている。
やがてノックの音。ここは前のマンションと違って、玄関を開ければ広々としたリビングが広がる。
意を決して綾也が彼らを中に入れる。どうぞお上がりください、という家主を彼らは、すぐ済みますからここで、と断った。
山口の鋭い目がちらと哲平をとらえる。どちらも何も言わない。しばしにらみ合う。
「確認させてください。あなたが梶尾綾也さんですね」
若い刑事が口を開く。そうです、と硬い表情で綾也は答えた。
「片岡美鈴さんの事件についていろいろご事情をお聞かせ願いたいので、港署にご同行願えませんでしょうか」
「!」
絶句する綾也に、彼は外に出るよう促した。
「待てよ、若いの」
腹の底から絞り出すような低い声。哲平の顔は厳しく引き締まっていた。
「いくらおめえが能なしのぼんくら刑事でも、一罪一逮捕の原則を知らねえ訳じゃねえだろ?」
同じ事件で二度逮捕されることはない。それは刑事事件の大原則だ。
「何だと?」
気色ばむ彼に、まあまあと山口が間に入る。
「津雲さん、前回はあくまでも目撃者に事情を聞かせていただいただけで、逮捕した訳ではありませんよ。それが証拠にすぐ警察署の建物からお出になったじゃないですか。我々としても最大限の礼を尽くして対応させてもらったつもりですが」
老練の刑事は柔和な表情で言葉こそていねいだったが、有無を言わせぬ迫力があった。
「じゃあ今回も、事情を訊く。それだけだと思っていいんだな?」
いえ。山口は視線を綾也に戻して口を開いた。
「この際、なぜかご同居されている津雲さんにお話しする必要はありませんね。梶尾さん、港署まで任意同行を願います」
「その必要は……僕自身感じていませんが」
声の震えに気づかれないように、綾也は精一杯言い返した。やましいことがなければ警察に行くことなどない。そう思いたかった。
山口は大きなため息をついた。それでは、手錠を使っての強制連行となりますがよろしいですか、と。
「おい!ちょっと待て!何で綾也が逮捕されなきゃなんねえんだよ!お上からのお達しを無視して警察が暴走するつもりか?」
山口は穏やかな仮面を脱ぎ捨てて、ドスの利いた声で哲平に言い返した。よほど腹に据えかねていたのだろう。
「津雲、いい加減にしろや。こっちだってな、上から無理難題押しつけられてハイそうですかとおとなしくしていると思ったら大間違いだ。あのときと状況は変わったんだよ。もういくらおまえが手を尽くそうと、真犯人をつかまえるのがおれたちの仕事だ。よけいな口出しするんじゃねえ」
「証拠が……あがったって訳か」
おまえに言うことじゃねえ。吐き捨てるように言うと彼らは綾也の背中を押して外へと連れ出した。
不安げに振り返る綾也に、哲平がうなずく。大丈夫だ、と。
…何があっても、おれが助け出してやる…
とうとう最後まで、哲平は席を立たなかった。辛くやるせない思いが彼を動けなくさせていた。
取調室は同じ港署内だったが、前回は全く余裕がなかったせいか今はヤケに狭く感じた。もちろん中の間取り、そこに行き着くまでの経路、何がどう書かれていたかなどは、綾也が意識するしないにかかわらずすべて彼の頭の中に記憶されていた。
意味のない情報のかけら。せめて少しでも削除かアンインストールできるものなら。何度そう願ったことだろう。
若い方の刑事、安西がまずいろいろと確認事項を確かめつつPCに打ち込んでゆく。
彼らは多分に紳士的で、大声を出すこともなければ威圧感を与えることもなかった。
ただ、そのゆとりがかえって綾也の心を不安がらせた。
「いくつか質問させていただきます。お名前を」
「梶尾綾也です」
「生年月日及び年齢は」
「平成元年五月二日、二十歳」
「学生さんとお伺いしていますが、所属の大学名と専攻を」
「東都大学医学部医学科三年、分子生物学専攻谷田貝研究室へプレマスターとして所属しています」
どうでもいいような個人情報が次々と訊かれてゆく。住所、本籍地、両親についてなど。どうせすべてわかっているだろうにと、淡々と綾也は答えていった。略歴を訊かれたときだけほんの少し躊躇したが、不登校気味で身体も弱かったので就学免除を受けていましたと答えた。その代わり民間の教育研究所へと。
彼らはそれ以上突っ込んだ質問はしなかった。触れない方がお互いのためだ。そう感じているのかもしれない。
安西が席を移る。目の前に山口がゆっくりと腰を下ろした。この人は哲平と同じ匂いがする。
僕らのいたラボラトリのきな臭さとは違った、裏社会に通じているものだけが出す何かを持っている。綾也は気を引き締めた。
「それでは、正直にお聞かせ願いたいことがいくつかあります。もちろんあなたにはそれを拒否することもできます。始めてよろしいですか」
返事をする代わりに綾也は顔を上げ、真っ直ぐ山口を見た。しわの刻まれた柔和な顔に似合わぬ鋭い眼光。負けじと綾也もじっと見返す。
ふっと力を抜くと、山口は彼に話しかけた。
「片岡美鈴さんをご存じですね」
「知っています」
「ご関係は」
「付き合っていました」
「片岡さんのご職業をご存じですか」
「銀座のクラブ、華恋のホステスです」
珍しい取り合わせですね、これは失礼。山口は口元だけで微笑んだ。
「どこで知り合われたのですか」
「なぜそのようなことを答えなければならないのですか」
いらつかせて本音を引き出したいのか、それとも警察はここまで知っているのだとちらつかせたいのか。
綾也には山口の真意が掴めなかった。
わかっていたことはただ一つ、当分この攻防戦からは僕は解放されることはないだろう、ということだけだった。
山口の質問、いや尋問は続く。じっと綾也の答えを待つ。
どうせ警察には彼らなりのシナリオがあるのだろう。それに沿って僕の答えが欲しいだけだ。わかっているのに答えなければならぬ屈服感。
綾也はそれに必死に耐えようとした。
「僕の所属する研究室の教授が彼女の、顧客でした。大学に訪ねてきたときに対応したのがたまたま僕でしたので」
「一目惚れ、ですか」
綾也は口を結んだ。山口の表情は変わらない。
「お付き合いは順調でしたか」
「そんなことまで…。何も問題なかったと思いますが」
「それはあなたが一方的に思い込んでいたのではないのですか?」
どういう意味ですか?気色ばむ綾也に手を広げて、まあ落ち着いてとなだめる。
「お二人の関係の状況が変わったのはいつ頃ですか」
「変わった?」
「3ヶ月ほど前、片岡みすずの前夫である津雲哲平が出所していますね。出所してすぐ、津雲は片岡と接触していたという情報がある。あなたはその時、どうされましたか」
「知りません」
「では、津雲とどこで知り合われたんですか?」
「よく覚えていません」
「たかだか3ヶ月ほど前のことですよ?素晴らしい記憶力をお持ちと伺っています。正直にお話しいただけますか」
「……」
たたみかけるような山口の口調に、綾也は目眩を感じていた。これが警察の尋問か。同じことを何度も何度も。疲れたところで本音を言わせたいのか。本音なんかない。僕には何が何だかわからないことばかりなのに。
「では質問を変えましょう。なぜ津雲と一緒に暮らしているんです?」
「たまたまお互い部屋を探していたので」
「ちょっと考えてもおかしいじゃないですか。津雲は片岡の前夫で、あなたは今の恋人だ。恋敵と言ってもいい関係の二人が、なぜ一緒にすごせるんです?」
「みすずさんを…刺した犯人を一緒に捜そう、と」
「恋愛がらみの愛憎はいったん棚上げしておいて、共同戦線を張った、というわけですか」
「そうです」
まあいいでしょう。山口はいったん言葉を切るとお茶を一口飲んだ。味気ないペットボトル。下手に茶碗などで武器にされても困るという訳か。梶尾さんもどうぞ、勧められるがとても飲む気にはなれなかった。
「話を元に戻しますが、お付き合いされていたというのは、どの程度のものだったのですか」
質問の意味を図りかねて、綾也は目を上げた。なぜそんなことを警察は?横で若い安西がPCに打ち込む音だけがかちかちと聞こえる。調書も最近は電子化なのか。
しかし山口の前には古くさい綴りが置かれ、彼はボールペンをそっと持ち直した。
「性的関係があったかということをお訊きしたいのですが」
さすがの穏やかな綾也も、そこまで突っ込んだ質問にカッと来て唇を噛んだ。プライバシーなどという言葉はここには似合わないだろう、それはわかる。しかしなぜそこまで。
「言わなくてはならないのですか?」
屈辱に耐え、それでも言葉をつなぐ。
「そうしていただけると助かります」
「……ありました」
「それは、どちらから?」
「はっ?」
「どちらから誘ったのか、という意味です」
淡々と訊く山口の口調すら腹立たしい。
「そんなことまで…覚えてません。いい加減にしてください」
「それならけっこうです。関係は一度きりですか」
「いいえ」
「何度も?」
「そうです」
「大変失礼ですが、それまで女性と交際されたことは?」
「…ありません」
そういうことか。女性関係に疎い綾也にもようやく山口たちが立てた仮説が見えてきた。
…殻から出たばかりのあひると同じだよ…プリンティング。哲平の言葉が思い出される。
僕が初めての女性に執着し、事件を起こしたと言いたい訳か。一般の警察の考えそうなことだ。バカバカしい。
本当に山口らには事件の概要すら伝えられていないのだろう。
彼らのセオリーどおり捜査をし、ありがちな動機で推測する。逮捕できるものなら、今すぐ逮捕して欲しい。そして僕を一生牢獄から出さずにいてくれればいい。綾也の苦笑いを警察への嘲笑と見たのか、山口は少しばかり表情を硬くした。
「状況を整理しましょう。あなたは教授の愛人である片岡美鈴に恋愛感情を抱き、関係を持った。その後、前夫津雲が出所して片岡に近づく。津雲はよりを戻したがっていた。片岡も悪い気はしない。二人はあなたには内緒で会うようになり、片岡は今のあなたとの関係を清算しようと華恋を辞めた」
辞めた?みすずがか?
「ご存じなかったのですか?」
「……」
「田舎に帰ると言っていたそうです。ということはあなたには、そのことを知られたくはなかった。なぜでしょうね」
何を訊かれても答える術を持っていなかった。辞めたことも知らなかった。僕は本当に彼女のことを何も知らない。彼女だって僕のことは…。
「おそらく、片岡はあの日、あなたに別れ話を切り出したのではないのですか?しかし、片岡に夢中なあなたは納得しない。あなたの部屋で話しているうちにかっとなったあなたは、部屋にあった刃渡り二十センチの包丁で彼女をめった付きにした。そしてそのまま第一発見者を装い、救急車を呼んだ。違いますか?」
「違います。僕への容疑は晴れたじゃないですか」
「アリバイですか?犯行時刻の特定は、津雲哲平の携帯着信記録のみです。つまり津雲の証言一つなんですよ。あの時の捜査では、まさか前夫と現在の恋人が結託しているなどとは思いもしないから、誰もがその時刻を信じた。しかし、現在は状況が違ってきているんですよ」
「僕は、やっていません」
山口はゆらりと立ち上がった。威圧感を与えるつもりか。それとも。
「片岡美鈴が証言しましたよ。確かにあなたに刺された、と」
ばん!机を叩いて綾也も思わず立ち上がる。
「嘘だ!みすずさんがそんなことを言うはずがない!」
なぜそう言い切れる?もう山口の言葉遣いは先程までとは全く変わっていた。
「ではなぜ片岡はおまえの部屋で刺されたんだ?そしてどうしてわざわざ助けを求める電話をおまえではなく、津雲にかけた!片岡美鈴の意識は完全に戻っていて証言の信憑性も高い。逮捕状もすぐ出るだろう。自供するなら今だぞ、梶尾」
僕…じゃない…。力が抜けたように椅子に座り込む。僕には身に覚えのないこと。記憶は連続し、途切れることはあり得ない。そう信じている、いや、信じたい。
PSD。
綾也は顔を覆った。
落ちたか。山口は安西と顔を見合わせた。
「本当に、僕じゃない。信じて下さい。僕はやってな…い」
あとは何を訊いても綾也は答えなかった。やっていないとくり返すばかりで、まるであの日の事件のときと同じ光景を見るかのように。
夜もだいぶ更けた。
ため息をつくと山口は彼を留置場へ案内するように安西へ指示を出す。
係官に引き渡され、一連の作業を終えた綾也はなぜか特別室と呼ばれる独房へと入れられた。
他の収容者へ被害が及ばぬように。表向きはそういう名目だが、彼が普通の被疑者でないことは前回の釈放の件で港署も重々わかっている。
がしゃん。
固く重い扉が閉まり、厳重な錠が閉められる音が鳴り響く。綾也にとって、それは懐かしささえ感じられる音だった。つい最近まで僕はこの音を聞きながら暮らしていたのだから。
薄暗い部屋にコンクリート製の壁と床。申し訳程度の布団。
外界から切り離された牢獄。こここそ僕にふさわしい。
綾也は壁にもたれて座ると、心穏やかに目を閉じた。
「Hello, Dr. Kajio. My name is Teppei Tugumo and I’m calling from Bunka Publishers in Japan.」
携帯電話で流暢なブリティッシュイングリッシュを操るのは、意外にも哲平だった。
しかしその発音にさすがに日本人らしさを感じたのか、相手は穏やかに母国語で構わないと言い返してきた。
「それでは日本語で失礼いたします。初めまして、日本でフリーライターをしております津雲と申します。突然のお電話で大変失礼かと思いましたが急を要する件で連絡させていただきました」
インカムを耳に掛け、両手をいつものノートPCに預けている姿勢は変わらない。主を失った部屋は静かすぎる。哲平は白いソファに一人腰掛けて資料を広げていた。
「……」
電話の相手、梶尾俊介教授からの返答はなかった。十分警戒をしているのだろう。いきなり面識のないライターなど、叩き切られても文句は言えない。
「息子さんの綾也さんと現在事情があり、同居させていただいております。彼のことでご相談が…」
「息子?私に息子などいないが」
そう来るか。冷ややかな声が国際電話の雑音にまぎれて聞こえてくる。
写真で見る限り、二人はとても良く似ていた。聡明そうな額に切れ長の目。整った顔立ちの輪郭。イギリスの血を引くだけ綾也の方が色白で、全体的に薄い色素を持つという点だけが違うといえば。
いや、決定的に違うのはその淡くも輝く朱い瞳。教授のそれは黒々とつややかに光を受けていた。
「綾也さんは法的にも『まだ』立派に息子さんで、たった一人のご家族でいらっしゃると思いますが」
何の動揺も見せずに哲平が切り返す。
「……それで?」
おそらく梶尾教授は略歴その他にプライヴェートなことなど何も載せないのだろう。そもそも必要もない世界だ。研究成果だけが大切なこと。人間性など要らない。息子がいること、若くして妻を亡くしたことなど知るものがどれだけいるか。
それを知る哲平に危機感を持ったのだろう。どこまで知っているのか、そして何を言い出すのかと。
「現在彼は、無実の罪で警察に不法拘留されています。綾也さんのお父様のお口添えで笹倉法律事務所をですね介していただいて、彼を即刻釈放できないかと思いましてこうしてお願いを…」
哲平に最後まで言わせず、彼は何の容疑なのかと訊き返してきた。
とりあえず息子の存在は認めたか。哲平が具体的事実をかなり掴んでいるということは瞬時に理解したようだ。さすがは綾也の父親と言うべきか。
「いわれのない殺人未遂容疑です。アリバイもあり、一度は釈放されているのにもかかわらず、一警察署の独断で彼は任意同行という形で拘留を」
ふっ、電話口で確かに教授は笑い声をもらした。哲平は耳を疑った。自分の息子が警察にとっつかまってるんだぜ?笑いごとじゃねえだろう。
「殺人未遂、それで済んでいるのか。あいつにしたらずいぶんと甘いことを」
「な!何だって?」
哲平は我を忘れてついいつもの地を出した。この父親は何を言い出す気だ。
「あいつならいくら人を殺そうがそれくらいやりかねない。すべては警察におまかせします。津雲さんとおっしゃいましたね。金輪際、あいつには関わらないでいただきたい」
そのまま電話は切れた。哲平に有無も言わせず。
梶尾教授は最後まで綾也を心配する言葉もどうしているかも聞かず、名前さえ呼ぶこともしなかった。
そんな親子関係があることは、哲平自身がいやというほどよく知っている。
でも綾也は、彼は優秀で穏やかで、ただ少しばかり人と違う能力を持つというだけじゃねえか。
やりきれなさに、哲平はインカムを外すと床にたたきつけた。
カタン、という軽い音に彼は目頭を押さえて深く深く沈み込んだ。
「逮捕状はすでに準備されている状態のようです。自供を待って詳しく取り調べに入る予定と聞いておりますが」
笹倉法律事務所は一度訪れたことがある。マンションの引っ越しで哲平にも合い鍵を渡すからとこの部屋に踏み込んだのだ。
あのときの彼とは全く違う服装、濃紺のスーツにノリのきいた真っ白なワイシャツ。フランス製のドット柄のネクタイを細めに締めた哲平は、どこから見ても大手出版社の優秀な記者のようだった。とどめにいつもの丸メガネまでも、ブランド品のスクエア型に変えてきた。
文化ジャーナル時代のものではなく、一度だけ仕事をもらったことのある新聞社系の名刺を差し出す。
しかしどれだけ外見を変えようとさすがに相手もプロだ。綾也のというか梶尾家の担当者である所長の笹倉は、一目で哲平と見抜き、話を進めた。
今さら何を隠そうと、相手にはかなわないということもわかっているのだろう。素直に手の内をさらけ出し合う。もちろんそれぞれの思惑を懐に隠し持ちながら。
「笹倉先生のお力で、何とか綾也さんを助け出すことはできませんでしょうか」
普段の哲平を知るものならひっくり返りそうな丁寧さで、彼は問うた。もともとどんな取材でもこなすのだ。相手を見て態度を変えることなどお手のものだった。
「俊介教授は何と?ご連絡を取られたのでしょう?」
哲平は黙った。こいつらに綾也を助ける気がないのが、いやというほど思い知らされたからだ。
「もちろん、こちらとしてはマスコミ対策について今まで通りに対応させていただく所存でおります。万に一つでも梶尾家の名前が世間に出るようなことがあっては大変ですからね」
「出ることは…ないのでしょう?」
スクエア型のメガネの奥から、哲平は笹倉をじっと見つめた。その視線に深い思いを込めつつ。
笹倉の表情が変わった。
それまでの慇懃無礼さの仮面がほんの少し崩れた。わずかな動揺。思わず口走る本音。
「どこまで、ご存じなのですか」
「国防省あたりまでは…」
あえてSTEの名は出さなかった。まだ早すぎる。それは哲平の長年の勘としか言いようがない。
笹倉は深くため息をついた。
「それだけご存じなら何も申し上げることはありません。ご心配は要りませんよ。綾也さんに検察の手が伸びることもなければ、罪に問われることもない。そうではありませんか?」
ああそうさ、これが普通の事件ならな。だが検察はどうやら切り札を持っているらしい。おれはそれが怖いんだ。たかが港署なんぞの一警察署が暴走してヤツを拘留なんかできるはずがねえ。
「検察がどこまで掴んでいるか、情報をお持ちではありませんか?」
ずいぶんとストレートな訊き方だな、こりゃ。哲平は自分自身の物言いがおかしくなった。
国防省が動くのなら、四十八時間なんぞ待ってなくとももうすでに釈放されていてもおかしくない。そもそも、綾也が拘束されることこそがおかしいはずだ。
だが、実際にはもうすでに彼が捕らえられて二日目だ。このまま行けば十日間、さらに延長の長期の取り調べ。ヤツにそんな思いをさせてみろ、下手をしたら警察署ごと吹っ飛ばされるぞ。
事実が人の目にさらされてしまえば、それだけリスクは高くなる。
新聞や雑誌の情報などよりも、今や人の口々に伝わる情報の方がどれだけ怖いか、こいつらだってわかっているはずだ。
哲平は案外素直に自分が抱えている不安要素を笹倉に伝えた。悔しいが力を持つのはおれじゃない。ここの法律事務所はかなりの規模で、法曹界にも影響力は大きい。
「綾也さんは特別室へと隔離されているようです。今のところ、ご本人も落ち着かれているということですので」
「このまま手をこまねいていろという訳ですか。何かあってからでは遅いでしょう?」
「何か、とは?」
古狸め。綾也のPK能力を知らないはずがない。
笹倉は国防省を信じ切っている。しかしこの対応の遅さは何かあったとしか考えられない。たとえそうなろうと、こいつらも父親ももうどうでもいいと思っているのか。
ちっきしょう。こうなりゃ。
「わかりました。お忙しいところお時間を割いていただき申し訳ありません」
哲平にしたらこれ以上ないというほど丁寧に礼を言うと、彼は立ち上がった。その背中に笹倉が呼びかける。
「大変申し訳ないのですが、今のマンションには管理人という名目でそのまま津雲さんにお住みいただいてもよろしいでしょうか」
「…ご配慮ありがとうございます。わかりました、綾也さんが帰るまでは」
あいつをこの手に取り戻すまでは。哲平はこぶしを握りしめた。
「どうだ、梶尾の様子は」
特別室担当の係官に様子を聞く山口は、よれよれになったタバコをくわえた。いつ横槍が入るかわからない、それまでに落とせ。署長どころではない、警視庁のお偉方からの特別指令。だったらとっととこんなやっかいなヤマは、本店に持っていってくれよ。つい愚痴も出る。
目立たせたくないんだとよ、うちの課長も署長もそうなだめてはくれたが、なにぶんヤツが口を開きやしない。
あいつがホンボシである確率は高い。いや、犯人だと山口は信じている。こんな単純な事件になぜ上が振り回されるのか、それがわかりかねることが不安をかき立てていた。
「食事には手をつけません。水分も取った形跡がありません。このままでは心身面が心配されます」
「ハンスト、か?」
「そういう意識はないようです。ずっと目をつぶったまま壁に寄りかかり、じっと動きません」
綾也はその言葉の通り、身動き一つしなかった。それが当たり前の生活の方がずっと長かったのだ。外の世界は僕にはまぶしすぎた。光が淡い虹彩に刺激を与えすぎ、僕はまるで自分が普通の人間であるかのように錯覚してしまった。
ここは落ち着く。誰も来ない。
このまま朽ち果ててしまえばいいのに。何度そう願ったことだろう。母の元へ。
…いや、ママのところへ…
目を開けてしまえば、こんな薄いコンクリート製の建物などどうなるかわかったものではない。綾也は目を固く固くつぶり、自分を守り続けていた。思考はどんどん内側へと。あの頃へと。そう、初めて自宅の地下室を出て家族以外の人間を見たあの日へと。
STE研究所についてしばらくは、今のような独房に収容された。綾也の精神面が不安定すぎて何を引き起こすか、予測すら不能だったからだ。ここにはテレパスもテレポーターもいる。独房の壁は一メートル以上の厚さで、中に遮断板が入れられている。どこまでそれが有効か誰にもわかりはしなかったが。
もう、家には帰れないのだ。そう綾也が心から悟り、逆に言えば二度と父親の足音に怯えずにすむのだということを理解してからは、彼はほんの少しおとなしくなった。
それでも彼をラボラトリの内部に出すためには、両側を大人がしっかりと固め、逃げ出さないようにしていた。
「あとで君と一緒に活動するメンバーたちを紹介する。いいね」
年かさの方の研究員がそう綾也に伝える。うなずくしかなかった。
「できうる限り自分の力はここではまだ出さないように」
いくら言い聞かせられようと、自分でどうこうできるものでもない。それでも綾也は必死に心を平静に保とうと努力した。
連れて行かれたのはレクリエーションルームといったところか。広々とした空間にはあまり物もなく、それぞれが思い思いに過ごしていた。チェス盤もないチェス。おそらく頭の中だけでゲームを進めているのだろう。片隅では最新の素粒子理論について語り合う子どもたち。
ほとんどが十五歳以下。あどけない顔立ちでも、聡明さは隠せない。
彼らはあからさまに、入ってきた新入りを興味深そうにジロジロと見つめた。こいつは何ものだ。どんな能力を持つのか。そして、それは自分より上か下か。そういったことに関しては子どの世界は非常にシビアだ。
十二歳の綾也は、初めて見る他の子どもの存在に圧倒されそうになった。こんなに人がいる光景も全く未知の世界だった。軽く酔いそうになり、気持ち悪さに胸を押さえる。横目で辺りをうかがう。誰もが敵意を持って自分を見ている。それだけはわかる。歓迎されない客人。帰りたい。どこへ?僕に帰るところなんてあるのか。
不意に人の気配を感じて、綾也は目を上げた。
「?」
そこには可愛らしい女の子がまさに綾也の顔の前にいた。ふわふわと浮かびながら。
「ねえ、お兄ちゃま!お名前なんて言うの?」
「な!何だよおまえ!なんで浮いてるんだよ!」
真っ白いドレスにたくさんのフリルをつけた人形のような少女は、三十センチほど身体を浮かせ、足をぶらぶらとさせていた。髪留めにもフリル。巻き髪が顔にわずかにかかって愛くるしい。大きな瞳が綾也をじっと見つめる。
「グラビティを見るのは初めて?空中浮遊って言うんですって。生まれたときからできるから、何かこれが普通になっちゃって」
少女はにっこり笑うと、そっと足を下ろした。綾也より背が低いから少し見上げるようにする仕草さえかわいらしい。
「私はルカ、里美ルカ。十歳よ。同じサイコキノが入ってくるって聞いて、とっても楽しみにしていたの」
サイコ…キノ?綾也には聞いたこともない言葉だった。それにも気にせずルカは次々と意味不明の言葉を彼に聞かせ続ける。
「ここにはいろんなタイプのESP能力を持つ子どもたちがいるわ。例えばトオルはテレポーター、瞬間移動ね。アツシはテレパス、人の心が読めるの。レイナはクレヤボヤンス、透視能力があるし。そして……私たちのようなサイコキノ」
ルカがにっこり微笑みかける。
それにむっとした表情で綾也は言い返した。人と話すことだって慣れている訳じゃない。
サイコキノなんて言葉、知らない。
「…僕は、空なんか飛べない」
そのたどたどしい返事に、ルカはくすくす笑った。綾也は唇を噛みしめた。笑われた。顔中がほてってくる。
「あはっ、違う違う。サイコキネシスはね、こうやるのよ」
言うが早いか、ルカは瞳をカッと見開いた。それまで穏やかだった愛らしい目は金色に輝き、野性味を帯びた。
途端に近くにあった玩具類が空を舞い始めた。ふわりとそれらを天井近くまで持ち上げたかと思うと、ルカは自由自在に動かして見せた。
彼女が、そっと手を下げると命を吹き込まれていた無機質類たちは、静かに元へと戻っていった。
「こういうふうに手を触れないでものを動かすことをサイコキネシスって言って、それができる人のことをサイコキノと…」
ルカに最後まで言わせずに、何だそれならと綾也は近くにあった大きなプラスチック製の箱を持ち上げた。もちろん、目をほんの少し細めただけで。
そこにいた全員が綾也に注目した。彼の目がだんだん細められてゆく。箱はあっという間に粉々に砕かれた。
ルカが息を飲む。
彼女がやって見せたように優しく動かすのではなく、綾也は玩具類をありとあらゆる方向へと飛び散らかした。それらの一部は壁に当たって壊れ、また別のものはそれ自身の力で破壊されてしまった。
「な!何が起こったんだ?」
そこにいれば巻き込まれる。危険を察した人間が逃げまどう中、綾也は中央にあった重いテーブルを持ち上げた。手など触れてもいない。力を見せようという気もない。本能のまま、彼はとにかく部屋中のものを破壊し続けた。テーブルは大きな音を立てて壁に当たり、真っ二つに割れた。
綾也の表情が変化してゆく。
口元をわずかにゆがませたアルカイックスマイル。
「うわあ、どうにかしてその子を止めさせろ!」
誰が見ても綾也の力としか思えなかった。彼自身、止めようというそぶりさえない。
突然背後から、綾也の口元へ分厚い布があてがわれた。
強烈な刺激臭。布にしみ込ませた麻酔薬。綾也の目にわずかに見えた二つの銀の指輪。それきり彼の記憶はなかった。
背の高い背広姿の男が、ぐったりする綾也の身体を椅子に座らせる。部屋は急に静けさを取り戻した。
「漆原先生!お兄ちゃまに何をしたの?」
ルカが叫ぶ。漆原と呼ばれた男の後ろから三人の男女が部屋に入ってくる。みな、その惨状に声をなくした。
「クスリで眠らせただけだ、ルカ。心配は要らない。おそらく彼自身、自分の力をコントロールすることができないのだろう。放っておけばラボラトリごと壊されかねない」
後ろに立つ少々年上の少女が叫ぶ。
「何なのよ、この子!あたしたち以外にこんな力を持つ子がまだいたっていうこと?」
三人とルカに向かって、漆原は静かにこう告げた。
「彼の名前は梶尾綾也。プロジェクトSの五番目のメンバーだ」
四人は何も言えずに、椅子にぐったりと座り込む綾也を見つめていた。
冷たいコンクリートの壁を見つめる毎日。あの頃と何ら変わらない。大きく違うのは、ここには仕切りを隔てて大勢の人間が存在するということと、虐待の代わりに過酷な訓練が待っているということだけ。
綾也のベッドは何度も床に固定され、その都度、彼自身によって壊されてしまった。壊す気なんてない。訓練でへとへとになり、倒れ込みたいと願う暖かいタオルケットは彼自身の意志とは無関係にいつしか宙を舞い、フレームはねじ曲げられる。結局、綾也は冷たい床に直に横たわるしかなかった。
表情を失い、涙すら出ない。
最初くり返されたのはひたすらさまざまな知能検査だった。ビネー、ウイスク、K-ABC…。それらによってわかったことは、綾也の異常なほどの知的能力の高さ。そしてグラフィックメモリーと呼ばれる特殊な記憶方法。それだけでも十分ギフテットの対象児となる。彼自身、ほとんど教育らしきものは受けていないというのに。
そしてよく知られるESPカード実験、ドリームテレパシー実験、ガンツフェルト実験、リモートビューイング実験…数を上げればきりがない。
その結果おぼろげながらわかってきたこと。
彼のPK能力は非常に高いこと、しかしそれを自身の意志でコントロールすることは現時点で不可能なこと、そして他の能力は思ったほど持ち合わせてはいないという事実。
毎日行われる無情な検査に、それでも綾也は黙って耐えた。何もしないよりは時が経つのだろう。僕がいつか朽ち果てるまでの時間が短くなるのなら、それでいい。
初日の騒動のせいで、あれからプロジェクトSのメンバーに引き合わせる計画も延期された。彼自身がまず普通の生活を送れるようにしなければ、独房から出す訳にはいかない。
訓練は次の段階に進められた。
今までは白衣を着た穏やかな研究員だった。彼らは余分な口を利かない代わりに淡々と検査をくり返した。退屈ではあったが叱責も殴打もない。長時間拘束されるだけだ。
しかし、今朝の足音は違う。綾也は苦肉の策でベッドにくくりつけられたベルトのすき間で、身体をすくめた。全身の記憶があの頃の父を思い起こさせた。同じ音だ。あの冷たい響き。いつもの白衣じゃない。僕はこれから何を…。
重い音を立ててドアが開かれる。シルエットに浮かび上がる背の高い男。父親のような贅肉の全くない細く、それでいて決して弱々しさを感じさせない筋肉を持つ男。姿勢のよい、均整の取れた体躯。綾也はわずかばかりの知識を総動員して想像する。おそらくは、軍人。
「漆原だ。君の担当者でありプロジェクトSの総責任者でもある。梶尾綾也、すぐにトレーニングルームに来なさい」
有無を言わせぬ無駄のない言葉で、彼は綾也を立ち上がらせた。
プロジェクトSとは?トレーニングルームなんか知らない。綾也はそう言いたかったがとてもそんな言葉を挟める雰囲気ではない。
彼の後ろをよろよろとついてゆく。
トレーニングルームは漆黒の闇。そこへ綾也が入った途端、柔らかな光が辺りを包んだ。ただし、彼一人きり。漆原は分厚いガラスで仕切られたコンソールルームへ他の所員とともにスタンバイすると、マイクで綾也へと指示を出した。その椅子へ座りなさい、と。
そっと漆原が所員の一人に耳打ちする。
彼は急いで綾也のそばに行くとこめかみに小さな粘着テープを貼り付けた。何らかの記録機器。腕にも足首にも。
慌てて彼がドアの向こうに消える。目の前に機械のアームで置かれる金属製の塊。
「意識を集中して、これを破壊してみなさい」
綾也はとまどった。彼自身一度だって壊したくて壊したことなんてない。検査のときだって壊れるような固いものは使いもしなかった。意識を集中ってどうやって?
「イメージしてみなさい。君の頭の中でその塊が壊れるさまを」
それでここから解放されるのなら。綾也は意識せずに自然と目を細めていた。淡く朱い瞳が燃えるように輝く。
ばしゅっ!
一瞬でその金属は砕け散った。破片は目に見えないほどの細かさで辺りをキラキラときらめかせた。
コンソールルームの向こうで、漆原以外の研究員らがデータの用紙をのぞき込み息を飲むのが見える。
「…もう一度」
漆原は顔色一つ変えず、さらに命令を下した。先程よりもっと大きな塊。
綾也の瞳が細められるのをじっと見つめる。もう一度…何度も何度も実験はくり返された。
「おねが…い。少し休ませて…」
綾也の額には汗がにじみ、頭痛が酷くなっていった。もう何十回とやらされたことだろう。
しかし漆原は容赦がなかった。
「まだだ。続けなさい」
「もうできない。頭が痛いんだ。目もすごく痛くて開けてられない。何か飲ませて」
綾也の子どもらしい声は、全く無視された。無情にも次の被験物が置かれる。
「もうイヤだ!こんなことしたくない!」
突然彼は叫ぶと、あちこちにつけられたコード類を引きちぎった。
バンッ!と大きな音を立てて金属の円筒は爆発を起こし、それを運んでいたアームまでもが破壊された。もちろんそれを置く台など一瞬で粉々だ。
綾也はきらりと光るコンソールルームのガラスに目を向ける。
ぴきっとそこには一本の亀裂が入る。
綾也は手をだらんと下げて、あわてふためく所員たちの動きを眺めていた。
コワレルナラコワレテシマエ、スベテ。
「博士!漆原博士!これでは危険すぎます!どうか避難を!」
騒ぐ彼らを一瞥すると、漆原はスーツの内側に組み込まれたホルダーから銃を取り出した。
無駄のない動き。綾也にぴたっと標準を合わせる。
「博士!」
綾也の口元がゆがむ。笑い顔に見えなくもない邪悪な表情。
その瞬間、何のためらいもなく漆原は引き金を引いた。
目を見開き、ゆっくりと倒れてゆく綾也。床にどさっという軽い音が響く。
「…漆原博士…」
青ざめ、倒れた綾也に駆けよる所員たちに冷ややかに漆原は声を投げつけた。
「麻酔銃だ。この程度の展開は十分予想されていた。彼の力はおそらく我々の最もよき武器となってくれることだろう。うまく使いこなせれば、な」
あとの処理を所員たちに任せ、漆原はトレーニングルームを出て行った。
その瞳はどこか遠くを見つめているようにも見えた。
(つづく)
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