吐露
真新しい綾也の部屋で、彼は肩を落として座り込んでいた。前と同じようにボルトでしっかりとねじ留められた固い椅子。手を膝の上に置き、視線をあげようともせず。
綾也は身じろぎもせず、どこから話し始めようかと考えをめぐらせていた。
あれだけの場面を見られ、黙っている訳にもいくまい。それではかえって哲平が危険すぎる。幾ばくかの逡巡を抑え、口を開いた。
「……危なすぎて使えない。どうしても自分では持てる力を抑えることができない。だから僕は研究対象から外されたんです」
綾也の脳裏にラボラトリの内部が浮かぶ。
あくまでも白い壁、彼の淡い虹彩にまぶしすぎるほどの光と、真逆の訓練室。そこは漆黒の闇。
「ターゲットに行き着く前にその場の全員を殺しかねない、制御不能の生物殺戮兵器。それが……僕です」
哲平は彼のために温かいココアを入れると、そっとテーブルの上に置いた。白いマグカップは落とした程度では割れないセラミック製。ほんのりと湯気が立っていた。
「あったかいうちに飲めや。少しは…落ち着くぜ」
哲平の声は穏やかだった。綾也はカップに手を出すことなく、唇を噛みしめていた。
「…制御が利かない。おまえが理性をなくしちまうってことか?」
綾也は黙って首を振った。
「僕はSTEで作られた人工的な解離性を持っているんです。サイコキノの能力を持たない普段の僕は意識の後ろに追いやられ、手も足も出ない。僕本来の残虐な人格が、僕の身体すべてを支配してしまう」
おまえみてえなひょろひょろのどこが残虐だって?笑わせんな。哲平はわざと減らず口を叩いた。
「ESP養成所、っつうか訓練所。STEってのはそんなところか?」
「表向きは民間のギフテット教育研究所。でも本当は国防省直轄の、ESP能力を軍事利用するための研究訓練施設です」
淡々と綾也が言葉をつなぐ。哲平は顔に手をやると天を仰いだ。
「かーっ!国防省かよ。道理でガードが堅いはずだぜ」
いかに情報収集能力が優れ、裏社会に顔の利く哲平といえども、国防省となれば話は別だった。ましてや軍事目的ということならばいくら何でも話がでかすぎる。
「そんなにいるのか?エスパーってのはよ。実際に戦えるほどの力を持ったヤツなんて」
にわかには信じがたいことだった。テレビなどで見るインチキ超能力者など、すべてトリックの上に成り立っていることは常識だ。
「ラボラトリ、研究所には六十名の子どもたちが集められていました。その中でも群を抜いて力のあるものを集めたのが『プロジェクトS』と呼ばれていた。彼女は里美ルカ、Sの最年少メンバーです」
「おかしかねえか?おまえは今、そのプロジェクトSから離れているんだろう?いったいあの娘はいつからそこにいるんだ?」
ルカ……歳を取らない永遠の少女。彼女はいつまでも子どもの姿のまま。心は激しさを増してゆくというのに。
「同じサイコキノということで彼女は、十二歳でラボラトリに入った僕を兄と慕ってくれていました。そんな彼女を、僕はこの手で……殺してしまうところだった」
予備のメガネをかけた綾也は、両手で顔を覆った。その肩を哲平がそっと叩き、顔を上げた綾也にカップを渡す。彼は温かい飲み物で心をうるおすかのように、口をつけた。
温かさが身体と心に染み渡ってゆく。それでも思い出すのは哀しみばかり。綾也はまた下を向いた。
「仕方ねえよ。ありゃあっちから仕掛けてきたんだろ?おまえに責任はねえ」
いつになく優しい言葉で哲平が声をかける。そんな彼に綾也は、ぽつりぽつりとあの頃の話をし始めた。信じてもらえなくともいい。今は誰かに聞いてもらいたい。そんな気持ちを持つのも、もちろん彼にとっては初めてのこと。
人と暮らすというのは、こうやって少しずつ感情を作ってゆくということなのだろうか。
僕が、人間の感情を?殺戮兵器には必要のないものだ。綾也は自嘲めいた表情を浮かべた。
母との心中事件以来、ずっと地下の自室に閉じこめられていた。コンクリートの壁に囲まれ光などない。綾也の淡い瞳にはそれがありがたかった。このまま何も食べずにいれば僕はママのところにゆけるのだろうか、何度も思ったけれども、育ち盛りの彼の身体はそれを許さなかった。
父はかなり酔って気まぐれに部屋に入ってくると、彼を引きずり出そうとした。
イヤだ、明るいところはイヤだ!泣きながら抵抗すると酷く殴られた。首を絞められ、母が死んだのはおまえのせいだと責められ続ける毎日。耐えきれずに綾也の力が近くにある食器を持ち上げ、父にほんの微かに当たる。父はさらに激しく折檻を加えると、ぼろぼろの綾也をそのままに、鍵をかけた。
なぜ僕を殺さないのだろう。
それほど僕を憎んでいるとでもいうのだろうか。
何のためにここにいるのか、日々を重ねて生き続けているのかわからず、綾也は苦しんだ。そのあいだも部屋中のあらゆるものは壊れ、飛び交い、自分の力ではどうすることもできなかった。
もう、日付の感覚などとうになく、今が何年で自分がいくつであるかさえわからなくなっていたある日、突然それらはやってきた。
STE……スペシャルセオリーエデュケーションラボラトリー。
所員だと名乗る男たちは、綾也の脇を抱えると立ち上がらせ、部屋から連れ出そうとした。
イヤだ!もちろん綾也は抵抗した。どんなに辛い思い出しかなくともここにはママがいた。僕はここで生まれ、育った。覚えているのはママの泣き顔だけ。でも確かに「綾也、私の愛するぼうや」と呼んでくれたのは、この屋敷でなんだ!ここを離れるのはイヤだ!
地下から階段に上がるわずかのあいだに、壁はきしみ、かかっていた絵画は吹き飛んだ。綾也を抑えつけようとした所員の幾人かは、何度も壁に叩きつけられた。このまま家具だらけの一階に連れて行けば、車のある庭に出したりでもしたら、何が起こるかわからない。
所員たちは大きな毛布で綾也を包み込もうとした。それは一瞬で糸くずになり、周りへと飛び散った。まるで羽毛のように。
「イヤだ!助けてママ!ママ!」
かつうん。
地下への階段を下りる冷たい足音。綾也の目に入ったのはいつもの父の靴先。
「アリシアはもういない。おまえが殺したんだ、綾也。おまえが死ねばよかったのに」
ハッとして顔を上げた彼に、父は思いきり平手打ちを食らわせた。
あまりの衝撃に、階段を転がり落ちる。下のコンクリート床でうずくまり、うめき声を上げる綾也に所員はスプレー式の麻酔と注射器を取り出す。
大人五人がかりで子どもの彼を押さえつけ、麻酔が打たれてゆく。
薄れゆく意識の中で、もうここへは二度と戻れず、母への思い出とも別れなければならないのかと綾也は悲しみを覚えた。
それきり意識は途絶えた。
「綾也、おまえまさかそこまでの記憶さえも、お得意のグラフィックメモリーってヤツで鮮明に覚えているのか?」
綾也は話したことで少し気持ちが楽になったのか、顔を上げてわざと微笑んで見せた。
「覚えてますよ、はっきりと。ラボラトリでも会うことはなかったけれど、そのとき家に来た五人の所員たちの顔までも」
管轄が違うのだろう。STEは見かけよりずっと大きな組織だった。内部の詳しいことまでは知らされることはなかったが。
「忘れられる能力ってのは、……大事なんだな。願いが叶うなら一番先におまえにやりてえよ」
珍しく感傷的に哲平が独りごちた。そんなことを覚えているのならおそらく、母親との心中事件ですら彼は克明に記憶しているのだろう。忘れられないあまりにも辛すぎる思い出。決して風化することのない…。
国防省直轄の軍事利用目的教育施設STE、そしてその中の先鋭メンバー「プロジェクトS」。これはもう少し調べてみる必要があるな、さあてどこから手をつけるか。
哲平の中に何かのスイッチが入った。
深く考えに沈みつつ行儀悪くテーブルに腰掛けた彼は、自分用に入れたラム入りのホットココアを飲み干した。
黒いハイネックシャツはとても便利だ。アザも包帯も、何もかも隠してくれる。顔についた擦り傷だけは絆創膏をはり付けたが、どうしたの、それ?と笑われておしまいだった。
いつもと変わらぬ研究室の風景。誰もが笑顔でそれぞれの課題に取り組み、お茶を楽しみ、合間に綾也は学部の講義を取り。それなりに忙しい毎日がまたくり返されるのだ。どうか僕を、どうかこのまま見過ごしてくれないか。綾也のささやかな願い。彼は右手でそっと銀フレームを押し上げた。
研究室のPCに向かって調べ物をしていた彼の背中を山田が叩く。振り向くと、山田は黙って親指をドアに向けた。複雑そうな顔、また何かトラブルなのか?
「今度は誰ですか?」
思わず綾也が口走る。研究室には何か悪いものでも憑いてるんじゃないの?お祓いしてもらおうか。真由美の言った言葉が思い出される。来る連中はいつだってろくなもんじゃない。
ため息をついて立ち上がった綾也の目に入ったのは、ふくれ顔のかわいい女子大生。
加奈子だった。
「…中村さん!」
あわてて駆けよる。そういえばあの日、再会したコンパの席を抜け出したあげくに彼女の電話を即切りしたのだ。一瞬のうちに気まずい記憶がよみがえる。
「先日はごめんなさい。どうしても手が離せなく…」
「私、男の子からあんなふうにされたことないのよね、一度も」
今日の加奈子はゴールドのクロップドパンツに、身体の線が見えるTシャツ、それにブランドのカラフルな斜めがけバッグの行動的な装いだった。どこかに出かけた帰りなのだろうか。
「あんなふうに、って…とにかくすみません」
「わかってないでしょ!この私が、せっかくこっちから謝ろうと出かけていったのに勝手に帰っちゃって。その上、私がわざわざかけてあげた携帯を、話してる暇なんかないってブッチ切りしたのよ!失礼にも程があるんじゃなくて?」
この場にドクター三人娘がいなくて良かったと、綾也は心底思った。何を言われることか。
「あの、申し訳ありません」
綾也は深々と頭を下げた。とにかく失礼なことは確かなのだ。たとえそれが彼にとってはどれだけ重要なことであっても、少なくとも加奈子には関係のない話だ。
普通の人間関係においては、ずっとこちらの方が大事なこと。きっとそうなのだろう。
集中治療室にいる被害者もニセ医者も、ましてやサイコキノ同士の戦闘など、彼らにとっては絵空事にしか過ぎない。
どんなに綾也にはそれが現実であっても。
「……どうしたら、許していただけるんですか?」
おずおずと綾也が切り出すと、まるでその言葉を待っていたかのように加奈子はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、今から私に付き合ってちょうだい!いいでしょう?」
「はあっ?」
まるで拉致されるかのように腕を取られ廊下を引っぱられて歩く綾也を、山田は「PCは処理しておくからなー。まあがんばれー」と見送った。
そんな、山田さんまで。綾也は心細げに肩を落とした。
「遊園…地?」
まばゆいばかりの光に照らされたゲートの前で、綾也は絶句した。話には聞いたことはある。知識としては知っている。でも中に入ったことなどない。
「そ、トワイライトチケットが売ってるの。一緒に行こ!」
「ちょっ、ちょっと待ってください。これじゃまるで」
二人が付き合っている恋人同士みたいじゃないか。その言葉を飲み込んだ。友達同士でも行くことくらいするのかもしれない。僕にはまだ、その辺の線引きがよくわからない。みすずとは一度も来たことがなかったし、そもそも遊園地は子どもが来る所じゃないのか。
綾也は必死に頭の中の記憶を総動員して、その場の対処を考えた。出てこない。グラフィックメモリーの欠点は、入力してないものは出力できないという至極当たり前のこと。
「あの、僕はどうすれば……」
「つべこべ言わないで、ついてくればいいの!」
チケットを二人分買わされた。なぜか首から下げるおそろいのホルダーも買わされた。入場してすぐ、バッグからデジカメを取り出した加奈子は、近くのキャストに二人の写真を撮ってもらった。準備万端というか計画的というか。
そしてすでに加奈子の手には大きなポップコーン。もちろんこれも綾也が払った。カードばかり使っている彼は、たまたま現金を持ち歩いていて良かったとほっとした。
「わあ、これかわいい!綾也くん買ってぇ」
加奈子が指さしたのは大きなぬいぐるみ。荷物になるんじゃ、という弱々しい綾也の助言はあっさりと却下された。
「いいの!持って歩きたいの!重かったら綾也くんに持ってもらうから」
包装はいいです、持って歩きます。そう言って加奈子はパンダなのかタヌキなのかよくわからないキャラクターを抱きしめた。少なくとも綾也には何が何だかわからないし、かわいいというその基準も全く理解できなかった。
「ほら、空いてきた。次は乗り物制覇だからね!」
いきなり綾也の手を引いて加奈子はダッシュした。ズキッとする痛みが未だに綾也の身体を走る。
彼は何もかもを忘れることができないのだ。でも加奈子の無茶な行動が、今は少し気持ちを楽にさせてくれた。近づいてはいけないのに。
そのアトラクションは待つ人びとが長い列を作ってはいたが、案外進むのが早かった。階段を上り、どんどん高いところへと連れられてゆく。
「何の乗り物なんですか?」
「ジェットコースターに決まってるでしょ?あー、もしかして綾也くんコースター怖いんだ?」
加奈子のくすくす笑う声。ジェットコースター?単語なら聞いたことあるぞ。まだ綾也の頭脳内解析が終わる前に、彼らの乗り込む順番が来てしまった。
はい、と当たり前のように大きなぬいぐるみを手渡される。
「はっ?」
「これ持ってたら、私は両手でバーが掴めないでしょ?落ちないようにそれ、しっかり持っててね」
「じゃ、じゃああの、僕はどうやってバーを掴めば……」
片手で十分、男でしょ!加奈子に背中をどつかれて、思わずうめき声を上げそうになった。傷は治りきってはいないのだ。それより、ずいぶん高いところに僕たちいるんだけれど、まさかこれって。
前のコースターがすごいスピードで落下していくのが見えた。僕は片手で、このどでかいぬいぐるみを持って、それで落ちてゆけと?
綾也の顔は蒼白になった。悪いけれどどんな過酷な訓練でもこんな思いはしたことない。
僕はルカのように空は飛べないんだ。飛べたところで、そんなところ見られでもしたら。
彼は息を飲むと、右手でしっかりとバーを握りしめた。ひざのところにもう一つの安全バー。本当にこれで、落ちないんだろうな。
そして、無理やりさっきのぬいぐるみを押しつぶすと加奈子に見えないようにわずかばかり左手をバーに触れさせた。我ながらせこいとは思ったけれど、恐怖心には勝てない。
そっと横を向くと、加奈子はご機嫌でにこにこしていた。なんてよく笑う娘。僕はこの子をあれだけ泣かせたのだ。
ほんの少しの感傷。でもそれはすぐに轟音にかき消された。
効果音がいやがおうにも興奮をもり立てる。こっちは心臓がばくばく言っているというのに。
がたん。コースターが動き出した。まずはガタガタと上にのぼってゆく。物理的に言ったらこのあと重力加速度がかかって落下していき、それは二人の体重分と乗り物の重量と、この高さから言ったら……。
綾也が考えられたのはそこまでだった。
きゃーっと楽しそうに横で加奈子が声を上げる。綾也はあまりの風圧と落とされるのではないかという怖さで顔面が完全に麻痺した。息もできない。不意に足元がふわっと持ち上がる。マイナスのG。頭に浮かぶのは単語だけ。意味すらなさない。
かっこつけた言葉なんかどうでもいい。とにかく言いたかったのはこれだけだ。
「助けてくれ!怖いよー!」
あっという間だったはずだ。でも綾也には永遠に続くかと思われた。
「楽しかったね。もう一回乗る?」
満面の笑みで振り返る加奈子の目に映ったのは、ぜーはー言いながら、涙目になりかかっている綾也だった。
思わず、加奈子は吹き出した。苦しげに胸を押さえて笑い転げている。
「……そんなに笑わなくたって」
情けなさそうに綾也がつぶやく。面目なんか最初からないけれど、本当に丸つぶれだ。
よりによって、アトラクションの出口で写真が売っていた。二人がちょうど落ちている瞬間を自動的に写したもの。
もちろん笑顔の加奈子と、これ以上ないほど引きつった綾也。
絶対買うと言い張る彼女は、いやだ買わない!と珍しく大声を出す綾也にさらに大笑いした。
「綾也くんて、かわいい。私そんな綾也くんが、好きだな」
綾也は思わず言葉を失った。冷静さが徐々に戻ってくる。
あの、僕は…、言いかけた彼をさえぎって加奈子は言葉を続けた。
「別に今、返事が欲しいんじゃないの。きっと綾也くんにだって彼女いたり、好きな人いたりするかもしれないんだもん。でも私の気持ちは伝えておきたかったの。気にしないでね」
さっきよりもさらににっこりと笑う彼女は、さあ次行くぞー!と腕を上げた。
綾也はより複雑な思いで、彼女のあとをゆっくりとついて行った。
「かなこ……ちゃんねえ」
シャワーを浴びて出てきた綾也に、哲平はにやにやと笑いかける。ハッとして綾也はあわてて自分の携帯をテーブルの上からつかみ取った。
「勝手に人の携帯をのぞき見しないでください!」
見えるとこに置いとく方がわりいんだよ、減らず口を叩く哲平をにらみつける。
どうせ僕の携帯など、学部のクラス連絡か研究室の誰かしかかかっては来ないのだから。
自宅の電話も知らなければ、ましてやラボラトリの連絡方法すら僕にはわからない。
あとは、そっと自分で入れてくれたみすずの携帯アドレスと電話番号。わからないように偽名を使って。
もちろん本気で哲平がその気なら、この携帯からだってあらゆる情報を手に入れてしまうことだろう。しかし、今はそうされた形跡もなかった。
「しょうがねえだろ、おまえがフロ入ってるうちに、五回も六回もメールが来りゃあ、誰かなくらい確認しねえか?」
「メール?」
あわてて自分の携帯の画面を確かめる。ハートマークの飛び交うデコメール。目がちかちかする。
最初の文面は柔らかだった。
『加奈子でーす。こないだは楽しかったね。また行こうね』
その程度で済んでいたのに、どんどん言葉は荒れてくる。最後のメールを開けるのが怖い。
綾也が迷っているうちに、またもや機械的な電子音が流れる。彼は急いでメールボックスを開けた。
『返信しないってどういうことよ?だいたい、あの日にメアド交換してるんだからそっちから送ってくるのが本当でしょうが!ずっと待ってた乙女心をどうしてくれるのよ!』
あれから三日しか経っていない。普通はそんなに早くお礼のメールを男から送るもの?これも脳内フォルダに入れておくべきかどうか、ほんのちょっと綾也はためらった。しかし今、返信しないことには、このメール攻勢は延々と続くことだろう。
綾也は急いで極めてていねいな、ビジネス文書めいた返信を送った。
誤解されないように、そして礼を欠かないように。
一呼吸置いて、もう一度機械音が鳴り響く。これを読み終わったら電源ごと切ってしまおうか、そうも思って綾也は画面を見つめる。
そこには、先程と打って変わってしおらしい文がならんでいた。
『しつこくしてごめんなさい。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。お休みなさい』
それきりその夜は二度とメールが来なかった。ほっとしたのと同時に、彼女を傷つけてしまったのだろうかという後悔が綾也の胸に押し寄せてきた。
何度ものぞき込もうとする哲平を追い払う。彼に見られたら何を言われるかわかったもんじゃない。そりゃあ女性の扱いには慣れているだろうが、加奈子を哲平に近づける気はさらさらなかった。
翌日、研究室に顔を出した綾也は思い切って恵美たちにそのメールを見せてみた。
さんざん叱られるかバカにされるか、覚悟はしていたが意に反して彼女たちはうーんと考え込んだ。
「これは作戦と見るか、本気と見るか、だね」
作戦?そんな女の子には見えなかったけれど。
「本当に梶尾くんは浮世離れした王子様なんだよねえ。あのね、女の子は誰でもしたたかなの。どんな子だって無意識のうちにそのくらいの計算はするよ?」
「はあ」
「どうするの?このまま付き合うなら作戦に乗ってあげるべきだし」
僕は彼女とお付き合いするつもりはありません!語気も荒く綾也はきっぱりと言った。
中村バイオファーマ、その話はまだ哲平には伝えてない。言うべきなのだろうか。しかし彼に言うとなればPSDについて、突っ込んだ話をしなくてはならなくなる。そのジレンマに綾也は人知れず悩んでいたのだ。
そして……みすず。僕にはみすずさんがいる、そう言い切りたかったのに。あの日の彼女の反応が綾也を惑わせていた。もし仮に、彼女の事件に僕が関わっているのならば。
そんなはずはない。
どんなに冷酷で残虐な綾也が敵をいたぶろうとも、僕自身はその背後に押し込められ、一部始終を見させられているのだ。
記憶は連続し、僕はそのすべてを覚えている、はず。
深刻そうな綾也の表情を勘違いしたのか、蘭子が明るく声をかける。
「そんなにさ、深く考えないで友達の一人として、ね?遊び友達くらいでちょうどいいんじゃない?彼女だってそういうの慣れてる子だし、脈がないと思えば自分からどうにかするって。大丈夫よ、梶尾くん」
「そうそう、まずは軽いノリに慣れなくちゃ。相手だって引いちゃうよ?」
そりゃいくら何でも無責任じゃないか、との山田の言葉など誰も聞く耳を持たず、三人娘は綾也をけしかけた。
一人で帰りたかった。大学の街路樹わきをゆっくりと歩く。僕はこれからどうすればいいのだろう。
みすず、そしてルカ。彼女たちの問題に片がつくまでは放っては置けない。その二つに関わりがあるのか。それとも全く別の事件なのか。
なぜ今になってルカが僕と接触してきたんだ。もし陰にSの、そして漆原博士の意向があるとするのなら。
Dr.漆原。思い出したくもない名前。まだラボラトリにいてSを率いているというのだろうか。
綾也は背中がぞくりとした。僕を裏切り者と呼ぶルカの声が、耳にこびりついて離れない。
あの失敗は確かに僕のせいだ。決して表沙汰にはならなかった大統領襲撃事件。Sにとって初めてのミッション。そのとき僕は、何人もの人間たちを……。
いつのまにか彼は歴史を感じさせる、背の高い大学の門までたどり着いていた。
そこに寄りかかる小さい影。
「…中村…さん」
まさかここで僕が来るのを、ずっと待っていたというのか?何千人いるかわからないマンモス大学なのに。
会えなくてもいいと思って、彼女はそうつぶやいた。
「昨夜はしつこくてゴメン。怒らせてしまったかなって」
加奈子は素直に頭を下げた。
「こちらの方こそ、何もわからずに失礼な態度を取ってしまったようですね。ごめんなさい」
綾也がそっと微笑む。期待させてはいけない。彼女に近づいてはいけない。
しかし加奈子は、綾也の目をじっと見つめると真面目な顔でこう言った。
「ううん、私が悪いの。今まで綾也くんみたいな男の子と会ったことなんてなかった。私のやり方を押しつけて、わがままばかり最初から言って。いつもそんなふうにしてきたからそれでいいんだと思ってたの。ごめんなさい」
加奈子のつぶらな瞳から次々と大粒の涙がこぼれる。綾也はどうしていいかわからずにとまどうばかりだった。とりあえず、急いで自分の持っていたハンドタオルを手渡す。クラスの女の子からふざけてもらったキャラクターもの。渡してからしまったと思ったけどもう遅い。一瞬目を丸くした加奈子は、泣きながらも吹き出した。
「やっぱり、綾也くんておもしろい」
くすくす笑い続ける。泣くか笑うか、どっちかにしてくれ。綾也は聞こえないようにため息をついた。
「お友達として、どこかに一緒に行くくらいなら、ダメ?」
まだその長いまつげに残るしずくを光らせながら、加奈子は下から綾也をのぞき込んだ。
これが計算?どんな難しい試験問題にも対応はできるけれど、彼女のこの表情が計算か素か瞬時に判断できるだけのスキルは、綾也にはなかった。
「……友達…くらいなら…」
言ってしまってからほんのちょっとの後悔。しかし、そのあとの加奈子の笑顔に癒されたのも事実だった。
巻き込むな、巻き込まれるな。理性は警戒音を鳴らし続けている。しかし、一般社会で暮らしたこの三年間で、綾也は人間らしい感情を多く身につけてしまっていた。
僕には要らないはずの能力。人として、真っ当な社会人として生きる術。
僕はもう、「S」じゃない。
大声で叫びたいほどの衝動に駆られ、綾也は心を静めるために固く目をつぶった。
加奈子はかなり都合良く、この「お友達」という言葉を拡大解釈したようだった。
水族館に行こう、映画に行こう、ランチに行こう…次から次へとメールが入る。さすがの綾也も断り切れずに、三回に一度は連れて行かれる羽目になる。
「はあ、僕は哲平さんにみんな任せて、何やってるんでしょうか」
珍しく部屋で愚痴をこぼす彼に、哲平は紙コップでウィスキーを飲みながらニヤリと笑った。
「おーお、青春だねえ。いいことじゃねえか。せいぜい楽しめ」
一度バカラのグラスを粉々にされてから懲りたようで、最近はもっぱら紙コップだ。味気ないねえ、と嘆く哲平に綾也はごめんなさいと頭を下げた。
「僕にはどうせ、普通の生活など送れない。だから今のうちに、という意味ですか?」
「そんなにひがむなよ。こっちとしても助かるんだ、おまえがそうやって呑気に遊んでてもらえるとよ」
険しい表情で顔を上げた綾也に、哲平は軽く頭を横に振った。
「警察もSTEも、そんでもってなぜか青龍会までもがおまえの動向を気にしてる。綾也がみすずと完全に切れ、超能力だのプロジェクトSだのに興味も関心もございません、って顔で目くらまししててもらえると、おれは非常に動きやすいんでね」
どこまで情報が手に入ったんですか?静かな声で綾也が訊くのに、だったらPSDのこと、もうちっと教えてくれやと斬り返された。やはり一筋縄ではいかない男。
ため息をついて綾也が口を開く。
「僕らも詳しく知らされてはいませんでした。STE化学研究班がどこかの大学と共同開発を進めていた合成麻薬としか」
どこかの大学とは?眼光鋭く見つめる哲平に、わかりません、海外かもしれないしとはぐらした。噂はいくつか聞いてはいた。でも本当に綾也自身も絞り切れてはいない。
「ちょっと訊くけどよ、何のために合成麻薬が必要なんだ?」
潜在能力、そして万能感。どんなに調べてもこの二つの単語しか見つからない。
「潜在能力って何のことだ?人間の能力を超えたって意味か?そのままの意味で取れば…」
ESP能力…?バカバカしい。あんなクスリ一つでサイコキネシスやテレパシーが使えるのなら苦労はない。第一そんな能力があったところで、本人にとっては何のメリットもあるはずはなく、ただただ苦しみ続けるだけ。綾也をすぐそばで見ていればよくわかる。
哲平は心の中でだけ、そう思った。
「本当にわからないんです、ごめんなさい。わかったら哲平さんにすぐ知らせますから」
青い顔で綾也はそう告げた。それが嘘なのか本当なのか、哲平らしくもなくそれ以上は追求しなかった。
ふう、と息を吐くと彼はもう一つの紙コップを差し出した。
「飲むか?たまには」
素直にコップを受け取ると、綾也はたっぷり入っていたはずのウィスキーをぐいと飲み干した。
人通りの多い繁華街で、洋服選びに付き合わされていた綾也は、高級ブランド店の外国製の椅子に腰掛けていた。加奈子はどうせまだ当分時間がかかるだろう。僕が洋服を見てもわからないし、だいたい自分自身はいつものように黒一色の服装だったのだから。
ブティックの店員は、まるでモデルのように整った顔立ちの彼に「こちらではオムも展開しておりますので」としきりに勧めた。オムって何だ?きょとんとする綾也にメンズものですの、いかがでしょう、ご試着だけでもと食い下がってきた。
メンズモノ…、そんな英単語あったっけ。ますます彼は頭を抱えた。
「じゃーん、どう?このワンピース!」
ようやく試着室から加奈子が出てきたときは救われたと感じた。
「あ、あの、いいと思いますよ」
「いいってどこが?」
訊かないでくれないかな、それ以上。綾也は祈った。こんな時に気の利いたことが言えるほどのボキャブラリーは持ち合わせていない。
「いや、あの、かわいいなって」
やん、かわいいなんて。加奈子がにっこりするのに、思わず綾也はごほごほとむせ返った。
一般人としての日常生活、日常生活。お題目のように口の中だけでぶつぶつ唱える。経験値を上げることが大切だって、哲平さんもいつも言ってたじゃないか。
さすがに服を買わされることはなかった。一着十何万もするワンピースをぽんと買えるところを見ると、お嬢さま育ちという言葉が頭に浮かぶ。
「綾也くんも買えばよかったのに。きっとあのブランドの色合いとかカッティングは合ってると思うよ」
どうしていつも黒を来ているの?心底不思議そうに訊かれた。
普段はなぜか誰もが遠慮して言葉にしない。だからだろうか、綾也も素直に自分の気持ちを話してしまった。
「母を亡くしてから、何となく。僕には一番似合っていると思うから」
「もう何年になるの?うんと小さい頃でしょう?」
正確にはこの色しか父は与えなかった。自分でも確かにそうだと思った。黒は喪に服す、僕にとっては罪の色。
「今度私がコーディネートしてあげる!もうお母様も十分気持ちはわかってくださってると思うよ?もっと明るい色も着てみようよ」
向日葵のように微笑む明るい娘。僕は少なからず彼女に救われているんだな、そう思った。
「今日はランチも一緒に食べよ!会って欲しい人がいるんだ」
えっ?とまどいがちの綾也の腕を引っぱって、加奈子は近くのカフェへと連れて行った。
テラスにはどのテーブルもいっぱいでほとんどの人が食事をとっていたが、一つの席にだけは小ぶりのノートPCを立ち上げて打ち込みを続けている女性がいた。
黒髪を横でしばり、黒縁のメガネをかけている。かちっとしたパンツスーツに身体にぴたっとしたブラウスというよりも女性用のワイシャツといった方がいいほど固い雰囲気。
化粧はしているのだろうが、ほとんど目立たない。顔立ちは悪くないから、おそらく装飾を加えればそれなりの…。
「お姉ちゃん!」
急に加奈子が声を上げたので、綾也は驚いた。彼女の…姉?それにしてはずいぶん感じが違いすぎる。
「遅いわよ加奈子、十二分の遅刻。社会人には時間が大切なんだから」
彼女が腕時計をちらっと見る。オメガのクアドレラ。地味な服装をしていてもやはり中村バイオファーマの社長令嬢か。
「紹介するね、私のお友達の…」
「東都大学三年の梶尾綾也と申します」
すっと頭を下げる綾也に、加奈子の姉は名刺を差し出した。
「初めまして。高文社週刊春秋編集部、中村理香子です。梶尾くん、学科はどこ?」
頭の先からつま先まで、まるで値踏みするかのように理香子は綾也に冷たい視線を送った。そこに笑顔はない。ここまで対照的な姉妹も珍しい。
「はい、医学部医学科です」
「じゃあ、将来は医師?」
そんなんじゃないのよね、綾也くんは研究者になりたいからってもう研究室に入ってて。言いかけた加奈子を、あなたは黙っててと一喝した。
「三年ということはプレマスターね。専攻と所属研究室は?」
分子生物学谷田貝研究室だと答えると、初めて理香子はうっすらと笑った。
「加奈子にしたらまともな人材を見つけてきたこと。私たちの家が何をしているかご存じなんでしょう?」
「お姉ちゃん!綾也くんはお友達なの!」
気色ばむ加奈子に視線を送ると、綾也は静かに言った。
「僕は大学に残って研究者になるつもりです。それ以外の進路は考えていません」
しばらく無言が続く。
ぱたんとノートPCを閉じた理香子は、ようやく柔らかな笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね、失礼な態度を取ってしまって。何しろこの子は惚れっぽくてすぐかっこいい男の子を連れてきちゃうし、中村の名前に惹かれて寄ってくる輩も多いのよ」
僕は試されたってことか、これだから週刊誌の記者ってのは。気づかれないように軽く頭を振る。
根っからの文系だと加奈子が言っていたわりには、理香子は生物学や化学系の話題にも強く、話術も巧みだった。もっともそうでなければ記者など勤まるはずもないか。
加奈子はわからない話にも口を突っ込み、しばしばころころと笑い声を上げた。それを微笑ましく見つめる姉。第一印象と違って、仲の良い姉妹なのだろうと感じた。
突然思い出したように、加奈子はこう口にした。
「そう言えば、綾也くんのいとこのお兄さんもマスコミの人なんでしょう?」
綾也の顔が引きつる。誰がそんな入れ知恵を。いとこだなんて真っ赤な嘘だってのに。
「いや、そんな別にマスコミってほどでは」
「この世界は広いようで案外狭いから、私も知っている人かもね」
理香子までが調子を合わせる。
テレビ?音楽関係?それとも出版?たたみかけるように訊いてくる。
「いえあの、僕もよくは知らなくて」
「あらだって、一緒に住んでいるんでしょう?いとこの勤め先も知らないの?」
梶尾の家はいろいろ複雑なんだ。いとこだとわかったのも最近で。必死で取り繕うとするが加奈子は容赦しない。
「だってえ、研究室に遊びに行ったときみんな言ってたんだもん。すっごい楽しい人だよって。何だっけな、えっと、えっとつぐ…、ああそう!週刊誌の記者やってる津雲さん!」
あちゃあ、綾也は頭を抱えた。どうか理香子が知りませんように。そう祈った。
しかし、理香子の顔は険しくなった。
「まさか、それ、津雲哲平じゃないでしょうね?文化ジャーナルの」
そうそう哲平さん。お姉ちゃん知ってるんだ!無邪気なのは加奈子だけだった。
綾也は引きつりつつも、知らん顔で目の前のコーヒーを飲もうと努力した。
しかしさすがに理香子は仕事でかなり鍛えているのだろう、ポーカーフェイスを通り越して、にっこり笑った。
「お名前だけは伺ったことがあるけれど、どういう方かは存じ上げなくて。よろしくお伝えくださいね」
女は怖い。綾也は、別の意味で背中が寒くなった。
午後の講義があるからと帰って行った綾也を笑顔で見送ると、途端に理香子の顔は厳しくなった。
「すごいねーお姉ちゃん、いろんな人とお知り合いなのね」
何も気づかない加奈子は能天気にデザートをつついている。理香子は黒縁のメガネを外すとさらに険しい表情で加奈子に向かってぴしゃりと言い放った。
「あの男は止めなさい、加奈子。危険すぎるわ」
えっ?状況を飲み込めない加奈子は、きょとんと姉の顔を見つめた。
「同居人の津雲哲平はね、この業界でも有名なごろつきよ。こんな下っ端の私でさえ噂を山のように聞いてる。おそらく従兄というのも、嘘ね」
「噂って?」
あんたは本当に人を見る目がないんだから、理香子は大きなため息をついた。
「津雲のいた文化ジャーナルはね、いわゆるアングラ雑誌というか三流ゴシップ誌というか、政界の裏話や芸能界の黒い噂、挙げ句の果ては裏社会の情報まで扱っている雑誌なの。今でも実売部数はかなり高いはずよ。その代わり、あちこちでトラブルを起こして訴訟を何本も抱えている。編集部が右左翼に襲撃されたことも一度や二度では済まない。そこで一番、スクープをとり続けていたのが津雲哲平。もう半分伝説になってるわ」
「スクープが取れるなんて優秀な記者じゃない」
バカねえ、メガネをかけ直してPCを開けた理香子は、呆れた声を出した。
「それだけ裏の社会に通じているということよ?それがどれだけ危険かわからないの?」
でもそれは、津雲さんの話でしょう?綾也くんとは…。言いかけた加奈子の肩を両手で押さえる。
「なんでそんな怖い男と東都大のエリート医学部生が同居しなきゃならないの?少しは自分の頭で考える癖をつけなさい!あんたがいつまでもそんなだから、お姉ちゃんは心配で仕方ないんでしょうが!」
とにかく梶尾くんとは二度と会わないこと。言い切る姉に初めて加奈子は逆らった。
「イヤよ!綾也くんとはいいお友達でいましょって約束してるの!あんなに優しくて穏やかな人はいないわ。今まで私のそばにいた誰とも違う。一緒にいるだけでほっとするの!津雲さんとは会わない。それでいいでしょう?」
「あんたねえ、私たちが中村の娘だと知った津雲がどういう行動に出るかわからないのよ?少しはパパやママの立場、会社のこと、社員すべての生活を預かっているという自覚を持ってちょうだい!」
姉から正論を言われるとさすがの加奈子も黙ってしまった。姉はいつも正しい。
それでも加奈子にはあの寂しげなそれでいて優しい綾也の瞳が、どうしても忘れられなかった。
「へええっくちっ!」
哲平は携帯で誰かと連絡を取り合いながら、合間に大きなくしゃみをした。どの女だ?おれの噂をしてやがるのは。減らず口を叩くのだけは忘れない。
「風邪でも引いたんですか?クスリを買ってきましょうか」
クラスメートからもらった講義ノートをめくっていた綾也は、優しく彼に声をかけた。
「ずいぶんお優しいこと。恋愛がうまく行ってる青少年は心も広いやね」
恋愛だなんて、僕はそんな。綾也は口ごもった。
「みすずのことなんか忘れちまえ。おまえさえその気ならその方がいい」
目を上げた綾也を、哲平は真剣に見つめた。
「僕はみすずさんが好きなんです。彼女を助けたいんです。だからこうして…」
「初めての女だった。だからだろ?殻から出たばかりのあひると同じだよ。みすずの命が助かったことだけはわかったんだ。警察も動いている。徐々にだが事情聴取も始まって、今は証拠を押さえに走ってるよ。まあかなり迷走していることは確かだがな。もう十分だろ。みすずのことは忘れておまえ自身の問題だけを考えろ」
彼は珍しくきちんとソファに座り、まっすぐ綾也を見据えている。
「あのロリータ姉ちゃんのこと、プロジェクトSだとかいう話、そして最大にして一番やっかいなSTEがどうPSDに絡むのかということ。わりいがおれだけじゃどうしようもねえ。だからそのときは綾也に協力を頼む。けどな、みすずのことからだけは手を引け」
哲平さんは…。綾也は一瞬口にするのをためらった。
頼れる男、敵に回したくない男、そして油断のならない……。
「僕が犯人かもしれないから、そう言うんですか?あのとき刺したのが僕かもしれないと、哲平さんも思っているから。そうなんでしょう?」
「誰もそんなこと言ってやしねえ!」
状況証拠は僕を指している。あの部屋に合い鍵はない。そして僕の交代人格が出現すれば人を殺そうとすることなどいともたやすいこと。哲平だけでなく警察でさえそう思うのも当然だろう。交代人格の件を知らずとも。
「おまえなあ!だからおれがどんだけ、その可能性を否定するために走り回ってると思ってんだよ!」
思わず出した哲平の大声に、綾也は身体を震わせた。彼が素の感情を表に出すことなどめったにない。いつも人を煙に巻いて、はぐらかし、本心を見せない。
その彼が肩で息をして唇を噛みしめている。
「おまえは記憶が連続していると言ったな。交代人格が現れているときでさえおまえ自身はその背後に押し込められてるんだろ?」
「……ええ」
「だったらやったのはおまえじゃねえ。そうだろう?」
僕じゃないことは自分が一番知っている。そう言い切りたかったのに、あのときのみすずの反応が忘れられない。僕が僕でなくなることがあるのだろうか。あるとすれば、それはただ一つ。PS……D。
黙ってしまった綾也に、そっと声をかける。おおよそ哲平らしくもない。
「それにな、すべてが解決してみすずが快復したとしたら、おまえはまたあいつと付き合うつもりか?」
綾也は黙り続ける。彼女がそれを許してくれるだろうか。
「おまえはみすずを好きだと言った。みすずもまた、おまえのことを好きだと。わりいけどな、あいつはあんな子どもみてえな純朴な顔してたって、やるこたあしたたかなんだよ。すべて計算済みの行動かもしれねえんだぜ?おまえの手にゃ負えない。しょせん、おれもみすずも裏社会の人間だ。おまえとは住む世界が違う」
それを哲平が僕に言うのか。どちらが酷い世界に住んでいるのか、わかったものではないのに。
綾也は思わず自嘲めいて口元をゆがめた。
「僕に近づいたのも、何かの意図があったと言いたいんですか?」
「否定できねえな。華恋は青龍会の店だ。そこに顔を出してみすずといい仲になったのが、よりによって分子生物学が専門の谷田貝教授。また都合のいいことにたまたま研究室に所属していたのが、STEにいた梶尾綾也。話ができすぎてやしねえかって言いてえんだよ、おれは」
沈黙が続く。好きでもない相手と肌を合わせることができるのか。それが女という生き物か。
この情報も脳内データファイルに書き込めと?綾也はメガネの上から顔を手で覆った。
「とりあえずおれは、手っ取り早いところで青龍会の方から攻めてみる。おれの一番慣れ親しんだ土俵の上で戦う方が何かと楽でね。横文字は何かと辛いねえ。化学はからきし弱かったからなあ。これがスピードだのコークだの昔ながらの薬物ならおれでも何とかなるんだが」
「じゃあ僕は…」
「無理すんな。研究所には近づきたくはねえだろうし、せいぜい姉ちゃんと仲良くしてお勉強でもしてろ」
「哲平さん!」
「それとも、おれが頼んだらPSDの情報をくれるとでも言うのか?」
凄みの利いた下から睨め付ける鋭い目。哲平本来の激しさをかいま見せる。
「わかりました。少しでもお役に立てるように調べてみます」
ようやくそれだけを言うと、綾也は唇をぎゅっと結んだ。どこまでを言えば彼は納得してくれるのだろうか、必死に計算する。下手をすればすべて見抜かれる。今はとにかく時間を稼ぐしかない。
そのとき、夜の遅い時間にもかかわらずドアホンが鳴り響いた。
(つづく)
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