再会
研究室の一番奥で、綾也は素直に頭を下げ続けた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
教授の谷田貝は、部屋のドアが閉まっていることを目で確認してから、唸るような声を出した。
「君がみすずと付き合っていたなんて、気づかなかったよ。あまりにも世間を知らない君のような純正培養の優等生を、彼女に近づけるのではなかった。あきらかに私のミスだな。こんなことがあっては君のお父様に申し訳が立たん」
「警察は、こちらへも?」
根掘り葉掘り、な。谷田貝はため息をついた。周りの連中には君は病気で入院していたことにしてある。くれぐれも自重してくれ。…冷たすぎるほどの事務的な会話。
「一つ伺ってもよろしいですか」
ためらいがちに綾也が口を開く。片岡さんが心配ではないのですか、と。
「なぜ私があの女を心配しなければならんのだ?」
「愛していらっしゃったのではないのですか」
たとえひとときでも、そばにいる間だけでも、一瞬でも。しかし谷田貝の声は冷ややかだった。
「君は本当に…。あの女は職業娼婦だよ。もうあんな手合いに関わることはない。君の将来につながる大事なことだからな。忘れることだ、いいね」
綾也には反論する気力もなかった。あのとき助けられなかったのは自分も同じ。医療の力でかろうじて維持している彼女の生命力を、今は信じたかった。
俯いたまま部屋を出ると、真っ先に山田が声をかけてきた。
「大丈夫?肺炎で入院してたんだって?まだ身体は辛いんじゃないの?無理するなよ」
それに薄く笑って返事をする。今はその言葉かけが嬉しい。
「全く、今時の若い男は身体弱いんだから。ほら、お客様たちがお待ちかねよ!」
言葉とは裏腹に優しげな恵美の声に入口を振り返る。そこには同じ学部のMbクラスの連中が心配そうにのぞき込んでいた。
「みんな、どうしたの?」
学部のうちは研究室等になど縁がない。どことなく気後れしながらそれでも数人が部屋へと入ってくる。
「これ、梶尾には要らないかとは思ったんだけど、一応おまえが休んでた間のノート」
一冊のルーズリーフが綾也に手渡された。ずしりと重い。学部の講義は半端な量ではないのだ。
「これを、僕に?」
とまどう綾也に、なぜか照れ気味のクラスメートたちはぶっきらぼうに言った。
「いやほら、教科書には出てるだろうけど、試験のときはさ、けっこう重箱の隅つっついたところとか出すセンセーいるじゃん。だからと思って」
「あ…ありがとう」
おまえにノートなんて要らないよな。わかってたんだけどさ、つい。
「そんなことない。出てない講義の内容なんていくら僕だってわかりっこないもの。本当に嬉しいよ。ありがとう。すごく助かる」
作り笑いではない心からの嬉しい思い。綾也の顔が素直にほころぶ。クラスの連中は、それを見てほっとしたように目を見合わせて笑い合った。
「その代わり、試験前にはわかってるだろうな。Mbのみんなはおまえだけが頼りなんだよ」
思わず泣きが入った誰かの声に、今度は笑い声が大きくなった。その中心で綾也も笑っていた。
ここが僕の居場所。
僕はただの一研究者が望みなんだ。目立たず、ひっそりと、都会の片隅で。どうか僕の大切なささやかな幸せを、誰も取り上げないでくれないか。
綾也は心の中で祈り続けた。
青龍会、クラブ華恋、そして東都大学。
前の二つはいいさ、なぜそこに東都大学が絡んでくるんだ?
哲平はキーボードを打つ手を止めて、こぶしを唇に当てた。よりによって谷田貝研究室分子生物学教室。そこに学部生にもかかわらず所属する綾也。そして、PSD。
STEは相変わらず何かの大きな壁が行く手を阻む。どこからどう攻めても、これだけ裏社会に精通している哲平でさえ、何の情報も得られなかった。正しくは、掴んでいる情報は綾也が語った言葉のみ。
超能力…ねえ。
確かにPSDを扱うようになって、青龍会はわずかながらかつての勢力を取り戻したように見えた。
一度はかなり広範囲にその活動を広げておきながら、諸外国からの圧力でお得意の麻薬密輸が厳しくなり、衰退の一路をたどっていたことは確かだったのに。
なぜ青龍会だけがPSDを独占できるのか。対立する別の連中を締め上げてみても、「あんなやべえもんに、おいそれと手なんか出せるか」と口を揃えて言うばかりだ。
覚醒剤やヘロイン、コカインほどの強い作用があるとは聞かない。
噂では、潜在能力を高め、万能感を得られると、今まで麻薬になど縁のなかったオカルトじみた若い世代に浸透し始めているという。
何だ、その潜在能力ってヤツはよ。
取引の方法も、ほとんどがネットだ。闇のオークションで値がつり上げられ、へたすりゃ覚醒剤なんぞよりも高値で売れることもあるらしい。海外サーバー経由でやりとりするものだから、警察のサイバー犯罪対策も後手後手に回る。
「全く今はいい時代だよ。買うヤツも売るヤツもリスク無しで麻薬を手に入れられる、か」
青龍会は昔から華恋を使ってきた。もちろんみすずもそんなことは承知の上だ。小暮がどんなヤツでどういった立場かなんて、わかりすぎるほどわかっている。別にヤツの愛人などではないから、綾也が報復で巻き込まれた訳でもあるまい。
むしろ逆ではないのか。
どうしても哲平にはその考えを払拭することができなかった。
嵐の中心にいるのは、…梶尾綾也。
そんなバカな。あんなひょろひょろの世間知らずに何ができる。そう思いたいのに、ブンヤの勘はずっと危険信号を出し続けている。
…イヤな勘だぜ。こんなもん当たらねえでくれよな…
哲平は丸いサングラスを外すと、片手で顔を覆った。
「最近来ないねえ、梶尾のいとこのお兄さん」
不意に山田から声をかけられ、一瞬綾也は混乱した。
ようやく彼らにつかの間の日常が戻ってきたかのようだった。もちろんみすずの容体も掴めず、犯人の手がかりは全くなかったけれど。もっとも哲平は何やらごそごそ動き回っているようで、昼間は留守にしていたから、彼は彼なりの情報網で何かを見つけ出しているのかもしれないが。
元敏腕記者、か。とても侮れない彼の情報収集能力。
僕は結局何もできず、こうして大学に通うしかないのか。じりじりとした焦りが綾也を締め付けていた。身体を鍛えるなどと言ってはみたが、そう簡単に腕力でかなうような相手ばかりではないだろう。
サイコキネシスが使えなければ、足手まといは僕の方。
綾也は自分の研究に没頭しつつもそんな思いにとらわれていたせいで、とっさには山田の言葉が理解できずにいたのだ。
「いとこ?」
「ほら、あのサングラスかけたおもしろい人。津雲さんて言ったっけ?あの人楽しいよねえ。いろんなこと知ってるしさあ。でも梶尾とは全然似てないのな。日本人だからやっぱ梶尾博士方の親戚なんでしょう?」
哲平さん……いとこだなんて言って回ってるのか。綾也はこっそり頭を抱えた。
「薬学のこといろいろ知りたがってたけど、うちの大学は薬学系はないもんな。まあここの研究室が一番近いと言えば近いけど。何で直接教えてやらないんだい?」
人の良い山田は、何の疑いもなくにこにこ訊いてくる。僕あの人ちょっと苦手で、口ごもる綾也の言葉にそうだろうねえと笑い出した。
「こんなに正反対のコンビも珍しいよね。一緒に住んでるんだろ?ケンカにならない?」
歳も離れてるし、相手にもしてないし。つい本音を口に出す。
実際、一緒にいるとうるさくてかなわないときもあるのだ。へたをすればずっと哲平があることないことしゃべり続け、この温厚な綾也が、少しは黙っててくださいと声を荒げたことも一度や二度ではない。
それを聞くと、山田は本当に心から嬉しそうに笑った。
「何かさ、梶尾って変わったよな。模範解答しか言わない男だったのに。むっとする梶尾なんて、初めて見たかも」
常に偽りの笑顔をかぶり続けていたから、こんなふうに感情を表に出すこともなかった。変えたのは、誰なんだろう。
綾也は山田の言葉にほんの少し微笑んだ。照れくさそうに。瞳が柔らかい。
出会ったのがこんな形でなかったら僕らは。いやそもそも住む世界自体違いすぎるのか。それとも僕の本来いる場所は、本当はこんな研究室の片隅ではなく、彼らのような吹きすさぶ嵐の中心なのか。
複雑な思いが交差する。
一人の思考に陥り始めた綾也に、山田はそうそうと言いながら一本のスティックを手渡した。
USBメモリー。
「これは?」
いぶかしむ綾也に、今度のレポートの課題が入ってるって渡されたんだ、個人名でファイルが作ってあるし、全員課題は変えてあるから覚悟するようにって谷田貝先生がさ、と山田が答える。
綾也がいない間に配られたというそのスティックをしばらく見つめる。課題が同じなら頼ろうと思ってたのに、山田のぼやきを背中に聞く。
さっそく自分に割り当てられた研究室のPCに差し込む。r・kajio。そのファイルを開けようとしたとき、なぜか綾也は違和感を感じた。
こんな小さなファイル一つに、なぜ大容量のUSBを?プロパティを開けてみてもおかしな点は見あたらない。
そのとき、おなじみのきしんだ音を立てて研究室のドアが開く。谷田貝教授だ。
とっさに綾也はPC上にファイルのコピーを作ると、もらった方のスティックを机の一番上にしまい込んだ。
「お断りしてください!」
きっぱりと言ったつもりだったが、声が震えていた。実際にドクター三人娘の前でこのセリフを言うのには、かなりの勇気が必要だ。綾也はそれでも精一杯真剣に返事をした。
恵美、真由美、蘭子が一歩前に出る。間合いを詰める。もうそれだけで逃げ出したい。
「言ったわよねえ。一番年下のあんたに断る権限無し。それがたとえ東都大学始まって以来の天才児、梶尾綾也様であっても例外は無し、よ!」
後ろの方で山田がオロオロとしているが、もちろん何も口を挟めなかった。
「僕は二度と合コンなんかに行きません。それに、もう今は誰とも…」
最後の方は語尾を濁した。みすずの顔が浮かぶ。今はとてもそんな気になれない。彼女はまだ苦しんでいるはずなのだから。
「へえ、あの年上の彼女と別れたの?じゃあ余計何の問題もないじゃない」
恵美の言葉が思いもかけずに胸を刺す。もちろん相手に何の悪気もない。相手が誰かさえもわからなければ、事情だって何一つ知らないのだ。
「僕は誰とも一生交際するつもりなどありませんから、本当にお心遣いはありがたいですが、もう放っておいてください」
山田が、それくらいにしといてやれよ、とようやく言葉をかける。さすがの三人娘も、綾也の声のトーンに気づいて、目を見合わせた。
「ゴメン梶尾くん、からかって。そうじゃないのよ。こないだの彼女がね、中村さんがどうしてもあなたに会って話したいことがあるんだって。一度だけで良いからって頼まれたの」
会うだけ会ってあげて、きっとそれで彼女の気も済むだろうから。真由美が優しげにそう伝える。
中村加奈子。瞳がくるくると動いて愛らしい巻き髪の女の子。ラルクでの事件で人質に取られ、僕を怖がって泣きじゃくっていた娘。
もちろん忘れてはいない。綾也にとって記憶はすべて映像化され、脳のファイルに圧縮されて保管してあるものだから。いつどんなときでさえ取り出せる。それが良いことなのか悪いことなのか。
辛い記憶が圧倒的に多い彼には、忘れる能力こそが、今もっとも必要なのではないかと思うこともあるくらいなのに。
綾也は軽く頭を振る。彼女だって忘れられないだろう。目の前で優しげな男が変貌してゆき、ゆがめられた瞳と薄笑いの元、犯人といえども人が一人殺されかけたのだ。
自分が人質になったこともそうだろうが、それこそがもっと恐ろしい体験だったに違いない。
もう二度と会いたくないのではないか。綾也はだからその言葉が不思議に思えた。
僕を糾弾したいのか、面と向かって罵倒したいのか、それとも僕の正体を暴き、皆へだまされるなと伝えたいのか。
それならそれでもいい。彼女には、少なくともあれだけの思いを味わった彼女にならその権利はあるだろう。
「…わかりました。一度だけなら」
綾也は大きなため息とともに、そのセリフを吐き出した。
指定された店は、前回よりももっとくだけた感じの洋風居酒屋だった。学生というのは飲まなければやっていけないんだろうか。時折そう思うけれど、これも一般人の生活の処世術なのだろう。
研究者はコミュニケーション能力こそが問われるんだよ。ドクター三人娘の持論だ。
確かにその考えもあながち間違いではないだろう。一人研究室にこもって実験だけをしていればいい訳じゃない。学会に討論会に、講師から先になれば授業だって持たされる。僕は至極真っ当な社会人として生きるのだから。生きるための術を一つ一つ学びながら、綾也は毎日を必死にこなしていた。
STE、そしてPSD。みすずとのことさえなければもう関わりたくもないこと。
望むのはただ、静かな生活。
綾也はそんな気持ちを飲み込んで、自動ドアをそっと開けた。途端に嬌声と盛り上がる学生の大声におぼれかけ、覚える軽い目眩。
彼を目ざとく見つけたのだろう、遠くの席から誰かが手を振っている。山田だ。あのときと同じメンバーが奥のテーブル席にそろっていた。聖上女子大の増元、安曇、そして彼女らに隠れるようにほんの少し巻き髪が見えている…中村加奈子。
「ほら加奈子、梶尾くん来たよ?自分で言うんでしょ?」
安曇がさりげなく加奈子を促す。
罵声か、それともいきなりはたかれるか。綾也は心持ち身体を硬くしてそのときを待った。
パステル調の柔らかいシフォンブラウスが、身体にまとわりつき、彼女をふんわり包んでいた。
髪もメイクも、今どきの最先端でありながら品の良さがにじむ。よほど大事にされてきたお嬢さまなのだろう。
加奈子はしばらく安曇の背中から出てこようとはしなかったが、思い切って一歩踏み出すと頬を赤らめた。
「あ、あの梶尾くん?このあいだは助けてもらったのに失礼な態度を取ってしまって…」
本当にごめんなさい、と勢いよく頭を下げる。綾也は思いがけない加奈子の言葉に面食らった。しばらく声が出ない。それでもようやく気持ちを立て直すとさりげなく彼女に言った。
「僕、中村さんに謝られるようなことされましたっけ?ごめんなさい、よく覚えていなくって」
え?あの、それじゃ…。今度は加奈子の方がとまどい顔だ。綾也は言葉を続ける。
「それに僕、何も気にしていませんから。中村さんが元気になってくれてよかった」
僕の異形の姿を覚えていないのならその方が良い。あえて綾也はラルクのあの加奈子の涙に触れることをせず、にっこりと微笑んだ。ここ一番というときに使う彼の柔らかな笑顔。
加奈子の顔がぱあっと明るくなった。
「梶尾くん…」
さ、仲直りも済んだし、仕切り直しで飲みますか。そう言いながらそれぞれが好きな席に着く。
現金なものですっかりご機嫌な加奈子は綾也のとなりに陣取ると、腕を絡めてにっこりした。
「加奈子、それって露骨すぎない?」
「いいの!だって梶尾くんが優しい言葉をかけてくれたんだから。今夜は私、ここから動かないからね」
はいはい、周りの友達連中はあきれ顔で相手にもしない。根っからのわがままなお嬢さま、か。
「梶尾くんはどうして医学部に入ったの?ご実家も病院か何か?」
綾也はそっと首を振った。医師にはならないし、研究者になるつもりだからと。
「じゃあご両親は何を?」
こんなふうに質問攻めをされることも、大学に入ってずいぶん慣れた。さすがに研究室の連中は綾也の父親が生化学者であることを知っていたが、学部生にとっては何も東都大学の医学科に入れたのに医者にならないなんて、と不思議がるものが多かったのだ。
「父親が研究者なんだ。今はイギリスの大学にいる。母は、もう亡くなった」
そうなんだ、ごめんね辛いこと思い出させて。優しい娘。ほんの少し悲しげに下を向く。
「全然、僕が小さい頃のことで覚えてないし。今は友人とシェアしながら住んでいるから気楽だし。中村さんのご両親は?」
会話を続けるコツは質問返し。これも研究室で仕込まれた。僕には案外あの小姑だらけの谷田貝研究室が合ってるのかもしれないな。心の中だけで苦笑い。
「うちはね、製薬会社をやってるの。知ってる?中村バイオファーマって言うんだけど」
父が社長で、母は取締役。でも実権は母の方が握ってるかも。何気なくくすくす笑いながら加奈子が続けるが、綾也は内心驚きを隠せなかった。
中村・バイオ……ファーマ。昔ラボラトリで見せられた分厚い資料に出てきた製薬会社の一つ。ここでもリンクするというのか。
まさか、ただの偶然だ。第一あのプロジェクトには多くの企業が参加していたのだから。
「それでね、姉は出版社に勤めてて。ねえ、聞いてるの?」
酔いが回ったのか、加奈子の口調もかなりくだけてきた。それに生返事をかえす。
「二人姉妹で、私は英文科でしょ?お姉ちゃんもばりばりの文系だし、もうどっちかが超理系のお婿でももらわなきゃね、って母は頭を抱えてるわ。ふふっ」
だったらなおさら、僕には近寄らない方がいい。関わる必要はない。ましてや彼女が中村バイオファーマの後継者の一人だとすれば。
もう二度と彼女には会わない。加奈子はそんな綾也の思いも知らずに彼の肩に頭を乗せた。
みすずとは違う、ほんのり香るコロン。僕も酔いが回ったのだろうか、腕を回して引き寄せたくなる。おおよそ普段の綾也からしたら考えられないような感情がわき上がる。
そばにいる男がどれだけ危険な存在か知らずに、安心しきって身を寄せる女の子。
綾也は目をつぶった。
不意に、彼の携帯音が鳴り響く。着信音の設定も何も変えてない無機質な電子音。ごめん、ちょっと。そう断ってできるだけ静かそうな場所に急いで移動する。
どこもにぎやかでとても会話ができそうにない。結局綾也はあわてて廊下に出ると、薄い携帯を耳に当てた。
「やっと出やがった。おまえ今どこにいる?」
「哲平さん!あなたこそどこに行ってたんですか?ここのところ全然連絡も寄越さずに」
綾也の抗議など無視をして、哲平は大声を出した。今すぐ来い、と。
「どこなんです。そんなに急ぐことですか?」
話が見えない。哲平のいらだちだけが伝わってくる。僕はテレパスじゃないのに。綾也までもが焦り始める。
「急ぐことなんだよ、国立京成病院集中治療室だ。病院の前で待ってる。最短で何分で来れる?」
病院?まさ…か…。
「そうだよ、そのまさかだ。みすずが意識を取り戻した。会えるとしたら今しかねえ。集中の看護師は幸いおれのダチでね。警察が来る前に急げ」
電話越しにわかりましたと叫ぶと、店内に戻って山田にだけ話を伝える。会費はあとで戻すからという山田の言葉に、そんなものどうでもいいです、じゃあ、と綾也は走り出した。
車のライトよりもネオンの眩しさが目を焼く。綾也の苦手な都会の夜。淡い虹彩には刺激の強すぎるイルミネーション。
ああだけど、みすずも哲平もこの中を生きてきたのだ。
みすずさん。意識が戻ったのなら生き延びられる可能性はぐんと高くなる。どうか生きて。あなたを守りきれなかった僕だけれど、この次は必ず。
車道に飛び出すようにタクシーを無理やり止めると、綾也は病院へと急いだ。
路上に幾本もの吸い殻。かなりいらだっていたのだろう。普段の哲平らしからぬ険しい表情。
しかし綾也を認めた途端、その顔は一瞬でいつもの抜け目のない、のらりくらりとしたにやにや笑いに変わっていた。
嬉しいからじゃない。彼はそんなに簡単に本心を他人に見抜かせるほど甘くないのだ。
同居するようになって綾也にもそれはつくづく感じられるようになってきた。フレンドリーな口調と相反するような他人を値踏みする冷ややかな目。
「ほらよ」
病院の裏口に着いた綾也に何かを投げて寄越す。白衣、聴診器、偽の身分証、小道具のボールペンまで。
哲平自身は羽織った白衣のボタンをはめることなく、携帯を握りしめていた。
綾也はとにかく足手まといにならぬようにと渡されたものを急いで身につけ、最後に身分証を首からかけた。
「なかなかさまになってるじゃねえか。さすが東都大の医学部生だぜ」
「それで?みすずさんの容態は?」
慌てなさんな、ダチが連絡くれることになってるんだ。哲平はささやいた。
「誰に会っても口はきくな。黙って頭を下げてりゃ大丈夫だ。意識が戻ったことはまだ警察には連絡が行ってない。まずおれに知らせてくれって頼んでおいたからな」
「哲平さん、どうしてあなたそんなこと…」
「ダチがいるっつったろ?この世界は人脈がすべてだからな。粋でイケてるぴちぴちナースだぜ」
まあ、その情報を押さえておけるのも明日の朝までだろう。こんなチャンスめったにねえ。
哲平の言葉に緊張感が走る。
不意にバイブ音。哲平じゃない、綾也の携帯だ。慌てて出てみると酔いの回った口調で甘ったるい女の子の声。加奈子だった。
「ちょっとお、綾也くん。なんで途中で帰っちゃったのよー」
その場を急いで離れ、声を押し殺して綾也はきつく言い返す。
「すみません中村さん。今とてもあなたの相手をしている暇がないんです。切らせてもらいます」
彼にしたらかなり乱暴に携帯を切ると、そのまま電源までもをオフにする。
「おい、行くぞ」
哲平が焦りを含んだ声で綾也を呼ぶ。慌てて彼は哲平に続いて裏口から病院内へと入っていった。
もう夜の十時は回っていても、もちろん病棟内は煌々とあかりで満たされていた。特に集中治療室の辺りは看護師、医師、その他のスタッフがあわただしく走り回る。
「大丈夫なんですか、哲平さん」
「堂々としてろ。これだけいた方が、かえって怪しまれねえよ」
すれ違う医師たちに頭を下げる綾也の胸が張り裂けそうに鼓動を打っていた。もし不法侵入がばれたら、ということもそうだが、これからみすずに会えるという事実に。
あの事件からもうどれくらい経つだろう。一度も逢えなかった。本当ならずっと付き添って手を握りしめて、祈り続けたいほどだったのに。
急患が入ってきたようだ。スタッフたちの動きが激しくなり、確かに綾也たちのことを気にする者などいることはなかった。
「哲平ちゃん、こっちこっち」
広い集中の部屋の片隅から手招きをする女性が見てとれた。均整の取れたプロポーションに目鼻立ちのくっきりとした美人。わずかに染めた髪をきりりとまとめ、哲平に笑いかける。
「恩に着るぜ、いさ子ちゃん。浩太郎とは続いてんの?」
「ふふっ、その話はまたゆっくりね。今度飲んだときにでも。それにしても似合わないわねえ白衣が。そっちのお坊ちゃまなんか、本物の研修医みたい」
いさ子が綾也に流し目を送る。哲平はこいつなんか本物も本物、東都大の医学部生だぜ?と調子を合わせる。
「それで?」
「意識はまだ混沌としてるけど、受け答えくらいはできるわ。今の状況もある程度把握できてるみたい。おそらく明日には連絡が行って警察の事情聴取も始まるだろうから、話すなら今ね」
てきぱきと周りのカーテンで仕切り、いさ子は誰にも見られないように三人だけにしてくれた。終わったら声をかけて、と。
みすずは包帯だらけの身体に何本もの管を着け、酸素マスクを装着していた。胸が大きく動いている。息をするだけでもかなりのエネルギーを使うのだろう。
それでも、彼女は生きている。
綾也は一度目をつぶり、ため息をついてから彼女の顔をのぞき込んだ。
うつろな目。焦点が合っていない。しかし、開いていることは確か。彼女は意識を取り戻したのだ。もう大丈夫、生きられる。みすずは助かる。
そのことにまず安堵して、綾也は優しげな瞳で彼女を見つめた。
訊きたいことも話したいこともたくさんあった。何から言えばいいのか、わからないほど。
「…みすずさん、大丈夫ですか」
そっとつぶやく。
みすずの目がわずかに動き、綾也をとらえた。
しばらく二人はそのままだった。綾也は次の言葉をと口を開きかけたとき、みすずの身体が小刻みに震え始めた。
「…?」
様子が変だ。それは綾也にもすぐわかった。彼女の瞳に浮かぶのはあきらかにおびえの表情。
「違う…、違う、あんたじゃない」
「違うって、何が違う…」
「りょう…や…じゃな…い。あんた…は、りょう…やじゃ…」
「みすずさん?」
綾也の頭ががんがんする。彼女は何を言い出すのか。もう恋人の顔も忘れてしまったというのか。
「バ…ケモ…ノ…」
「!」
綾也は息を飲んだ。おい!哲平のかける声さえ聞こえないほど、彼の方が震えている。
化け物と、そう言うのか。僕のことを、あなたは。
「うーーー、うーーあああーー!」
みすずらしからぬ獣じみたうなり声が上がる。彼女はそのまま恐怖に駆られるように身体を痙攣させた。
カーテンがさっと開けられる。いさ子が皆に聞こえないようにあわてて怒鳴る。
「あんた!患者に何したのよ?」
「ぼ、僕は何も、何もしてない…」
ただ立ちつくす綾也をいさ子が腕で追いやる。
「本物のドクター呼ぶから、哲平ちゃんたちは早く逃げて!急いで!」
追い立てられるようにその場から出される。こっちだ、急げ!哲平が手を引くのに身体を任せ、まだ綾也は茫然自失としていた。
「何うすら寝ぼけてんだよ!とっとと病院の外まで出るんだ!こんなところでとっつかまりたいのか?」
「僕は…僕は」
「そんなことはあとで考えろ!いいから早く!」
「哲平さん!僕なんですか?僕が彼女を、やっぱり僕が!」
誰もいないエレベーターホールで、哲平は綾也の胸ぐらを掴んだ。
「てめえ前に、おれのことが足手まといだなんだとほざいたな。今のおまえはなんの役にも立たねえどころか、足を引っぱる邪魔もんでしかねえよ。これ以上何か言ってみやがれ。おれはな、てめえをぶん殴ってその辺に放り出して逃げるぜ。おれは捕まりたくはねえからな」
ドスのきいた声と、睨め付けるようなおそらく哲平本来の目。綾也はその言葉にようやく少しばかり自分を取り戻した。
「それにな、あの反応でだいぶいろんなことがわかってきた。情報収集には十分すぎるほどだ。おまえはよくやったよ」
声を和らげて哲平は言った。綾也を慰めるつもりなどないのだろう、おそらく彼がそう言うのなら本当に。
ようやく病院の外に出る。ニセ医者の白衣を脱ぎ捨てる。医師としてこれを着ることはこれから先、まずない。綾也のちょっとした感傷。他のことでも考えていないと、またあのみすずの言葉に引きずられる。
考えるのはあとだ。それは哲平の言うとおり。とにかく部屋に帰ってそれから。
車を取ってくると、その場を離れた哲平と別れ、路地をゆっくり歩く。
微かに恐れていた可能性。僕が僕でなくなり、彼女を傷つけたのではないかという一番あって欲しくなかった事実。だけど僕じゃない。僕が来たときにはすでに彼女は血まみれで倒れていた。それだけは本当だ。この僕が記憶を失うことなどあるはずがない。
下を向き、力なく歩を進める綾也の頬に風が当たる。ビル風?そう思いたかった。でもおそらく、この風はそんな生やさしいものではあるまい。
なぜ今。そっと顔を上げる。
ネオンさえ届かぬ漆黒の闇の空に、白いもやが浮かび始める。輪郭さえはっきりしないイメージから、ふんわりとしたドレスへと変貌してゆく。フリルだらけのブラウスに大きく拡がったスカート。そこから見える細い手足。ゆるいウェーブの髪が肩にかかり、最後にはっきりと見えてくるそのあどけなくも愛くるしい表情。
ルカ。
年端もゆかぬ永遠の少女は、宙にただよいながら、妖艶な笑顔を浮かべた。
空中に身体を浮かせたまま、少女は口元を妖しくゆがめた。
「お兄ちゃま、いつまで逃げ回るつもりなの?」
「ルカ、僕はもう戦わない。戦うべき理由も場所もない。僕の居場所はラボじゃない」
「ふん、あなただけ安全な場所に?自分さえ良ければいいのね」
眉をひそめ、おおよそ美少女らしくもない蔑んだ表情を浮かべる。綾也の背を軽々と超え、宙に浮く様は異様だった。
「言っただろう?僕は使えないと!ラボラトリですら僕はいてはいけなかったんだ!」
綾也の悲痛な叫びなど聞いていないかのように、ルカの瞳がわずかに見開かれる。途端に彼はそばのビル壁へと叩きつけられる。
ごほ、げほ。背中をしたたかに打ち、息ができない。
ルカは高度を上げ、ますます綾也を見下ろした。金色に輝く瞳がさらに大きくなり瞳孔は肉食獣のように細くとがってゆく。
綾也の細い身体が軽々と持ち上げられ、アスファルトにそのままの状態で落とされる。何とかして落下の瞬間に身体をひねろうと努力したが、彼は半身を道路に打ちつけてうなり声を上げた。
「いつまでそう一般人のフリを続けるの?少しは反撃してくれなくちゃつまらないわ。オモチャにもなんない」
思わず年相応のあどけない声を出したルカは、さらに瞳孔を細め力を込めた。
さっきの衝撃で細かいひびの入った綾也の銀フレームメガネは、あっさりとねじ曲げられ、レンズは粉々に飛び散った。
「あっ!」
無惨にも砕け散った綾也の命綱は、いとも簡単に地面へと拡散していった。
ルカの表情に邪悪さが加わる。次に起こるべく変化を楽しむかのように。
綾也はゆらりと立ち上がった。口元はほんの少し開き、口角がわずかながら上がってゆく。見るものをぞっとさせるアルカイックスマイル。
そして、その瞳は朱に燃えた。
余裕の顔つきで宙に浮かんでいたルカに一瞬、彼は視線を送った。その途端、安定していたはずの彼女の身体は反転し、きゃあという叫び声とともにどさりと地面へと墜ちていった。
「ううっ」
彼女もかなりのダメージを受けたのだろう、しばらく声も出ない。背中で後ずさりしながら、それでもルカは嗤うのをやめなかった。
「へえ、ようやく覚醒完了って訳ね。あれから三年経っているのよ?私の力もあの頃とは違うわ」
ようやく態勢を整え直したルカがまた空を切る。それを冷ややかに見つめる、綾也。彼は何も言わない。身体を動かすそぶりさえ見せない。冷酷な瞳がただ、細められるだけ。
「同じサイコキノとしてずっと比べられてきた!もうお兄ちゃまなんかに負けない!」
ひときわ大きな声が闇に響き渡る。それとともにルカの瞳は大きく見開かれた。
かっ!
長いまつげに縁取られた愛らしい瞳は、もうすでに金色に輝き、異形のものと化していた。
それに向かって、綾也はただあごを少しあげ、見下すように彼女を冷たく見つめただけだった。
次の瞬間、ルカの両手が自身の意志と反して自らの首へとのびていった。そのまま力が加わる。決して彼女が意図してやっている訳ではないことは、その表情から明らかだった。苦しげに唸り続け、顔はどんどんどす黒くなっていってもその力の緩むことはなかった。
クク、クッ……。あざけり嗤う声はまぎれもなく綾也のもの。そこにはふだんの穏やかさのかけらもない。
シンデシマエ、ムシケラ。
最後の力を加えようと綾也が瞳をぐっと細めようとしたそのとき、通りの向こうから叫び声がした。
「おい!綾也、やめろ!死んじまうぞ?」
その声に思わず綾也はふっと振り向く。血相を変えた哲平がこちらに向かってくる。
ちっ、舌打ちをするが力を弱めるつもりはなかった。
しかし、その隙をルカは見逃さなかった。逆に今度は綾也が吹き飛ばされる。
カッとなった彼はもう一度ルカを攻撃しようと表情を険しくする。その背中に哲平は飛びついた。
「よせって言ってんだろ!この娘を殺す気か?」
哲平は綾也を羽交い締めにすると、関節技をかけ地面に押しつけた。そして自分のかけていた丸いサングラスを、気休めにと無理やり綾也にはめさせた。
ぎりぎりと哲平が力を加える。綾也は現実の痛みに思わず目を固く閉じた。哲平は必死に綾也に向かって声をかけ続けた。
「いい加減正気に戻れ!てめえはそんなキャラじゃねえだろ?いつもの綾也はどこへ行ったんだよ!」
丸いサングラスの中でそっと目を開けた綾也は、眉をひそめ顔を上げた。その瞳にもはや先程までのかげりはなかった。その瞳を覆うものであれば何でもいい。後催眠をかけられた際の条件。そのために、さらに過酷な訓練は長引いたのだ。辛い思い出を振り切るように綾也は頭を軽く振った。
その変化を見届けると、哲平は力を抜いた。彼の腕を引っぱって立ち上がらせると身体中をはたいてやる。綾也の息の乱れはなかなか治まらなかった。
宙に浮きながら首を絞められ続けていたルカは、そのまま地面へと落ち、ごほごほげほっとむせ返った。肩で大きく息をすると、首の辺りをさも痛そうにさする。実際、指の跡がくっきりと残り、先程までの力の大きさを物語っていた。
「ルカ……」
言葉をなくし、名前だけを何度もつぶやく綾也にルカはよろよろと近づいていった。
身長差のある二人。年端もゆかぬ、おそらく十歳程度の娘。彼女は思いきり背伸びをすると、力を込めて綾也の頬を叩いた。
ばしっと響くその音と痛みを、綾也は何も言わずに耐えた。
ルカは荒い息のまま、こうつぶやいた。
「…裏切り者。私はお兄ちゃまなんてもう二度と仲間とは認めない。誰が許そうと、絶対に」
おそらく高級なブランドなのだろうに、白いロリータドレスはどろどろに汚れ、すそはちぎれていた。
そのまま数歩後ずさりすると、ルカは登場したときのようにゆらゆらと輪郭をぼやかしつつ、姿を消していった。
後には放心状態の綾也と、この事態をどう解釈すればいいのかわからず、混乱しきっている哲平だけが残された。
(つづく)
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