相棒
「おれはやってねえ!」
「まあまあ、犯人はたいていそう言うもんだ」
年配の刑事がボールペンを片手に書類を揃える。分厚い調書。今からこれに付き合えってか。冗談じゃねえ。哲平は刑事の山口に聞こえないように独りごちた。
港署の署員ならたいていは顔なじみだ。そんなところに知り合いがいたって、自慢にも何にもなりゃしねえ。
「おまえの携帯な、しばらく借りるわ」
「冗談じゃないっすよ、ブンヤの大事な商売道具をですね」
「元・ブンヤ、だろ?」
そう言うと老練な刑事はにやっと笑った。
「まあ大手とは言い難いが、発行部数でいやあ日本でも有数のゴシップ誌、文化ジャーナルの元敏腕記者にして…」
珍しいこともあるものだ、山口がオレをほめようってのか?哲平はタバコに火をつけようとライターを取り出す。
「今や無職で前科者のごろつき。出世したもんだな、津雲」
がくっとおきまりのポーズでこけてみせる。あのなあ、おれはあんたと漫才しに来たんじゃねえんだ。苦虫を噛み潰したような顔でフィルターをくわえる哲平に、山口は身体を乗り出した。
「おい津雲、何であの男の部屋にすんなりと入った?」
「だから、みすずから電話があったって何度も言ってるでしょうが」
「おまえとヤツの関係は?」
別に、調査対象ってヤツですよ。それ以上は言えませんね。うそぶく哲平を山口はにらみつけた。
「梶尾綾也、東都大のエリート医学部生。なぜか片岡美鈴の現在の彼氏だ。どう考えたって吊りあわんだろ。おまえ何をつかんでる?新手の美人局か?」
「おれにそこまで言うってことは、もう捜査の初期段階で行き詰まっているってことですね。なあるほど、そりゃおもしれえ」
お互いこんな状況はいくらでも場数を踏んでいる。ましてや哲平相手に、まともな話になろうはずがなかった。
「それよか山ぐっさん、梶尾の様子はどうなんです?」
「守秘義務ってヤツがあるんだよ、知らねえのか?容疑者においそれと言えるかそんなこと」
「おれまで容疑者扱い、かっーひでえなあ、なげえ付き合いなのによお。おれのアリバイは立証されたんでしょうが」
携帯の着信履歴と簡易録音機能。こんなときはさっさと手の内を明かすに限る。哲平は警察に連れてこられてすぐに証拠として提出していた。
「あの声が、モノホンの片岡美鈴ならな」
「おれが元女房の声を聞き間違えるはずがないでしょうが」
しばらく無言のにらみ合いが続く。小さくため息をついて山口が哲平の耳元に口を近づけた。
「誰にも言うなよ。ここに来てからというもの、全くの黙秘だよ」
黙秘?あいつが?もっと論理的で落ち着いた男だと思っていた。そりゃああんな状況で落ち着くも何もないが、あそこまで取り乱す綾也は想像できなかった。そして今度は黙秘、か。
「まあ、黙秘というより茫然自失ってヤツだな。完全にいっちまってるよ。よほどのお坊ちゃまで医学部生と言えども血なんか見たこともねえんじゃねえの?大丈夫なのかねえ、あんなのが医者になってよ」
まさか、そんなはずはない。あのビルでの綾也、そして初めてヤツに会ったときに使われたおかしな技。とてもじゃねえが、あいつの方が修羅場を多くくぐり抜けているのではないか、そんな気さえしているのに。
「まあ、時間はたっぷりあるんだ。ゆっくり聞かせてもらうぜ、津雲」
はいっー?四十八時間拘留ですかい?留置場で朝を迎えろと?それでなくとも、これでもみすずの容態だって心配はしていた。おれが今さら何をどう考えても関わりはない。そう割り切れればいいのだろうが。
哲平はあきらめて椅子に座り直し、二本目のタバコを取り出したところで、突然取調室のドアが開いた。
いつもらしからぬ難しい顔で応対をする山口の表情を見逃すまいとする。彼に渡されたのは透明な袋に入れられた黒と青の見覚えのある…。
「ほれ、返すよ。も・と・ブンヤの必需品だろ?」
こちらに投げられたものをあわてて受け取る。中身は哲平の携帯電話だった。
どういうことだ?哲平の眉間にしわが寄る。
「釈放だ、二人とも。どうもお疲れさんでした。捜査にご協力ありがとうございました」
「釈放?どういうことだよ、まだ取り調べは?」
おれだって締め上げたいことはたくさんあるよ、山口自身、悔しさに唇を噛んでいる。まともな経路でこの釈放が決まったことではないことは自明だった。どこからだ?誰がこんな命令を。
哲平は戻ってきた携帯を握りしめた。
警察署の建物から放り出されて、哲平はさてどうしてものかと思案した。ついてくる刑事の姿はない。泳がせて様子を見るつもりもないのか。
こりゃあ、かなり上の方からの指令に違いない。少なくともおれじゃねえな。
やはり…綾也か。
だいぶ前を、足元もおぼつかない様子で歩く彼の姿が目に入った。いつも着慣れたハイネックシャツはいくら何でももう着られないのか、証拠として回収されたのか、彼が着ていたのは珍しく白いボタンダウン。
辺りを見回し、もう一度警察の気配のないことを確認してから哲平は綾也に足早に近づいた。
「よっ!今時の警察は粋だね。着替えの服までプレゼントかい?あんたのおかげで早々と出してもらえたようで、ありがとよ」
その声にうつろな目を向ける。綾也らしからぬ表情。拭き取りきれなかったのか、彼愛用の銀フレームメガネには、うっすらと血の跡が残っていた。シャツの首元にはっきりと見てとれる綾也の傷跡。
それとなく哲平が指摘すると、綾也は自嘲気味につぶやいた。
「津雲さんの調査能力を持ってしても、わからないことがあるんですね」
暗い瞳。おれだってなあ、言いかけた哲平の言葉が止まる。
「実の父親に切りつけられた跡ですよ」
哲平は息を飲んだ。少なくとも今は訊いてはいけない。梶尾俊介教授と綾也の間にどんな確執があったのか、そこまではとても情報が不足している。もっとよく調べてから。そんなことよりも彼の口調に、哲平は珍しく胸を痛めた。
「おまえこれからどうするんだよ?あの部屋には当分は入れないだろうしなあ」
「どこかホテルを探します。とにかく今は…」
おれも定宿をおんだされた身でね、ご一緒させていただいてよろしいでしょうか。哲平の声に、力なく綾也はお好きにどうぞ、とため息とともに言った。
哲平は昨夜のホテルに連絡を入れると、荷物を預かってもらうよう頼み込んだ。もとより大切な情報を置き去りにするような油断を見せる男ではない。それよりも今は、綾也から離れてはならない。哲平はそう感じていた。
ブンヤの勘。彼の鋭い嗅覚はそれを告げていた。
綾也が入っていったのは哲平がいつも使うよりは数段格上のビジネスホテル。セキュリティもある程度は確保されるだろう。懐が寂しくなるが、まあこの非常事態、そうも言ってはいられまい。
「シングルを二つ」
カードを出しながら淡々とフロントにそう告げる綾也に、ツイン一つね、と哲平は口を出した。
「すみません、津雲さん。今は一人にしておいていただけませんか」
弱々しい綾也の抗議に、こんな状態で一人にできるか、と哲平はさっさと手続きを取った。
「僕は…」
「いいんだよ、こういうときは年長者の言うことを聞け」
哲平は彼の肩を押すと、部屋へと向かった。
ザッーというシャワーの音が止むことはしばらくなかった。
綾也は何度も何度も自分の傷だらけの身体に泡をこすりつける。それでもあの残像は消えやしない。
外せないメガネがお湯をはじく。その上から両手で顔を覆う。お湯はとめどなく流れ続けた。
ようやくタオルを手に出てきた綾也に、哲平はビールの缶を掲げた。
「長いねー、フロ。わりいけど、先にやってるよ」
「何度洗っても…消えないんです。血の匂いが」
綾也のつぶやきに、哲平は顔を上げた。やはり様子がおかしい。こんなに動揺するような男とは思えなかった。綾也は何らかのこだわりでもあるかのように、途中で買い込んだ黒いいつもと同じ形のシャツを着込んだ。
こいつが黒以外を着る姿を、そういえば見たことがないな。
黒、喪に服す色。
さっきの真っ白いボタンダウンだって十分似合っていたのに。
「おまえ、だって医学部だろ?血なんて見飽きてんじゃねえの?」
わざと普通の口調で対応する。どうしてもつかめきれない。梶尾綾也、こいつはいったい何者なのだろう。哲平には知りたいことがありすぎた。でもそれはまだ今じゃない。ときを待つこともブンヤには大事な能力。
「僕の専攻は基礎医学の分野なんです。医師免許も取るつもりもありませんし、おそらく臨床系の単位は受けないと思います。血を見る機会なんて、ない」
そう言うと彼はビジネスホテルの硬いベッドに腰を下ろして、頭を抱え込んだ。
ただの血ではない。初めて愛した女性の身体の無数の傷から流れ出る大量の血液。
なすすべもなく抱きしめるしかなかった、自分のふがいなさ。綾也は深い自分の思考にはまり始めていた。
「ほらよ」
そんな綾也に哲平は銀色に光る小さな何かを差し出した。二センチ角ほどの四角いそれは、わずかな光を受けてほんの少し輝いた。
「……クスリ?」
とまどいがちに綾也は答えた。これをどうしろと言うのだ?
「世に言う銀ハル、睡眠導入剤ってヤツだ。ビールで流し込んで何も考えずにがーっと寝ちまえ」
哲平は口元をニヤリとさせてそう言った。昔も今も、睡眠薬遊びが流行った頃にはよく使われたクスリ。
麻薬でも何でないから持っていたところで違法ではない。しかし、普通の人間が当たり前に持ち歩くものでもあるまい。
しばらく無言で哲平を見つめていた綾也は、ようやくいつもの冷静な口調に戻ってこう言った。
「僕のカードは生体認識ですから、津雲さんには使えませんよ」
その言葉に、哲平は天を仰いだ。
「かーっ、ひでえなあ。こんな善良な市民をつかまえて、追いはぎ強盗みてえに言うなよ」
二人でほんの少しの苦笑い。ようやく綾也の頬に赤みが戻ってきた。
「……ありがとうございます、津雲さん」
津雲さんなんて他人行儀でいけないやね、哲平でいいよ哲平で。そう声をかける哲平に、だって他人ですから、と綾也が言い返す。
「冷たいのね、綾也ちゃんて」
わざと拗ねて見せながら、それでも綾也のために開けたビールを手渡す。綾也はため息を一つつくと、それを口に放り込んだ。
慣れていない者にとっては、その組み合わせは強烈な効き目をもたらす。数分もしないうちに、綾也はベッドに倒れ込んで寝息を立て始めた。
眉をひそめ、苦しげな表情で。その寝顔を見ながら、なぜか哲平は綾也の荷物に手をつけることもなく思いにふけっていた。
綾也の携帯、手帳、カード類。
喉から手が出るほど欲しい情報が詰まっていることは、哲平自身が一番よくわかっている。それでも彼は身じろぎ一つすることなく、綾也のそばにただ座って見守っているだけだった。
悪夢だったことしか覚えてはいない。息苦しく、脳の中を直接痛めつけられているような。
それでも眠ったことは確かなのだろう。綾也の意識は少しずつはっきりとしてきた。
僕はただの研究者の卵。それでいいはずだったのに。どこかで何かが少しずつ狂い始めた。
みすずに出会った。何者かが僕をしつこく追い回し、そして、ルカ。
ルカ?はっとしたようにベッドから起き上がる。身体中がきしんだ。
「よお、よく眠ってたぜ。気分はどうだい?」
哲平は顔をこちらに向けることもなく、ひたすらPCに向かっていた。
「零細業者はどんなお仕事もお断りできなくてよ。あともうちょっとで仕上がる。送信したら終わりだ。先におまえ、何か食っておけよ。そこににぎりめしやらサンドイッチやらコンビニで買い込んでおいたから」
「僕…食欲は」
実際、綾也には全く食欲などわくはずもなかった。頭が締め付けられるように痛む。今は何から考えればいいのか。自分でも混乱しているのに。
「バーカ、おまえこのままやられっぱなしでいいのかよ」
エンターキーを押し終わった哲平が顔を向ける。いつものふざけた顔ではない。目が真剣だ。
「津雲…さん」
「哲平でいいっつったろ?みすずを刺した犯人を見つけたいとは思わないのか、って訊いてんだよ」
哲平さん……綾也がつぶやく。唇を噛み、両手をぐっと握りしめる。あの感触、流れ続ける血。
誰がいったいあんなことを。みすずの容態はどうなのかすらわからない。意識不明のまま集中治療室にいると聞いた。警察の管理下にあるかぎり会うことも難しい。
「もちろん、見つけたいです。僕も」
「じゃあ食え。食って体力を温存しとけ。いつ何があるかわからないんだからな」
哲平がコンビニの袋を差し出す。綾也にとっては普段口にしたこともない食料。取りあえず無難にサンドイッチを取り出してはみるが、どうやって開けていいものか。
「かーっ、これだからお坊ちゃんは困るよ。ほらこっからこう開けて。飲み物は何がいい?」
かいがいしく世話をする哲平にされるがまま、綾也はタマゴサンドを口に入れた。途端に襲う吐き気。それをぐっと我慢する。
「おーお、けなげだねえ。惚れた女のためにはそこまでがんばりますってか」
哲平さんは心配じゃないんですか、むせながらも綾也が反論する。それでなくとも彼が落ち着き払っていることが不思議でならなかった。
「あの女は、つええよ。銀座でナンバーワンを取るなんざそうそうできるこっちゃねえ。単身都会へ出てきて、それを一人でやり遂げたんだ。こんなことでくたばる女じゃねえことは、おれが一番よく知ってる」
哲平さんはまだみすずさんのこと…、言いかけた綾也を哲平は苦笑いでさえぎる。
「そりゃねえな。これでも別れるときはけっこう修羅場だったんでね」
金回りはいいだろうから、少しばかりこっちにもって腹はあったけどな。自嘲気味な彼の辛い表情。
「最低な男だよ、おれなんか」
哲平の沈んだ声に、綾也は何も言えなかった。
「とにかく、警察はこれ以上動くつもりもないらしいぜ。おれたちから何も聞き出そうとすらしなかった」
なぜ?そう問う綾也に、訊きたいのはこっちだよという言葉を哲平は飲み込む。
「どうする綾也?このままなかったことにもできる。おまえは大学に戻り、おれはまたフリーのライターとしてみすずには関わらない。それでもいいんだぜ?」
挑発するような哲平のセリフに、僕は一人でも捜し続けますと言い切る。
「よし、決まりだな。元亭主と今彼ってヤツか。ごろつきと東都大生じゃ釣り合い悪すぎるがな。よろしく頼むぜ、相棒」
綾也は差し出された手を握り返すと、みすずの顔を思い浮かべた。
……みすずさん……どうか無事で。
綾也は固く目をつぶった。
「おい、ちょっと待ってくれよ。こっちはな、長年愛用のPCに服に、資料だってあるんだぜ?」
「荷物が多いのは哲平さんの勝手です。僕には関係ありませんから」
一泊旅行でもできそうな程度のカバン一つで、涼しい顔をした綾也が前を歩く。
その後ろからキャリーバッグを二つも転がしながら、肩にも大きなカバンをかけてよたよた哲平が続く。一つぐれえ持ってくれたって…恨めしそうな声をわざと聞き流す。
もうあの部屋には戻れない。警察から捜査は終わったからと言われたところで、あの部屋で寝られるとはいくら綾也でも思わなかった。
真っ白な内装に飛び散った真っ赤な血液。拭いた程度で取れるはずもない。もとより、あそこへ行けばいやでもいろいろなものを思い出す。
業者に後始末を任せた。おそらくすべての痕跡も残らないように真新しいペンキで塗り直すことだろう。
そして、何の疑問も持たずにあらゆるボルトは外されるのだ。綾也が住んでいた事実は消え、代わり映えのない高級マンションとなって売りに出される。綾也は自嘲気味に口元をゆがめた。
あれだけの事件にもかかわらず、公になることも新聞沙汰になることもなかった。もちろん、梶尾綾也の名前は全く出ない。それがどこからの圧力なのか、彼自身、今は考えたくもなかった。
綾也は彼の財産管理を委託している弁護士事務所に連絡を取り、新しい部屋を探してもらった。
都内で大学に近ければ他に何も条件は要らない。父親がイギリスに旅立つ前に、さらに言えば綾也がSTEを追い出されてから、この弁護士には何かと世話にはなっている。事件のこともすぐに連絡は行ったのだろうが、特に触れられることはなかった。
彼らもまた、綾也に余計なことは何も言わない。まるで父親と同じように事務的に処理されるだけだ。
「すげえ金持ちは違うねえ、都心の一等地のマンションをいくつお持ちで」
おどけたような哲平の声に、ちらっと振り向く。憎めない男。しかし油断ならない、男。
住むところがないという哲平に、よかったら次の部屋の一室を提供すると言い出したのは確かに綾也からだった。共同戦線を張ったもの同士、近い方が何かと便利だろうと思ったのだ。
しかしそれだけじゃない。彼がどこまで知っているか、何を掴んでいるのか。つねにアンテナを張っておかなければ。
彼がSTE、そしてPSDに近づくのを止めなければ、おそらく自力で哲平はたどり着いてしまうだろう。
そのとき、自分に彼を救うだけの余裕があるか自信はなかった。
その方が何倍も怖かった。
『好奇心猫を殺す』
その意味を、どうにかしてこの男にわかってもらうにはどうしたらいいか。
「おまえこそ、何でそんなに軽装なんだよ。医学部生だろ?本とかいらねえのか?」
「僕には必要ありませんから」
必要ない?一瞬不思議そうにした哲平は、「ああ、噂のグラフィックメモリーってヤツか」とあっさり口にした。
ほら、この男はこうやって僕のことを調べ上げている。
気を許しているのかそうでないのか、奇妙な同居生活が始まろうとしていた。
ほんのりとベーコンの焦げたいい香りが辺りに拡がる。ここはどこだ?ラボラトリの食堂か。
もう朝食の時間だっけ?
早く行かないとルカが僕の隣の席を取って、待ちくたびれた様子でふくれるんだよな。
「S」のみんなだけ、食事の席も別。アツシ、僕の言葉を彼女に伝えておいてくれないか。
まどろみながら昔の記憶に漂っていた綾也は、ハッとして飛び起きた。
「おっ、ちょうどいいところで。飯ができたよん」
綾也は真新しいベッドの毛布をはいで、急いでキッチンへと向かう。そこにはすっかり朝食の用意をすませ、涼しい顔で味噌汁を盛る哲平がいた。
「な!何をしているんですか哲平さん!」
「何って、見りゃわかるだろうが。こう見えてもなおりゃあ調理師免許も持ってるくれえ料理上手ときたもんだ。おれが一人いると便利よお。うまそうだろ」
見ればいつの間に購入したのか、鍋に茶碗にまな板、そして包丁まで。
「置いていただいているんですから、このくらいはしないとねえ」
味噌汁に散らすワケギを切ろうとした哲平の手を、綾也は思いきり掴んだ。そして精一杯感情を押し殺した声で、彼に向かって言った。
「勝手なことはしないでください。僕は自炊はしません。調理器具など要りません。今すぐ処分してください」
あまりの彼の真剣さに、哲平は目を見開いた。喜ばれこそすれ、ここまで言われるとは思ってもみなかった。
「おれはな、おまえに少しでも栄養のあるもんを食わせてやろうと…」
「どうせ僕のことなど、何でも調べ上げているんでしょう?だったら!」
珍しい綾也の大声。哲平は最初こそ驚かされたが、まあまあ、飯食ってからにしようやと彼の肩を叩いた。綾也の息が荒い。言いたいことはまだたくさんある。そんな表情が見てとれる。
哲平は近くにあったコップに水を入れると綾也に差し出した。
「ちったあ落ち着け」
綾也は水を飲み干すと、息を吐いた。視線が下を向く。自分の出した声に今さらながら後悔しているかのように。
棚に置いてあったタッパーに、取りあえず包丁だけでも入れ、ガムテープで頑丈に留める。そこまでしてからようやく綾也は、わかりました、いただきます、と答えた。
家で取る食事など、綾也の記憶にない。幼い頃は自室に運ばれてくるトレーに入った冷たい食べ物だったし、ラボでは大勢の中で食事を取る訓練。それができなければ、ほんの少しでも皿が浮きでもすれば、もう食べることはできない。一人暮らしを始めてからは一日二食、外食のみの生活だった。
炊きたての白飯を口に運ぶ。熱い。こんなふうに家庭料理を食べた経験などなかった。綾也が黙ってしまったのを見て、哲平はわざと明るく声をかけた。
「どうだ、うまいだろ?別に高い米を買ってきてる訳じゃねえ。炊き方にもコツがあってよ、よくみすずに教えてやったもんだよ。あいつもそこそこできねえ訳じゃねえけど、まあおれにはかなわなかったね」
綾也が箸を置く。みすずの名前はまだ早すぎたか、哲平が変化を見過ごさないようにじっと彼を見つめる中、綾也は静かに話し始めた。
「僕がサイコキノであることは、もう哲平さんは知っているのでしょう?」
哲平はわざと黙っていた。サイコキノ…サイコキネシスを操る超能力者。
「僕は今でこそこうやって自己をコントロールする術をかろうじて身につけているけれど、それでもいつ暴走するかわからない。僕自身気づかないうちに、あなたを傷つけてしまうかもしれないんですよ?」
暴走したらどうなる?低い声で哲平が訊ねる。
鍋が飛ぶ、まな板に頭をぶつける、まるで出来の悪いコントだな。挑発するような哲平の枯れた言葉。
「刃物が飛んだらどうなります?」
「みすずも、それに巻き込まれたっつうのか?」
もう哲平は笑っていなかった。鋭い目つき。引き締まった口元。挑戦的なセリフ。
「僕じゃない!」
テーブルにバンと手をついて、綾也は思いきり立ち上がった。
二人はしばらくにらみ合った。
だが、哲平はふっとその緊張を解いた。
「わりいわりい、何でも疑うのがブンヤの悪い癖でね。本気じゃねえよ。わかったよ、危なそうなものは捨ててくるから。何、包丁がなくても料理はできるさ。キッチンばさみは…ダメだろうなあ」
「全部捨ててください」
きっぱりと綾也が言うのに、名残惜しそうに哲平は器具類に目をやった。
「毎食外でなんて食ってらんねえよ。はあ、飯も食えねえのか」
僕が全部払います。綾也のその言葉に、ホントだな?よっしゃあ、と態度を変え、哲平は朝食を平らげにかかった。
「とにかく、今作った分くらいはいいだろ?ほれ、おまえも早く食っちまえ!」
綾也もそれらを口にする。自慢するだけあって確かにおいしかった。僕さえ普通なら、こんな能力さえなかったら。綾也の心がほんの少し痛んだ。
「危検物注意、っと」
さっそく哲平は、すべての調理器具、特に刃物類を捨てるために分別を始めた。マジックで危険そうなものには注意書きをしてゆく。手伝うでもなくただ黙って見ていた綾也は、冷静に彼にこう伝えた。
「哲平さん、ケンの字が違います。正しくは、こざと偏です」
「あひゃ?」
とんでもない声を出して哲平が吹っ飛ぶ。その姿に綾也はやや冷ややかな眼差しを向ける。
「本当に元週刊誌の記者なんですか?」
「あ、今おまえおれのこと疑ったろ?疑ったな?かーっ、ひでえなあ。今時原稿手書きするヤツなんかいねえよ。漢字はね、読めれば十分」
言い切る哲平にさらに冷たい視線を送る。哲平は咳払いをした。
「あのなあ、おらあこう見えてもワセダの一文よ?まあ、東都大生ほどじゃあありませんけどね」
「えっ?じゃあ、あの、どうして…」
綾也は驚きを隠せずに、彼の顔をまじまじと見た。
「一文を出た男が何で三流ゴシップ誌の記者なんぞやって、今や前科者のごろつきかって?おまえなんかみたいなヤツから見たら、おれなんか本当に転落人生で底辺をうごめいている虫けらぐれえにしか思えねえだろうな」
いつも陽気な男の顔が陰った。綾也とはまた別の苦しさをいろいろと抱えているのだろう。彼にも最近、それはうっすらとわかりかけてきた。
どんなに幸せそうに笑顔を振りまいている通りすがりの若い女性も、家族連れも、どこかに傷を隠し持っているものなのだ。
ただ、僕のような経験はそうはいないだろう。イヤ、それですらもしかしたらうまく隠し通し、市井の一般人として生きている先輩がいる可能性だって、皆無ではない。
僕だけではない。それでも僕は一人で生き続けなければいけないのだ。
綾也は静かに言った。
「そんなことありません。哲平さんが転落人生だなんて思ったこともない。第一あなたは僕よりずっと強いじゃないですか」
これは本心だった。ラボラトリ以外でこんなに精神力の強い人間を見たのは初めてだった。それが、彼の言う知的好奇心から来るものなのか、人間的魅力なのか。
「まあ、そりゃケンカはよ、ガキの頃から実戦で鍛えられてっから」
苦笑いする哲平に、たたみかけるように綾也は言葉を継いだ。
「それだけじゃないです。いつも冷静で先を読んで動く。落ち着いていて何を見ても動じない。僕のサイコキノを目の当たりにして助け出してくれる人なんて、あなたくらいなものです」
そんなにほめるなよ、照れるじゃねえか。わざとそっぽを向くと哲平はタバコを取り出した。ほめ言葉には慣れてない、そんな感じをにじませる。
「哲平さん、僕と一番最初に会ったとき思いっきり殴りましたよね?本気で」
ごほ、ごほ、と煙にむせた哲平が涙をにじませる。
おめえだって、そのサイコなんたらでおれの車ぶっ壊しやがったじゃねえか。その言葉を飲み込む。
「いやだなあ、綾也ちゃん。まさかまだ根に持ってんの?あれはさ、おれがだよ?真面目な服役生活を送っている間に、こんな優男に元とはいえ恋女房を取られたと思ったらさ、つい…」
しどろもどろになって哲平が弁解する。あの話を蒸し返されて部屋を追ん出されたら、たまったもんじゃねえ。
しかし綾也はそんな哲平の言葉を相手にすることなく、まっすぐ彼の目を見つめた。
「お願いです。僕に合気道を教えてください。それから実践的な敵との戦い方も」
綾也は本気だった。サイコキノで戦うなど、制御できないヤツを呼び出すなど、もうゴメンだった。僕は僕自身の力で戦う。みすずさんを守る。そうしたかった。
「何だよ、ちょーのーりょくは封印か?」
わざとおどけて哲平が混ぜっ返す。それに、この部屋の家賃ということでどうでしょうと切り返す。
「そういうことでしたら、喜んで。商談成立だな」
哲平はニヤリと笑った。
都心にわずかに残った緑の木々が生い茂る公園。綾也はもうすでに肩で息をしていた。
それでも気力で哲平に立ち向かってゆく。伸ばした腕はだが、ひょいとかわされてしまった。
「おいおい、お坊ちゃんよ、それで終わりじゃねえだろうな?おれなんか汗一つかいてないぜ?」
綾也の整った顔は苦しさでゆがみ、額には汗が光っていた。口を大きく開けて呼吸をするのがやっとだ。
悔しい、初めてそんな気持ちが生まれる。精一杯殴りかかった彼の手は、だが哲平の大きな手のひらに受け止められ、軽くひねられてしまった。
「これは合気道の技、突小手返しだ。そして実戦ならな、本物の突きはこうやるんだ」
不意に哲平は強くこぶしを作って殴りかかってきた。思わず綾也は硬直して何も動けない。哲平は綾也の顔面すれすれにぴたっとその突きを止めて見せた。
綾也はごくっと喉を鳴らすと、引きつった顔を哲平に向けた。
「綾也おまえ、隙だらけだぜ?」
しばらくそのポーズのまま、哲平は口元をゆがめた。こいつあ、ケンカどころかスポーツもろくにやったことなどないのだろう。
「これから毎朝走ります」
「おー、そうしろ、そうしろ。ついでに腹筋とスクワットもな。ジムに通うか?」
茶化してはいたが、哲平の目はけっして笑っていなかった。
梶尾綾也。不思議な存在。
「それにしてもあのロリータ姉ちゃんとの対決で見せた殺気は、どこ行っちまったんだろうなあ。あのときはさすがのおれでさえビビったぜ」
「…試してみますか?」
綾也はそう言いながら銀フレームの細いメガネを下にほんの少しさげて見せた。
「ごめんごめん、わりい。どうかお気持ちをお鎮めになってくださると助かるのですが」
こんなところで飛ぶ物もないだろうが、サッカーゴールでも飛んできたら何かとやっかいだ。苦笑いで哲平は綾也をあわてて止めた。
彼はそっと細い支柱を指であげると、静かに話し出した。
「いったん始まってしまえば、強制的にでもメガネを掛けない限り普段の僕には戻れない。執拗に攻撃を続けることでしょう。おそらく相手が息の根を止めるまで。生体反応が止まるまで」
辛そうに彼がつぶやく。普段の綾也と真逆の自分にとまどいつつ、それを受け入れざるをえないことへの葛藤。
「このままではいつか、僕は確実に人を殺してしまう」
その恐怖にこいつはいつも怯えているというのか。哲平は彼の肩をぽんと叩いた。
「合気道ってのはな、攻撃の武術じゃねえんだ。あくまでも自分の身を守るためのものだ。おまえもそのうち、その力をコントロールできるようになるって。今からそんなに心配すんなって」
彼なりの優しさ。綾也はほんの少し微笑んだ。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved