事件
ぱん。
乾いた音に誰もがクラッカーを鳴らしたのだろうと思った。ちょっとした祝い事か、それとも仲間内のいたずらか。
とにかく周囲の雑音にまぎれて聴き慣れたいつもの音。それがラルクの店内にいた客の認識だった。
ただ一人、綾也を除いて。
彼は、はっとして入り口の方へ視線を送った。暗がりと紫煙ではっきりと姿が見えない。足元は編み上げのブーツ、迷彩色の裾を絞ったアーミーパンツ。そこまでしか判別できない。しかし、綾也にはそれで十分だった。
「それでねえ…」
甘ったるく話を続けようとする加奈子の頭を無理やり押して下げさせる。他のみんなにはできるだけヤツを刺激しないような小声で「伏せて!」とささやいた。
「何よ梶尾ちゃん、何かあった」
呑気に大声を上げる蘭子の口を右手で押さえて、腕を引っぱる。とにかくテーブルの下へ。
「いいから、黙って。絶対に一言も話さないでください。いいですね!」
何が何だかわからない合コンのメンバーたちは、それでも綾也の迫力に押されてまるで避難訓練の子どものようにテーブルの下へと潜り込む。
紫煙がやがて少しずつ薄れ、全体像が見えてきた。
迷彩服の上下、腰に巻いた数知れずの弾薬、肩より長い髪を無造作にたらし、右手に何かを握っている若い男。にたついた怪しい表情。目の焦点が合っていない。
めざとい客と店員が、ヤツに気づいて目を見開く。店の一部が凍り付く。
左手でタブレットのような白い錠剤を何錠か口に放り込み、噛み砕く。男はそのまま右手を水平にすると壁に向かって、発砲した。
「きゃっー!」
ようやく事態が飲み込めたのだろう、あちこちから悲鳴が上がる。
店中の客が壁際に寄り合い、場所を探して逃げまどう。しかしここの店の入り口は一つ、そこを通るにはヤツのそばを横切る必要がある。どう考えても不可能。客だけでなく店員の間にも動揺が拡がる。
誰かが携帯を取りだし、震える手で百十番を押そうとした瞬間、そちらに向かって銃が向けられた。
ぱん、ぱん。
また、乾いた音が響く。実際の銃声なんてこんなに軽いものなのか。
「ひっ!」
当たりこそしなかったが、携帯を持っていた若いサラリーマンは、思わずそれを取り落として青ざめた。
「ふざけた真似しやがると、今度は確実にボディに穴を開けてやるぜ、ひひ」
ヤツはまた錠剤を口にすると、音を立てて咀嚼した。最近出回り始めたとはいえ、日本では錠剤型の麻薬などあまり聞かない。いったい何だというのか。
その男は店内を見渡すと、まっすぐに綾也たちのテーブルに近づいた。山田らの息を飲む音が聞こえる。綾也はできるだけ目立たぬよう、頭を下げた。
「なあ、おまえら。何でオレがこの店に入ってきたとき、おまえらだけ隠れたんだ?」
にやりと笑いながらヤツがそう口にする。
「誰も気づいちゃいなかったよな。悪いなあ、そういうとこ目ざといんだよオレ。気になっちゃうんだよねえ」
無意識に誰もが黙って綾也を見た。
「出てこいよお、かくれんぼはもうお終いだぜえ?」
そう言うとヤツは一番近くにいた加奈子の腕を引っ張り出した。綾也があわてて身体を押さえるが、アーミーブーツの靴底でしたたか顔を蹴られる。
加奈子は恐怖で声も出すことさえできなかった。身体がわずかに震えている。
綾也は皆の視線を感じつつ、彼女の前に立ちふさがった。
「彼女は関係ない。隠れろと言ったのは僕だ」
はっきりとヤツに向かって言い切ったが、聞くそぶりさえ見せなかった。
またも白い錠剤を取り出す。何らかの薬物中毒。間違いない。だが綾也でさえわからない物質。
「オレはねえ、男女差別とかキライなの。男だから先にやれってこともねえしな。まあどっちにしても、こいつらは何となく許せねえな。ちゃらちゃらした格好しやがってよお。どうせ親のすねかじりの金持ちの学生だろう?生きてる意味あんの?あんたら」
ヤツが綾也の脚を払う。不意を突かれてよろめく。
その隙にヤツは銃口を加奈子に向けて安全装置を外す。その指先に力を入れる。
「くくく、死ねよ」
綾也は床に手をつくと素早く立ち上がり、自ら銀縁のフレームを取り払った。
視線はヤツに向けたまま、顔をわずかに上げる。蔑むようなあの表情が彼を彩る。
立ち位置の関係で、他の客にはわからなかっただろう。加奈子だけがその変化を目の当たりにした。
ゆっくりとゆっくりと、綾也が変わってゆく。
口元は歪められ、目は細められ、何よりもあの温かさが失われ。
「な…なんだ?」
ヤツの持つ小さな拳銃、おそらくベレッタ辺りだろうが、それまで加奈子を狙っていたはずの銃口はどんどん曲げられ、自分自身へと向けられていった。
「ひゃっ!」
綾也の目に邪悪さがさらに加わる。
ヤツの腕がおそらく自分の意志と反してこめかみへと動いてゆくのを、さもおかしそうな冷ややかな視線で。
「お、おい止せよ。何してるんだよ。オレじゃねえぞ。た、助けてくれ」
そのうち、ヤツの身体がふわりと浮いた。そのまま床へと思いきり叩きつけられる。両方の手が自分の首にかかり、力が加わっているのが見てとれる。
もっとも見ているのは加奈子と、冷たい能面のような綾也のみ。
他の客はおそらく、犯人がクスリのせいでおかしな行動を自分で制御できないとでも思っているのだろう。言葉もなく、見守っている。
「クックックッ」
とうとうこらえきれないかのように、綾也が小さな笑い声を上げた。彼の目が細められるたびに、ヤツの首には力が込められてゆき、苦しげに唸る犯人のうめき声が聞こえる。
加奈子の瞳が怯えたように大きく見開かれる。それは決して犯人にではなく、おそらくは……。
ばんっ!とドアが開けられ、「警察だ!」との声が響き渡る。その声にはっと我に返ったように綾也はあわてて銀のフレームをかけ直す。
犯人はふっと力が抜けたように身体全体を弛緩した状態で倒れていた。加奈子は耐えきれず、他の仲間の元へと駆け戻った。
「加奈子ー!大丈夫?怖かったね!もう平気だよ、警察も来たし」
必死に彼女の友達が声をかけるも、立っていられずうずくまって加奈子は泣きじゃくった。
綾也は自分を何とか取り戻すと、右手を広げてもう一度メガネをかけ直した。そして、小さくため息をつくと加奈子の方へと向かっていった。
「大丈夫ですか、中村さん」
できるだけ優しく声をかけたつもりだった。
しかし加奈子はびくっと身体を震わせると、恐ろしいものでも見たかのように振り返った。
「中村さん、あの…」
「いやーっ!来ないで、そばに来ないで!いや!」
さっきとまでは違う、もっと本能的な恐怖が加奈子をおそっているのが見てとれた。酷く泣きじゃくり、加奈子は身体中で綾也を拒否していた。来ないで、その言葉をただくり返す。
綾也は思わず足を止めた。顔がこわばる。
頭の中に響くフレーズ。
オマエハバケモノダ・ニンゲンナドデハナイ・オソロシイ
綾也はその声にただ打ちのめされるばかりだった。
「りょーやくーん。おーい、りょーやさーん」
日射しが強くなりかけた大学構内に、男の声が響く。
街路樹が葉を茂らせる大きな通りを何本か通ると、そこは医学部医学科の建物だった。
綾也がいつも居場所としている谷田貝研究室ではない。一応まだ学部生の彼にとっては、取らなくてはならない履修科目もいくつか残っていた。この男は、わざわざその教室までも探し当てたというのだろうか。
一階の大きく開け放した窓からは気持ちのよい風が入り込んでいた。医学科は二十五人ずつの二クラス。綾也の所属するのはMbと呼ばれていた。そのクラスメートが一斉に窓の方を向く。生物学の教授はPCの画面を止めていったん講義の流れを止めた。
ただ一人、綾也だけはできるだけその声が耳に入らないように必死に目をつぶっていた。
彼の机にはノートがない。もちろん教科書ももう必要ない。あるのはとりあえず何かのときのための筆記用具だけ。そのペンを握りしめる。
「あのう、梶尾くん。あの方はお知り合いではないのですか」
温厚で知られる教授は、穏やかに綾也へと声をかける。
「いえ、全然知らない人です」
きっぱりと言い切る綾也に、冷てーなーと聞こえよがしにでかい声を出す。
「おれと綾也ちゃんの仲じゃねえの。飯行こ、飯」
時計はちょうど十二時を指していた。二限目の終わりは十二時十分だったが、人のいい教授はその声に「じゃあこれで終わりにしましょうねえ」と、画面を閉じた。
クラスメートの困惑気味の顔とくすくす笑い。何しろこんなにちぐはぐなコンビも珍しい。
綾也は観念して目を開けると、キッと窓の外をにらんだ。
そこにいたのはあの男、みすずの元配偶者だった。
綾也はそれでも、大学では一人でランチを取ることは少なくなっていた。友達づきあいだって市井で生きてゆくための大切なスキル。なのに今日は皆、含み笑いと共に手を振って「じゃ、がんばって」と去って行ってしまった。
綾也は大きくため息をつくと、窓の方へと歩み寄った。
「あのとき助けていただいたのは感謝しています。でも本当に僕はあなたのことは何一つ…」
「おれ?ああおれは津雲哲平。哲平でいいよ。これでもな、ちょいと昔は週刊誌の記者やってたんだ。まあブンヤってヤツな。そんな固苦しい顔すんなってば、これから長いお付き合いになると思うのでよろしく」
差し出した哲平の手を全く無視して、綾也は教室を出て行こうとした。
「おい待てよ、綾ちゃんよ!」
「馴れ馴れしく人を呼ばないでください」
ずんずん綾也は歩いていく。いつもの彼らしくもない冷たい態度。
「聞きたくないの?こないだの話。いっろいろあんだけどなあ。あのラリラリあんちゃんがキメてたクスリ、何だかわかったぜ?」
不意に綾也の足が止まる。黙って冷静を保っているように見えてもわずかに肩が震えている。
「なあ、東都大生御用達のうまい店とか、この辺にねえの?」
哲平は、にやりと笑った。
「あんだよ、穴場の店でも教えてもらおうかと思ったのによお、チェーン店か?」
ありふれた内装のただのファミレスで、綾也は彼と向かい合った。昼時期とあってたいそう混雑していたが、かえって人に聞かれたくない話を小声でするにはちょうどいいかもしれない。もっとも哲平がどこまでの情報を入手できたかによるのだけれど。
「だいたいなぜ僕があなたと食事をしなきゃいけないんですか。先日のビルの一件ではご迷惑をお掛けしましたが、この間のラルクでの事件はあなたとは何の関係も…」
「いいじゃねえかよ、細っけえことはよ。わりいねえごちそうになっちゃって」
大して長くもない脚を組んで、哲平は横柄に綾也へ笑いかけた。口調はまるでその辺のごろつきだが、なぜか憎めない。天然パーマの短い髪を立て、黒い丸めがね。開襟のシャツは色こそ違えど、この間とそう変わりはない。うっすらと見えるその瞳が、何よりもくるくると動いて、表情を明るくさせているのだろう。
だが、一筋縄ではいかない男。綾也はそんなイメージをも彼に持った。
綾也は店員に手を軽く上げると、すいません伝票別でお願いします、と事務的に伝えた。哲平はそれを聞くと拗ねたように横を向き、ケチ、と吐き捨てた。
「それで、僕に何の用なんですか?」
二人の前には水滴のついた水のグラス。哲平がその縁をそっとなでる。
「まあそんなに焦るなよ。元ブンヤとしてはね、いろいろ調べてみるとこれが結構おもしろくてね」
「犯人の麻薬は何だったんですか。わかったっておっしゃっていたのは嘘ですか?」
「嘘じゃねえよ。錠剤型の合成麻薬なんかMDMA、まあ世に言うエクスタシーってヤツだな。それがほとんどだけどよ。まあ分子生物学がご専門の梶尾さんにこんな話は、釈迦に説法でしょうがね」
「僕の専門まで調べたんですか?」
「ネットにゃいくらでも書いてあったじゃねえか。今はいい時代だねえ、インターネット検索様々だ。でな、今回のは」
「あれはMDMAではありませんでした」
ああそうだ、色も形も微妙に違う。それにあれほどの短期間で効くはずがない。
「PSD。最新の合成麻薬だよ」
「!」
綾也は言葉をなくした。PSDが出回っているというのか!そんなバカな。
「そしてそれを扱っているのが青龍会。何でかさ、他の組織は手を出そうともしねえんだよな。まあこれはこれで非常に興味深い話ではある。でも、わりいがちと話がでかすぎだ。おれ一人で追いかけるにはまだ時期尚早なんでね。おれとしては、別にもう少し興味を惹かれる対象があってね」
「…何がおっしゃりたいんですか」
元ブンヤ、週刊誌の記者。推測でしかないがまともな大手出版社の元記者には見えない。そしておそらく、見た目よりずっと切れる男。綾也の胸に不安が拡がる。
「ここで言っちゃってもいいのかなあ」
頼んでおいたセットはまだ来ない。店内はますます人が増え、店員はこちらまで手が回らないのだろう。
綾也は答える代わりに哲平をまっすぐ見た。
「例えば、……STE」
綾也の顔色が青くなった。
思わずつかんだグラスがかたかたと音を立てる。
「あれえ、どうしちゃったのお?梶尾綾也さんよお」
その表情の変化を哲平が見逃すはずがない。下からねめつけるように彼を見る。
「どうやら民間の教育研究所らしいということまではわかったんだが、えれえガードが固くてな。歳を考えても綾也が研究員ってことはねえだろうし」
グラスが小刻みに揺れる。綾也は息を飲んだ。なぜ、なぜこの男は。
「一つ考えられるのは、……綾也自身が研究対象」
ガタン!耐えきれずに綾也はグラスをテーブルに叩きつけた。顔色はこれ以上ないほど青く、今にも倒れそうだ。
ニヤリと笑って哲平は言葉を続けた。
「ビンゴ…ってか?おれのブンヤとしての勘もまだまだ捨てたもんじゃねえな」
「世の中には知らない方がいいこともありますよ。『好奇心、猫を殺す』ということわざ、ご存じですか?」
かすれた息で、ようやく綾也がそうつぶやく。知らなければどれだけ幸せか。彼にはそれがわかっていないのだ。そんな綾也をあざけるように、哲平は言葉を続けた。
「あいにく、東都大生ほどの学はねえからな」
セットメニューがようやくテーブルに並べられた。もう綾也には一口だって食欲などなかった。すべての料理が配られるまで二人は無言だった。
ハンバーグを切り分けながら、哲平はわざと明るく綾也に向かって言った。
「おれはな、その飽くなき好奇心ってヤツと自慢の嗅覚で世の中を渡ってんだ。つまり」
一口ほおばって、哲平はサングラスを外した。意外と言ったら失礼なほど聡明そうな瞳が綾也を捉えた。
「そのヤマが、金になるかどうかってな」
綾也は、黙ったまま彼を見つめるよりほかなかった。
みすずは声を上げないように、右手の人差し指を強く噛む。その仕草は今までの男の影を綾也に気づかせないためなのか。ほんの少し芽生えた嫉妬心。僕にそんな感情があったなんて。
心の揺れに一番動揺しながらも、綾也はわざと大きく動く。耐えきれずに彼女から吐息がもれる。思わずずり上がる肩を押さえながら、彼はみすずを強く抱きしめた。
「…イヤ、だめ」
綾也は何も言わない。固く目をつぶり高ぶりを抑える。
男としての快感に身をゆだねるよりも、もっとこうして触れ合っていたい。
こんな近くに息づく生命体がいること、彼にとってはそのことこそ、不思議でならなかった。
人の肌は温かい。
そんな当たり前のことすら、綾也には未知の世界だったのだから。
みすずの使うシャワーの音が響く。
こんなに穏やかに理性をなくすこと、そうか普通の人間にはそれができるのか。
綾也は半ば放心状態で、メガネを抑えていた。決して外してはならないもの。僕が僕であるためには必要なこと。
僕の中に僕がいる。それは決して望んだことでも生まれついたものでもなかった。
STE……。そこで別の僕がまた一つ形作られた。もう関係などない。僕は追い出されたのだ。
哲平はなぜあの研究所を僕と結びつけられたのだろう。ただ者ではない。そして、PSD。
考えたくなくとも考えざるを得ない物事が多すぎる。ルカのことだって。僕はもうただの一研究者として、ひっそりと都会の片隅で生きてゆきたいだけなのに。
深い思考に入り込んだ綾也は、そっとそばに寄り添ったみすずに気づけずにいた。ハッとする彼に彼女は笑いかけた。バスタオルを巻いただけのあでやかな姿。でもそれは艶めいたというよりも、まるで初々しいつきあい始めの女の子のようにも感じられた。
みすずがおずおずと綾也の首の傷に触る。「痛い?」そんなつぶやきに頭を振って応える。
「可哀想に。ねえ、この腕の傷は何?やけど?」
綾也の白い肌には無数の傷跡が残っていた。刃物でつけられたものもある。殴られた跡が消えなかったものもある。人前で素肌をさらすことなど今までなかった。みすずがその傷一つ一つを、おそるおそるなぞってゆく。胸にも腹にも、そして背中にも。綾也は不思議といやではなかった。どの傷も父や研究所でつけられた虐待の跡だ。なぞられるたびにまるで母に癒されて傷が消えてゆくような感覚さえ感じた。
一番目立つのが腕につけられたひきつれた傷跡。両腕のほとんど同じところにある。
「何だと思います?」
穏やかに綾也が口にする。みすずが顔を上げて彼の目をのぞき込む。彼の表情は変わらない。それだけ過去のことなのか、それとも感情すら麻痺しているのか。
「その二箇所に電極を貼り付けられたんです」
「電極?」
「よく動物実験などで見るでしょう?失敗したら微弱電流を流す。もっとも僕の場合は微弱でもなかったな」
死なない程度に加減された、しかしかなり強い電流。痛みは想像を絶する。何度気を失ったことだろう。それでも毎日のようにくり返された過酷な訓練。
「何それ、なんでそんなことをあんたが受けなきゃいけないのよ!」
綾也の代わりにみすずが声を荒げる。児童虐待もいいところだわ、怒る姿になぜかほっとする。
「僕は幼い頃、全く自分の力を制御できませんでした。感情が高ぶれば部屋中の家具は飛び交い、物は壊れ、人は壁に叩きつけられた。だから誰も入れない地下室に閉じこもるしかなかった。訓練施設があったんです。そこで僕は本格的にその力をセーブできるようにと」
「だからって何もこんな酷いやり方…」
みすずの目に涙がにじむ。でもそうでもしなければ綾也は一生外へは出られなかっただろう。
「だけど今は、そりゃたまに暴走するけど普通に暮らせるのでしょう?だったら何も」
「強力な後催眠をかけられたんです。ある程度力を抑えられるようになったら、今度はこのメガネさえかけていればサイコキネシスは現れない。僕の身体と脳が覚え込むまでその訓練は続けられました」
みすずの表情がきょとんとしている。無理もない。知らない単語ばかりだろう。だからこそ彼女になら話そうと思ったのかも知れない。
「よくわかんないけど、メガネさえかければ大丈夫ってこと?」
「それでも時折、この部屋中の物が飛び交いますけどね」
綾也の苦笑い。ああだからここには何も家具がないのか。刃物も何も、そして厳重な鍵も。
「僕が…怖いですか?」
自嘲めいた綾也の暗い陰。、みすずはしばらく彼のメガネの奥に隠された朱い瞳を見つめていたが、突然口をとがらせると文句を言い始めた。
「そんなことより、綾也、合コンしたってホント?」
「はあっ?」
急に別の話題を振られて綾也は目を見開いた。それから彼女の発言を理解するとあわてて弁明を始めた。
「ち、違います!あれは研究室の先輩たちに騙されて!」
「やっぱり若い子の方がいいんだ。へえーっ、綾也までそんなヤツだとは思わなかった。何か?めちゃくちゃお嬢さま大学のかわいい娘がそろってたんだって?」
「そんな!僕はですね!」
わざとふざけてみすずが綾也の頬をつねる。いたっ!と声を上げて綾也が狭いベッドを逃げ回る。
「どうせあたしはバツイチのとうの立ったおばさんですよ!肌だって二十歳の子とは違いますし!」
「僕は!」
みすずの細い両方の手首を、握りしめる。綾也は真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「僕はみすずさんが好きなんです」
みすずが息を飲む。唇にぐっと力を入れる。綾也は黙って目をつぶると、そっと彼女に口づけた。
「それでよ、この女がまたいい娘でさ。わりい、ねえちゃん。コーヒーもう一杯くれる?」
「はあっ?誰がねえちゃんですって!」
今にもつかみかからんばかりの恵美をまあまあとなだめ、綾也はため息をつくともう一度ソファに座り直した。
「さすが天下の東都大学だねえ、コーヒーにも品格ってもんがさあ」
「どうしてあなたがここに毎日いらっしゃるんですか、津雲さん」
できるだけ穏やかに言ったつもりだった。しかし綾也にしては珍しく声がとがっている。
「そんな目くじら立てるなよ、おれと綾也の仲じゃねえか」
友人知人になったつもりはありませんが、そう冷たく言い放つと哲平はニヤリと笑った。
「あれえ?おれにそんな態度取っていいのかなあ?ここでいろいろばらさせていただいてもいいんですよ。東都大学きってのスーパーエリート梶尾くんのお付き合いのお相手は、銀座クラブのナンバーワン…」
「わあっ!」
あわてて綾也が哲平の口を塞ごうとする。そのあわてぶりに周りは目を丸くした。
「僕のことは何を言われても構いません。でもみすずさんを貶めるような言い方は」
「言いやしねえよ。それよか、PSDのヒントだけでもくれねえか?」
哲平は思いのほか真面目くさった顔で小声でささやいた。
「どこでそんな情報を手にしたのか知りませんが、手を出さない方があなたのためです」
「はは、語るに落ちてるよ綾也さんよお。あんたはよく知ってるって口ぶりじゃねえか」
綾也は悔しさに唇を噛む。どう見ても哲平のほうが一枚も二枚も上手だ。何かを口にする、もしくは黙る。どれを取っても彼に情報を与えているようなものだ。
突然廊下に響く低い笑い声。片方は谷田貝教授、もう一人は聞き覚えがある。この声は確か…。
急に哲平は立ち上がると小窓から廊下に目を走らせた。素早い行動。そして彼らが通り過ぎると綾也の胸元を急につかんだ。
「おい!何であいつがここにいるんだよ!一人はあんたんとこの教授だろ?もう一人は青龍会の」
「あいつって、小暮とか言う…」
「おまえそれどこで?」
今度は哲平が目を見開いた。綾也の記憶力は半端ではない。一度、華恋のドア前で聴いたあの声。みすずを気遣う恰幅の良い紳士。青龍会ということは、暴力団組織?
それをかいつまんで話すと、哲平は深く考え込んでしまったようだった。何も言わない。しばらく下を向いていたが、不意に視線を上げると口元をゆがめた。
「こりゃ、こっちもビンゴ…ってか?どうやらおれにつきが回ってきたようだぜ」
ごちそうになったな、ねえちゃん。捨て台詞にドクター三人組は思いきり舌を出した。
全く気にするそぶりも見せず、哲平は片手を振ると涼しい顔で研究室を後にした。
「何なのよ、あいつ!ちょっと梶尾くん?あんたが変な女と付き合うからこういう輩を引き込んじゃうんでしょ!」
恵美がかなり怒りを見せてふくれている。それに、おとなしくすみませんと頭を下げるのは、もちろん綾也がヒエラルキーの一番下だからだ。それでなくとも東都大学院の博士課程に進もうなんて女子に、気の弱いお嬢さまがいるはずもない。
「そう言えば、こないだの聖上女子大生はどうなったの?」
蘭子が助け船を出したつもりか、話を変える。そうよ、あれから進展はあったの?真由美も身体を乗り出す。綾也は哀しげに微笑んで首を振った。
「あんな事件があったんです。僕の顔などもう二度と見たくはないでしょう」
その寂しげな様子に三人組は目を見合わせた。
しばらく無言が続く。
「うおっほん。まあチャンスはまだあるってことだ。次行こ、次!」
「また合コンセッティングしたげるから」
もう結構です。本気で嫌がる綾也を三人は囲んで口々に励ましともなぐさめともつかぬ言葉で追い詰めていた。少し離れて山田が、お気の毒様、という表情で彼を見つめる。
「あんたも手伝いなさいよ、山田くん!」
急に話を振られて、山田は思いきり「はい!」と姿勢を正した。
ビジネスホテルの一室で携帯電話をかけ続ける。タバコの本数は増えるばかり。インカムからは日本語と英語を取り混ぜてものすごいスピードで相手がしゃべり倒す。それに適当に返事をしながら、哲平の指はPCのキーボードを叩き続けていた。
「ちょっとした情報でいいんだよ、そしたら後はこっちが何とかすっから。何?ちょっと待てくれ。今時自分でURL手打ちしろって?わかったよ、早く言えよ」
相手が早口で言うアルファベットを正確に打ち込んでゆく。礼を言ってようやく携帯を切ると、哲平は声を上げた。
「あんだよ、これ。ドイツ語のサイトじゃねえか。ふざけやがってあの野郎!」
そう言いながらも彼は翻訳ソフトを使うでもなしに、その独語を読み解いていった。
STE…スペシャルセオリーエデュケーションラボラトリー。
スペシャルエデュケーションとは日本では特別支援教育と訳され、主に障害を持つ児童生徒への支援を意味する。しかし、アメリカ等諸外国ではもう一つ、ギフテッド(人口の約二%を占める、高知能で高い潜在能力を持つ英才児)を対象とした支援をも含める。
つまり綾也のような天才児を集めて、特別な教育を施す。素直で好意的に捉えればそういうことだろう。
なぜか日本ではギフテッドは受け入れられることはなく、支援も受けられない。飛び級がほとんどないのがその実例だ。国立大でわずか一校のみ実施しているが、効果を上げているという話は聞かない。
その批判を避けるためにSTEは表舞台に出ることをしないのだろうか。それにしちゃあ、あの厳重な情報管理は異常だ。日本のサイトにはもちろん、アメリカにもSTEの記述はない。
ドイツか。こっちから攻めてみるのも手だな。
なぜこんなにSTEにこだわるのか。
この目で見るまで信じられなかった。もちろん哲平にもサイコキネシスやらテレポートやらの雑学知識くらいあった。しかし、自身が体験することは彼にとってもかなりの衝撃だったのだ。
金になる。
それ以上に、彼の知的好奇心に火がついてしまった。見た目よりずっと哲平は……。
深く自分の思考に沈み込んでしまった彼は、しばらく指を止めてあごに手をやった。
梶尾綾也、あいつは何者なんだ。調べれば調べるほどわからなくなる。
不意にけたたましく哲平の携帯が鳴り響いた。見慣れぬ電話番号。さっきの情報提供者か。英語か日本語か、それともドイツ語で挨拶してやろうかと素早く頭を巡らして受話器マークのボタンを押した。
何も聞こえない。
哲平はインカムをむしり取ると直に耳を当てた。意味もなく胸に拡がる大きな不安感。
「もしもし?おい、誰だ?もしもし!」
「……すけ…て、たすけ…て、哲平」
この声は!
「みすずか!みすずなのか?どうした、何があったんだ?」
「たすけ……て」
弱々しい、ほんのつぶやきにしか聞こえないようやく押し出すような声。
「今そっち行く!どこだ、どこいるか教えろ!」
しばらく荒い息の音しか聞こえない。それすら本当にかすかな。
それでもみすずはまるで最後の力を振り絞るように、言葉をつないだ。
「綾也の……へや」
綾也の?
固まる哲平を取り残したまま、電話は切れた。一瞬の混乱。どういうことだ。それでも彼は何とか自分を取り戻し、部屋を飛び出した。
「港区の高層マンションねえ、かっー、いいとこに住んでやがんな金持ちの坊ちゃんはよ」
綾也の住居などとうの昔に調査済みだ。哲平はそろそろ瞬き始めた夜景の光に目を細め、煉瓦色の建物を見上げた。
父親は生化学者で、現在はイギリスの大学で教鞭を執っている梶尾俊介教授。かなり年若だがその手の賞を取ったこともあるほどの、優秀で世界でも名の知られた研究者。
そして母親はアリシア・セシル・フォレスト=梶尾。イギリスの仏系名門フォレスト家の次女。彼女は綾也が四歳の頃、日本で亡くなっている。
なぜ、そんな名家のお嬢様が日本へ来たのか、そして梶尾俊介と結婚したのか。いくら調べても何かの壁に阻まれて、さすがの哲平でもおいそれとはわかりかねなかった。
しかし今は、そんなことを悠長に考えているときじゃない。
あの電話。元ブンヤの癖で無意識に押していた簡易録音ボタン。苦しげなみすずの…声。
何が起こったんだ。そしてなぜ、みすずは。
部屋番号なんて知っていて当たり前。とりあえずセキュリティボタンを押すが、返答はない。そうだろうな。哲平は防犯カメラに写り混んでいることも十分承知の上で、綾也の部屋の暗証ナンバーを押した。こんなもの、調べりゃすぐわかる。個人情報なんぞ、その気になればいくらでも手に入る。
それでも手に入らないもの、それが梶尾…綾也。
九階の彼の部屋まで行く。鍵はさすがにないからどうしたものか思案したが、そのドアはわずかにすき間を空けていた。とりあえず無駄だとは思ったが薄いハンカチでドアノブをつかむ。それはすっと開いたのに、中から誰かの声がすることはなかった。
「おい、みすず!いねえのか?綾也?誰かここには…」
言いかけた哲平に異臭が漂ってきた。このニオイには覚えがある。嫌というほど、な。
あわててその部屋に向かう。リビングキッチン。明かりが洩れている、そこか!
「みすず!」
大声を上げて部屋に飛び込んだ哲平の目に入ったのは、辺り一面の血の海だった。
家具らしい家具はない。しかし白いソファにもカーテンにも壁にも、真っ赤な液体が飛び散っている。
そして部屋の真ん中で血だらけの女性を抱きかかえてうずくまっているのは…。
「お…おい、綾也」
さすがの哲平も絶句した。綾也は黒い地でもわかるほど真っ赤に染まったハイネックシャツが汚れるのも構わず、おそらくみすずであろう女性を抱きしめていた。
女性の顔は見えない。しかし、茶系の巻き髪と華奢で小柄な体型は見間違えようがない。
初めて見る綾也の狼狽した顔。お互い言葉が出ない。
哲平はごくりと喉を鳴らすと、そっと綾也に近づいた。
「まさか、おまえが……やったの、か?」
その言葉に過剰に反応して、綾也は思いきり首を横に振った。押さえていた女の首がわずかに揺れる。その血の気のないまぶた。青白い頬。まぎれもなくそれはみすず。
「僕じゃない!ここに来たときにはもう!」
綾也の取り乱す声に少なからず驚かされながらも、哲平は周囲を素早く見回した。他の人間が隠れているような形跡はない。しかし、ドアは開いていたのだ。逃げようと思えばいくらでも逃げられるだろう。おれよりも前に、か?
「何をどうしても血が止まんないんだ!どうしよう!さっきまではそれでも呼びかけに答えてくれたのに!みすずさんが動かないんだ!ねえ、どうしたら?」
流れ出る血を押さえようとでもしたのか、抱きしめながら悲痛な声で叫ぶ綾也に哲平は一喝した。
「ばかやろう!おまえ仮にも医学部だろうが!ちったあ落ち着け!」
救急車は呼んだのだろう、こちらに向かって聞き慣れたサイレンが近づいてくる。それとともに、もう一つ声色の違う規則的な音を聞くと、哲平はカーテンをそっとはぐった。
「かっー、仕事早ええなあ。救急車はともかく余計なもんまで来やがった」
遠目にもはっきりとわかる赤色灯に白と黒のツートンカラー。
哲平は独りごちた。
「ここで逃げ出して、痛くもねえ腹を探られてもたまんねえしなあ。どうしたものか」
ここまでの修羅場はいくら哲平でもそうあることではない。しかし、何かが彼を冷静にさせていた。いつも落ち着いている綾也とは対照的に。
綾也は手当をすることもできずに、ただただみすずを抱きしめていた。と言っても、おそらく全身を刺されたのだろう。
無数の傷口からは血が噴き出し、止めると言ってもそれは無理というものだったかも知れない。このままでは確実に失血死。それまでに救急処置が間に合うかどうか。
とりあえず哲平は近くにあったみすずの布製のベルトで太腿や腕など、できそうなところをぎゅっと結んだ。一番酷い背中はどうしようもない。タオルを綾也に持たせるとそれで押さえさせた。
そして、警官が踏み込むまでに訊いておきたいこと。
哲平は腰を落とすと綾也に声をかけた。彼の身体がびくっとはねる。それほど綾也自身が硬直していたのだ。
「おい、おまえがここに来たのは何時だ?」
「し、七時だと思います。いつもその時間に帰ってくる…から」
おれんとこに電話があったのが六時四十三分、か。哲平は自分の着信履歴を見ながら考え込んだ。
この時間差、そして、何よりも。
なんだってみすずのヤツ、綾也じゃなくてわざわざおれに電話を掛けてきたんだ?
助けて、なんて……。
いくら考えても今の時点では答えが出せようにもなかった。
救急隊が部屋に飛び込んでくる。素早く応急処置を始めるのを、綾也がうつろな目で眺めているのが不思議でならなかった。
なぜあいつまで、こんなに。
黒い服が赤く染まる。それほどの出血量にもかかわらず、まだみすずにはかろうじて息があった。
むろん彼女に意識はない。てきぱきと輸血と酸素吸入が始められる。
ほうっと一息ついて振り返った哲平に、見慣れた警官の制服とくたびれたスーツ姿が目に入った。
またこいつらとお付き合いかよ。今度は深い深いため息をついて、哲平は腕を組んだ。
(つづく)
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