希望
epilogue
#エピローグ
昼の銀座は大人ぶった顔を見せる。どこかすました風情の老婦人と日傘が似合う。その中を、先にゆく加奈子は涼やかに歩いていた。
後ろから大荷物を持たされて、足をふらつかせるのはもちろん、綾也だ。
「あっ!あのバッグ可愛い」
ま、まだ買うの?はしゃぎながら高級ブランド店に入っていく加奈子に、綾也はため息をついた。
これだからお嬢さまのお相手は……。
だいたい体力もないのだ。哲平に教わりかけた合気道の初歩はものになりそうもなかったし、ジョギングも筋トレも、あの事件でかなりのダメージを受けた今、彼にはしんどいものだった。
それでも、ガードレールに形ばかり寄りかかり、綾也は微笑んだ。
平凡で平和な日々。
心から望んだ、穏やかな毎日。
綾也は、初めてみすずと会った日を思い出していた。
華やかな夜の魔法をまとった美しい蝶と、エプロンさえ似合いそうなあどけない笑顔。この街で生き生きと暮らす彼女のすべてを失わせたのは、僕だ。
査問委員会のあと、福岡へ帰るという彼女を駅まで送った。後ろで係官がそっと綾也を見守る。
綾也が口を開く前に、みすずがつぶやいた。
「ゴメンね。あたしずっとあんたを騙してた。最後まで信じてやれなかった。だからずっとずっとあんたに謝りたくて」
寂しげにつぶやく彼女に、綾也は辛そうな視線を向けた。
「僕はあなたを何度も刺した。この手で。傷だらけにしてしまった。あんなに気高そうで華やかなあなたを。この街で輝いていたあなたを」
「身体の傷より、心の傷の方がどれほど酷く傷つくか。それはあたしだって知っていたのに」
二人はしばし無言だった。重い重い罪を背負いながらの無言。電車の到着を告げるアナウンスが響く。
「僕に近づいたのは…すべて計算ずくです…か?」
「最初はね。でもダメね。とても割り切れなかった。こんなに素直で人を疑うことも知らないで。かわいらしい仔うさぎみたいな朱い目をした男の子、初めてよ。哲平とちょっとからかってやったら、素直に信じちゃって」
くすっと笑うみすずに、あの頃の片鱗を見る。しかしその言葉には、驚かされた。
「からかうって、最初の出会いから哲平さんと何もかも承知で?」
綾也の目はこれ以上ないほど見開かれ、思わず頬が引きつる。
僕はおかげで思いきり殴られ、彼の車をPKで壊して…。
「信じてたの?あっきれた」
「はあ、僕は女性不信になりそうだ。一生、誰とも交際なんかできないな」
女はみな女優だと、誰かが言っていた気がする。綾也は頭を抱え込むと身体を丸めた。その姿にようやくころころと笑い声を上げるみすず。綾也もつられて苦笑いする。
「最初の女があたしでごめんね」
「最初の女性があなたでよかった」
その場で抱きしめたかった。綾也が愛した初めての女性。それがたとえ思惑があったものだとしても、最後には愛があったと信じたい。
「……どうしても福岡へ帰るんですか?」
その言葉に目を伏せたみすずは、今度はまっすぐと前を見つめた。
「今はね、一人で小料理屋を切り盛りしてんの。すごいでしょ。小ちゃい店よ?でも、固定客もついて女一人で食べて行くには十分」
「……哲平さんは?」
なぜそこで彼の名前を出したのか、綾也には自分の気持ちがわからなかった。
でも、彼にも安息の地があってもいいはずだ。
「ふふっ、お断りよ。あんなけんかっ早い調理師なんて」
あの人は、狭いゲージに入れておけない肉食獣だから。世界を飛び駆け回る方が似合ってる。
そう言うみすずの頬に、光るものを見たのは幻想だったのだろうか。
電車が入ってきて、最後に一度だけみすずは綾也を振り返った。
「元気で。あんたに逢えてよかった」
「僕も……」
綾也のつぶやきは、発車アナウンスでおそらくかき消されたことだろう。
また逢えたら、いやもうおそらく一生逢うこともないだろう。切ない瞳だけを残して、電車は出ていった。
白日夢の中にいた綾也の目の前に、ふくれ面の加奈子が立っていた。
「もう!綾也くんたら。どうせ他の女の子のこと考えてたんでしょ!」
そ、そんなことないよ。あまりに図星で思わずうろたえる。一人焦る綾也に向かって、加奈子は無邪気に言った。
「加奈子疲れちゃったあ。ねえ、綾也くんの部屋で少しお休みしていい?」
え?あ、あの、その、それは……。
「何よ!誰かカワイイ子と約束でもしてるんじゃないでしょうね?」
こんなに嫉妬深くて束縛する子だったっけ。お嬢さまの我が侭についていくのも楽じゃない。
「うちには、それはそれは小うるさい方が一人、おられますが、それでもかまいませんか、お嬢さま」
口調も丁寧に、綾也がおどけて言う。それって哲平さんのこと?加奈子がカラカラ笑う。
ショップの紙袋は見た目より丈夫で、けっこう重い。息を切らす綾也にさすがの加奈子も持ってあげると言いながら、一番小さく青いものを手に掛けた。
「加奈子ちゃん、ゴメン、こっちも持ってよ」
いつもなら黙っておとなしくしている綾也が、珍しく右手の荷物をすべて差し出した。彼女はほんの少しばかりむっとして、私、彼氏にそんなこと言われたことないわと言い返した。
「だって、右手が空いてないとこうできないでしょう?」
綾也は空いた右手でエントランスのオートロックシステムを解除すると、そのまま加奈子の肩を抱き寄せた。
みるみる頬を染める加奈子。緩やかな巻き髪が綾也の顔にあたり、柔らかなコロンの香りが広がる。
「だ、だいたい、家に戻ったって連絡もくれなかったくせに」
加奈子の声は、聞き取れるかどうか。ほんの小さなものになっていた。
医療センターにずっと入院してるからなんて、すっかり哲平さんに騙されてたんだわ。彼女はまだブツブツ言っている。
「心理療法の先生の指示でね、しばらく君には会うなって言われてたんだ」
「……どうして?」
素直なつぶらな瞳で見上げる加奈子。
僕の心が乱れるから。母からの愛と父からの不器用な愛情表現と、それを受け入れるだけで精一杯なのに、これ以上他の想いは負担になるだけ。
向井心理官はそう言ったが、綾也は敢えて加奈子に連絡を取った。理由なんかない。どうしても逢いたかったから。
我が侭で甘えん坊のお嬢さまだと思っていた。豹変する僕を見て怯えたのは彼女も同じ。
なのにあのとき……。
「ねえ、一つ訊いていい?」
加奈子が小首を傾げる。その仕草さえ愛おしい。
「どうして僕になら殺されてもいい、なんて言ったの?」
おおよそ小綺麗なマンションに似合わぬ会話。それでも訊きたかった。彼女の口から。
「好きな人になら、命を投げ出してもいい。女の子は誰だってそう思うんじゃない?心から本当に好きな人になら、ね。男の子も同じなのかなあ」
小難しそうな顔をわざと作って、加奈子がつぶやく。
…イノチヲナゲダシテモ…
母もそうだったのだろうか。僕は今まで見えないたくさんの愛に守られ続けてきたのか。
カチッと音を立てて鍵を開ける。いつものように、おおよそ前の綾也からしたら考えられない明るい声で、哲平さーん!ただ今!と叫ぶ。
となりにいた加奈子が驚くほど、とても明るい笑顔の綾也がそこにはいた。
しかし当の綾也は、何らかの異変を感じて警戒モードに入った。
……人の気配がない……
辺りを見合わせば、家具の一部がなくなっていた。辺りに散乱していたはずの書類すらも。
キッチンをのぞくがもちろん誰もいない。あわてて哲平の部屋を開けてみるが、壊れたベッドでさえ跡形もなかった。
じゃあ自分らの寝室にと、かけ出した綾也を、加奈子が大声で呼ぶ。
「ねえ!ソファのところに封筒があるわ!」
封筒?
誰がいつの間にこの部屋に入ったとでもいうのか?事件はすべて終わり、今は何も起こりえないはずなのに。
綾也はまず、封筒をその辺にあった薄い手袋でなで回す。大きなかさばるものは、入ってないらしい。
こんなときレイナがいれば、一瞬でわかるのにな。ほんの少しの感傷。
綾也が今度はペーパーナイフで、慎重に封を開けた。中に入っていたのは、もちろんUSBでもフロッピーディスクでもDVDでもなかった。
一枚の……紙。
哲平からの書き置きのようだった。
「置き手紙い?もう、哲平さんたらややこしいことしないでよ!今どき年寄りすぎない?」
加奈子の声に苦笑いしながらも、手袋を外して文面を読む。
『金になりそうなヤマを見つけたんでね。ちょっと出掛けてくる。二、三ヶ月後には帰って来れると思うが、あんまり期待しないでくれよな。メアドは変えてねえから。鍵は置いていく。管理人ももう要らないだろう』
えっ、それだけ?加奈子の声が響く。
綾也は紙袋を脇にきちんと並べると、もう一度、手書きの文を読み返した。
もちろんもうすでに彼の頭の中には記憶されてる。しかし、この文字を書いたのはまぎれもなく人なのだ。
そっと表面をなぞる。ペンのインクが手につかないところを見ると、だいぶ早くここを出たのだろう。
ちゃんとお礼も言えなかった……な。
「大変!お姉ちゃんに知らせなきゃ!」
理香子さんは知っている気がする。綾也のつぶやき。
「どうして?だって哲平さん、高文社の契約も更新しなかったってお姉ちゃん言ってたのよ?周りはずいぶん引き留めて、編集長の佐山さんも『フリーでいいからうちの専属になってくれ』って粘ったけれど…」
粘ったけれど?訊かずともその先はわかっている。おれは組織にはなじまねえって。
「だからお姉ちゃん、きっと心配して!」
話し続けるその唇に、みすずの真似をしてそっと指を押し当てる。
大丈夫、きっと哲平さんは理香子さんだけには、行き先も教えてると思うよ。ただのサイ能力者の勘だけどね。
加奈子は触れられた唇が熱を帯びたように感じたのか、またも頬を染めている。
見事なまでにどこにも彼の痕跡は残してなかった。
綺麗なキッチンには調理道具も食器もなかったし、膨大な資料類もすべて持ち出してある。
もう、一人でがんばって生きてみろってことなのかな。
二度と逢えない訳じゃない。二、三ヶ月などと言いながら、ある日ひょっこりと現れるかも知れない。
あの人らしい。
もし、みすずと知り合わなかったら、そして哲平と出会わなかったら。
僕はSTEに引き戻されて、PSD計画の推進を図るために殺戮兵器と化していたのだろう。
人の出会いは、運命をも変える。そして多くの人の愛で僕は生きている。
「ねえ、紅茶くらい飲みたいわ」
加奈子は途端にお嬢さまぶりを取り戻して、さらに無理難題を言い始めた。あとでここの一階にティールームがあるからそこにでも…。
言いかけた綾也にまっすぐ向き直ると、加奈子は一つ咳払いをした。
「ティールームも魅力的だけど、その前に一言」
な、何?うろたえる綾也の姿がよほどおかしかったらしい。またもカラカラ笑い出す。
「改めて綾也くん、お友達から始めましょう?どうぞよろしくね」
「はっ、はあ?今さら友達…からなの?」
嘘よ、すぐ人を信じるんだから。本当に綾也くんて素直でおもしろい。
そう言いながら加奈子は、顔をそっと近づけて綾也の頬に軽くキスをした。お帰りとささやきながら。
ふいに綾也は、彼女の髪に指を絡めつつ、身体ごとぐいと引き寄せた。
頬ではなく柔らかな言葉を紡ぎ出す唇へ直接口づける。深く深く、彼女の息が乱れ、吐息に変わるまで。
人の肌のぬくもり。母が父が抱きしめてくれたであろう温かさ。
思い出せ、それこそが一番大切な記憶。
それさえあれば、生きてゆける。僕は……。
僕の中の朱く燃えさかる鳥どもよ、どうか今は、深い眠りについてしまえ。
僕が生き続けるために。そして、目の前の彼女を守るために。
綾也は静かに加奈子を抱きしめ続けた。いつまでも、いつまでも。
彼の心の頑なな殻を一つずつ割り続け、いつか本当の綾也を取り戻すために。
fire bird……それは冷たく燃えさかる朱い炎の中、飛び交う鳥の群れ。
亡霊のように、ただただ幻想的に冷酷なまでに美しく。
( 了 )
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved
ご愛読ありがとうございました。北川にとって初めてのSFであり、超長編です。
綾也は僕にとって、ずっと側にいてくれたキャラクターであり、
それでいて、彼ほどの傷を持って救われることはないとあきらめていました。
作者ですら無理だというのに、加奈子も理香子も…そして何より哲平は
最後まであきらめようとはしませんでした。
出版社を動かし議員も使い、どんな手を使ってでも。
彼一人だけではとうてい無理なことでも、救いの手はどんどん増えてゆきました。
そして、Sのメンバーでさえもまた。
僕にとって自分を癒すためだけに書き綴ってきたこの物語を、
多くの方が読んでくださったことに心から感謝いたします。
本当にありがとうございました。