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慈愛

 鳥どもが舞い飛ぶ。それはときに艶やかに、ときに騒々しく。


 幼い綾也を鳥舎には近づかせないようにと、使用人たちは固く命じられていた。何十羽もの鳥は、狭いその空間で己を主張すべく羽ばたき続けていた。





「アリシア、またここにいたのか」

 梶尾俊介は家に帰ると、まずこの場所をのぞくのが習慣になっていた。たいてい妻のアリシア・セシルは鳥舎で鳥と戯れることが多かったからだ。

「お帰りなさいシュンスケ。ごめんなさい、お帰りになっていたのに気づかなくて」

 そっと鳥たちを驚かさないように、アリシアは鳥舎から出てきた。慣れぬ者にはどうしても鼻につく生き物の匂い。それを俊介が嫌っていることを知っているアリシアは、すぐに着替えますからと家に向かって歩き出した。


「綾也はどうした?」

 それまで朱く燃えたぎっていた彼女の瞳は、その言葉を聞いて鮮やかなプルシアンブルーへと変わった。

「まあどうしましょう。あの子をミカさんたちに任せっきりだわ」

 ようやく母親の顔を取り戻したアリシアは、着替えももどかしげに足早に部屋へと向かった。

 その後ろ姿に、俊介はわずかなため息をもらした。

 ここは日本だ。イギリスじゃない。だからこんな鳥どもは置いてくるべきだったんだ。





 強引に結婚を決め、逃げるように連れ帰った彼女は、どうしても長年飼っていた鳥たちを手元に置きたいと言い続けた。

 俊介はイギリスでの忌々しい思い出に関わるすべてを断ち切りたいと願っていた。


 アリシアのPK能力も、そのことにまつわる悲しみも、それ故に国の機関から目をつけられ続けていることも、俊介には自分ならアリシアを守りきれると信じていた。信じたかった。

 しかし彼女の精神状態を落ち着かせるためには、鳥どもは必要悪であり、朱く燃える瞳でいる時間がなくてはならないものであることに、ときを経るごとに俊介は納得せざるを得なくなっていた。

 唯一の救いは、彼女の、我々の息子、綾也の存在。

 子どもの名前を出すことで彼女は我に返る。母親として。


 俊介は鳥舎を複雑な思いで見つめ、やがてそっと目を逸らした。


 危うい均衡の元、何とか家族の形態を維持していた梶尾の家に異変が起きたのは、綾也が三歳になるかならないかの頃だった。





 最初は一羽だった。


 ある日、一羽のアカカナリアが鳥舎の床に倒れているのが見つかった。すぐさまかかりつけの動物病院の獣医師を呼ぶが、原因がわからない。詳しいことは解剖して検査をしてみないことには、と言う獣医師にアリシアは必死に抵抗した。

「この子は、ワタシがヒナの頃から世話をしたのよ!解剖なんてとんでもないわ!!」

 どんな病原体がいるか、わからないんだ。アリシアわかってくれ。言葉の限りを尽くした俊介の説得にも耳を貸さなかった。仕方なく、庭の片隅に土中深く埋めた。

 しかし俊介の心配は実際のものとなった。次々と鳥どもは倒れてゆく。餌も世話も今までどおりなのに。ただの寿命なら仕方がない。

 しかし飼ってまだ数年という新しいものもいたはずだ。不安は広がる。特に俊介のような生化学者にとって、未知の病気に対するアリシアの無防備さが気になって仕方がなかった。


「いい加減にしないか、アリシア!どのような病気かわからぬまま君はあの鳥舎に入る。子どもにでもうつったらどうするつもりだ?」

「ただの鳥たちではないわ!」

「綾也より大事なのか!」

 たかが鳥をめぐる言い争い。しかし二人にとっては、あの鳥どもは忌まわしい記憶の象徴。


「君はすべてを捨てると言った。イギリスを離れ、自らの力を封印し、私と一緒に新しい人生を生き直すと。こんなことで、言い合うなど時間の無駄だ」

 俊介の言葉は冷静だった。しかし、アリシアは涙を見せた。

「そうよ、言葉も何もわからないニホンに来た。誰とも話せない。ワタシはこの屋敷から出ることはない。それでも幸せだと思っているわ。せめて鳥たちと語らうくらい許してくれてもいいでしょう?」

「だったら、きちんと検査だけでもしてもらおう。原因がわかればむやみに怖がることはない。君の大切な鳥たちもこれ以上失うことはないんだ。頼むアリシア」

 あなたは、ワタシの鳥たちが嫌いなんだわ。アリシアの瞳がほんの少しずつ色を変えてゆく。

「私は君と綾也と、この家族を大切に守りたい。だからこそヤツらの手の届かない日本へ君を連れてきた。無論、相手がその気ならすぐさま君を拉致してゆくだろう。しかし幸いそこまでするつもりもヤツらはないようだ。私は平凡に君と…!」

 どこまで行っても逃げ切れることはできないのよ。アリシアの声が神託のように響く。

 私はあきらめない!俊介も負けじと大声を張り上げる。


「君は綾也を産むことで、その力をなくしたじゃないか。もう怯えなくてもいいんだ。君は今や、皿一枚たりとも動かせやしない。そうだろう?過去の亡霊に縛られることはないんだ!」


 亡霊かどうか、見るがいいわ。そう言うとアリシアは眼をぐっと細めた。

 プルシアンブルーは消え、代わりに現れる朱に燃えたぎる瞳。


「マムー、どこ?」

 昼寝を終えた綾也が、おぼつかない足取りで庭に出てくる。その彼を俊介はしゃがみ込んで抱きかかえた。


「見るんじゃない、綾也!」

 しかし、母親譲りの淡い朱の瞳はそのすべてを目の前で見てしまった。


 アリシアは、細めた眼を鳥舎に向ける。途端に冷たい朱い炎に包まれる鳥ども。


「……!」


 綾也は恐怖で声も出なかった。近寄ることも触ることも許されはしなかったけれども、母の語る寝物語で、たくさんの鳥たちの名前を知った。カナリア・アキクサインコ・ゴールデンチェリー・キンセイチョウ……。一羽一羽に特別な名をつけ、可愛がっていた母。


 その母が怒りの炎を上げている。


 ごうごうと燃えさかる地獄の業火、しかしそれは冷ややかで、氷と炎から世界が生まれたとされる北欧神話のように、いつまでも絶えることがなかった。

 その中心にいるのは、いつもの温和で優しげな母アリシアではなく、綾也と同じ瞳を持つ恐ろしい魔女。

 鳥たちは一羽ずつ焼かれ、それらは断末魔の雄叫びを上げながら転がり苦しみ、あるものはそれでも飛び立とうとした。

 使用人たちが消火器を持って飛び出してきたときには、もはや鳥舎はあらかた燃え尽きてしまい、一羽たりとも生命を持つものはいなかった。

 しかし綾也の目に焼き付いたのは、もだえながら冷たい炎に身体を朱に染めて、生きつつも焼かれ続ける鳥たちの姿。


 …  fire bird  …


 そして、わずかに妖艶に微笑む母の姿。


 チカラナドナクナッテハイナイ。ワタシハイツマデモコノママ。





 わあっという叫び声をあげながら綾也が飛び起きた。身体は冷や汗でぐっしょりと濡れている。

 肩で息をしつつも、さらに青白い顔を両手で覆う。これが僕の記憶。血に呪われた逃げようのない運命。

 この記憶を見るために僕は生き延びてきたのか。だから僕の罪は消えないのか。

 涙すら出なかった。状況を理解できないまま、音声ファイルとして記憶されていたのだろう。すべての記憶がつながり、僕は死ぬこともできぬままに罰を受け続けるのだろうか。


「梶尾、綾也さん。今思いだした限りのことをお話し願えますか」

 ときにカウンセラーってのは冷酷だな、と哲平は心の中で独りごちた。綾也の心の中で血がどくどくと流れ続けているのが見えねえのか。頼む、そっとしておいてやれ。


 しかし綾也は、ぽつりぽつりと今見たばかりの夢の内容を語り出した。

 夢ではない。しまい込まれていた自分自身の真実の記憶。fire birdのキーワードの元で。

 語り続ける綾也を、冷静に見つめながら聞く心理官の向井。隣で部下の飛島が記録を取っている。

 ある程度は哲平が当時の使用人を捜し出して調べた結果と一致した。しかし細部までは、ここまで覚えているとは誰も思いもしなかった。


 向井は静かに話し出した。

「我々は超心理学の知識はないに等しい。かなり勉強させていただきましたよ。女性のPK能力者というのは、性ホルモンの影響を受けやすいそうです。初潮、出産、そして閉経。それらの節目に力が失われるケースも多々あると言うことです」

「母は、いえ両親は僕が産まれることで母の能力が消えてくれればと考えたのでしょうか」


 そのための道具。


 父はあくまでも母を助けたいがために、危険を冒して日本に彼女を連れてきた。望みをかけて綾也を産んだ。

 いっけん治まったかのように見えた母のPK能力は、結局は消えることはなかった。そのときの彼らの絶望はいかなるものだったのだろうか。

 それ以来、僕は必要がなかったのだろう。乾ききる瞳。綾也の胸に広がる苦く黒い陰。


「一つ一つ、それらを癒していきましょう。すぐにとはいきません。時間のかかることではありますが……」





 言いかけた向井をさえぎるように、哲平は叫んだ。

「おい!黙って聞いてりゃ勝手なことを言いやがって!綾也!聞こえるか?」

 係官が押さえつけるのを振り切って、彼は綾也の元へと駆けよろうとした。

 ゆっくりと綾也が顔を上げる。生気のない顔に、淡い虹彩。痛々しげな彼の表情。


「思い出せ!もっともっと奥の本当の記憶だ!おまえのグラフィックメモリーってのはそんなもんじゃねえだろう?過去を探せ!おまえが産まれたときのことを思い出せ!」

 津雲さん、そんなに急に過去を引き出したら彼の心は壊れてしまいます。主任心理官の向井の言葉など、哲平は聞いちゃいなかった。

 このままでいいはずがない。この状態で綾也を放り出して、また明日か?それともまた来週か?冗談じゃねえ!こいつは今、すべてに絶望しているんだ。今でなければダメなんだ!


「おまえが産まれたとき、そのときの両親の顔が浮かぶか?おまえが持つすげえ記憶力で、まざまざと目の前に現れるんだろう?よく見てみろ。どんな表情だ。おまえを抱きしめているのは誰の腕だ。幼いおまえを抱き上げる力強い腕は。やわらかく微笑むその姿は誰のものだ?いいからとっとと思い出せ!」

「僕が…産まれたとき?」

 そんな記憶があるはずもない。通常の人間ならそう思うだろう。だが綾也は違う。パンドラの箱は開けられたんだ。必ず、必ずどこかにあるはずだ。産まれたときの祝福の光景が。


 綾也の視線が宙を舞う。何かを探し求めてさまよう。

 音声ファイルは、日本語も英語も理解できないあの頃、全く意味を持たなかった。今なら彼らの会話の意味がわかる。





「ほらシュンスケ、そんなに力を入れすぎてはダメよ。もっと優しく包み込むように抱きしめなければ」

 産まれたばかりの綾也を、慈しみの瞳で見つめるのは母。抱き上げようとして泣かれ、おどおどするのは…父。

「し、仕方がないじゃないか。生身の赤ん坊など見るのも触るのも生まれて初めてだ」

 ぎこちなく、それでも胸の音が聞こえるほど近くに抱き寄せて、父は綾也を不思議そうに眺めた。これが自分の子ども。あの笑顔の片鱗さえなかった父が、不器用そうに微笑んでいる。


「名前の候補はいくつか挙げてある。見てくれたかい?」

「リョウヤがいいわ。リョウという響きが素敵。きっと優しい子に育ってくれる」

 泣きやまぬ僕を母に返して、ようやく安堵のため息をつく父。肩が凝ったのか、腕を回している。

「そんなに緊張しなくたって」

 涼やかに笑う母の声。照れくさそうに横を向く父の姿。僕は、そう、母の瞳をじっと見つめ、そのあと思いきり抱きしめられたんだ。

 道具ではなかったのか?ただの母を助けるためだけの。


 しかし、それからベビーベッドに寝かされた僕の姿を見るためだけに、父は忙しい仕事の合間を見て家に帰った。

 その長い腕で持ち上げられ、肩に顔をつけ、愛おしそうに抱きしめる。

 何も言わない。言葉はいらないのだろう。父の頬が僕のそれに当たる。その感触までもが蘇ってくる。

 気の遠くなるような記憶の数。それを、ここへと閉じこめておいたのは誰なのだろう。


 愛されて……いた?少なくとも僕が産まれたことは幸せな出来事だったと?





「津雲さん!これ以上は危険です。彼が混乱する元になる」

「うるせえ!今じゃなきゃダメだっつってんだろ?」

 押さえつけられた哲平がもがく。親からの愛情を信じられないまま、カウンセリングで放り出されるなどということがあってはいけない。それこそ、綾也の心はこれ以上なく遠くへ行ってしまう。


 どうか届け!おまえは愛されて産まれてきたんだ!


「じゃあ、なぜ母は僕を殺そうとしたのですか。どうして僕の将来を悲観して死のうとしたのですか」

 大きなため息をついて、向井が哲平を見やる。こんな無茶な心理療法があっていいはずがない。そう言いたげな彼は、それでもこの言葉だけは必ず伝えなければと思ったのだろう。

 静かに綾也に向かい合った。


「梶尾さん。お母さんが死の直前、あなたに残したメッセージは何でしたか?」

 僕へのメッセージ?ああ、それは……。何だったんだろう。記憶にまたプロテクトがかかる。


「ご自分で外せるはずです。ゆっくりでいいですから思い出してみてください」

 綾也は目を固くつぶった。嫌がる綾也の手を引っ張る母。涙の跡も乾かぬまま、屋上へと連れ出された。

 母の頑なな表情にただならぬ決意を感じた。僕は原始的な恐怖を感じてその場から逃げようとした。

 その僕を抱きしめ、そうだ、こう言ったんだ。





 …リョウヤ、人を殺してはダメ。その力を使ってはダメ。ワタシのすべてをあなたにあげるから。神があなたをお守りくださいますように…





「殺してはダメだと、力を使ってはダメだと。母は最期にそう言いました」

「あなたを守るために、お母さんは身を投げ出した。命のすべてを賭けてそのメッセージを残した。だからあなたには人は殺せない。違いますか?」

 頭をがつんと殴られたような衝撃に、綾也は目を見開いた。それは哲平も同じだった。将来を悲観しての無理心中などではなく、綾也を守るための強固なプロテクト。あの漆原でさえ外せなかったほどの。


 向井は視線をゆっくりと全体に向けた。

「本来なら、これは時間をかけてゆっくり行うはずだった。あなたの固い殻を一つずつ壊していく必要があった。ずいぶん荒療治でしたね、津雲さん」

 名指しされた当の本人は、はん、とつぶやくとそっぽを向いた。


「生まれたそのとき愛情をもらっているのなら、その根はやがて大木に育つ。ほんの少しの優しさでいいのです。両親である必要もない。梶尾さん、あなたはその大切な愛情を大事に大事にご自分で育てて来られたんですよ。その精神力と忍耐力に、私は心理官としてではなく、人間としてあなたを尊敬します」

 向井さん…。頭を下げる彼にとまどいを感じながら、綾也は呆然としていた。

 愛というものが、僕にも向けられていたのだとしたら、なぜ父は……。


『お父さんさ、よっぽどお母さんのこと愛してたんだね。誰かを憎まなきゃやってけないほどに。お母さんが死んでほんとに辛くて苦しくて、つい、一番近くにいた綾也に当たっちゃったんだね。わかってあげなよ、もうお互い大人なんだから、さ』


 ふいに、みすずと出会ったばかりの頃の言葉を思い出す。

 それも愛の形。

 今はとうてい理解できなくとも、いつか僕は父親に逢える日が来るのだろうか。


 静まりかえった警視庁犯罪心理捜査研究所の一室で、ようやく綾也はひとすじの涙を流した。








 朝の柔らかな陽射しが部屋に差し込む。綾也は軽く寝返りを打つと、無意識に「マム…」とつぶやいていた。

 まどろむつかの間のひととき。夢とうつつをゆきかえりする。


 潜在意識の中に消えずに残っていた、ほんのわずかな両親の……愛。


 信じたい気持ちと信じられずにいる想いとがぶつかり合う。

 温かくほのかなぬくもりに包まれていたい、そう思っていた綾也の頭の上から、怒声が聞こえてきた。


「ほら、さっさと起きやがれ!いつまで寝てんだこのやろう。だいたいなあ、ハタチ過ぎたいい男がマムだと?このマザコン野郎が!」

 いきなりブランケットを引きはがされて、綾也は眠たげな目をこすりつつ起き上がった。

「もう少しいいでしょう?哲平さん。昨夜もよく眠れなかったんですから」

「何が眠れねえだ。おれだっておまえの寝言のせいで、眠りが浅かったんだぞ!」


 よくよく見ると、哲平は着替えを済ませた上に白の割烹着姿で、仁王立ちをしていた。

「それはこっちのセリフです!哲平さんこそ寝相が悪くて」

 おまえがおれ様の大事なパイプベッドをぶっ壊さなけりゃなあ!哲平はブツブツ言い出した。





 あの日、ぐったりとして部屋に戻ると綾也は自室へとこもり続けた。法律事務所がすべて手配した家具は、ゆったりとしたセミダブルベッド。しかし彼はその片隅に身体を丸め、壁から離れようとはしなかった。

 わずかに開けたドアから、哲平が見やる。かける言葉も見つからなかった。

 なぐさめか、甘い励ましか。その場限りの優しい言葉などいくらでも言うことはできる。


 しかし今の綾也に必要なのは、おそらく……限りなく気の遠くなるような時間。

 彼が自分を受け入れられるようになるまで、それは他の何にも代えがたいもの「時薬」。


 心理研の主任心理官向井は、帰りがけに哲平の肩を叩いた。

「彼の混乱は当分続くでしょう。決して一人にはしないでください。聡明な彼のことですから十分事実は受け止め、理解しているはずです。しかし、感情はそうはいかない。生まれてからの愛を受けて育ったほんのわずかな時期と、そうでない時期を、彼はこれから一人でやり直さなければならない。辛いことだと思います。あんな乱暴な療法、梶尾さんでなければ到底耐えうるものではなかったでしょう。そして、語りかけたのがあなたでなければね、津雲さん」

 哲平は複雑そうな顔つきでその言葉を聞いていた。


 眠りながらもなお、苦しげにうなされ続ける彼を見るのも忍びない。しかし、自分で癒すしかないのだ。





 日ごとに物は壊れ、せっかく哲平が苦心して揃えた家具も書類も、部屋中を舞った。そのたびに綾也は謝り続けたが、哲平は笑ってものも言わずせっせと片付けに精を出した。

 銀のフレームを掛けてもなお、抑えきれない苦悩。その表れであるPK現象が、また綾也の心を刺激する。そのくり返し。


 これでよかったのか、哲平に少しばかり後悔の念がわく。ことを急ぎすぎて、おれはヤツの立ち直りを邪魔したのか。

 けれど、あの場でたった一人にするわけにはいかなかった。そうすればもう二度と綾也はこちらの世界には戻ってこない。それだけはわかった。哲平にだけは。


 彼にしたら非常な努力をして温和に綾也に接していたある日、自分の預金をはたいて買ったお気に入りのパイプベッドまでもが、床を離れた。

 あわてて押さえるが間に合わない。黒とシルバーのおしゃれなイタリア製のベッドがきしみ、真ん中からぼきっという音を立てて割れた。

 しまった、多少の格好悪さは我慢してもビス留めしておくんだった。後悔してももう遅い。

 つい声を荒げる。

「……綾也…てめえおれの大事な…」

 ごめんなさい!切なげな子犬めいた瞳で哲平を見上げる。哲平もわかってはいる。悪いのは彼じゃない。しかしこれでは固いフローリングに寝ころぶか、体裁はいいが、ごついスプリングのソファに眠るか。


「僕がソファに寝ます!だから哲平さんはこっちのベッドで!」

 必死に哲平の袖を引っ張り続ける綾也に、はん、じゃあおれもこの超豪華なセミダブルベッドに寝てやる!てめえはそっち行け!と大声を出した。

「……はいっ?」

 眼をぱちくりさせる綾也をしり目に、哲平はせっせと自分の寝床を作った。一人分には有り余るでかいベッドだ。中央にクッションを置く。

「ここまでがおれの領土だからな。邪魔するなよ!」

 そう言い残すと、哲平は持参した自分の羽毛布団を頭からかぶって寝てしまった。

 壁側に寄らされた綾也は、しばし唖然としていたが、仕方なくそのまま壁の方を向いて横になった。


 浅い眠り。愛しているという感情と、朱く燃えさかる冷たい炎。飛び起きたいのに金縛りにあったかのように動かない身体。


 悪夢にうなされながら、低く唸り続ける綾也の顔に、ふいに飛んできた拳。

 避けることもできず、もろに食らったものだから、彼は額を押さえてしばしうめいた。


 何が起こったか、さすがの彼でもすぐには理解できなかったのだ。

 横を見ると、自分で領土だと威張りくさって線を引いておいたくせに、哲平は酷い寝相でいびきをかいていた。

 身体を起こし、しばしその様子を見つめる。額はまだ小さく疼く。何しろ有段者の突きが直撃したのだ。

 右手で押さえつつも綾也は自分の間抜けさに、そしてこの信頼すべき友人が無防備に眠りにつく様のおかしさに、頬をゆるめた。


 哲平は、彼は、何度も信じろと言った。どんな場面でもいかなる窮地でも。

 人を信じろ、世間を信じろ、周りを信じろ。敵だけじゃねえ、おまえの仲間はたくさんいる。


 綾也はそっと哲平の腕を布団の中に戻してやると、もう一度壁を向いた。コンクリートのむき出しではない、暖かな壁。となりには人の呼吸音。

 メガネに当たらなくてよかった。場違いな安心をして、彼は再び眠りに落ちた。





 しばらくのとまどいは、やがて当たり前の生活習慣と代わり、ベッドをシェアしながら眠ることにも慣れた。

 その結果が、割烹着?

 再び綾也の目が驚きで見開かれる。一体哲平さんは…。


「ほら、今日はお出かけの日だろうが。この津雲哲平様が腕によりをかけてだな、朝飯を」

 え、あのその…。素早く形ばかり顔を洗い、食卓に向かう。


 バターの香りも食欲をそそる美しい形のプレーンオムレツにトースト。コーヒー付き。

「ホテルの…朝食みたいだ」

 いただきますだろうが、最初は!哲平が手を合わせて一人ぶつくさ言う。

 このトースターは二台目でしたか?綾也の言葉に、哲平はちらっと下から見上げる。

「トースターは三台目、フライパンが宙を舞ったのは五回。卵は買ってきたそばから割りやがって。おれの頭にいくつこぶができたことか!」

 文句を言う哲平はそれでもどこか楽しげだった。会心の出来だったのだろう。確かにとびきり美味なオムレツだ。

「あきらめが悪いんですね、哲平さんも」

 わざと綾也が挑発的に話しかける。無論、おいしいですよの言葉も忘れずに添えて。

「こんだけてめえに壊され続けても、ここで手作りの食事を食わしてやりたかったんだよ。わりいか!包丁がなくてもこれくらい出来らあ」

 そういう哲平は自分の分をさっさと平らげて、うまそうにタバコをふかしている。横を向いて照れながら。





「何時に行くんだ?」

 視線を合わせずに哲平が訊く。今日は学部長に呼ばれている。僕に下される審判は裁判だけではないのだ。退学か除籍か、またはそれ以上の罰則があるものなのか。

 研究者としての道は閉ざされるかも知れない。通常の就職も難しいだろう。僕はこの部屋で、ただ毎日を消費するだけの日々が続くのだろうか。

 しかし綾也にしては珍しく、目の前にあったプレートをすべて食べ、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。

 皿もカップも、今は飛ぶ様子も見せない。

 朝の光は暗がりの不安を一掃してくれるようだ。


「……ついて、行ってやってもいいぜ?」

 ぶっきらぼうに哲平がつぶやく。それに微笑みながらやんわりと断りの言葉を口にする。

「大丈夫です、僕一人で。何があっても受け止められますから」

 そう、か。目をつぶり哲平は独りごちる。


 着替えを終えて玄関に向かう綾也に、哲平は驚かされた。

「おまえ、いつもの黒いのはどうした?」

 彼の着ていたのは、ワイシャツにネクタイ、そして学生らしいジャケットだった。

 ハイネックでない分、どうしても傷跡が痛々しくのぞく。それでも彼は笑顔だった。


「学部長に会うのですから、これくらいきちんとした方がいいかと思って」

 ほんのわずかずつでも、見えないところで綾也は前に進んでいるのだ。

「やけ酒なら付き合うぜ?それとも、ご学友とのどんちゃん騒ぎか。朝帰りでもいっこうにお構いなく。連絡さえくれれば」

 哲平らしいはすっぱな声援を後ろに聞き流しながら、綾也は部屋を静かに出て行った。





 …ねえあの人、ほら…


 …ニュースとかばんばん取材来てたよね。顔とかも映ってたし。すごい度胸、よく大学に来られるね…


 …え?逮捕されて拘留されてるんじゃないの?…


 …起訴猶予だってさ…それって執行猶予付きの有罪ってこと?…


 …外科医にだけはなって欲しくないよね。メス持たせたら何するかわかんないし…


 …こわああい、くすくす…


 ただ大学構内を歩いているだけだった。それでも自然と綾也の耳に入り込んでくる雑音。報道管制はいくらでも敷ける。だがひとたび広まった噂は人びとの中からはそう消えてはくれないものなのだ。

 棘の刺すような視線の中、それでも綾也は顔を上げて歩き続けた。


 首元のワイシャツの感触が、違和感を感じさせる。


 頑なに着続けた喪に服する黒。それを脱ぎ捨てた彼は、幾分晴れやかに大学のメインロードを歩いていた。

 これから先待つ運命も、僕は受け止められる。けっして一人ではない。


 人を信じろとあの人は言ってくれた。だから…。


 学部長室の重厚なドアの前で深呼吸。おもむろにノックする。不機嫌そうなその声は、入学のときにこやかに迎えてくれた、父のかつての研究仲間の板倉教授。彼の胸中も複雑だろうな。まるで他人事のように綾也は苦笑した。


「梶尾くん、君には失望したよ」

「大学には大変ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 殊勝に頭を下げる綾也に、板倉は書類を投げ出す。

「ふく……が…く?僕は大学に復学できるのですか?」

 驚きを隠せずに、綾也は叫んだ。最低でも自主退学を勧められると思っていたからだ。


「起訴猶予で実質無罪とはいえ、マスコミ報道もかなり派手に行われた。大学の名も汚された。犯罪が行われたことは事実だと聞いている。そんな学生を再び受け入れるなど、前代未聞だ。わかっているかね?」

「……申し訳ありません」

「無論、プレマスターは取り消しだ。法的に問題はないとしても、倫理的に医師免許を取ることも遠慮願いたい。どこの病院も君を受け入れる気もないだろうがな。君は通常の学生として目立たぬように学業に励み、時期が来たら研究室でも何でも入ればいい。その頃には噂も薄まっていることだろう」


 僕の犯罪をなかったものとして、皆の記憶が風化するのを待てと言うのか…。それも一つの処世術なのだろう。今日の綾也は素直に言葉一つ一つを受け入れた。


「第一…」

 言葉を切る板倉を見上げる。

「君を退学処分にしたらどうかという意見が出た途端、医学部の教授陣らが一斉に辞職すると言い出した。全く、君の才能には勝てんな」

 教授たちが…。見ず知らずの綾也のために署名を、嘆願書を書いてくれたのも彼らなのだ。

 一人ではない。その言葉がここにも息づいていた。処分を告げる板倉までもが苦笑いの表情を浮かべた。


 部屋を出てゆこうとする綾也の背中に、板倉が声をかける。

「お父上は、梶尾教授からは何と?」

 ほんの少し和らいだ声に、振り向いた綾也はそっと首を横に振る。実際なんの言葉も電話もなかった。

 それでいい。僕はまだ彼と対面するだけの勇気がないんだから。


 手続きを済ませ、哲平にメールを打つ。

 ガッツポーズとピースサインだけの返信。絵文字にはそれくらいしか気持ちを表すものは見つからないのだろう。

 それでも、綾也は微笑んだ。あの人らしい。





 研究室にプレマスター取り消しの報告をしなければと歩き始めた彼に、焦った顔つきの学生が目に入った。元谷田貝研の山田だ。

「山田さん。先日は失礼しました。今研究室へ行こうとしていたところなんですよ」

 言いかける綾也に最後まで言わせず、彼は腕を取った。

 何ですか、山田さん?いぶかしがる綾也に、新教授が挨拶したいって言っててさ、としどろもどろに答える。


「新教授って、後任の方が決まったんですか?でもこちらの方向は、学食じゃないんでしょうか……」

 まあまあという山田に不吉なものを感じる。また合コンなんて、まっぴらゴメンだ。

 だいたい、学生協第一食堂と新教授という取り合わせは妙だ。

 いいから来てよ。今日の山田は少々強引だった。なかば引っ張られるように一食に足を踏み入れる。


「あーあ、早すぎますよ山田さん!まだこっちの準備だってねえ」

「飲み物足りてるー?お菓子みんなの分、配ってあるよね?」

 学食はにぎやかな声であふれていた。色とりどりの食べ物にドリンク、手作り感あふれるパーティー会場。どの顔も見慣れたものばかり。


 綾也の学部でのクラス、Mbの連中だった。

 みなにこやかに、それでいて照れくさそうに下を向いているものもいる。

 宴会と言えばしゃしゃり出てくる松山が、マイクを持って登場するとみんな割れんばかりの拍手をした。


「えーっ、ちょっと山田さんの段取りが悪くてですね、早まった感がありますが、ただ今から梶尾綾也くんのプレマスター取り消しを記念いたしまして、ざまあみろの会を始めたいと思います!今さらびっくりしないの!今日は我が寺内教授のコネ使い放題!カンパはちゃっかりもらいつつ、復学だろうがプレマ取り消しだろうが、最重要情報大漏洩で、知らぬは本人ばかりってね。はい、そこ!じゃんじゃん盛り上げて!」


 わあわあぴゅーぴゅー、ここぞとばかりに大騒ぎするクラスメートたち。だいたい医学科などは体力勝負なので根が体育系と決まっている。


 入り口で呆然と突っ立っていた綾也を、クラスの友人たちが中に引き入れる。


「ほら、梶尾くんはここ。今日の主役なんだから、松山なんかより目立たなきゃダメよ!」

 コップ持って!いきなりビールの入った紙コップを手渡される。

 何が何だか、本人にはこれっぽっちもわからない。


「……ちょ、ちょっと待って、みんな。これって一体…」

「今日の一食はMbクラスで貸し切りよん。あと、谷田研の人も呼んであるし」

 その言葉に後ろの方を見やると、確かに恵美たちが手を振っている。

「みんな君が帰ってくるのを、ずっと待ってたんだから」

 女の子にさらっと言われて、綾也は息を飲んだ。


「全くふざけんなですよね。この松山、梶尾には言いたいことがたくさんある!なあにが一人でプレマスターだ。勝手に飛び級なんてしてんじゃねえぞっと。だから案の定、出戻りでMbにお帰りいただいて、助かるヤツがどんだけいることか!」

 おまえの寒いピン芸見に来た訳じゃねえぞー!司会を務める松山にヤジが飛ぶ。

 綾也の肩に手を置いて、ぼやくヤツまで出てくる始末に、彼は目を白黒させた。

「梶尾のいない後期試験が、どれだけ悲惨だったか」

「一人でさっさと研究室なんかに入りやがって。語学も数学もあてにしていたのに」

 グラスを持って、さあ、かんぱーいと松山が声を上げる。好き勝手に宴会を始めるのに綾也だけがついてゆけない。

 お帰り、おかえんなさいと、いろいろな友人から声をかけられる。どの顔もアルコールが入ったせいか、それとも嬉しさからか赤みを帯びている。





 たまりかねて綾也は叫んだ。


「みんな待って!みんなだって、僕が何をしたのか知っているんでしょう?どうしてこんな…」


 盛り上がっていた会場は一瞬にして静けさに包まれた。

 松山は、いつもは見せない真面目な顔でマイクをはずしてそっと言った。


「ああみんな知ってるよ。梶尾綾也という人間は、そんなことができるヤツじゃないってことをさ。何かよほどの訳があったのだろうってね。おれたちはおまえを信じてる。たとえ仮におまえが有罪判決を受けたところで、それは変わらない」

「……僕は…犯罪者だ」

 綾也は頑なに言い張った。しかし彼らにその論理など通じない。

 日本が誇る難関大学の最高峰、医学部生の集団。

「だから何だ。日本は法治国家だ。罪は償えばいい」

 皆に微笑みが戻る。静かな連帯感。松山は続ける。


「Mbクラス二十五名、一人も欠けることなく一緒に卒業しよう」


 ……みんな。


 その言葉に強固な彼の殻が、また一つ砕けて落ちた。


 何も言えずに彼は下を向いた。周りにそっと寄ってゆくクラスメートは、肩を抱いたり頭を抱えたり、なかにはどさくさにまぎれて抱きついたり。

 そんな、当たり前の学生生活に、僕は戻ってきたのだということに、綾也はこの上もない幸せを感じていた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

次回、いよいよ最終話となります。どうぞよろしくお願いいたします。

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