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変化

「おいしかったねえ、さすが銀座の一幸はネタがいいわ」

 この前とは変わってかなり元気を取り戻した感のあるみすずが、綾也に笑いかける。

 週末の華やかな街は、真昼の明るい太陽を浴びて輝いていた。


 今日のみすずは小花を散らした清楚なワンピースで、黙っていれば休日を楽しむOLに見えなくもなかった。

 そんな彼女を穏やかな瞳で見つめる綾也は、いつもの黒いハイネックにブラックデニムのGパン姿で、微笑んでいた。

「回らないお寿司屋さんなんて、初めて行きました」

 綾也の言葉にちょっと驚いたふうにみすずが問いかける。

「お坊ちゃま体質だと思ったのに、ずいぶん庶民的ね。あーあ、玉の輿狙ってたのに」

 いたずらっぽくのぞき込むみすずに、綾也はどぎまぎして顔を赤らめた。

「嘘よ。本当に素直なんだから。何だかこっちが悪いことしてる気分になっちゃう」

「みすずさんは、慣れていらっしゃるんですね、ああいったお店」

「まあね、それが商売だから。でも、今日ほど幸せな食事はなかったな。同伴のお客に気を遣うことも女同士張り合うこともなくって。お金の心配もないし、ね」


 まるで共犯同士のように、二人は顔を見合わせてくすりと笑った。九万五千円遣い切ってないわよ、まだまだ付き合ってよね、みすずの言葉に目で頷く。

 みすずは大きくのびをすると、その腕をそのままさりげなく綾也の左腕に絡ませた。とまどう間もなく身体を寄せ合い、雑踏のなかを一緒に歩く。

 もちろん初めてのことで、綾也は動揺を表情に出すまいと必死に努力をしていた。もっとも、みすずにはすべてお見通しなのだろうけれど。


 触れた腕が温かい。


 人の温かさを感じることなど綾也には経験のないことで、自分の中に生まれている感情をどう処理していいのか、彼は実のところ困り果てていた。

 決して嫌ではない。

 けれども彼をいつも抱き上げてくれた母はすでになく、母でさえ綾也を見つめる目には常に涙が光っていた。

 哀れみと悲しみと、そして酷い憎しみと恐れ。彼に向けられる感情にはそれ以外なかった。

 屈託なく身体を預け、安心しきった顔で笑いかけるみすずに、綾也は精一杯の微笑みを返した。


 ふと、みすずが腕をほどき歩道の向こうを見やる。つられて綾也もそちらを向くが何だかわかりはしなかった。

「どうしたんですか、みすずさん」

「ほら見て、産地直送の移動販売車!この界隈じゃ有名なんだけど、すぐ売り切れちゃうのよね。リンゴがおいしいの、買ってきていい?」

 そのまま道路に飛び出そうとするみすずをあわてて止める。

 無茶するんだから、そう言いながら綾也は反対にみすずの手をぐいっと握りしめた。できるだけ冷静を装って。

 みすずは大人しく手を引かれて、横断歩道を渡り始めた。途中からは二人で走り出す。向こう側についた途端信号は赤に変わって、車が一斉に流れ始めた。息を切らせて笑い合う。


 たくさんの果物が並べられた車の前には、もう何人もの列ができていた。みすずは待っててと言いながら最後尾に並ぶ。





 手持ち無沙汰で標識に寄りかかっていた綾也の顔が、突然厳しく引き締まる。


(まただ)


 耳慣れた金属音。この間から執拗に自分を追い回すあの音。

 もう二度と思い出したくもなかった光景が、脳裏をよぎる。なぜ、今になって僕を。

 綾也はそっとみすずの並ぶ列から離れた。やつらだって人気の多いところで手を出すようなことはしないだろう。そうは思ったが、できるだけみすずには気づかれたくなかった。


 都会の迷路のような細い道を、音を頼りにたどってゆく。

 一本裏に入っただけだというのに、世間から忘れ去られたかのような廃墟じみたビルが目についた。

 発信源はそこだ。そう確信して中に入る。ほんの少し歩いただけで埃が舞い上がる。

 薄暗い。どこだ、どこにいる。淡い瞳を見開いて辺りをうかがう。ふいに物音。


 ばさばさばさ!


 鳥かとほっとしたのもつかの間、その黒い物体は何のためらいもなく綾也めがけて突っ込んでくる。

 鋭いくちばしが彼の顔すれすれに近づく。

 身体を反転させてそれを何とかよけるが、鳥は徐々に数を増し、またしても彼を標的に向かってきた。

 走ってよけるのにも限度がある。こらえきれずに綾也は自分の掛けていたメガネをわずかに下にずらした。


 ゆっくり目を細める。


 鳥たちは身体を硬直させて、次々と落下していった。

 床に落ちたかと思われた瞬間、それらは跡形もなく消え去った。

 綾也がさっとフレームをあげてメガネをかけ直す。大きく息をする。


 使いたくなどない。やつらの狙いがわからない今、不用意に自分の力を見せたくはなかった。


 ぐらり。


 今度は床が大きく波打つ。廃棄されたらしき業務用のデスクがふわりと浮き上がった。

 中身が入っていないとはいえ、かなりの重量がありそうで、当たったら痛いどころではすみそうにない。

 その大きなかたまりが綾也の立つ壁際にすっ飛んできた。

 必死に身を翻したがよけきれずしたたかに肩をぶつけ、綾也はうめき声を上げた。

 デスクは粉々に飛び散り、衝撃の大きさを物語っていた。


 痛みをこらえて顔を上げる。

 もう一つのデスクが、椅子が、背丈ほどもある大きなロッカーが、綾也という獲物を求めて宙に浮いていた。


 彼は息を飲んだ。とてもよけきれるものではない。

 綾也はぐっと唇を噛みしめると、思い切ってフレームに手を掛けた。

 細い銀縁のメガネがゆっくりと外され、彼の淡い瞳があらわになる。

 それは虹彩の下の細い血管の色を映し、赤く燃えるような瞳であった。


 わずかに目を細めてゆく。その表情に蔑むような妖しい笑みが浮かぶ。


 片側だけ口元をゆがめ、顔をゆっくりと上げる。

 彼が一瞬鋭い視線を送った途端、オフィスの亡霊たちはバシュッという音を立てて消え去った。

 あとには細かい塵のような残骸だけが、辺りを舞っているばかりだった。


「ふん、どこにいるっていうのさ。隠れてないで出てきたらどう?」

 おおよそ、ふだんの穏やかな彼からは想像できないような冷酷さを帯びた低い声。

 耳元の金属音は変わらず、通奏低音のようになり続いていた。窓ガラスがガタガタと小さく震えている。

 部屋にあった他の家具どもが、綾也の出方を伺うかのようにわずかに浮き上がっている。


 ミシリ。


 開け放したままだったスチール製のドアの下から、黒い革靴の先端がのぞいた。綾也が鋭い視線を向ける。

 薄いベージュの開襟シャツにカーキ色のチノパン、丸いサングラスを掛けた背の低い男がのっそりと現れた。

「こないだは、なめた真似してくれたじゃねえか。片岡美鈴はおれの元女房だ。てめえみてえなガキが相手になるような女じゃねえ」

 あの夜、みすずを連れ去ろうとしたうさんくさい男が、はすっぱな口調で綾也に言葉を投げかける。

 綾也の顔色が変わった。目を大きく見開いている。

「違う!おまえじゃない!」

 叫び声を上げながら男に向かってゆく。そのまま男の身体を押し倒すように自分も倒れ込んだ。

 不意打ちを食らった男は綾也と共に床に転がる。

 今まで彼がいたちょうど頭の辺りに、重量感のある金庫がぶつかり、大きな音を立てて壁が一部分崩れ落ちた。

 男が状況を飲み込んだのだろう、一瞬にして青ざめる。

 床に手をついたまま綾也が振り返る。何もない中空を見つめる。


 ぼんやりとした輪郭が、まず浮かび上がる。白いシルエット。

 それは徐々に形を作ってゆく。

 ふんわりとしたワンピースにレースとフリル、そこから突き出た細い手足に柔らかなウエーブの黒い髪。

 中央に現れたあどけない顔。

 アンジェリック・プリティ、世に言うロリータファッションに身を包んだ年端もゆかぬ少女が、足を地につけずに浮き上がっていた。

 長いまつげに縁取られた黒くつややかな瞳が、まっすぐに綾也を見つめる。


 綾也はゆっくりとした動作でメガネを掛けた。彼の目に浮かぶ表情は懐かしさと痛ましさと、そして哀しみなのか。先程までの狂気をはらんだ冷たさは微塵も感じさせない穏やかな瞳。


「……ルカ」

 綾也のつぶやきに、ルカと呼ばれた少女はくっと冷ややかな笑いをこぼした。


「裏切り者」

 彼女の周りに物質が集まり始める。それらは意志を持つかのように彼女を取り囲み、うごめいていた。

 数多くの金属のかたまりとコンクリート片が綾也たちをあきらかに狙っていた。








「な、何なんだよあんちゃん、あれ。新手のイリュージョンか?後ろでクレーンか何かで吊ってんのか?」

 開襟シャツの男が小声で綾也に話しかける。悪ぶってはいるが、根は案外そうでもないらしい。

 近くで見ると人なつこそうな目には、未知への恐怖よりも好奇心の方が優っているかのように思えた。

 しかし綾也は、そんな彼に鋭く言葉を投げつけた。

「すぐにここから離れてください。早く逃げて。あなたを巻き込みたくはない」

「なに寝言言ってやがんだ、このやろう。おれはな合気道三段だ。てめえみてえな弱っちいガキなんかよりもな!」

「合気道なんか、何の役にも立たない!あなたが足手まといなんです!いいから早く!」

 叫ぶと同時に綾也は彼を突き飛ばした。

 ルカがかっと目を見開き、その瞬間多くの金属片が二人に襲いかかる。

 さっきまで彼らのいた床が大きくへこんだ。


 逃げまどう綾也に、容赦なくルカは攻撃を仕掛けてきた。

 もっとも彼女のしている動作と言えば、わずかに目を見開くのみ。しかし、そのほんの少しの動きに合わせ、鉄の、コンクリートのかたまりは、正確に綾也めがけて飛びかかってくる。

 狭い部屋の中で、逃げ回るのにも限度がある。綾也は肩で大きく息をすると苦しさに顔をゆがめた。


「出し惜しみするつもり?あなたの力を持ってすれば何てことないでしょう、お兄ちゃま」

 ルカの浮かべる薄ら笑い。

「僕はもう、戦わない。まして、君と戦うべき理由など何一つない!」

「私にはあるわ。お兄ちゃまが研究所を出てから私たちがどうなったか。仲間を見捨てた裏切り者!」

「見捨てたんじゃない!僕はもう使えないと見放されたんだ!」


 綾也の悲痛な叫びにかっとなったのか、ルカは何も言わずに目を見開いた。

 古ぼけたデスクトップパソコンが、ふわりと持ち上がり、そのまままっすぐ綾也へと向かった。


「よけろバカ!」

 思わず男が叫ぶ。しかし綾也は辛そうな目でルカを見つめたまま動かなかった。


 がつっ。


 パソコンの角が彼の額に鈍い音を立てて当たった。よろめき、壁にもたれかかる。頭を押さえた彼の手には血が流れ出ていた。


「ルカ、僕はもう……」

 つぶやく綾也の声は酷くかすれていた。

 ルカの方が信じられないものを見たかのように顔をひきつらせ、唇を噛んだ。


 ふいに、パトカーのサイレンが辺りに響き渡った。

「こっちです。ものすごい音がして、中で乱闘騒ぎになってるみたいで!」

 あわてたような男の声が廊下から聞こえた。その後ろをどうやら警官数人が続いているらしい。どたどたと遠慮のない音がこちらに向かってくる。


「やべっ!窓から逃げるぞ、あんちゃん!」

 素早い動きで、まだ壁にもたれたままだった綾也の手を引くと、男はオフィスの大きな窓を開けてそこからはい出るように通りへと逃げ出した。

 振り返れば、もちろんそこにはもう既にルカの姿は消えていた。


 男の後を、よろめく足で綾也が続く。男は心なしか歩をゆるめ、綾也を気遣ってでもいるかのようであった。





 そのまま大通りへ出る。そこにはリンゴの入ったビニール袋を下げ、血相を変えたみすずが仁王立ちしていた。どうやら綾也を必死に探し回っていたらしい。息が切れている。

 彼女は男の顔を見るなり、空いていた右手で彼の頬をはった。ばしっと乾いた音を立てる。

「どういうつもりよ、哲平!何で綾也に手を出すのよ!」

 哲平と呼ばれた彼は、思いのほかおどおどと弁明の言葉を並べた。

「何言ってんだ、みすず。誤解だよ、俺はまだこのあんちゃんには手なんか出してねえよ」

「じゃあこの傷は何よ?何でこんなに酷いケガ!いつまであたしを苦しめれば気が済むのよ!」

「おれじゃねえ!これはな、このあんちゃんが!」


 言いかけた哲平に、綾也はさっと腕を差し出して止めさせた。左手で額を押さえたまま、彼はそっとかぶりを振った。

「お願いです、何もお話ししないでいただけませんか。みすずさんには関係のないことなんですから」

 哲平が苦い顔で押し黙る。確かにさっきの光景を話したところで、みすずが理解できるとは到底思えなかった。

 みすずは綾也の背中に手を置くと、そっと促した。哲平の方へは厳しい視線を向けたまま。


「行こう、綾也。こいつに関わるとろくなことないんだから」

「おい、元亭主に何て言いぐさだ」

「ムショ帰りのごろつきにつきまとわれて困ってるって、警察に駆け込むわよ」

 みすずの冷ややかな言葉に、哲平はふてくされた顔をした。

 何だよ、助けてやったのによ、みすずには聞こえないような声でぶつくさ文句を言う。

 綾也は目だけを哲平に向けて、辛そうに微笑んだ。額から流れ出た血が目に入ってわずらわしい。


 みすずは哲平を無視するかのようにどんどんと綾也を連れて歩き出した。


「大丈夫?痛む?」

「平気です。たいしたことじゃないから」

「何があったの?あたしには、言いたくない?」

 黙り込む綾也に、みすずはわざと明るい声で、消毒薬と絆創膏、どっかで買っていこ?と声をかけた。


 ルカ……。


 綾也の心は、人知れず深く沈んでいった。





 部屋まで送る、と言うみすずを、綾也は頑なに拒否した。

「何言ってんのよ、取って食いやしないわよ。言っとくけどあたしは年下なんかに興味ないからね」

「いえ、あの、そんなことじゃなくて」

「その傷、けっこう深いわよ。病院で縫ってもらわなくていいの?服にだってついちゃったし、血液はすぐ洗わないと落ちにくいんだから」

 みすずは強引に綾也のポケットをまさぐると、鍵やら学生証やらを勝手に取り出す。ここから近いじゃない、そう言いながらどんどん歩いていく。

 ふらつく足で綾也は、もう反対する元気もなく、彼女のあとをついて行った。

 左目が開けられない。傷はだんだん熱を帯びてくる。ただ、彼にとって傷の痛みよりも、あの場にルカがいたことの方に心をとらわれていた。


 なぜ今頃になって、彼女が。

 なぜ僕を、裏切り者と呼ぶのか。


 好きこのんで行った研究所では、もちろんない。

 父親から強制的に入れられた、牢獄よりももっと酷い場所。それでも、出てきたのは自分の本意ではなかった。

 僕は追い出されたのだ。あの恐ろしい研究所ですら、僕の居場所ではなかったのだ。

 僕はおそらく、それ以下の人間なんだろう。人間?僕が?

 苦い思いが突き上がってくる。綾也はこみ上げる吐き気を押さえ、マンションの壁にもたれかかった。





「ほら、何階?えっと、九階ね。ホントにもう世話が焼けるったら。ちゃんと歩ける?」 


 かいがいしく彼女が声をかける。まるで自分のうちででもあるかのように、鍵を開け、中に入る。

 リビングのソファに綾也を座らせると、みすずは物珍しそうに部屋の中を見回した。

「何にもないじゃない、この部屋。あんたこんな殺風景なところで暮らしてんの?」

 口では大げさに嘆きながら、てきぱきと傷の手当てをする。洗濯をするからと綾也のハイネックTシャツを脱がせにかかったが、さすがにそれは彼の抵抗にあって断念した。

「自分であとで洗いますから。どうもありがとうございました」

「ねえ綾也?本当はその傷、哲平がやったんじゃないの?だとしたらあたしはあんたを、こんな世界に巻き込んじゃって、とっても悪かったって思ってる」

 東都大生のエリートくんなのに、ごめんね。

 みすずは腰をかがめて綾也の目をのぞき込むようにして、心底申し訳なさそうに言った。

「違います、みすずさん。自分で転んだんです。通りかかった彼が助けてくれて」

 わかってるんだから、そう言いたげにみすずは頷いた。綾也はうつむき、何も言えずに目をつぶった。








「そうだ、さっきのリンゴむいてあげるね。台所借りるわよ」

 淀んだ空気を変えようと、みすずが明るく立ち上がる。それにあわてて綾也が声をかける。

「あ、何もありません。僕は自炊をしないから」

「何よ、包丁の一本もないの?やだホントだ、調理器具っていう器具が何にもないじゃない。果物ナイフは?もう、しょうがないなあ。あたしがそこの百均で買ってきてあげる」

 気の早いみすずは、もうバッグを手に玄関に向かう。綾也は思わず大声を出した。

「ダメ、買わないで!この部屋に刃物は置きたくないんです。あ、あの僕、刃物は、その、怖くて。小さいときにあの」

 しどろもどろに綾也がくり返す。それを見てみすずはくすりと笑った。

「怖いって何?わかった、昔いたずらかなんかして叱られたんでしょ、お母さんに。そんなとこあるんだ、意外にいたずらっ子だったんじゃないの?綾也も」


 同じソファに腰掛けて笑顔を向ける彼女に、綾也はそっと自分の着ていたシャツの襟元を指で押し下げた。色白の細い首周りがあらわになる。そこへつけられた痛々しいひきつれた傷跡。

「これが何だか、わかりますか?」

 あくまでも穏やかに、綾也は言葉を続けた。口元にはうっすらと笑みまで浮かべて。

 みすずはまるで自分が痛みでも感じているかのように顔をゆがめた。酷いケガね、交通事故か何かなの?優しく問う。


「実の父親に、切りつけられた跡です」

 僕はなぜ、こんなことを話しているのだろう。綾也は自分で自分の言葉が信じられなかった。

 みすずにわかって欲しかったのか。普通なら、引かれて終わり、だろう。

 でも、直感的に綾也は、彼女なら何もかも受け止めてくれるのではないか、そう心のどこかで感じていたのも事実だった。やっぱり最近の僕は、どうかしているんだ。みすずと会うたびに新しい感情が次々に生まれてくる。

 みすずは綾也の言葉に、はっと息を飲んだ。彼の目を見つめる。


「何だってそんなこと、首なんか切りつけたらおおごとじゃない」

「あと数ミリずれていれば頸動脈を傷つけていただろうと。僕はあの時死んでいればよかったんです」

 淡々と言葉をつなぐ。常日頃抱えていた綾也の本心だった。

 そうすれば、その後の悲劇は何もなかったはずなのだ。


「何てこと言うのよ」

 みすずが大声を出す。やりきれない、そんな思いがにじむ。


「父は僕を憎んでいる。母が死んだのは僕のせいだから」

「小さかったんでしょ?綾也のせいであるはずないじゃない!」

「いえ、本当に僕のせいで母は」

 みすずは綾也の方に向き直ると、優しい表情でゆっくりと話し出した。


「お父さんさ、よっぽどお母さんのこと愛してたんだね。誰かを憎まなきゃやってけないほどに。お母さんが死んでほんとに辛くて苦しくて、つい、一番近くにいた綾也に当たっちゃったんだね。わかってあげなよ、もうお互い大人なんだから、さ」

 彼女の腕がつと伸びる。綾也の頬にそっと触れる。彼は唇を噛みしめ、黙ってされるがままになっていた。

「なんて綺麗な、赤い瞳」

 みすずはそっと綾也の銀縁のメガネを外した。白い面に対照的な朱く光る瞳。どこか怯えたような表情を浮かべ、綾也はみすずを見た。





 その瞳に、少しずつ別な翳りが差し込でいくことに彼女は気づかなかった。

 綾也が目を細めてゆく。口元が微かにゆがむ。


 かたん。ふいに、物音がした。


 みすずははっとしてふり返った。

 彼女のカバンが床に落ちていた。何だ。ほっとしてそれを拾おうと手を伸ばした途端、カバンは勢いよくはじき飛ばされ、壁に叩きつけられた。

 みすずは目を見開いた。あわてて壁に向かっていく。かがんで床に散乱した化粧品などを拾い集める。

 その手が震えていた。飛び出さないようにファスナーを閉める。今度は背後で、何かがひしゃげる音がした。


 振り向くのが怖かった。

 意を決して後ろに視線を送る。リンゴが宙に浮いていた。


 驚くみすずをあざ笑うかのように、それらは自在に動き回り、あるいは一点に静止した。

 その中心に、表情をなくした綾也が立っていた。両手をだらりと下げ、足をわずかに開く。


 瞳だけがまっすぐにみすずをとらえていた。


 アルカイックスマイル。


 その目がさらに細められ、蔑むような光を帯びる。

 次の瞬間、所在なげに浮いていたリンゴの一つが四方に砕け散った。

 みすずは息を飲んだ。


「何これ、こないだの気功ってヤツ?手品?何の冗談よ」

 綾也は答えない。


「綾也!」

 みすずの叫び声に、綾也はびくっと身体を震わせた。

 反射的に持っていたメガネをかける。もう、妖しげな微笑みは消えていた。


 放心したようにソファに崩れ落ちる。両手でその顔を覆う。

 みすずは彼に近づいていった。綾也、とそっと声をかける。彼は力なく顔を上げた。

 しばらく口をつぐんでいたが、あきらめたようにつぶやいた。

「気功でも、手品でもありません。僕は……」

 綾也が言葉を切る。言いよどむ彼をじっと待つ。

「僕は、普通の人間ではない。バケモノなんです」


 部屋中が音をなくして黙り込んだ。








 カップすらないこの部屋に、コーヒーの香りが漂う。下のコンビニまで走って買ってきたデミタス缶。苦みが舌に突き刺さる。

 それでも、何かを口にしたことで少しは落ち着いたのか、綾也はほうっとため息をついた。

 彼は窓際のソファに身体を埋めたまま、視線を下に落としていた。

 直角に置かれたもう一つのイスに、みすずは浅く腰掛ける。そのイスは、四つの脚柱をボルトで床に固定されていることに彼女は気づいた。

 前にも後ろにも動かすことができない。誰が、何のために。


 他の家具、と言ってもろくに家具などなかった。綾也の座るソファと、このイスと、部屋にあるのはそれきりだった。

 台所には不似合いな大きな冷蔵庫が一台。テーブルすらもなかった。

 冷蔵庫にも不格好なボルト。取っ手には鍵。備え付けのシステムキッチンの引き出しにも、そう言えばすべて鍵がつけられている。年端もいかぬ幼児のいたずら防止にしては、あまりに重装備であるし、第一、この部屋に幼い子どもが来るはずもない。

 綾也の住居のあまりの不自然さに、みすずは背筋が寒くなってゆくのを感じた。


 何かが違う。何かが変だ。


 その違和感がみすずの感覚を刺激していた。だが、この部屋の持ち主は、うなだれたまま何も言葉を発しなかった。

 沈黙は決して悪いことじゃない。話さずに一緒にいることだって時には必要だ。

 会話のプロであるはずのみすずはそれをよく知っていた。距離を置き、見守る。

 綾也はそっと顔を上げた。それに視線を送って頷き返す。大丈夫、安心して。そんな気持ちを込める。話したくなければ無理に言わなくてもいい。でもきっと、そんな状況では人は何かを口にしてしまうのだ。一人で抱えるには辛すぎる思い出や感情や、過去に犯した重い罪でさえも。みすずはコーヒーの缶をにぎり直した。





「サイコキネシスって知っていますか」

 しわがれた声で、綾也がつぶやく。

 ううん知らない、みすずは答える。実際本当に聞いたこともなかった。高校もろくに出ていない。


 東都大生の使う難しい言葉なんて、あたしにはわからない。心の中だけで言う。

「日本語で念動力とか念力と言われるものです。手を使わずにものを動かす力です」

「それって、テレビとかでよくやってる、スプーン曲げとかそういうの?」

「スプーン曲げ、ですか。ちょっと待っていてください」

 綾也がゆらりと立ち上がる。重い足取りで台所へと向かう。

 小さい引き出しの鍵を回して、彼は、中から一本のスプーンを取り出す。それをみすずに手渡した。

「しっかり持っていてください」

「何よ、曲げて見せてくれるっていうの?」

 わざと明るくみすずはそう声をかけた。綾也は返事をしない。仕方なく彼女は言われるまま、スプーンを両手で握りしめた。

 指でぐいと押して、曲げてしまうのか。それともいつかテレビでやっていたように、これをグニャグニャにらせん状に巻いてしまうのか。どちらにしてもそれはトリックのある手品なのだ、と聞いたことがある。


 床に目をやる。先程のリンゴの残骸がそのまま残っている。とても片付けようという気にならなかった。

 それらは硬いタイルを濡らし、しみを広げていた。

 手を使わないでものを、まさか。それともまた、中国古来の気功とやらとでも言いたいのか。

 みすずは小さく頭を振った。

「付け根をごしごしこするんだっけ?それをあたしがやればいいわけ?」

「黙って、そのまま持っていてください」

 ほんの少し冷たい響きをはらんで綾也が言う。さっきのようにメガネを外すのではなく、わずかにそのフレームをずらす。銀縁の枠の上から視線をスプーンに送る。


 目を細めた。


 バシュッという音を立てて、スプーンが砕け散った。正確には丸い部分だけがそっくりなくなっていた。

 みすずの手の中に柄だけを残し、粉々に砕けてしまっていた。破片がぱらぱらと手に、身体に舞う。みすずは言葉をなくして黙り込む。

 綾也はそっとフレームをかけ直した。右手を広げ、人差し指と薬指で端を押さえる。そのまま額に手をやる。左端の大きなガーゼが痛々しい。綾也はまたソファに力なく座り込んだ。

 しばらく二人とも無言だった。午後の日差しが部屋に光を落とす。綾也の影が床に映る。


 彼は淡々と語り出した。

「この能力は母譲りなのだそうです。幼い僕の特異な能力を目の当たりにして、将来を悲観した母は僕を抱いたまま屋上から。僕だけ、生き残った」

 彼が目をつぶる。感情を込めずにただ言葉をつなぐ。それが余計に痛々しくてみすずは表情をくもらせた。

 そっと彼に近づき、頭に手を置く。幼子を守る母のように。触れられたことに驚いたように、綾也は顔を上げた。

「僕に近づかない方がいいですよ。怖く、ないんですか」

「あんまり銀座の女をなめないでよ。これでも人並みの修羅場はくぐってきたつもり」

「そんな。普通のこととはわけが違う」

「何が違うの?綾也は綾也よ、他の誰でもない」

 みすずが両手で綾也の顔を包み込むように抱く。己の体温で彼の心を癒そうとでもするかのように。

 その柔らかな感触にとまどっているように見えたのは綾也の方だった。顔をこわばらせる。

「僕のこと、気味が悪いとか、化け物だとか、そう忌み嫌わないんですか」

「そうね、ちょっと変わっててびっくりしたけど、要は甘えん坊のマザコン、かな?」

 彼女はそう言いながら、傷に響かないように綾也の右側の頬へ自分のそれを押し当てた。

 至近距離でみすずの息がかかる。綾也はわずかに顔を傾ける。唇が触れ合う。

 この間の夜とは違う、自分の意志で、彼はそっとみすずに口づけた。

 最初はほんの少しためらいがちに。手を伸ばして、みすずの顔を引き寄せる。

 朱い瞳を閉じて、身体の奥からわき上がってくる激しい感情に従う。

 いつもの自分とはあきらかに違う反応に、綾也の心はかき乱されていた。でも、もう止めることはできない。

 乱れた呼吸が甘い吐息に変わる。彼女の細い身体を抱きしめ、首筋へと唇をはわせる。

「りょう……や」

 もどかしい思い。ソファに横たえた彼女に、綾也は切なげな視線を向けた。

 これが、本当に僕自身なのだろうか。変化し続ける感情についてゆけない。

 それでも綾也は、何かを吹っ切るように軽く首を振ると、再び彼女を抱きしめた。


 外はようやく、夜の気配を感じさせるかのような色彩の変化をもたらし始めていた。








「聞いたわよ、梶尾くん。年上の女と付き合ってるんだって?」

 研究室に足を踏み入れた綾也に向かって、ドクター三人娘は厳しい視線を向けた。腕を組み、三人が三人ともすごんでいる。綾也はたじたじとなった。

「目撃者もたくさんいるんですからね。言い逃れはできないわよ!」

 恵美が声を上げる。それに、まあまあ、と男子学生の山田が口を挟む。彼もまた博士課程で、二年生になる。

「いいじゃないか、別に梶尾が誰と付き合おうと。むしろ、好ましい事態なんじゃないの?放っておけば俺たちなんてさ、オタク街道まっしぐらの独身研究者になる可能性の方が大きいんだから。それにさ、それだけ梶尾が人に深く関われるようになったってことだろ?いやあ、よかったよかった」

 能天気な山田の声に、蘭子が噛みつく。

「あのねえ、問題は相手よ!派手なスーツにケバい化粧、どっからどう見ても素人じゃないってみんな言ってんの!梶尾くんは人のいい浮世離れした王子様だから、あの女に騙されてんのよ。いい加減目を覚ましなさいよ!」

「彼女はそんな人じゃありませんよ」

 思いのほか静かな綾也の口調は、かえって三人の気持ちを逆なでたようだった。

「いいこと、梶尾くん。今夜七時に渋谷のラルクに集合。遅れたら許さないわよ!」

「はっ?」

 急な話題の変更についてゆけず、綾也は目を白黒させた。

 山田は女の子達と彼を交互に見ながら、はらはらした顔で何とかその場を収めようと苦労していた。

「あ、あのねえ、恵美くん達さあ」

「何よ、山田くんも来る?来たいなら来てもいいわよ別に」

「一体何が始まるんだよ、なに企んでやがるんだ君たちは」

「このお姉様達が、梶尾綾也くんに健全な大学生のお付き合いってもんを教えてあげようって言ってんのよ。聖上女子大と合コンですからね!」

 めちゃくちゃお嬢さまだけ集めといたから、そういうと恵美はにっこり笑った。

「合コンって、僕はそんな」

「君に断る権限なし!いくら君がどんなに優秀でも、研究室のヒエラルキーは守ってもらわなくちゃ」

 確かに谷田貝研の一番年下は綾也だった。もともと大学院生しかいないはずの研究室だ。二十歳の彼がいることの方が異質なのだから。

 綾也は言いかけた言葉を飲み込み、皆にわからないように小さくため息をついた。





「梶尾くん、こっちこっち!」

 真由美は奥のボックス席から大きく手を振った。軽快なクラブミュージックのかかるラルクの店内は、もう既に若い学生やOLらしき女性客らでいっぱいだった。

 もちろん綾也にしてみれば、こんな場所に来たことはなかった。この間の銀座とも違う若い夜の街。耳を塞いでしまいたくなるほどの音量に慣れるまで、綾也はしばらく格闘しなければならなかった。


 帰りたい。


 もう既に尻込みしている綾也の姿をめざとく見つけて、恵美と蘭子が横をがっちりと固める。

 彼は人混みの中に山田を認めるとようやくほっとした。

「あ、あの僕は山田さんの隣りに…」

「ダメ!もう梶尾くんは彼女の隣って決まってるの!」

 見回せば、横長のボックス席に山田を含めて男子学生が三人、そして女子がなぜか六人もいる。ドクター三人娘と、また雰囲気の違ういい匂いが漂う華やいだ女子が三人。彼女らがその聖上女子大生だという訳か。

 茶系で巻き髪のかわいい女の子が綾也の横にそっと座る。こちらを向く仕草が愛らしい。どうやら彼女らは綾也が来る前にいろいろと作戦を練っていたらしい。

 はめられた?おおよそ彼らしくないボキャブラリーまでもが脳裏に浮かぶ。

 やっぱり帰りたい。

 しかし彼女は伏し目がちの瞳を潤ませて、綾也を見上げた。これが計算ならかなりのものだろう。

 さすがの彼も何も言うことができず、おとなしく彼女の隣りに腰を下ろした。

「それじゃあ、メンバーもそろったことだし、もう一回かんぱーい!」

 恵美の声が響く。慣れない手つきで綾也も一応グラスを差し出す。こういう社会的な慣例は大学に入ってから覚えたもの。身につけておいて損はないのだろう。一般社会に生きるということはそういうことの積み重ね。今までいた綾也の世界とは違う。僕は少しずつ社会に適応し、研究者としてひっそりと。

 自分の思考に入り込みそうになった綾也に、隣の女の子が微笑みかける。突然の視線に綾也はどぎまぎした。

「東都大学の医学部なんでしょう?すごーい。お名前教えてもらっていいですか?」

 全く物怖じしないまっすぐな目。小顔でコケティッシュな笑顔をふんわりとした薄茶の巻き髪でつつんでいる。白系のワンピースは今流行のボヘミアン調で、縁に色とりどりのテープがアクセントになっていた。袖は柔らかいフレアーでそこからすらっとした白く細い腕が伸びている。東都大には確かにいなそうなタイプだ。それくらいの違いはいくら綾也でも認識できた。

「私はあ、中村加奈子って言います。聖上女子大の英文科二年でテニスとスノボーのサークルに入ってるんだけど…」

 何がおかしいのか、加奈子は一人くすくす笑いながら自分について語り出した。綾也が口にしたのは自分の名前と医学科三年であることくらい。それで精一杯だった。でも加奈子はちっとも気にする様子もなく、楽しげに話し続けていた。

「盛り上がってるねえ、梶尾ちゃん!」

 そうとう飲んだのか、赤い顔をした真由美が茶化す。それにほんの少し恨めしげな視線を送る。綾也のわずかな抵抗。でも誰にも気づいてはもらえそうにない。

 仕方なく綾也は、赤い液体のカクテルを口にしてなんとか喉に流し込んだ。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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