恩寵
綾也は静かに己の両手を見つめた。それは真っ朱な血で染められ、一部はすでに黒ずみ始めていた。
何度も見たこの情景。母の血を受け止めたあの幼いときから、僕の周りはつねに朱の色に囲まれていた。
アツシ…。ヒトの生命反応が途切れる瞬間を全身で受け止め、綾也の感情は麻痺していた。
スベテコワレテシマエ、コノセカイナド。
そこへねじ込まれた、わずかな音声ファイル。
「思い出せ!綾也。おまえは人間だ!」
無意識に周波数分析を行う。ああこの声紋的特徴は、ツグモテッペイ。そっと機械的に分類整理された脳の中のフォルダから、ツグモを探し出す。いつもなら瞬時で行うこの作業を、綾也は一人階段を上るあいだ中、ゆっくりとくり返していた。
テッペイ、哲平さん。
綾也の頬を、冷たいものが伝う。それが何かさえ本人にも気づかずままに。
僕はもう戻れない。戻れないんだ、あの平凡で静かで陽気な日常の生活には。
僕が生きていることであらゆる何かが乱れ始める。僕は権力を持ちたいある種のニンゲンどもにとっては、どうしても必要なファクターらしい。
いつまでも人びとの思惑にただ流されていては、被害者をやみくもに増やすだけ。
だからと言って僕は自分の命さえ自由にできない。
何度も死ぬほどの目に遭ってきてもなお、こうやって僕はのうのうと生き続けている。
神は、いや悪魔の主は、僕に生きろと言っているようだ。何度も苦痛と再生をくり返すプロメテウス。
僕を地下室へと幽閉した父親は、ある意味一番正しい対処をしたのだ。
外へ出るべきではなかった。いつかこの命が枯れて干からびてしまうまで、そのまま放置されていればよかったのだ。
フツウの生活を望んだ僕が間違っていた。当たり前の生き方を選ぼうとしたこと自体が罪だった。
僕の手はすでに血にまみれていたというのに。
二階のつきあたりには議員の執務室。ドアノブには血だらけの指紋。証拠物件は多い方が楽だろう。少しは協力してあげなきゃな。所轄署の刑事たちの顔が浮かぶ。
中にいた事務官たちは、やはり意識を失って倒れていた。中央の一回り大きなデスクの向こうには、ゆったりとした革製の椅子にもたれかかる梅村智実代議士。
僕を、一生どこにも出さずにいてくれるのなら。贅沢を言えば、法の手でこの命を絶ってくれるのなら。
そして、これは漆原博士の命令。僕が彼の指示通り動けたことなど今までない。何度も失敗を重ね、失望させてきた。最期くらい上手くやらせてよ。
綾也は梅村に近づくとその手を彼女の細い首にかけた。ひんやりとした感触に、代議士はうっすらと意識を取り戻し始める。そこへ綾也はわずかずつ力をこめ始めた。
「……あ……なた…は……」
苦しげにゆがめられた表情で梅村がつぶやく。半覚醒状態の彼女に綾也は淡々と告げる。
「僕たちにとってSTEは、ラボラトリは大切な居場所だった。わかりますか。貴方が僕たちを助けようとしてくださったことは、よくわかります。しかし結果的に僕たちは、この世界のどこにも行く場がなくなった」
「ギフテット教育……は、これからも…進められるべきだ…わ。私たちはあなた方を見捨てはしない。なのにあなたは私を……」
ぎりぎりとこめられてゆく力。梅村の手が必死に綾也の両手を払いのけようとする。
「ごめんなさい。博士は貴方を殺せと僕に命じた。僕は、生物兵器なんです」
彼女の首ががくんと後ろに倒れる。もうほんの少し力をこめればすべては終わる。僕は殺人者として罰せられる。これ以上の祝福があるだろうか。
……おまえに人なんか殺せねえ!!……
ツグモテッペイのあらゆる記憶を抹消せよ。己の意識にできもしない命令文を入力する。
消えてしまえ、すべての僕の記憶たちよ。意志などない機械として僕は生きるのだから。
固く目を閉じた彼の奥で、そっとささやく優しげな声。
アツシが消えゆく直前に僕に見せたあの映像は、ああ、もうずっと潜在意識の最下層におしこめていたのに。
コロシテハダメ。ソノチカラハミセテハダメ。
黄色い花びらの舞う庭に涙ぐむ母の顔と抱きしめる腕のぬくもり。
母は僕に何を伝えたかったのか。その母を殺したのは僕。
僕だけ生き残り、こうして人を殺めているというのに、母はまだあの光景を僕に見せようというのか。
人を殺しては……ダメ。
梅村の身体が手から離れ、足元へと崩れ落ちても、綾也はただ黙って立ちすくむばかりだった。
「…さん、津雲さん!」
ゆすり動かされ、哲平はハッとして目を開けた。
一瞬、状況が飲み込めない。ここはどこなんだ。おれは何をしていたというのだ。いったい何分間、いや何時間?しかし嗅ぎ慣れた血の匂いが、やはり哲平をすぐさま覚醒させた。哀しいねえ、自虐的な苦笑い。
「大丈夫ですか、ここで何があったのか教えていただけますか」
どんな時でも冷静沈着な声が響く。顔を見なくともわかる。公安部管理官の藤堂だった。
「おせえよ、藤堂さん。何でもっと早く…」
喉元を押さえながら、なんとか立ち上がる。申し訳ない、裏付け捜査に手間取った。
藤堂はあくまでも落ち着いていた。
「中村姉妹の家にはもう誰も居ませんでした。切り刻まれたぬいぐるみが一体。こじ開けられたコンパクトケースのみが残されていた」
中身は?勢い込んで訊く哲平に藤堂は横に首を振る。ちっくしょう。こぶしを床にたたきつける。
そのとき、上の階から物音が聞こえた。
こんの大バカ野郎、津雲哲平!どうかしてるぜおまえは。最後に綾也の取った行動は、そうだった、あいつは確か階段を……。
「早く上へ!藤堂さん!上には何があるんだ?」
立ち上がろうにも足が言うことを聞かない。藤堂が何とか哲平を支える。その腕を振り払うように彼は走り出そうとした。
「無茶しないでください。今の今まで倒れてた人が…」
藤堂が声をかけるのに、だったら早く二階に行ってくれ!あいつは、綾也は何をするつもりなんだ?
叫んだつもりが声にならなかった。はいずるように階段を上る。公安の部下たちが先回りして急いで足音も荒く駆け上る。
たまらず哲平もかけ出した。どこにそんな力が残っていたのか。それよりもあいつのことが心配でならなかった。
まだ鳥どもは居やがるのか、綾也は朱い瞳を冷たく燃えたぎらせたまま能面のような表情で、人間の心を失ってしまっているのか。
おれの言葉は、届くことはなかったのか。
「綾也!」
半開きのドアを急いで押すと、そこには両手をだらんと下げたままの綾也が立ちすくんでいた。
彼の足元に横たわる女性は梅村か。すばやく部下たちが彼女の元に集まる。
「心停止状態です!すぐ救急車の手配を!」
そんな悠長なこと言ってられっか!哲平はすぐさま梅村に駆けより、胸骨圧迫を始めた。
呼吸音の聞こえない彼女の顔色は真っ青で、一般人なら手を出すことすらためらわれただろう。
しかしさすがに藤堂の部下だけあり、公安部員たちは哲平をそっと抱きとめると代わりに心肺蘇生法の処置をし始めた。
「離せ!おれがやる!」
座って息をするのも辛そうな哲平は、押さえつける彼らの手から逃れようともがいた。
「落ち着いてください、津雲さん。大丈夫です、彼らの方が慣れている」
返事をする代わりに哲平は顔を上げ、呆然とする綾也を見つめた。
「…ばか…やろう、おまえ…仮にも……医学部だろうが…」
同じシチュエーション、そして同じセリフ。哲平の胸に熱いものがこみ上げてくる。
遠くから聞こえてくるあのサイレンの音が、彼らを出会ったばかりのほんの数ヶ月前に戻そうとしていた。
綾也、おまえは…。
こほっというわずかな呼吸音が耳に入る。哲平は思わず振り返った。
交代で心臓マッサージを施していた部員たちの額にも汗がにじんでいる。それでも、上げた顔が明るい。
「呼吸が回復しました!」
みなが安堵の表情を浮かべる。
「綾也!助かったぞ!梅村のババアは死んじゃいない。おまえは誰も殺しちゃいねえ!」
哲平の叫び声にわずかに笑顔を返したのは、確かにいつもの綾也だった。藤堂の前に立ち、真正面から彼の顔を見つめた。藤堂もまた、静かに綾也の言葉を待った。
一瞬の静寂。
その場の誰もが言葉を失った。綾也は軽く息を吐くと微笑みながらこう言った。
「僕が、彼女の首を絞めました」
この大バカ野郎!なに言いだしやがる!哲平は我を忘れて叫んだ。
藤堂はそんな彼にそっと近寄り、声をかけた。
「梶尾綾也さんですね。梅村智実代議士殺人未遂の現行犯であなたを逮捕します」
綾也はその言葉に、心の底からホッとしたかのような表情を浮かべた。そして視線を下に落とすと黙って両手を差し出した。
「おいちょっと待て!このボンクラ!万年管理官!綾也は何もしてねえぞ!ジャーナリストとしてだな、このおれの目の前で不当逮捕は許せねえからな!そんなんだからおめえはいつまでたっても出世できねえんだよ!」
藤堂の部下たちが苦笑いをこらえている。
救急隊員たちが梅村の応急処置を終え、運びだそうとしているのを目で追う。そのあと藤堂は黙って手錠を取り出して、綾也の細い手首にかちりと掛けた。
「綾也!おい!ちょっと待てって言ってんだろうがよ!」
その声に振り返った綾也は、静かにつぶやいた。
「これでいいんです。哲平さん。これでやっと終われるんです」
今までで一番穏やかな表情の彼は、そっと哲平に頭を下げると藤堂とともに部屋を出て行った。
綾也……。
残された哲平は、いつまでも誰も居なくなったドアの向こう側を見つめ続けるばかりだった。
「…これがさ、しつこい女でな?もう哲平さんならアタシ愛人になってもいい、とか何とか言いやがって離さねえのよ。こっちももう参っちまってさ。おれってほら、幸薄い女には何かと優しいじゃん?ダメなんだよなあ、こう寄ってこられると…」
浮かれた口調で軽口を叩く哲平を、綾也はいつもの微笑みをたたえながら穏やかに聴いていた。
一緒に住んでいた頃と同じような風景。変わらぬ時間。
ただ前と異質なものは、壁全体が灰色に覆われ、彼ら二人のあいだに強化ガラスと細かい目の頑丈な網があることだろう。
東京拘置所の面会室には、一度に三人まで一緒に入ることができる。哲平は後ろからのプレッシャーの視線もものともせず、ニヤニヤとバカ話を続けていた。
それをおとなしく聴く綾也は、いつもの黒い服に銀フレームのメガネ。その奥には優しげに光る淡い瞳。両腕にはめられた手錠だけが、今の状況を物語っていた。
哲平のどうでもいい話に、立ち会いの係官がそっとため息をつきながら視線をはずす。彼はそれを見逃さなかった。
ぐいとガラスと網製の接見窓に顔を近寄せると、小声で綾也にささやいた。
「おい、裁判はどうやらまず非公開で行われるらしいぜ。裏情報に詳しい弁護士のダチに聞いたんだ」
非公開?口に出すほど綾也も愚かではない。しかし顔にはとまどいの表情を浮かべる。
「こんなこと大っぴらに公開裁判にしてみろ。下手をすれば国がひっくり返る。異例中の異例で、関係者を一堂に集め、起訴にするか不起訴にするか、それとも……」
急に声が小さくなったのを不審に思った係官が振り返る。潮時と考えたのか、哲平は伸びをして呑気な声を上げた。
「もう!接見時間は決められてるんですからね!いつまで哲平さんばっかしゃべってるのよ!」
後ろにはふくれ顔の……加奈子。
柱の影で見えなかった綾也は、その姿にハッとした。
「…か…なこ…ちゃん」
「よかった、少しは元気そうで。ちゃんとご飯食べてる?ホントならお弁当差し入れたいくらいなのに」
屈託なく笑う笑顔がまぶしい。加奈子の作った弁当ってのも恐いよな、哲平の入れる茶々に、早くあっち行って!と無理やり押しやる。
「何でこんなとこ…。君には一番似合わない。来てはダメだよ、どうしてそんな…」
この服、似合わなかった?おとなしめのモノトーンのワンピースに目をやり、口をとがらせる。そんな仕草も懐かしい。
「面会申込書の関係欄に、婚約者って書いちゃった。係の皆さんがとても良くしてくださったのよ」
いたずら気味にほんの少し舌を出して笑う。事件の影はもう彼女にはないように見えた。何と言葉を出せばいいのか、綾也は押し黙った。ただそっと首を振るばかり。
「…迷惑、だった?」
そうじゃない!それだけははっきりと言うと、また彼は下を向いた。
「君はこんなところが似合う女の子じゃない。もっと幸福な温かい世界が君を待っている。そちらにお帰り。ね?ここは君の来るところじゃない」
悲痛な声で絞り出すように言葉をつなぐ。しかし加奈子も負けてはいなかった。
「だったら綾也くんもこんなとこ似合わない。大学に戻るんでしょう?研究者になりたいんでしょう?早くここから出てきてよ。みんなが待ってるわ!」
「僕は…犯罪者だ。裁かれて刑に処されるんだよ?」
PK能力者の犯罪なんざどうやって審判するんだよ、ちったあ裁判官の苦労もわかってやれよ!加奈子の背中で、ふざけた声が飛ぶ。彼女はぎろっと哲平をにらんだ。
「もう!これ以上邪魔すると!」
こええ、そうだった。こいつはあの理香子の妹だった。哲平はわざとらしく部屋の隅に移動して身体を小さくした。
加奈子は綾也に向き直すと、大事そうに抱えてきたバッグから大判の封筒を取り出した。これが何だかわかる?と。
「…加奈子ちゃん」
二人を隔てる透明な板は、まるで異次元を区切る結界のように溝が深すぎて、もう飛び越えることはできないのではないかと思われた。
それなのに加奈子はにっこりと笑うと、書類の束を綾也の目の前に差し出した。
「見てこの枚数!これだけ集めるの大変だったんだから」
これって…、とまどう綾也ににっこりする。それはさすがの彼にしても初めて見るもの。
「げ…減刑に関する嘆願書?ねえ、どういうこと?」
それはとても一枚二枚という枚数ではなかった。一つずつに署名と捺印、そして通常の署名運動等では見られないような意見文まで書き添えてあった。それがざっと数十枚。大学の正式な用紙を使い、教授や准教授の公印が押してあるものもある。
「元・谷田貝研究室の人たちが、大学中を回って集めて歩いたの。それからこっちはほかの大学の医学部の先生方のもの。学生の分もあるわよ、もちろん。あとは製薬会社、それと…」
ねえ待って!つい綾也は大声を出した。係官がこちらに厳しい視線を送る。それを見て彼は唇を噛んだ。
「厳罰を求めるのならわかるよ。どうして減刑なの?僕はここを出たいなんて一言も…」
「あなたは被害者だと、誰もがわかっているからよ。こともあろうに国益を守るべき国防省が、年端もゆかぬ子どもたちを使っての非道な実験をくり返した。あなたのしたことはPSDという薬が開発されなければ起きることはなかった。そもそも、軍事利用なんて憲法違反もいいとこ。綾也くんはその中に巻き込まれた一番の被害者であって、救われるべき。そうでしょう?」
「僕はこここそがふさわしい。光ささぬ暗い独房は僕の瞳に何も刺激を与えることなく、心穏やかでいられるんだ。このまま朽ち果ててしまえればこれ以上の幸せはない。どうか僕をこのまま、お願いだから」
ふいにそれまで笑顔を保っていた加奈子の瞳から、大粒の涙が一つだけ伝っていった。赤みさす柔らかげな頬に。
「加奈子ちゃん」
「お願い、前を向いて!どれほどの人があなたの帰りを待っているか、わかる?綾也くんはけっして一人じゃないのよ?みんな逢いたいの。あの優しくて穏やかなあなたに逢いたいの。ずっとずっと待っていた。帰りを待ちわびていた。それとももう綾也くんは忘れてしまったの?あの楽しかった毎日を…」
忘れられるはずがない。初めての学校生活、初めての友達、初めての心の通い合い。平凡に笑いあえる日々。
僕にはもう無縁だと思っていた、当たり前の日常。綾也は言葉を失い、目を固くつむった。
そんな彼に、加奈子はもう一言だけそっと付け加えた。誰にも聞こえないように耳を近づけて。
「その中に、どうか私たちの未来も考えに入れて。私はまだ、あなたとの約束を忘れてないんだから」
約束?珍しく記憶にない言葉に、綾也が思わず顔を上げる。
「時間です。面会者の方はどうぞこちらに」
事務的な声が響く。それに促されるように加奈子は嘆願書をしまって立ち上がった。振り向きざま、いたずらめいて舌を出す。
「言ったじゃない!もう一回ジェットコースターに乗るって。今度は必ず写真を撮るって」
綾也は目を見開いた。じょ、冗談じゃない!
その反応に哲平は耐えきれずに肩を震わせた。加奈子は遠慮もなく、くすくす笑い続けている。
係官の苦笑い。
周りを夏空に代えてしまう向日葵のような笑顔。素直で屈託もなく育ったお嬢さまが見せた、芯の強さ。
彼女を守り切れてよかった。そのことだけは綾也にとって一番の喜びだった。
静かに立ち上がるとき、手錠がガチリと音を立てた。さあ、これが僕の現実だ。彼は自分を閉じこめるべく分厚い壁に覆われた牢獄へと帰っていった。
拘置所の外には、いつものスポーツタイプのインプレッサではなく、白く目立たない軽自動車が止まっていた。
運転席にいるのは、もちろん理香子だ。
「元気そうだったぜ。まあ痩せたと言えば痩せたけど、もともとあんなもんだろ」
呑気そうな哲平の声に、助手席にいた小仲が噛みつくように振り向いた。
「でもこれ見てくださいよ!殺人集団に現役東都大の医学生。こっちの雑誌なんか、実名報道ですよ?報道倫理に反してませんか?まだ起訴されたわけでもないのに」
小仲は首から吊った白い三角巾がいかにも邪魔そうに、それらの雑誌を振り回した。
「あんた、それだけ腕振り回せるなら、もうその包帯取ったら?」
冷ややかに理香子が視線を送る。もちろんその目はかなり厳しい。その言葉に急に腕を庇うように、小仲は身体を丸めた。
「いやでもね、理香子ちゃん。病院の先生がしばらくはまだ安静にって」
「どこの世界に、自分のかすり傷見て貧血おこす週刊誌の記者がいるのよ!情けないったらありゃしない!」
まあまあ、さすがの哲平もなだめ役にあいだへと入る。
「理香子、じゃなかった、中村。その前にちゃんと小仲に言ったのか?あのときの礼を、さ」
その言葉に理香子は思わず黙って下を向いた。頬に朱が差し込む。確かにあのとき小仲が飛び込んでくれなかったら、彼はかすり傷で済んだかもしれないが、理香子は背中を撃ち抜かれていても不思議ではなかったのだから。
「そ、そりゃ感謝してるわよ」
「えっーーー?なんか言った?ゴメンちょっと聞こえなかった」
素で聞こえなかったらしい小仲の鈍感さに、理香子はため息をつきながら今度は大声で言った。
「命を助けてくれて本当にありがとう、って言ったのよ!これでいいでしょう?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で眼をぱちくりさせた小仲は、すぐさま相好をくずした。
「いやあ、そんなことを理香子ちゃんに言われるなんて。嬉しいなあ。そういやあ、あのときも何回もボクのこと『耕太郎』って名前で呼んでくれてさあ。何かこう、急に二人の距離が縮まったかな、なんて」
みるみるうちに理香子の表情が怒りに変わってゆく。怪我してなさそうな向こうずねを狙って、思いきり蹴りを入れる。
「いて!何でけが人にそんな」
「だからあんたはデリカシーがないって言うのよ!どうしてそんなことを哲平さんの前で平気で言うかなあ?」
今度は理香子以外の三人が固まった。たまりかねて加奈子が口にする。
「…ねえ、お姉ちゃん。何でそこで哲平さんの名前が出てくるの?」
理香子は頬を赤らめて前を向いてしまった。当の哲平は涼しい顔で窓の外を見ながら、口笛なんぞ吹いている。
加奈子は本気でわからないと言った表情だし、小仲は一人、頭を抱えた。
「あーあ、ボクにとっては国防省よりこっちの方が手強そうだなあ」
「もう!行くわよ!これからだって気は抜けないんだから!」
そうだな。珍しく静かに哲平がつぶやいた。
青龍会の連中は、けが人も多かったがすべて逮捕された。
次期組長も決まらぬまま藤城日千佳が殺人容疑で服役となるのが確実視される中、解散届が出された。
もともとかなり厳しい財政状態の中、あえてPSDに手を出したのだから、他の組からは当然の結果だろうと冷たく見る者さえいた。
プロジェクトSのメンバーのうち、アツシの死亡が確認され、レイナはその場で確保された。放心状態の彼女は、今現在も通常の会話をすることすらできずにいる。
ルカは他人を抱えてテレポートするだけの能力はなかったようだが、さすがに一人行方をくらました。もちろんラボには戻っていない。
警察と公安でかなりの人員を割いての大捜索を行っているが、見つかる確率は0に近い。
中村の家へと博士を連れてテレポートを行ったトオルは、お目当てのUSBを捜し当ててそのまま二人とも消えた。漆原が一緒では、海外にでも飛ばれたらどうしようもない。
唯一の救いは、サンプルがすべて無事だったこと。USBの情報はそもそも全体の構造式の概要が多く含まれていたので、肝心の情報はすべて渡りきったわけではなかった。
しかし、もしどこかの国もしくは民間の研究機関とつながりを持ち、PSD製造にこだわるつもりなら。考えたくもないことだが、国内のすべての後ろ盾を失った漆原のネットワークがどれほどのものか、今はそれを調べる術もないのだ。
シブラク大統領襲撃事件から四年間という長い時間を待ち続けた男。さらに言うのなら、ラボラトリを立ち上げ、通常の人間より成長が早いとはいえ、PK能力を持つ里美ルカを育て上げた漆原。そして綾也ほどのサイ能力者を見つけ出した。
彼の真の目的は何だ。これですべてをあきらめてくれるのか。
ぞっとしねえ話だな。さすがの哲平も、それを思うと背中がぞくりとした。
今は何も動けねえ。ならば目の前の裁判ごっこをクリアするとするか。
こんな裁判、聞いたこたねえ。全くの非公開。それも起訴をするのかどうか。本来は検察がやるべきことを、とても手に負えねえと言い出しやがったのだ。
そりゃそうだろう。国防省、衛生省を巻き込んだ犯罪。しかも被害者は現役の衆議院議員。
理由が政治がらみのみならず、軍事目的に研究所をおっ建てて大まじめに超能力の研究をしていましたなんぞ世間にばれたら。
世間的には、現役医大生がカルト集団の幹部としてテロを起こした結果とされている。殺人未遂の容疑者として逮捕された、東都大学医学部三年生梶尾綾也、とな。
これでよかったのか、これで本当にヤツを救い出したことになるのか。
起訴になろうが不起訴に終わろうが、逮捕された時点でこの国の民衆は彼を犯罪者として見なす。
おれが求めていたのは、こんな終わりだったのか。
哲平が黙る。あとの三人は何も言えず、彼の珍しく真剣な横顔をただ見つめるばかりだった。
海外への渡航を楽しみにしているであろう多くの客でごった返す成田空港。その国際ロビーに背の高い二人の男が、物言わず立っていた。
鍛えられ上げてはいるが、細身の体躯を仕立てのよいスーツに包み、スクエア型のサングラスを掛ける。手には軽量のアタッシェケース。どこから見てもビジネスマンかと思われたが、関係者なら一目でわかったかも知れない。
背筋を伸ばし、あたりの動向に気を配る気の抜けない態度。口元を引き締め、同行者と一言も会話を交わさない。防衛隊関係者、あるいは国防省幹部か。
わずかにサングラスをそっとずらすと、電光掲示板にするどい視線を送る。右手に持つ携帯電話でせわしなく英文でメールを打つ。
漆原清彦博士その人であった。
隣の男も彼より少し上背があるが、背広は着慣れていないのだろう。裾を気にして何度か引っ張る。
トオルは漆原のそばに立ち、あたりを警戒している。警察や公安はまず空港を押さえに来るだろう。その前にこの国を出てしまいたい。博士の言葉は冷静だった。
…ある程度計算済みだったというわけ、か…
ふいに漆原が振り返る。手には小さなスティック。それをトオルへと差し出す。
「……!」
言葉を失うトオルに向かい、彼は例のものだと言い添えた。
「本物、ですか?」
「コピーは作っておらん。守るべき機密は多ければ多いほど、漏洩の機会も増える。これだけで十分だ」
で、これをおれにどうしろと。トオルの困惑を見透かしたように言葉をつなぐ。
「税関で無意味に時間を取られたり、不用意に疑いを持たれてはやっかいなことになる。おまえはこれを持って中の出国審査カウンターの先で待っていろ」
テレポーテーションで税関を通れというのか。漆原は国防省心理幹部としての米国国防駐在官という身分でもあるから、一歩この先に入ってしまえば警察も手出しできなくなる。
彼らが来る前にと、真っ先に空港に来たのはそういうことだったのだな。
ふだんから無口なトオルは黙ってそのスティックを受け取った。
無機質な銀のストライプ模様。すさまじい情報と威力。たとえサンプルがなかったとしても、これからPSDを作り上げることなど、博士にしたらどうということはないのだろう。
たった一本のUSB。たくさんの犠牲を出してようやく手に入れた悪魔のアイテム。いろいろな人びとの想いがこめられたそれを、トオルはじっと見つめた。
そして彼はおもむろにそれを無造作に床に叩きつけると、履き慣れぬ革靴の底で思いきり踏みつけた。あの漆原が目を見開き、息を飲んだ。粉々に砕かれた情報の破片。
「…何をしたのか、わかっているのか」
抑えてはいるが怒りを含んだ、ふだんのSのメンバーなら震え上がるであろう声。珍しく感情的に漆原が手を振り上げる。
トオルは、まるでいつもの立場が逆転したかのように静かに言った。
「人目がありますよ。騒ぎを起こしたくないのでしょう?」
博士らしからぬ感情の乱れが手に取るように伝わってくる。鍛えこまれた胸板が上下している。
挙げた手は下ろされ、今は握りしめられていた。それでも必死に声を落として彼は問うた。
「理由を訊こう。なぜおまえがこのようなことを」
無表情にトオルは博士の目を見つめて言った。想いをめったに表すことのないトオルの澄んだ瞳が、まっすぐに漆原をとらえる。
「あなたはアツシを見殺しにした。それだけで十分です」
レイナの采配は間違ってはいなかっただろう。しかし、あの場でアツシを救い出していればあるいは。でも誰もが彼よりこんなものを選んだのだ。そしてそれは、博士の論理。
漆原の口元が一度だけ引き締められた。歯を食いしばるような辛そうな表情に見えたのは、そう思いたいトオルの幻想だったのだろうか。
次の瞬間には、もうすでにトオルへの興味を失ったかのように踵を返すと、出国カウンターに向かって漆原は歩き出した。
立ちすくむトオルを一人残して。
彼は目頭にそっと長い自分の指を置くと、ほんの少しだけ目をつむった。しかし、もう博士の方へ振り返ることもせず、反対方向へと歩いていった。
履き慣れない革靴のコツコツという音だけが、磨き抜かれたロビーの床に響き渡っていた。
白いドレスの裾は破れ、あちらこちらに血をにじませていた。
何度も転んだのだろう、泥だらけの、数時間前までは美しかったであろうアンジェリック・プリティのパニエ入りロリータワンピースは、凄惨さを帯びてしまっていた。
…ねえ、あれ何?警察とか救急車とか呼んだ方がいいの?…
…ばかねえ、あんな可愛い子だよ?映画の撮影に決まってるじゃん…
閑静な住宅街で道行く人は遠回しに彼女を見つめるだけで、声をかける勇気を持ち得る人間など誰もいなかった。
もちろんそこにいたのは、プロジェクトSのサイコキノ…里美ルカ。
ルカのテレポート能力では、レイナを一緒に連れて行くことなどできなかった。連絡も取れない、無事かどうかもわからない。いつも私たちをつないでいたアツシは、もういない。
あたりに飛び散るアツシの真っ赤な血。だんだん薄れてゆく意識。もうあの、シニカルで一言多いけれど、温かく声をかけてくれたアツシとは永遠に逢えないのだ。
これがニンゲンの…死。
ルカには到底耐えることができずにいた。どうして?どうして!アツシは何もしていない。ただ人と違った能力を持ち、他人の内言語と意識の奥底に隠された記憶ファイルを見ることができるというだけ。
私たちが虫けらと呼び、手を掛けてきたニンゲンどもの仲間も、こんな想いをしたというのだろうか。アツシはあいつらと違う。絶対に違う!
涙がにじむ。もう何も考えられなかった。ラボに帰る?それとも…。先生と慕っていた博士からは何のコンタクトもなかった。ラボに行けば会えるんだろうか。もうあれだけの騒ぎになっているラボに、トオルも博士もいるはずがない。
私はどこへ行けばいいんだろう。
アツシは死の間際、綾也にだけでなく皆にメッセージを送っていた。ルカへ届いた映像は、この美しい街並みと静かな光景。そして幸福そうに微笑む女性の姿。
…ランシテイキョウシャ…
私に母などいない。親なんて要らない。私は戦うために創り出された最強の戦士。
ならばなぜ、私はここへ来てしまったのだろう。
一目逢いたいなんて感情はどこにもない。顔も名前も、相手だって私が子どもであることすら知らない。
なのになぜ、見ず知らずのこの街が懐かしく思えるんだろう。
一軒の住宅が目に入った。よく手入れされた庭に洗濯物がはためいている。日射しを浴びて輝く幸福な姿。 庭先には子どものはしゃぐ声。父親らしき男が優しく見守る。
ここだと直感した。ルカの網膜センサーに現れた情報とアツシのくれたそれがほぼ九十九.八%の確率で一致する。
すべて壊してやろう。
ルカはまずそう考えた。何も知らずに平和を貪るあなたたちのほんの裏側で、どれだけ国家の安全と正義を守られる戦いが繰り広げられているのか、わかっているの?
私はそのために創られた。そこに愛情はない。平凡な暮らしもない。
一生孤独に闘い続ける苦しみを、おそらく生物学的に妹と呼べるであろうこの幼い子どもにも、味わわせてやりたい。
あんたは殺さないわ。この親がターゲットね。目の前で父親が死ぬ一部始終を見るがいい。
ルカの目が少しずつゆっくりと見開かれてゆく。瞳孔が細く光を帯びる。
力をこめようとしたまさにそのとき、玄関のドアががちゃりと開いた。
清楚なブラウスにフレアーのスカート、エプロンを着けた絵に描いたような幸せそうな母親像がそこにはあった。
柔らかい黒髪を後ろにシュシュでまとめ、微笑む温かな表情。
ルカは息を飲んだ。
その瞳は漆黒の闇。視線は決して愛しいであろう愛娘を見てはいない。手に持つ白杖がその理由を物語っていた。
素早く父親が彼女の手を取ろうとするのをそっと押しやると、彼女は自らの足で玄関先のわずかな段差を、杖の先で探りながら降りていった。
「ママー」
舌足らずの子どもの声。その音を頼りに彼女は腰をかがめ娘を抱き寄せる。きつくきつく抱き寄せ、幼い子特有のふっくらとした頬に自分のそれを押しつける。子どもは母親の背中に手を回し、嬉しそうにはしゃいでいる。
ルカは、もう一歩も前に進むことすらできずにいた。
これが母親?ハハ…オ…ヤ?
見えない視力を補うために、彼女には神からなにがしかの能力を与えられたのか。そのためにラボラトリによって卵子提供者とされたのか。その一つの細胞から生まれ育った同じ遺伝子を持つ人間がここにいることを、彼女は、この家族らは、おそらく一生知ることはないだろう。
ルカの細くとがった瞳孔は、いつの間にか元の美しい完全なる円へと戻っていた。
お母さん?ママ?それってなあに?
ああ、いつか訊いたことがあった。博士の回りをまとわりつき、うっとうしがられながらもそれでも抱き上げてもらったあの頃。
おまえは強い子だ、ルカ。おまえは独りで生きてゆける。
そのときの博士の声は、冷たくも恐くさえもなかった。
どこか寂しげで切なげで、私は博士がいればいいのだとそのとき思ったのだ。
その博士とも、もう今では逢えない。
目の前にいるのは、私の……ママ。
ねえ、その子と同じように私も抱いて!同じように姿を映すことのない瞳で見つめて!どうしてダメなの?私もあなたの血を受け継いだれっきとした娘なんでしょう?
温かい愛情を私にも注いで。優しい声で私の名前を呼んで。ルカが大好きよと甘くささやいて!
それを望むことはそんなにも贅沢なことなの?私がサイ能力者だから?ただの実験体だから?
じゃあ、何で私を創り出したの……。こんな想いをさせるため?私とそこにいる私の妹との違いは何?
いつも戦うために光り輝く自信ありげなルカの瞳に、大きな涙が浮かんだ。
走り寄ってママと言ったら、あなたは抱きしめてくれるのかしら。
そう思いながらルカは自らの両手を見つめた。血にまみれた泥だらけの手を。
この手で何人のニンゲンどもを殺してきたというのか。
私は、正義の名の元に、とてつもない罪を犯してきたのに。
誰も私を抱きしめてなどくれはしない!
ママ!ママ!それでも私を抱きしめて!受け入れると言って!すべてを許すと、あなたをルカを愛していると。
そう望んではいけないの?
思わず走り出そうとしたルカの背中を、大きな手が引き留めた。あわてて振り返ると、そこには似合わぬスーツ姿の……トオルがいた。
「トオル、どうしてここが…」
アツシが同じ光景を見せてくれた。おまえとおれの周波数が同期していたんだろう。
朴訥なトオルが、言葉少なにつぶやく。
「もう行こう、ルカ」
「行く、って博士のところへ?」
博士は。トオルの言葉が途絶えた。唇を噛む。そうだった、こんなふうに黙ってしまうトオルの気持ちを、いつもみんなに仲介してくれたのは、シニカルなくせに明るいアツシだったのだ。
「そうだな。おれたちはテレパスじゃない。言葉にしなければ伝わらないんだ」
同じ思いだったのだろう、トオルの血の吐くような辛さが感じ取れる。
「漆原博士は出国した。USBはおれが壊した。だからおれは今ここにいる」
どうして?一緒に逃げればあなただけでも助かったのに!叫ぶようなルカの声に、トオルはまっすぐに彼女の目を見てこう言った。
「おれたちは仲間だ。一人だけ逃げるわけには行かない。それにな……」
トオルはルカの肩を押すようにして、住宅街を静かに歩いていった。二人ともテレポーターのくせに。ルカは自分の足で歩く感触が新鮮で、ほんの少しだけ微笑んだ。
「おれの本名をまだ言ってはいなかったんだな。いつもおまえはルカで、おれはトオルだった。ラボでもSでもそれでよかった。だが、もうラボも存続は無理だろう。Sは…。今さら真実を伝えないでいる必要もないな」
不思議そうにルカがトオルを見上げる。いくら内面が育ってはいても、風貌は十歳のまま。そんなルカの頭に、トオルは大きな手を置いた。
「おれの本名は、里美透。おまえのテレポーテーション能力はおれの父親のDNAを受け継いだものだ」
マジシャンの助手をしていたうだつの上がらない男。ただ、瞬間移動の芸だけは親父の十八番だった。静かに語り出すトオルを、表情を凍らせたルカが見つめる。
「おれの能力に気づいた親父は、ラボの実験に協力することとおれをラボに売り飛ばすことによって大金を手に入れた。それから程なくして、玄人博打に手を出して死んだと聞かされた。母親なんぞとうの昔にいなかったからな」
ルカの瞳にたまっていた涙が耐えきれずにぽろぽろとこぼれ落ちる。
「泣くのなら今のうちに泣いておけ。これからやることがあるのだから」
その言葉に、ルカはわあと声を上げてトオルにしがみついた。
暖かな日射しが入り込む病室で、レイナは聖母のように微笑んでいた。
あの事件以来、一言も話すことなく、うつろな目をしてうずくまるばかりだった。
どんな医師も関係者も、彼女との意思の疎通は難しかった。
そのレイナが、今はベッドに起き上がって座り、肩には薄手のベージュ色のカーディガンを掛けている。
膝には飾り気のない清楚なワンピースに身を包んだ……ルカ。穏やかに心から安心しきった顔で目を閉じ、規則正しい寝息が聞こえてくる。
レイナはそんな彼女の背中を優しくなで続け、ときにはあやすようにリズムを取って叩いてあげていた。
口からは聞こえるか聞こえないかほどのわずかな歌声。おそらくは幼い子への子守歌。
ベッドサイドにたたずむのは、トオルだった。
彼は最初、ただずっと黙ってその光景を見ていたが、一つ小さなため息をつくと口を開いた。
「言葉は、口に出して言わないと伝わらないんだな。もうアツシもいない。おれたちはテレパスじゃない。ゆっくり最初から始めてみよう。ルカは子どもをやり直すんだ。そしておれたちは…」
一度そこで言葉を切った彼は、ゆっくりとレイナの目をのぞき込んだ。相変わらず焦点の合わない瞳に、トオルの姿が映し出される。
「おれたちは、家族になろう。今度はおれがおまえたちを守る。それがこの塀の中で一生を終えることになろうとも」
都内にある医療刑務所の特別棟で、隔離された空間の中、三人は今までで一番静かなときを過ごしていた。
(つづく)
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