反攻
ラボラトリの庭に、静かなやわらかい風が流れる。
置かれたベンチに座り込み、綾也はただひたすら加奈子を抱きしめていた。
彼女の意識はまだ戻っていない。
サイ能力者でも訓練を受けた訳でもない、ただの女の子。どの部位にどれだけのダメージを受けるものなのか、誰も知るものはいない。
規則的な呼吸音を確かめるかのように、己の胸にしっかりと彼女をかき抱き、綾也は穏やかな表情を浮かべていた。
「どうなの?綾也の心の動きは…」
レイナがささやく。ラボの庭にはSのメンバーしかいないはずなのに、何かを警戒するように、いや、心から彼を心配するかのように。
「落ち着いたもんさ。とてもPK能力を持っている生物兵器には見えないね」
アツシのどこか投げやりな言葉に、レイナは眉をひそめた。彼がいらだちを覚えるほど、綾也の心は凪いでいた。
それを燃えるような野獣の瞳で睨みつけるルカ。恋愛感情とも仲間への思慕とも違う、一人置いて行かれたような寂しさ。それを彼らは敏感に察していた。
頬の温かさを確かめるように、綾也はそっと加奈子の顔に手のひらを押し当て、包み込んだ。そのまま自分の頬に引き寄せる。眠りの森の美女を優しく目覚めさせる王子のように。
固くつむられたままの彼女のまぶたに、唇を近づける。何度も何度も頬にまぶたに、そしておそるおそるそのやわらかな口元に、綾也は口づけた。
あれは白雪姫なのか。遠い昔に読んだ童話など、遙か彼方の記憶の向こう。ここにいる誰もが。
綾也などおそらく、読んだことすらないだろう。
人間らしい心を取り戻すということは、戦闘能力の低下を意味する。
本来なら私は……レイナの葛藤は続いていた。
彼女を引き離し、取引の材料に使うべきだろう。わかっている。すべて頭ではわかっているのよ。
叫び出したいくらいの激情を、レイナは必死で抑え込んでいた。
かつて彼の愛する女を、その手でめった突きにさせたのは誰?血の海の中で呆然と立ちつくす綾也を、テレポートさせたのは?それが彼を目覚めさせることだと、信じて行ったはずなのに。
だって、そう博士が言ったから。
博士が……。
またくり返させるのだろうか。彼からすべてを取り上げて、何も感じないようにただ殺戮兵器として使うのが本当の正義なのだろうか。
判断するのは、我々実行部隊であるSではない。それはもう十分すぎるほどわかっているの!
頭を抱えて下を向くレイナの肩に、トオルはそっと手を置いた。
カツカツ、と靴音が近づいてくる。振り向かなくともわかる。漆原だった。
「中村バイオファーマの娘を連れてきたのは、とっさの判断だったとはいえ、よくやった」
「……ありがとうございます」
普段のレイナなら頬を赤らめ、嬉しさを隠すのに精一杯になるであろう博士のほんの少しのほめ言葉も、今日は胸を刺すばかりだった。
「意識は?」
「いえ、まだ。生体反応もありますし、特に目だった異常は見られません。しかしとにかくあの状態で、綾也が彼女を離そうとしないのでそれ以上の検査も治療も…」
「生きているのならいい。衛生省が吐いたぞ」
その言葉に、トオルとルカの面が引き締まった。アツシはもうとっくに博士の内言語を読み取って目を見開いている。
「あの、それは…どういった……」
ただ一人事情が飲み込めなかったのは、レイナかも知れない。彼女は漆原の顔を見つめた。
「中村藤一郎がすべてを握っているらしい。情報を引き出すのには、あの娘が最適だという訳だ」
「藤一郎?ああ、あの子のおじいちゃんね。何かすっごく偉いんだろ?そのじいさんがどうしたのさ」
わざと知らないフリでアツシが軽口めいて返答する。彼なりの防衛反応。すべての内言語を片っ端から読み取っていたら彼の脳はあっけなく壊れてしまうだろう。
「中村藤一郎は、長く製薬業界の中心人物だった。引退した今でもその重鎮であることには変わりはない。当然、人脈も情報も彼に集約される。谷田貝は彼にだけは相談を持ちかけていたらしい。ここまで隠し通したということはPSDの完全なる構造式は…」
「そのおじいちゃんが持っているって訳ね?」
三十センチほど身体を浮かせながら、ルカは屈託のない顔でそう答えた。獲物が見つかった。戦うべき敵がようやく見えてきた。戦闘のためだけに生まれ、育てられてきた少女は、つねに戦い続けなければその存在理由を失う。
野生の闘争本能をむき出しにして、彼女は口元をゆがめて妖艶に微笑んだ。
「パパ、教えてちょうだい。この資料のことから極秘会議のことまで」
忙しい父親をようやく自宅でつかまえた理香子は、彼の自室でそう詰め寄った。
我々の目の前から忽然と姿を消した加奈子。
もちろん警察には届け出てあるし、詳しい話もした。哲平の助言で公安の藤堂にも話を通してある。しかし、あれから何の進展もなく、Sからも要求めいた接触もなかった。
このまま加奈子は、Sに連れ去られたままなのだろうか。それよりもまず、あの子がテレポートに耐え切れたのかどうか。
理香子は、もう遠い昔のように思える小仲が作成していたコピー資料を、父親の目の前に見せつけた。
姉妹の父、中村バイオファーマの社長である中村宗之は、最初ハッとしたようにその文字を追ったが、ため息とともにソファに身体を預けた。
「どこからそんなものを……」
「教えてパパ!とても大事なことなの!」
それは…、言いかけて宗之はテーブルの上の灰皿を引き寄せた。
「中村の娘として訊いているのか?それとも、高文社の社員として、か」
理香子はしばらく逡巡していたが、やっと口を開くと「加奈子の姉として」とだけ答えた。
宗之は火をつけるでもなしにタバコを弄んでいたが、やがて視線をそらせつつ話し出した。
「あの会議には、ほとんどの製薬会社が出席した。その中の特に大手十五社に極秘にサンプルが渡された。どんな薬物であるかまでは説明がなかった。衛生省の通達は、これで大至急ジェネリック薬品を作ること、決められた量の製品を衛生省へ納入すること、そしてこれは国家の安全に関わる極秘プロジェクトであるから、絶対に情報がもれるようなことがあってはならないということだった。こんなときに一番求められるのは何か、わかるか理香子」
そこでようやく宗之は顔を上げた。愛娘をいとおしそうに見つめる。理香子は無言で首を横に振った。
「素早い対応だよ。私は会議の終わったその足で特別チームの編成を命じ、どの社よりも早い納入を目指すよう伝えた。もちろん信頼の置ける研究室の上層部だけにね。しかしその晩、じいさんから電話がかかってきた」
…その晩?理香子はそれが何を意味するのか、その時点では見当もつかなかった。ある意味、祖父の力を見くびっていたのかも知れない。
「その計画には乗るな。亡国への第一歩だ……とね。何を大げさな、と笑ったよ。しかしじいさんは本気だった。そして、どこから仕入れたのかとんでもないことを言い出した」
祖父曰く、あのサンプルは十五社ともすべて違う。それらの差異部分を組み合わせることにより、本物の構造式が手に入るようになっている。
何故こんな手の込んだことをするのかと言えば、私は今一つ衛生省と国防省、そして漆原博士が信用できないのだと、東都大の谷田貝くんがわしに言ってきおった。純正なPSDは、まだ彼らに渡すことができないとな。
じいさんの妄想には付き合ってられない。何より製薬会社にとって衛生省の通達は絶対だ。
中村バイオだけ逆らうわけにもいかんし、早く動き出さなければ我々はこの業界から締め出されてしまう。
「それでパパは、会社はPSDを作ったのね?」
「正確には不純物の入ったジェネリックをね。それを一箇所に集め、どこの製薬会社が製造したのか、完全にわからないようにしてから……」
「青龍会に、横流しした、という訳…か」
「我々は、まさか暴力団に流れるとは聞かされていなかったし思いもしなかった。日本で全く対策の取られていない、ギフテットの子どもたちへの新薬として、治験を行うと説明されただけだ」
いくらパパでも、その説明を信じてはいなかったのでしょう? 理香子の声が湿る。
「私たちは、恐ろしい犯罪に荷担していた。そう思っていいのね?」
「衛生省ににらまれたら、我々は何もできない。会社、社員、そして何よりも中村が作り上げてきた多くの薬品たちを守るためにも、そうせざるを得なかった」
血を吐くような宗之の思い。痛いほど伝わっては来た。でも言わずにはいられなかった。
「ねえパパ。最初の、ラルクの事件で加奈子は死ぬところだったのよ?そして今、あの子はここにいないのよ?すべてはPSDのせいで…」
父親は頭を抱え、深くソファに沈み込んだ。
「この事実を公表してもいいでしょう?」
静かな理香子の言葉に宗之は黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「おまえが私の娘だから、本当のことを言った。加奈子を助けたいがために、だ。社会的正義など、今の私には正直、どうだっていい。理香子も加奈子も、大切な私たちの娘だから……」
いつも頼りがいのある父親、そして大会社の社長という姿が、今ではとても小さく寂しげに見えた。こんなにも父は弱々しかったのだろうか。
そのとき、ふいに理香子のプライヴェート用携帯が鳴り出した。いったい今頃誰が。
ディスプレイの文字に息を飲んだ。まさか……まさ…か。
震える手でボタンを押す。聞き慣れた、いえもうずっと昔のような感覚のこの声は…。
「もしもし、梶尾です。理香子さんですか」
理香子は答えることも忘れて、唇を噛んだ。
…できるだけこっちは余計なことは話すな。じれったくなれば自然と向こうは饒舌になってくる。どれだけ情報を引き出せるか。待つのもブンヤの大事な仕事だ…
頭の中に先輩の、そして哲平の声が思い起こされる。
私にできるだろうか、そんな大変なことが。でもやらなければ、加奈子は戻らない。
理香子は携帯を握り直した。
「はい、理香子です」
「よかった、この電話番号がまだ生きていてくれて。どうしても連絡が取りたくて」
「どういった用件かしら?」
冷静に言ったつもりなのに、声が震えてしまった。しかし綾也とおぼしき電話の相手は、気にも留めなかったようだ。
「心配じゃないんですか?加奈子ちゃんのこと」
こんな言葉を遣う人だっただろうか。詳しく綾也を知っているわけではないけれど、どこか冷たい響きに理香子は心が引いてゆくのを感じた。
「あなたが本物の梶尾くんなら、そして加奈子がそこにいるのなら。お願い、あの子は人一倍怖がりで泣き虫なの!!それはあなたが一番よく知っているでしょう?今すぐにでも返して。この家に帰して!どこに迎えに行けばあの子に会えるの?梶尾くん!」
耐えきれず、理香子は口早にそう問い詰めてしまった。どこかに記者なんか失格だと思いながら。記者なんかより私は加奈子の姉でいたいと願いながら。
しばらく無言が続いた。私には冷静な駆け引きなんてできない。何でもいい。加奈子を助けたい。
はやる心を必死に押さえつけて、相手の言葉を待つ。
ようやく相手が口を開いた。彼女はほうっと詰めていた息を吐く。
「十五社分のサンプルを全部持って、理香子さん一人で今から言う場所に来てください。哲平さんや高文社の人たちなど、家族以外の他人に一言でももらしたら取引はなしです。いいですね?」
加奈子が、まだ淡い恋しか知らないあの子が、本気で好きになった相手はこんなに冷たいものの言い方をする人物だったのだろうか。
綾也の指示する場所を必死にメモに取る。時間指定。自分の運転で来ること。
そんな短い時間で、集めることは不可能だと抵抗したが、十五社分のサンプルなど、藤一郎氏に話せばすぐに集まるだろうと反論されてしまった。
向こうはこっちの情報など、すべて手の内にあるということなのね。
それでも国防省では管轄が違うからか、直接サンプルを回収することはできない。衛生省に借りを作るなど、制服組にしたらプライドが許さないのだろう。それに衛生省にしてもそれは彼らなりの命綱。省同士での駆け引きの材料、か。
電話を切り、振り返るとそこにはまだ青白い顔色のままの宗之が理香子を見つめていた。
「お祖父様にお会いしましょう。パパもついてらして!」
…理香子。宗之のつぶやきは理香子のきっぱりとした靴音にかき消された。
「どう?うまく行った?」
ルカが無邪気にアツシへと問いかける。それに肩をすくめて苦笑を返す。
「どうかな。まあ携帯だからね。綾也の声の特徴は掴んでいるつもりだし。STE研究班特製、個人音声解析装置の能力に頼るしかないけど、いちおうは信じたみたいだよ?」
アツシは綾也の声を真似て理香子へと連絡を取った。おそらく冷静なときの彼女なら異変にも気づいただろう。しかし今の彼女にそれを求めるのは、酷というものだ。
ミーティングルームの壁は真白すぎて、まるで発光しているかのごとく青く見えた。
綾也と加奈子をのぞく他のメンバーは、これからの手順を確認していた。
綾也は彼女を離そうとせず、また何も言おうともしなかった。心だけが少しずつ動き始めている。ただそれはおおよそ戦いとはベクトルの違うもの。彼はどこへゆこうとしているのか。不安感が周りに広がっていた。
「衛生省からの依頼による企業秘密であるサンプルを、いくら中村藤一郎と言えども、各製薬会社がそうやすやすと渡すでしょうか」
「…渡すだろう。それにもう実際にPSDは流通しているのだからな。衛生省からの通達は守られた。藤一郎へのメンツも立つ」
出過ぎた発言、申し訳ありません。レイナは素直に漆原へと頭を下げた。
「そんなまどろっこしいことしてないで、さっさと衛生省行ってぶんどってきましょうよ。何でわざわざそんなこと…」
ルカのある意味、物騒な発言には、さすがの漆原でさえため息をついた。
「そうそう敵を作るもんじゃない。それに谷田貝は自らを守るために、これほど面倒な手間をかけたのだ。衛生省にはサンプルなど残ってはおらんよ。既に確認済みだ」
そう言いながら漆原は、綾也のいる医務室のモニターに目をやった。
彼をある意味で守り続けた銀フレームのメガネは、今はかけられてはいない。なのに手に負えないPKが起こるわけでもなく、怒りの燃えさかる鳥どもが飛来する様子もなかった。
彼を制御しているのは、あの…娘か。
長年彼を制御しようと試みている漆原にでさえ、梶尾綾也の存在は不可思議なものだった。
モニターの中の綾也は、穏やかな瞳をじっと加奈子に向けていた。
体温の低い冷たい彼の手が、彼女の頬にまた添えられる。うう…んと声を上げて、加奈子のまぶたがそっと開いた。
うつろな目で綾也を見る。
ラルクでは酷く拒絶された。
大学の門で来るかどうかもわからない彼を、ひたすら待ち続けていた彼女は、微笑んでいた。
綾也のマンションでPKを間近に見ても、加奈子は驚きすらしたが決して拒みはしなかった。
それよりも彼女の思いがより強く伝わってきた。
彼女を信じたい気持ちと、最初の出会いが綾也の胸の中で交差する。
穏やかに微笑む僕ならば、彼女は受け入れるだろう。しかし、朱く燃えさかる鳥どもの僕を彼女はどう感じるのか。
やはり……バケモノと……。
半ば自虐的に苦笑すると、綾也は首を軽く振った。それが普通の人間の至極当たり前の反応。あれだけ愛していると信じ切っていたみすずでさえ見せた、激しい恐怖の表情。
綾也だけは自分の変化に気づいていなかった。今まで頑なに閉じきっていた感情が戻ってきていることすら、彼は考えも及ばなかった。ただのアンドロイドが人間へと変貌を遂げる。次の加奈子の言葉いかんで。
加奈子は、最初自分がどこにいるかわからないようで辺りを見回していたが、綾也の瞳をとらえると、ホッとしてかすかに微笑んだ。
「…大丈夫?加奈子ちゃん」
優しく問いかける綾也の首に、加奈子は突然、腕を回した。
「綾也くん!やっと会えた…」
あとは涙で言葉にならない。腕に力を入れて身体をぴったりとつけると、加奈子はその体温を確かめるようにじっとしたまま全身で彼を感じていた。
素直な加奈子の愛情表現に、とまどいつつも綾也は同じように背中に手を回す。
ほうっとした息が、どちらからともなくもれ聞こえた。何も言う必要などなかった。
…アイシテイル…
…ワタシモ、アナタガダイスキ…
メガネをかけないのに穏やかな彼の表情が新鮮で、加奈子はそっとその頬にすり寄せた。
ついばむようなキスに、胸がときめいた。もう離れたくない。その想いが綾也にも熱いほど伝わってくる。
「…僕が……怖くない、の?」
おずおずと綾也が口にする。怖いと言われたらどうすればいいのか。何度も失望をくり返すのはもう、ごめんだ。
しかし加奈子の口からこぼれた言葉は、おおよそ彼女に似つかわしくないつぶやきだった。
「綾也くんになら、私、殺されてもかまわない」
裕福なお嬢さまで、周りからちやほやされるのが当たり前の生活。
穏やかで優しい男たちに囲まれ、大事にされるのが当然。それでもそれを鼻にかけるでもなく、伸びやかに素直に、愛らしく育ってきた。
誰からも可愛がられる存在としての加奈子。ときには姉の理香子さえ嫉妬めいたうらやましさを感じるほど。
その彼女が言った言葉…コロサレテモカマワナイ。
綾也は気づくと胸ポケットに差していたいつもの銀フレームを、そっとかけた。
モニターを冷ややかに見つめていたはずの漆原博士は、医務室のドアを事務的に開けた。ノックもなしに、やや乱暴気味に。
途端に怯えた眼差しを浮かべる加奈子。思わず綾也は漆原から守るように加奈子の前に座り、彼女を腕で下がらせた。
「中村が取引に応じるそうだ。それまで彼女は我々が預かる。覚醒も無事に済んだようだが、まだ医学的な検査も何も受けていないと聞いている。全く訓練を受けていない一般人に対するテレポーテーションが、どのような影響を及ぼすのか。私としても興味深い」
加奈子は身を固くした。それを背中で感じながら、綾也はあの日いらい初めて漆原に逆らった。
「彼女は関係ありません。僕が責任を持って中村の家に帰します」
おまえも覚醒終了というわけか。漆原の声はこの上なく冷酷だった。
「おまえと谷田貝が共同で開発していたPSDを素直に渡しさえすれば、こんなふうにこの娘を巻き込むことはなかった。わかっているのか、そのことを。おそらく何らかの形でおまえの潜在記憶には残らないような仕組みにしてあるのだろう。手の込んだ、というよりも手間をかけさせおって。そんなにも谷田貝は我々を信用していなかったという訳か」
僕は知らない。何もわからない。今さら博士に言ったところで聞き入れてはもらえないだろう。
要は僕は谷田貝教授に利用され、知らず知らずのうちに新薬の開発を行わされていたという訳なのだから。
みすずが僕に近づいたのも、青龍会が必死に僕を追い回したのも、僕がその情報を握っていると考えたから。
僕は知らないのに。何も、何一つ知らないのに。
まさか…哲平も?
今はそう考えたくなかった。ましてや中村バイオファーマの彼女たち姉妹との関連も。
僕が存在することで、みなが変貌してゆく。力を欲するようになる。
そのために命を落とすものもいる。酷く傷つけてしまった人びとも数知れず。
僕はどこへ行けばいいのか。綾也の胸の中を冷たい氷の塊が通り過ぎる。
そして、哀しいことにどんなことをしても漆原博士には逆らうことはできないのだ。
「助けて、綾也くん!」
泣き叫ぶ加奈子が何人ものSTEスタッフに連れて行かれても、綾也はその場を動けずにいた。
漆原博士は腕組みをしながら無言で固く目をつぶっていた。ミーティングルームに集まったのは…
クレヤポンス(透視能力者)でプロジェクトSの実行責任者でもあるレイナ。
テレポーター(瞬間移動能力者)のトオル。
テレパス(精神遠隔感応能力者)のアツシ。
サイコキノ(念動力能力者)であり、サイ能力をわずかでも持つ者同士による人工授精によって誕生したルカ。
彼らは同じ会議用テーブルに思い思いに腰掛け、間もなく映し出されるであろう液晶画面を見上げていた。
そしてそこから離れた部屋の隅で、うつろな瞳を宙に浮かせたまま、身じろぎもせずに座っている……綾也。今日はいつもの銀フレームのメガネをかけている。
誰も何も言わず、博士の言葉を待ち続けていた。
「最初のターゲットはこの議員だ」
薄青く画面が光り、無機質な漆原の声だけが響く。意外な人物にわずかな動揺が広がる。
「大変失礼ですが、なぜまず衛生族ではないのですか?」
レイナがおずおずと尋ねる。彼女にとっては博士は単なる上司ではなく、綾也と同じように育ての親とも言えるほどの存在なのだ。
「反応を見たい。それからできるだけSTEから離れた存在であることも必要だ。一番の理由は…」
そこまで言うと漆原はいったん言葉を切り、綾也に視線を移した。
「すべての始まりは、この議員の発言だからだ」
綾也はわずかに眉をひそめ、辛そうな表情を浮かべた。しかしあえて何も言わなかった。
逆らえるはずもない。己はこのラボラトリで一生を生物兵器として生きる。その覚悟を決めなくては被害は広がるばかりだ。
漆原の言われたとおりのニンゲンだけを抹消すればいい。そうすれば綾也の大切な者たちは守られるだろう。今はどんなに批難されようとそう思いたかった。
加奈子を無事に家族の元に返したい。どうかどうか、その願いだけは…。
神がいるのなら祈りたかった。いや、僕が願うのなら悪魔に、か。
ターゲットの代議士の事務所に理香子を呼び出す。そこで取引は行われる。そして議員は命を落とす。綾也によって。すべては秘密裡に処理される。
それがPSD計画の第一弾の計画だった。ただの始まり。抹消せねばならぬニンゲンどもは、これからも増え続ける。
罪深い僕は、もう愛とは無縁なのだと思い知らされるくらいなら、覚醒などしなければ良かったのに。
心の中で血の涙を流し続けるくせに決して表に出さない綾也をそっと遠くからスキャンしたアツシは、したくもない同期の辛さに思わずこぶしを握った。
テレパスは損だよな。幸せな記憶の人びとの中で暮らせればいいのに。アツシのつぶやき。
それぞれの複雑な思いを内包しつつ、会議は何の支障もなく進んでいった。
理香子は強い口調で藤一郎に食ってかかった。
「今すぐ各企業に連絡を取って、サンプルを集めて!お願いおじいちゃま!」
いつもの藤一郎なら孫かわいさに相好をくずすはずなのに、今日の彼はさすがに渋い顔つきのまま、口を開こうともしなかった。
「おじいちゃま!加奈子の命がかかっているのよ、あの子を助けたいと思わないの?」
彼はゆっくりと立ち上がると、理香子の視線から逃げるように窓の外を見つめた。
「……サンプルは渡せん」
どうして。ほとんど聞き取れないほどの涙声。理香子は必死に訴えた。何度も何度も。
「これを渡せばあの漆原ならすぐにでも完全なるPSDを作り出してしまうだろう。それこそ海外の企業でも使ってな。何が起こる?この国はどこへ向かってしまうか、考えるだに恐ろしいことになる。そこまで思いを馳せることのできる人物が今の国の中枢にいるとは思えん。あの狂人の言われれるがまま、亡国への道を突き進む」
おじいちゃまだけはわかっていると言うの?ヤケ気味の理香子に、彼は少し和らげた瞳で優しく諭す。
「今、警察に極秘の捜査を依頼してある。サンプルを渡さずとも加奈子は戻る」
家族以外の誰にも言わないって約束だったのよ!理香子は普段の理性ある自分の仮面をすべてかなぐり捨てて叫んだ。
「漆原ほどの男だ。それくらい計算の中に入っておるだろう」
唇を噛んでしばらく黙っていた理香子は、思い詰めた表情で藤一郎に向き直った。
「最後まで言わないつもりだったけれど、じゃあ言うわ。サンプルを全部渡してもきっと完全なPSDなんてできない。だから大丈夫なの。お願い!おじいちゃまの力を貸して!」
藤一郎の顔色が変わった。どういうことだ、問い詰める彼に、もう一つのキーがあるはず……それだけでわかってとしか理香子は言えなかった。
これは、本当に最後の切り札。誰にも告げていない。本当にそうなのかもわからない。でも、誰も中身を知らないということが切り札になりうる最大にして重要な条件。あちらにはテレパスもクレヤポンスもいるのだ。
こんな遠方のテレパシー感応能力があるとは思いたくなかった。けれど相手の力なんて全くわからない。情報がすべて知られてしまうことが怖い。理香子は必死に自分の頭から思い浮かべた情景を消そうと努力した。
それを見た藤一郎は何かを察したのだろう。わかったと一言だけ言い、電話を掛けるために人を呼んだ。
一人にして、と父とも離れ、理香子はインプレッサのハンドルに頭をつけてため息をついた。
心にしまい込んだ思いは、あまりに重すぎてとても一人では持ちきれない。もっと自分は強いと信じていたのに、いざというときはこんなにも脆いのかとふがいなさに呆れた。
涙すら出なかった。苦しさはもう喉元までせり上がっているというのに。
祖父はこの国を想う。国民の将来を憂う。私は…ジャーナリストを気取りながら結局は妹のことしか考えられない。冷静になんてとてもなれない。
気づくと理香子は無意識に携帯を握りしめていた。誰に相談するつもりだったんだろう。自分で自分がわからない。青く発光するディスプレイには、「津雲哲平」の文字。
勘のいい彼に一言でも言えば、すべてわかってしまうだろう。理香子があの秘密の存在をうすうす感じていることも、今の状況も。
彼女はあわてて取り消しボタンを押すと、今度は慎重に小仲の登録番号を選んだ。
小仲としか登録してないんだった。耕太郎って入れておいてあげなきゃ。そんなことがほんの少しおかしくて、ふっと笑った。
ワンコールが鳴る前に小仲はさっと電話に出た。理香子ちゃん?理香子ちゃんだよね?そんなにせかして話さなくてもいいのに。いつもおっとりしているのがあんたのいいところでしょうが。
その呑気な声色に、誰にも言わないでと前置きしながら理香子は今までの経緯をゆっくり話して聞かせた。
私は何をしているんだろうと頭のすみで思いながら。
「……ボクもついていこうか?」
気弱そうないつもの小仲の声にホッとした。こういう反応が欲しかった。今は誰からも責められたくない。腹の探り合いも駆け引きももう十分。
取材者は冷酷に何でも記事にしてゆけばいい。けれど被害者の身内はこんな思いを味わっているのだということに、理香子は改めて思い知らされた。
今まで十分共感しているつもりだった。しかしそれはただの同情でしか過ぎなかったのだ。そして記事を書いて雑誌が出版されれば終わってしまうこと。
被害者の思いはそれからもずっと続くのに。
ただただ理香子は語り続けた。小仲はひたすら聞いていた。ときおり心配そうに、大丈夫?と言葉を挟みながら。
「それで理香子ちゃんはサンプルを持って、たった一人で行くつもりなの?」
その問いにきっぱりと、そうよ、と答える頃には、いつもの理香子が戻ってきたような気がした。
「ボクも行くよ!」
「要らない、ってか足手まとい。邪魔」
今までさんざん愚痴を聞かせておいて、その返事はないだろうと思うだろうに、健気にも小仲はゴメンと謝った。
「ボクがもっと強かったら、そういうときに助けてあげられるのになあ」
「あんたはそのままでいいの!人にはその人の良さがあるんだから。誰もが哲平さんみたいになる必要はないのよ」
哲平さん?小仲から聞き返されて、理香子はハッと我に返った。
なぜそこで彼の名前など出したんだろう。あわてて、ほら遠藤さんとか木谷さんとか、特集班のメンツを次々と挙げてゆく。
「津雲さんには知らせた方がいいんじゃないの?あの人なら何とかしてくれそうな気がするし」
不安げな小仲の声に、絶対知らせないで!と強く拒絶した。聞いて欲しかっただけだから誰にも言わないでよ、そうも付け加えた。
「それでも理香子ちゃんがボクを頼ってくれたことが嬉しいよ。ありがとう」
どこまでもいい人なんだろう、呆れちゃう。電話を切ってからもしばらく、理香子はそのまま動くことができなかった。
サンプルは揃った。藤一郎の名はまだ業界内では絶対だったのだろう。それを持って理香子は指定された場所へと向かって行った。
見えないところで公安が追跡していることだろう。そしてそれは相手にはバレバレって訳ね。何とかの化かし合いかも知れない。
それでも私は一人でここに行く。大切な妹を、加奈子を取り返しに。
理香子はインプレッサを梅村智実衆議院議員事務所の駐車場に止め、車のドアをそっと開けた。
これから始まるであろう闘いに、私は勝たなくてはならない。たくさんの想いを一人背負い。
ヒールの音を響かせて、彼女は正面玄関へと歩いていった。女神ミネルヴァのように気高く美しく。
さあ、ゲームは始まる。もう誰にも止められはしない。
理香子は大きく息を吸い込んだ。
(つづく)
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