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謀略

 マンションの前で哲平は例のスーツを着込み、タバコをふかしていた。どれもまだ長い吸い殻が、足元に落ちている。マナー違反もいいところだろう、実際小じゃれた犬を連れた高齢の女性が眉をひそめて通り過ぎる。


 …これだから高級マンションてのは住みづれえ。


 しかし何だって理香子のヤツ、このくそ忙しいときにおれを呼び出しやがるんだ。こんな格好までさせてよ…

 迎えに行くから必ず一緒に来てください。理香子の口調は哲平でさえも有無をも言わせないほど緊迫していた。何があるってんだ。哲平はあえて逆らわず、ため息をつきながら待ち合わせの場所に突っ立っていた。

 こんなことをしている間にも、危険が迫っているとしたら。STEの反撃が始まっていたら。国会の行方は。

 考えなければならないことの方が多すぎる。哲平は目をつぶって頭を軽く振った。


 そんな彼の前に、音も立てずに一台の高級車が止まった。センチュリー、どこのお偉方だ?

 後部座席から顔を出したのは……理香子!


「哲平さん、早く乗って!こっちも急いでるんです」

「おい、何おっ始める気だよ。ってかおまえらなんちゅう格好してやがる?」

 文句を言いながらも彼はすばやくセンチュリーの助手席に乗り込んだ。後ろは女二人でもうとても座れそうにない。こんなに広い車内の五人乗りだというのに。

 思わずもう一度哲平は、二人を振り返って見た。


 理香子と加奈子、中村姉妹はどちらも控えめだがとても品の良い振り袖姿だった。もちろん仕立ての一点物。値段など、聞いても哲平には見当もつかないだろう。


「おまえらな、今どんな状況かわかってんのか?おまえらだけ呑気にパーティーか、それともおれは見合いの付き添いか?」

「わかっているからこんな格好をしているんです。時間がなかったから車の中で説明させてもらおうと思って」

「…!どういうこと、だ?」

 理香子のあまりの真剣な眼差しに、これは何かあるのだろうと哲平は口調を変えた。

「おじいさまのところに、お願いに行こうと思って…」

 ためらいがちに加奈子が口にした。その言葉に哲平は頭をがつんと殴られたような衝撃を感じた。


 そうか、その手があったか。


「中村藤一郎、中村製薬の創始者であり、今でも政界財界への影響力は大きいと言われている。特に現首相の前園とは、関係が深いんだったな。おれとしたことが。金の鉱脈は足元にあったって訳か」

 震えながらつぶやく彼の表情を、複雑そうな思いで理香子は見返した。

「今は悠々自適の楽隠居様よ。数年前に父と経営方針で揉めて大げんかして以来、うちとは絶縁状態。父も母も全く祖父の話はしないし会おうとも思ってない。でも、孫の私たちが行けばもしかしたらって思ったの」

 そう言いながらも彼女は唇を噛んだ。親の七光りと言われるのをどれだけ嫌がってきたか。あえて身元がわからないように、いっさい両親のことも祖父のことも出さずに就職活動をしたというのに、大人たちは当然のように「中村製薬のお嬢さん」としか扱ってはくれなかった。

 そのときの悔しさがよみがえってくる。もちろん祖父のことは嫌いではない。でもこんなふうに立場を利用するなんて、一番したくなかったのに。


 三人は大きな門が音も立てずに横にスライドされていくのを、車内で黙って見つめ続けていた。


「行くわよ、加奈子!」

「うん!お姉ちゃん!」

 理香子は日頃の姿からすっかりお嬢さまモードに切り替えて、表情すら和らげた。そうしてみると、もうとっくに過ぎたはずの成人式の娘にすら見えてくるから不思議だ。


 …女ってヤツはこれだから…

 哲平はタバコも吸えず、口もきけず、とにかく黙って後をついてゆくしかなかった。





 中村藤一郎の頑固な人嫌いは、政界財界の表舞台にそれほど精通している訳ではない哲平でさえ知っていた。裏社会のことなら情報はばんばん入ってくるんだがな、珍しく彼の腰が引けていた。

 多くの黒スーツたちが、哲平をにらむ。にらみ返すようなへまはしない。あくまでもお付きの者として立場をわきまえてやらあ。

 とりあえず責任者らしき男に、春秋の名刺を差し出す。

 こちらへ。

 片手で指し示されたソファに、いつものように浅く座る。反対側にはやや緊張気味の理香子と加奈子が、優雅な袖を綺麗にたらしながらおしとやかに座っている。

 …こう見れば確かに、社長令嬢なんだな。ふだんあれだけ手荒く扱ってやってても食らいついてくる、根性のあるお嬢ちゃんだとばかり思っていたが…

 哲平は改めて理香子を正面から見た。いつもは殆ど薄化粧な彼女の頬は、今日はほんのりと紅で染められていた。


 おれとは違う世界に住む人種。


 指を組みながら哲平は、複雑な思いで彼女らを見ていた。

 綾也だってそうだ。あんな力さえなけりゃ、世界的な研究者の息子。東都大学医学部きっての秀才。

 近寄ることもできまい。

 哲平はおのれの育った環境との違いを思いつつ、珍しく感傷にふけっていた。


 重厚なドアが開けられ、杖をつきながらも小さい身体を堂々と見せつつ藤一郎が入ってきた。思わず三人とも席を立つ。

 それに、ああ、いい、座りなさい、と優しげに声をかける。ほんの少し視線をずらして哲平を見る目だけが厳しい。


「高文社週刊春秋編集部の津雲と申します」

 哲平は深々と頭を下げた。おじいちゃま、私の会社での大先輩なの。慌てて理香子が付け加える。驚いたことに、政界財界のかつての重鎮は笑顔で「孫が世話になっとります」と声をかけた。


 これがかつて、歴代の首相どもを震え上がらせた切れ者か?正直張り詰めていた気が抜けて、哲平は顔をまじまじと見た。しかし藤一郎の目は、これっぽっちも笑ってなどいなかった。やはりな。


「はて、どこかでお会いしたかな?大倉くんは元気かね」

 見抜かれている?哲平は息を飲んだ。大倉とは文化ジャーナルの名物ワンマン編集長だ。創刊以来編集長の替わらないゴシップ誌。大倉カラーとも言われる由縁となっている。

 何と返事を返したらよいか、さすがの彼でさえ言葉を失った。


「ほほほ、まあいいわい。今は高文社で十分力を出されておるのだろうからな、津雲くんも」

 固まる哲平をよそに、藤一郎はソファの中心に腰を下ろした。すかさず理香子と加奈子が両側に寄り添い、甘えるような声で話しかける。


「おじいちゃま?どうして最近はうちに来てくださらないの?理香子寂しくて」

「また柚佳梨のおいしいお料理を一緒に食べに行かない?加奈子、おじいちゃまとお酒が飲めるようになるのを楽しみにしていたんだから」

 孫娘たちの甘い言葉に、藤一郎は相好をくずした。

「そうかそうか、おまえたちは優しいなあ。どこかのぼんくらどもとはえらい違いだ」

 ぼんくらどもとは姉妹の両親、現中村バイオファーマの社長夫妻のことか。

 おれはここで何をしているのか、現実離れした光景を見せつけられて哲平ですら頭がくらくらした。それぞれ思惑がある者同士の駆け引き。しかしこればかりはおれには手が出せない。すべてこの二人に任せるしかない。


「何か欲しいものがあってきたのじゃろう。車か?クルーザーか?まさかどちらかが、この津雲くんとやらと結婚したいとでも言うのじゃないだろうな」

 哲平はその言葉に動揺を隠せない。藤一郎は大きく高笑いをした。すっかり楽しんでやがる。


「あのね、理香子はぁ出版社にお勤めしてるでしょう?それでね、大きな記事を書かせてもらったの。それで津雲さんにも来ていただいたんだけど」

「ほう、最近の高文社は新米にもそんな仕事を?」

「中村さんは大変優秀な記者ですからね」

 ようやく哲平が口を開く。てめえあとで覚えとけよ、腹の中は理香子への嫌みであふれかえった。


「でも今度選挙があるって話を聞いてびっくりしちゃって。そんなことになったらせっかく書いた理香子の記事なんてとんじゃうじゃない?せっかく張り切って初めて書いたのに。あーあ、選挙なんかなければ一番最初におじいちゃまに雑誌を見せてあげようと思ったのになあ」

 女はみんな女優だね。ふと哲平は何の脈絡もなくみすずの面影を思い出していた。そう、女はいくらでも仮面をかぶれる。全く不自然なく、クスリの力など借りなくとも。


「ほう、そうかそうか。選挙がなくなればいいのだな。それでわしのところへ来たという訳か。前園くんにそう言えばいいと?」

「さっすがおじいちゃま!前園のおじさまに口添えをしてくれるの?」

 理香子は満面の笑みで祖父に抱きついた。藤一郎は口元をゆるめたが、厳しい視線を津雲に差し向けた。


「これはどういう茶番かな?津雲くん」


 理香子と加奈子は一瞬で表情を変えた。

 哲平は無言で藤一郎を見つめ返した。このじじいが一筋縄でいかねえことなどハナから承知だ。それは、最初一目見たときからわかってはいた。


 日本の政界を左右するほどの人間相手に、おれごときが何ができる。

 最初から弱気でどうする、津雲哲平。このくらいの修羅場、いくらでもくぐってきたはずだ。

 しかし、いくら哲平でも藤一郎の迫力にはかないそうにはなかった。

 彼が珍しく一言も口を開くことすらできずにいた。社長でも引っ張り出してくるべきだったか。できるとも思えねえが。今さら後悔しても遅い。ただただ手を握りしめる。


「おじいちゃま聞いて!加奈子がお願いしたの!加奈子の、私の大事な人を助けてほしいの!」

「加奈子…」

 彼女の瞳に涙がみるみるたまる。藤一郎は孫娘の泣き顔にとまどった。

 こんな海千山千のじじいに小手先の細工が通用するとは思えない。哲平は腹をくくると、経緯をすべて話し始めた。

 理香子は目を見開く。ここまで言ってしまっていいのだろうか。しかし哲平は、淡々と事実を並べてゆく。藤一郎は身じろぎもせずに聞いていた。

 そして最後に哲平が触れたことは、PSDの研究に中村バイオファーマが関与している可能性について。


「それはない」

 藤一郎は言い切った。

「何故ですか。研究協力企業一覧には確かに中村の名がありました。協賛企業はもちろん一社ではありません。しかし何らかの形で…」

「わしがそんなことを許すと思うかね、津雲くん」


 あくまでも澄んだ眼で藤一郎は哲平を見つめた。ここで負ける訳にはいかない。彼もまた、必死の思いで見返す。


「大変失礼ですが、この件に関してはこれから裏を取らせていただきます」

「一族の恥をさらすようだが、どれだけ反対しようと何もわかっとらんのだよ、あのぼんくらどもには。わしが一喝すれば済むことだ。君の話が本当ならな。確かにこの計画が進んでゆけば、この国のどこかに大きな歪みができる。国防省はそもそもつねにシビリアンコントロールの元にあるべきものであり、そのような計画が秘密裡に行われることが間違っとる。前園くんにこの情報が伝わっていないとすれば、それは政府、内閣のあり方も問われるということだ。そうだな、津雲くん」

 そこまででけえ話になると、おれにはもうどうすることもできねえ。

 おれはただ、加奈子と同じで綾也を助け出したいだけ。私利私欲に走っているのはおれの方か。

 心の奥底で苦い思いが顔を出す。


 しかし一方で、この国には何十人もの、いや潜在的には多くの綾也が存在するのだ。これから生まれ来る子どもたちの中にも。今、計画をぶっ潰しておかなければ。漆原の暴走を止めなければ。


「電話を」


 静かに藤一郎がそばの秘書に告げる。それは重々しい戦いの宣戦布告。

 古めかしい受話器を手に取り、彼は現首相の前園へ解散総選挙の延期を望むとだけ伝えた。

 三人は気づかれないようにそっとため息をついた。

 これで何とか首がつながるか。あとは梅村のババアが委員会と国会質問で仕事をきっちりしてくれることを願うだけだ。

 あまりの気疲れに目頭を押さえた哲平に、藤一郎は静かにこう言った。


「君もずいぶん無茶をやりおるな。バックに誰がいる」

 その言葉に、ようやく哲平はニヤリと笑っていつもの表情を取り戻した。

「この計画の首謀者は、このおしとやかなお嬢さま方ですよ。私のバックは、中村理香子さんとおっしゃいましてね」

 理香子はその言葉に、頬を赤らめて反論しようとしたが、自分を必死で抑えた。握りしめたこぶしが震えている。

 藤一郎は破顔一笑して、それはいい、君もなかなかのものだ、と哲平に告げながら孫娘たちを優しげに見つめた。








「衛生省内でのリストだ。目を通しておけ」

 硬質プラスチック製のテーブルの上に、顔写真とプロフィールが並べられる。Sのメンバーたちは、それにさっと視線を向けるとすぐに顔を上げた。


「たった五人?反対勢力がそれだけだとは思えないけれど」

 口をとがらせてルカが文句を言う。それに、すべての人間を粛清するつもりか、と漆原は冷笑した。

 この場合の粛清とは、文字通り現世からの排除のことを意味する。そんな目立つことをしてみろ、STEの活動に支障が出ると博士はルカをたしなめた。

「それでもこれだけの政府高官を一気に殺したりしたら、社会問題になりませんか?」

 冷静にレイナは質問するが、漆原の見返した瞳の冷たさにぞっとした。


「彼らはみな自ら死を選ぶ。省内の大きな汚職事件に絡んで、ね」

「要するに、事件をでっち上げるわけだ。それも僕たちの仕事?」

 口の利き方に気をつけなさいとレイナが叱るのに、アツシは首をすくめた。それは別のセクションに任せてある。おまえたちはあくまでも実行部隊だ。博士の言葉によどみはなかった。

 トオルは黙ってプロフィールを見つめている。

 ただ一人、綾也だけは表情をなくして少し離れた椅子に座っていた。


「そしてこれが、国防省内での排除分子。あくまでもSTEおよびPSD計画に反対し続ける連中だ」

 その中には政務次官も含まれていた。レイナは息を飲む。彼らを、痕跡も残さず始末することが私たちの使命。

 他のメンバーたちは、政治的な力関係にはあまり興味もなさそうに話をつまらなそうに聞いていた。

 それではいつまでたっても私たちはただの駒にしか過ぎない。

 レイナが力説すればするほど、アツシなどは醒めた目で苦笑いする。

「だって僕たちは生物兵器だろ?兵器に考えろったって無駄じゃない?それよりどう作戦をうまく遂行するかどうか。その方がずっと大事だ」

 アツシの言い分にも理はある。彼らがどう考えようが、命令は絶対で逆らうことは許されない。

 それを下すのはあくまでも、漆原博士。

 そしてその鍵を握るはずの重要人物は、この間から一言たりとも言葉を発することすらしなかった。


 綾也…最強のサイコキノ。


「ちょろちょろ目障りな民間人どもはどうするのさ。何だか週刊誌に書かれてるよ。あいつらの仕業だろ?」

 アツシの毒のある言葉に、ルカが「あんなヤツら、一瞬でひねりつぶしてやれるわ」と微笑んだ。妖しくもあどけない表情で。

「放っておけ。ヤツらにかまっている暇などない。国防省内にいくらでも人員はいる。それよりも…」

「構造式、ですね?」

 あれだけ探しても見つからない。綾也の周りを探れば必ずあるはずなのに。しかし当の本人からの情報は取り出せなかったし、彼に関連する連中を痛めつけようとすれば今度は綾也が暴走し始める。

 Sにとってもジレンマは続いていた。漆原でさえ綾也を完全にはコントロールしきれないのだ。

 彼が本当に感情を爆発させてしまえば、またあの鳥どもがやってくる。すべては破壊尽くされ、残るのは何もない廃墟。引き出したい情報など跡形もなくなる。


「綾也を世に出した三年間は、彼にとって悪影響だったのではないですか?」

 思わず口にしたレイナは、過ぎたことを言ってしまったと後悔する。博士の目がそれを語っていた。

「あの時点で、彼を守るにはここに置いておくわけにはいかなかった。何しろ警察公安の面目を丸つぶしにしたのだからな。それに、PSDの研究をするには谷田貝と綾也の二人が不可欠だった。だからと言って谷田貝をSTEに引っ張り込めば目立ちすぎる。第一、綾也の人間性は、あの三年間のせいではない」

 どういうこと?アツシが問いかける。

「どのようなプログラムか知らないが、彼の深層心理の奥深くにはどうしても人を殺めることへの罪悪感が残されている。あらゆる療法を使ってもそれを解除することは不可能だった」

 博士でさえも?誰もが言いたかったが必死に抑えた。漆原がここまで明かすことなどふだんでは考えられない。

「だからこそ、完全なるPSDを…」

 結局は堂々巡りだ。問題はそこへと収束してゆく。レイナはそっと綾也へと目をやった。


 彼は視点の合わないうつろな表情で、ただ黙って座っていた。アツシをもってしても綾也が今どんなことを思っているか、読み取ることができなかった。

 完全なる無。そして闇。時折浮かび上がる花びらの残像に胸を痛めるのは、むしろアツシの方だった。

 揺れ動いたのはあの加奈子という娘を見た瞬間。あれだけの薬物投与を受けながら、綾也の思考に穏やかな感情が表れた。戦いには不向きな、我々には不必要なもの。


 谷田貝は、そして綾也は津雲は、構造式をいったいどこに隠したというのだろう。


 それぞれが思いにふけっているS専用ルームの内線コールが不意に鳴り響いた。急いで受話器を取るレイナに飛び込んできたのは、所長の焦った怒鳴り声だった。


「どうなされたんですか、所長!」

「いいから早くモニターをつけて国会答弁を見たまえ!」

 すかさずトオルが液晶画面にテレビ映像を映し出す。

 大きくクローズアップされたのは、真っ赤なスーツの梅村代議士の端正な表情だった。


「……このような国防省の暴走行動を見逃しても良いのでしょうか。これはすでに文民統制の基本姿勢を大きく逸脱した軍事国家化への足がかりと見てもおかしくない行為と言えましょう。STE、スペシャルセオリーエデュケーション研究所で何が行われているか、みなさんはご存じですか?」

 良く通る声でこぶしを振り上げる代議士の発言に、Sのメンバーは言葉をなくした。漆原でさえ、眉を少しばかりひそめ、不快感をあらわにした。


 なぜ、なぜ今になってSTEの名が世間に出なければいけないのか。

 ラボラトリ全体に緊急招集がかけられた。

 ただ一人、綾也だけは表情のない能面のような顔でその場に座り続けていた。





「とうとう号外まで出ましたね」

 後追いもここまで来るといっそ小気味いいね。特集班の連中は先を行く者としての余裕からか、笑顔すら見られた。

 あの日、梅村代議士が質問できた時間はたったの八分間。しかし世論に与えた影響は非常に大きかった。ほぼすべての週刊誌が後追いをし、STEとは何か必死に取材攻勢を仕掛け始めた。しかし殆ど得るものはなかったのだろう。その大部分は春秋の記事をうまく切り貼りしたものばかりだった。

 それでも、連日テレビまでに取り上げられ、国防省の行きすぎた姿勢を問う声が高まりつつあった。それに加え、シリーズでずっと扱ってきた青龍会との癒着。ここへ来て一気に省に対する批難が集中し始めた。


 さあ、どう動く。裏は全部取ってある。梅村のババアにはもちろんすべてさらけ出してあるから、彼女がどれだけ追求されようと崩れる心配はない。

 問題は、Sがどんな攻撃を仕掛けてくるか、だ。

 火種は仕掛けた。あとはどれだけ炎上してくれるか。頼む、STEの子どもらをすべて解放するまではこの火は消えないでくれ。哲平は心から願った。





「どうする気だ、漆原くん!省内ではSTE不要論も持ち上がってきている。それだけではない。例の大統領襲撃事件を持ち出して、今さらあれについて突かれたらどう言い訳をするつもりだと追求してくる幹部すらいる。君はすべての責任を取れるというのか?」

 気の弱い男だ…。漆原はSTE所長とは名ばかりの戸村の顔を冷ややかに見つめた。

 粛清計画を早めるか、漆原の冷酷無比な計算など戸村にはわかりようもないだろう。


 まず最初の一人目のターゲットは、衛生省でも国防省でもなく……。


 漆原は頭の中で静かにカードを切った。





 表面的に綾也の表情には変化がなかった。食事は機械的に口に運ぶだけ。他の時間は殆どミッションルームの自席に座り込んで壁を見つめている。与えられた個室へ帰ることもあまりない。

 PSDの大量投与は人格の崩壊をも進めてしまう恐れがある。STEの研究員たちは何度も谷田貝に念を押された。ということは綾也の人格もすでに崩れ始めているというのだろうか。

 つねに監視カメラは回り、一人でいることはなかった。しかし彼の自発的な行動は見られない。


 なのにひとたびトレーニングルームに入り、標的を与えられると、彼のPKは威力を発揮した。ターゲットのみを確実に狙い、粉々に砕く。被験動物は生体反応がなくなるまで徹底的に攻撃される。

 まさに生物殺戮兵器。漆原博士の完璧な芸術的作品とも言えるだろう。

 こうなることを博士は望んでいたのか。レイナは複雑な思いで彼を見つめていた。


 ここへ来たばかりの頃、誰ともなじめずとまどいを隠せなかった彼。

 少しずつ日常生活を教えられ、笑顔を見せるようになった彼。

 成長とともに表情も豊かになり、会話も多くなっていった彼。

 その反面、訓練を拒み、涙を流しながら自ら手をかけた動物たちを埋めていた感性豊かな…彼。


 今の綾也にはそのかけらもなかった。生身のアンドロイド。

 でもそうでもしなければ、私たちはこの世界では生きてはいけないのだ。

 戦い続けなければ。正義のために戦い、生きてゆく存在価値を高めていかなければ、待っているのは、おぞましいと恐れられるだけの疎まれるモンスターとしての扱い。

 おまえらはバケモノだ。もう二度とそんなふうに言われたくはない。

 私たちは正義。価値あるもの。選ばれし神の…子。


 そのためのPSDであるはずだった。だから私たちは博士についてきた。必死にしがみついてきた。両親以上に親としての存在と思ってきた。

 しかし今の綾也を見ていると、レイナにはどうしても迷いが生じてしまう。

 あの女の子が駆けより綾也を抱きしめたときの彼の、はにかむような人間らしい表情。


 リーダーが迷ってはいけない。こんな大事なときに。レイナは頭を振って気持ちを引き締めた。





『現場から中継でお送りします。こちらがSTE教育研究所の正面入り口となります。今はしっかりと門が閉じられ、監視のカメラらしきものがこちらを伺っています。外には誰もいません。取材陣が多数集まり、動向を見守っています』

 哲平はテレビのスイッチを切った。何で切っちゃうんですか?小仲の抗議を軽く聞き流す。


「しょせんこいつらには何も探し出せねえよ。新しいことは何も」

「でも巻き込みたかったのでしょう?」

 静かに理香子が言葉を添える。

 夜も更けた編集部には三人より他はいなかった。今や春秋では、多くの人員を割いてこの問題に当たっている。逆取材されることも多い。何せここまで調べ上げたのは春秋の特集班ということになっているからだ。


「あーあ、殆ど哲平さんが調べたことなのに。今年のジャーナリスト賞は哲平さんで決まりですよね」

 小仲は相変わらず呑気にコーヒーを飲んでいる。お気楽でいいね、ボンボンは。


 ああそうさ、理香子の言葉どおり多くのマスコミと世論を巻き込みたかった。実際、大問題になり、国会で取り上げる議員は梅村だけではなくなってきた。

 国防省の暴走を見逃してはならない。


 確かに正義だろうさ。


 だが哲平にしてみれば本当のところ、正義などどうでもよかった。取り戻したかっただけだ、綾也を。そしてとらえられている多くの子どもたちと、すっかり漆原という狂人にマインドコントロールされているプロジェクトSの連中を。

 なのになぜ、ヤツらは動かない?

 ちきしょう、がまん比べは性に合わねえや。こっちから打って出るか。


 小暮を失った青龍会がおとなしくしていることも気にはなっていた。大怪我を負った連中もそろそろ動き出すはずだ。


 狙うはみな、PSD。


 こりゃ、命がいくらあっても足りねえなあ。


 哲平はおのれがくたばるのが先か、その前に綾也を助け出せるか。

 おれにとってはかなり分の悪い賭だぜ、と心の中で独りごちた。








 国防省がギフテットの子どもたちを集めての軍事エリート養成。この言葉に大衆は過敏に反応した。

 むろん教育の平等がこの国の伝統であり、誇りでもあったということもあるが、心の奥底には自分らの子どもが、そのエリートには含まれないねたみや嫉妬が見え隠れしていることも否定できない。

 特別扱いは許せない。出る杭は打たれるのだ。


 哲平がそこまで狙っていたのかは、わからない。しかし彼の思惑どおり火種は燃えさかる炎となって、国防省の一大スキャンダルとして発展していった。

 そしてPSDという得体の知れない合成麻薬の蔓延が、人びとの恐怖心を本能的に煽らせた。


 マインド・コントロール。


 諸外国、特にアジア諸国からの反発も時間の問題だろう。この国を再び軍事国家への道に進ませてはならない。

 ここまで話がでかくなりゃ、国防省はPSD計画を断念せざるを得ないだろう。あるいは少なくともSTE研究所の存続はまずもって不可能になるに違いない。


 頼む、そこで何とか終わってくれ。漆原など更迭でもシベリア送りでも何でもしてしまえ。甘いとは知りつつも哲平は願った。国家レベルの話になればおれの出番はなくなる。

 しゃあねえなあ、青龍会の後始末でもするか。ざわめきの残る編集部を一人ふらりと出てゆく。


 もう誰も哲平のやり方に難癖をつける編集部員などいなかった。これが津雲哲平という記者なのだと、深く納得していたから。

 その後ろ姿を、理香子だけはそっと目で追っていた。





 都会の喧噪の中を一人歩く。

 たとえこれで綾也が戻ってきたところで、元通りになるのかなど見当もつかなかった。

 彼の負った傷は深いだろうし、Sのメンバーにしてもラボラトリを放り出されて生きていける保証もない。

 何らかの罪にはなるのだろうが、いったい超能力者の犯罪を、現行の法律でどう裁けばいいというのだろう。


 珍しく晴れ上がった空は高く、ビル街のすき間から青い色を輝かせていた。


 ふとみすずを思う。折り合いの悪い家族の元へと帰り、肩身の狭い思いをしてはいないか。金はあるだろうから店の一軒などすぐにでも開けるだろうが、若い女が一人で切り盛りできるのだろうか。

 あんな辛い思いをしたあとで。


 感傷になどふけっていたせいか。哲平は自分が隙だらけだったことに気づかされたのは、背後に迫った低い男の声と冷たい銃口をシャツの上から感じたときだった。


 カチリ。


 安全装置がはずされる。

 哲平とその男は、都会のど真ん中で立ち止まった。

 周りにこれだけ人がいるのに、誰も異変には気づかない。哲平は表情を硬くした。

 ここで相手の手首をひねり、倒すことはわけのないことだろう。しかしそうなれば別の人物が遠くから彼を狙撃するだけのこと。もしくは接近戦でナイフか。


 彼の口の中がカラカラに乾く。奥歯を噛み締める。相手がいつもの連中ならなんてこたない。だが、こいつらは……本気だ。人を殺すことなどためらいもしない。

 それでも哲平は、口元をゆがめて吐き捨てるように言った。


「いいんですか、これだけの群衆の中で公務員が人殺しなどしても」

 相手は声にならない笑い声を上げた。

「余裕だな、君は。ここにはね、いつでも通り魔の犯人になってもおかしくない連中がたくさんいるんだよ。確かに君はよくやってくれた。事実上、STEは存続不能だろう。しかし、少々やり過ぎの感もあってね。君の存在は我々にとって非常に危険なものと判断された」

「我々、ではなくあなたにとって危険と言うことでしょう?郡山さん」

 そっとつぶやくと、哲平は突然すばやい動きで郡山の手をつかみ、道路に叩きつけた。できるだけ大勢の人混みの中に身を隠すようにジグザグに走る。

 盾にさせて申し訳ないが、まさか無関係の一般大衆まで撃つことまではしないだろう。

 相手は不意を突かれたせいもあるが、さすがは鍛えられた情報部の人間だ。すぐに立ち上がり哲平を追う。目立たないような服装の数人の若者も。

 決して背広なんぞ着ちゃいない。作業着あり、ブルゾンにGパンあり。ロッカータイプの兄ちゃんあり。

 ちきしょう、都会の中では敵はちっとも目立たねえ!


 哲平の腕を掴みかけた郡山に向かって大声で叫ぶ。

「情報をもらしたのがあなただとわかればただではすまない。その前に証拠隠滅ですか。情報部ってのはずいぶんと過激な発想をなさるもんだね!」

 周りは、ドラマの撮影でもしているのかとしか思っていないようで、何の関心すら持たない。

 ここでたとえ彼が助けてくれと叫んだところで、いったい何人の人間が手を差し伸べてくれるか。

 それに、郡山との関係があからさまにマスコミにでもばれたりしたら…。


 歩道と歩道の間にある自転車を軽々と飛び越える。相手ももちろん、ぴったりついてくる。撃たれるのも時間の問題。どうする?おれもここで終わりか!





 そのとき、急に道路を反転して一台のインプレッサがブレーキをかけて哲平の前に止まった。

 タイヤから白煙を出しながら。


「早く乗って!哲平さん!」

「り…か、な、なんで…」

「いいから早く!」

 運転席にいたのは理香子だった。とまどいながらもとにかく急いで助手席に乗り込む。こいつはどうしてこうも、いつもおれの目の前に突然現れやがるんだ?ごっつい四点式シートベルトを装着する。それにさえ手間取った。

 理香子の手荒い運転のせいももちろんあったが、哲平自体、信じられないことに手が震えてうまくベルトが持てないでいた。


「何でここがわかった?つけてたなんて言うなよ!」

「GPSの携帯を突っ込んどきました!哲平さん、どこに行っちゃうかわからないから!」

 叫ばなければ聞こえないほどの爆音をあげて、インプレッサは走り続けた。


「怪しい動きが見られたらすぐに連絡が来るように、設定しといたんです。みんなどれだけ哲平さんのこと心配しているのか、わかってないんですよ!」

 狙われて当たり前なのに、一人でぶらっとどっか行っちゃって。舌を噛むから黙っててと哲平に入ったわりには、理香子はずっとしゃべり続けていた。そうでなければ不安で仕方ないかのように。

 哲平は「恩に着るぜ」と珍しく素直に言葉にして礼を言った。理香子が思わず押し黙る。しかし彼はすぐに後ろを振り向いた。やはりな。


「おい、どうすんだ?びったりつけられてるぜ。このまま警察にでも飛び込むか」

「A級持ってる私に、失礼なこと言わないでください!あんなヤツら振り切ってやる!」

 確かに言葉どおり、理香子の運転は荒っぽいがこのままレースに出られるほどの腕前だった。

 混み合う都会の道路を、ぎりぎりのところで他車をかわし、信号など全く無視してふっ飛ばして走り続ける。

 細い路地からまた大通りへ、そして再び迷路のような裏道へ。

 このままだと他の一般車を巻き込みかねない。理香子はあえて、都心をやや離れた工場群へと向かう。

 後ろを追いかけてくる車の数が、一台、また一台と増えてゆく。インプレッサはバックをかけてから、わざとその中の一台にぶつかっていこうとする。


「何する気だ?」

「ビビらせて、逃走路を確保ですよ!」

 どこでそんな手を覚えたんだ、こいつは。

 こりゃまるでチキンレースだな。どちらが先にあきらめてハンドルを切るか。

 理香子はためらいもなくまっすぐに車を突進させてゆく。こんなとき度胸があるのは、もしかしたら女の方かも知れない。


 とうとう向こうはわずかにハンドルを横に曲げた。

 行ける!脇をすり抜けようとした理香子は、思いきりペダルを踏み込み急制動をかけた。


 目の前をふさいだのは、ごつい防衛隊のカーキ色の戦闘車両だった。


 車の中で理香子と哲平は声を失った。ばらばらと迷彩服の男たちが降りてくる。理香子のインプレッサはあっという間に銃口に囲まれた。


 ゆっくりとこちらに向かうは、国防省情報部の郡山。

 無理やり二人を車から降ろさせる。


「民間人の方々のご協力、大変感謝いたします」

 皮肉げにそう言い放つと、郡山はまっすぐ銃を哲平の胸に向けた。

「こいつは関係ねえ。無関係の女まで始末するほど、あんたは人間としての誇りを忘れたのか、郡山さんよ」

「国家の安全のためには些末なことだ。運が悪かったと思ってくれたまえ」

「ただの女だと思うなよ!こいつはこう見えても、中村バイオファーマの社長令嬢だ。中村藤一郎の孫娘に手をかけて無事でいられると思うか?」

 こう見えてもってどういうことですか?後ろから理香子がケリを入れる。そんな状況じゃねえだろう、バカ!哲平も小声で応酬する。


「たとえどれだけのお嬢さまでも、我々にはただの小娘にしか見えないな。残念だが…」

 身元がわからないほど木っ端微塵にしてしまえば、ただの肉片にしかならないというわけか。ぞっとしねえ話だな。


「最後に教えてくれ、郡山さん。なぜあんたは土壇場でおれを切ろうとしたんだ?」

「確かに我々はSTEには反対だった。それはあの少年、梶尾綾也の力を恐れたからだ。制御できない力を持つことは諸刃の剣。だからこそ君らの計画に乗った。しかし君らの最終目的は彼を助けるというもの。我々の目的は…彼の抹殺」


「なん…だと?」


 哲平は歯をギリリと噛み締めた。こいつは最初から、こっちから情報を引き出すだけ引き出しておいて、利用するだけのつもりだったというのか。

 郡山の腕が再び上がる。無駄だとわかっちゃいるが、哲平はせめて理香子の身体を精一杯抱え込む。

 目だけは郡山をにらむことを止めずに。

 安全装置の外れる聞き慣れた音。


 そのとき!


 突然、工場群の周りに数多くの車両が集まりだした。猛スピードでサイレンを鳴らしながら走り寄る車両たち。黒と白のツートンカラーに赤色灯。

 郡山はハッと振り返った。

 それに、哲平は足蹴りを加えてヤツの銃をはたき落とす。


 ばたんばたんとドアが開き、中から出てくるのは多数の警官。

 初めて哲平は、心からこいつらを市民としてありがたいと思った。


「国防省情報部の郡山正隆さんですね」

 冷静に彼に近づいてくるのは、警視庁公安部管理官の藤堂だった。

「この状況を説明していただきたい。本庁までご同行願えますか」

 行く必要はない。だいたい我々が何の罪に問われるというのだ。郡山の最後のあがき。

「とう…どうさん…」

 つぶやく哲平に、片方の眉を上げて意味ありげな視線を向けてから、藤堂は「そうですね、強いて言えば道路交通法違反とでもしておきましょうか」と、ニヤリと笑った。





 その場にいたすべての国防省関係者がしょっ引かれたあと、藤堂はその場にへたり込んでいた哲平の手を取った。

「さすがの津雲さんでも、今回ばかりは厳しい戦いでしたか」

「全くホントに命拾いしましたよ。助けていただいてありがてえ」

 無茶をするから。藤堂はほんの少しばかり柔らかい目を彼に向けた。

「私どもというよりも、このお嬢さんにお礼を言った方がいいですよ。連絡をくれなければいくら私どもでも動けはしない」

 慌てて哲平は理香子の方を振り向いた。彼女は頬を染めて、そっぽを向くばかりだった。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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