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敵意

 理香子はインプレッサのタイヤをきしませながら家に向かった。

 違法であるとわかってはいたが、それと同時に何度も哲平の携帯番号を押し続ける。何が起きているのか、どう関わりがあるのか。そしてそれを哲平は最初から知っていたのか。

 訊きたいことは山ほどあった。こんなときに限って哲平は電話に出ようともしない。

 しつこく鳴らす。今、家に帰ったところで父も母も帰っていないかも知れない。どちらを先にしたらいいか、理香子にさえ判断がつかない。それほど混乱していた。


 ただの協賛企業。資料にはそう書いてある。どうか全くの無関係でありますように。その思いと、もしかしたらこっちの線から情報を得られるかも知れない、というマスコミ人としての思い。

 こうやってだんだん、人を心から信頼できなくなってゆくのだろうか。たとえ家族といえども。理香子はほんの少しほろ苦い気持ちを味わっていた。


 結局つながることなく家に着いた。あわてて玄関に向かうがやはり両親はまだ帰宅していなかった。こうなればバイオファーマの研究所長に連絡を、いや今の段階で大ごとにしては…。

 理香子は焦って仕方がなかった。だからこそ哲平のとぼけつつも的確な言葉が欲しい。


 理香子の立てた大きな物音に、妹の加奈子が降りてくる。頬にはコットンのパック。小さなカーラーが髪にいくつか。

 まだ眠る気はなかったのだろう。普段着と言ってもゆったりとしたチュニックにジーンズ姿の妹は、愛らしかった。


「どうしたのお姉ちゃん、そんなにあわてて」

「ゴメン今急いでるの、パパたちは?」

 姉の言葉に首を振る。いかに大企業の中村バイオファーマと言えども不況の波をかぶらないはずがない。重役たちと会議、か。電話もメールもためらわれた。

 もう一度だけ、哲平に通じますようにと電話をかける。何十回目だろうか。それでも今どうしてもアドバイスが欲しい。

 プツッという聞き慣れた音に続いて、哲平の罵声が返ってきた。


「うるせえ!こっちはお取り込み中なんだよ!電話なんかかけてくんな、このバカやろう!」

 通じたことにホッとした理香子だったが、瞬時に彼の声の緊迫感が伝わり動揺した。何かが起こっている。それはいったい…。

「中村です!ご自宅ですか?今どうしても教えていただきたいことが…」

 それでも食らいついてゆく。理香子も鍛えられたものだ。

「それどころじゃねえっつってんだろうが!空気読め、アホ!うわっ!よせ、綾也!」

 ガツン、とものすごい音を立てて電話が途切れた。

 本人が切ったのではない。おそらく携帯ごと叩きつけられたのだろう。


「りょ、綾也?梶尾くんがそこにいるの?哲平さん!」

 無駄だとわかっていても叫ばずにはいられなかった理香子は、次の瞬間、激しく後悔した。

「ねえお姉ちゃん、どういうこと?哲平さんのところに綾也くんが帰ってきたの?」

 加奈子が姉に詰め寄る。

「今すぐ連れてって!綾也くんに逢いたいの。お願い、お姉ちゃん!」

 おそらくまともな状況にあるはずがない。下手をすればSの連中が一緒かも知れない。そんなところに大事な妹を連れて行けるわけが…。

「お姉ちゃんが無理なら、私自分で運転してく!」

 ちょっと待ちなさい!必死に止めるが加奈子は急いでパックとカーラーをはずすと、小さなバッグを手に外へと飛び出した。

 そうだ、綾也がいるということは哲平自身も危ない目にあっているということ。女二人ではどうしようもない。

 誰を、理香子は必死に頭をめぐらせる。小仲は論外、かえって足手まといになるだけだ。池辺、ああ今夜は確か大きな殺人事件があって、そっちに人手を割いていると言ってたっけ。

 編集部に誰か、腕っ節の強い、ちょっとやそっとで動じない精神力の強い人…。

 抵抗する加奈子を、わかったからとインプレッサの後部座席に押し込み、理香子は片っ端から特集班のメンバーに連絡を取ろうと携帯を取りだした。

 なぜ一番最初に彼に電話をしたのかわからない。無意識に理香子は遠藤の登録番号を押していた。


「どうしたお嬢ちゃん、津雲に言い寄られて助けろとでも言うんじゃないだろうな」

 こんなときでも嫌みを忘れない。でも野太い声が今の理香子には頼もしく思えた。状況を簡単に説明する。さすがは春秋のベテラン記者だけある。すぐに事情を飲み込み、若いのをあと二人連れて行くが車には全員乗れるか、と訊いてきた。

 待ち合わせ場所を決め、理香子は制限速度と信号をぎりぎりのところで無視しながら、猛スピードで夜の街を駆け抜けていった。





「てめえの目的は何だ。なぜ今になっておれの前に現れた?」

 何度も壁に叩きつけられ、それでも無抵抗で哲平は立っていた。衝撃で口の端を切ったのだろう。思わずこぶしでぬぐう。赤黒い血がわずかに手の甲を汚した。


「ここは僕の部屋だ。帰ってくるのに理由がいるとでも?今まで管理人役ありがとう、哲平さん」

 綾也は悠然とソファに座ったままだ。微動だにしない。

「おれはもうお役ご免てわけか。ああ、これでせいせいするぜ」

 減らず口を叩く彼に、冷ややかな視線を向ける。

 綾也にとっては不快なテレパスのスキャンを受け入れ、交信を図りつつ情報を引き出す。情報部直轄のプロジェクトSメンバーにとっては当たり前のこの手の任務が、彼にはPSDなしで行えないことが問題であった。

 通常では考えられないほどの大量投与。綾也としての人格がいつ崩壊してもおかしくない。

 …とにかく時間を稼いで。津雲哲平に動揺を与えて、思考に隙が出るようにして…

 レイナはふたたび透視を始める。アツシも。

 この男は確かに何かを知っている。そして我々にとって危険すぎる。

 情報源として殺すわけにもいかず、放っておく訳にもいかない。Sにとって頭の痛い存在。

「もう我慢できない!あたしが行くわ!」

 ルカの叫び声を必死にトオルがなだめる。レイナは黙って首を横に振る。

 漆原博士に指示を仰ぎたい。誰も口にしないが思いは同じだった。しかし博士は彼らにすべてを任せると言ったのだ。どう動くか考える力は育ててきたつもりだ。冷ややな言葉。

 レイナの肩に重責がのしかかる。リーダーとして今度こそ失敗するわけにはいかない。


「あなたに何を隠しても無駄だよね。正直に理由を話せば答えてくれるとでも?あいにくあなたがそんなに素直な人間だとも思えないな。そしてあなたは本当の僕など受け入れる気などはなからない。あなたも言うのでしょう?僕のことを、バケモノだと」

 綾也の瞳がさらに朱く燃え始める。どれだけ薬でコントロールしようとも、彼の心に存在する嵐を抑えきることは不可能なのだろう。

「いいかげん気づけ、目を覚ませ綾也。どんなにものが飛び交おうとも、おまえは人を傷つけようなどとはしなかった。おまえを変えていったのは、ある目的の元で漆原が意図的に仕掛けたことだ。おまえはバケモノでも何でもねえ。なぜそれがわからない!」

「博士の名を出すなと言っただろう!」

 思わず綾也が立ち上がる。目が細められる。これ以上放っておけば、あのときの二の舞。レイナはトオルに指示を出し、全員で綾也の場所へとテレポートすることを決断した。

「もうちょっと待ってよ、そうしたら必ず情報のありかを…」

「綾也を本気で怒らせたら、またあの鳥たちが現れるわ。部屋だけで済めばいい。このマンションごと吹っ飛ばしかねないのよ。早く止めるしかないわ!」

 レイナはそう告げると、未練がましく壁を見つめていたアツシを引っぱると全員をトオルに近づけた。

 そのまま瞬時にテレポートを行う。


 白く立ちこめた霧に、一瞬、綾也の姿が見えなくなった。哲平が息を飲む。

 これは…。


「思った通りの展開でわかりやすいやね。まあ、ようこそいらっしゃいましたってか。もともとこちらの梶尾さんのご自宅でございますがね。あたしゃただの居候で、管理人を任されているだけの津雲と申しまして。お久しぶりでさ、プロジェクト何たらのみなさんよ」

 綾也を取り囲むようにして、Sのメンバーが並んだ。みなが哲平を見つめ、いや睨みつけていた。そんなことでビビる彼ではないが。

 トオルが幾分興奮気味の綾也をそっと抱え、気づかれぬくらいの早業で注射針を差し込んでゆく。

 PSDの成分を含む薬剤。綾也はそのままソファに座り込む。


「そうやってヤク漬けにしていったって訳か。ひでえことしやがる」

「あなたが早く情報をくれないから、こんなことをしなくてはならなくなるのよ。目障りにも程があるわ。USBをどこにやったの?」

 最初からそう言やあいいのによ。おれは知らないね、哲平はうそぶいた。

「谷田貝研究室から持ち出されたことはわかっている。院生からあなたの手に渡ったこともね。どこにあるか素直に言えば、私たちはすぐにでも撤退する。むろん綾也も連れて」

「それでおれは、ここの窓から転落死か。あんまり同じ手口が続くと警察もバカじゃねえから、捜査の手が伸びるぜ?それにUSBっつうのがよくわからねえが、そんなに大事なものがあるのか。こりゃあいいことを聞いた」

 あまりにすっとぼけた哲平の物言いに、さすがのレイナも頭に血が上った。思わず一歩踏み出してルカに指示を出しそうになる。それを止めたのはいつも冷静なトオル。


「チームワークがようござんすね。うちの特集班に見習わせたいよ。いつも会議じゃけんか腰。協力のきょの字もありゃしねえ。おれはやっぱり集団行動には慣れないねえ」

 今度は落ち着いてレイナが片手を挙げた。ルカが頷く。ほんのわずか哲平の身体が宙に浮き始めた。彼の顔が苦痛に歪み始める。それでもルカは力を少しずつ加えてゆく。

「どこまで耐えられるかしら。早く言ってしまった方が身のためよ。USBはどこ?」

 あくまでも静かにレイナは言葉を続ける。そしてゆっくりと再び手を挙げる。

 今度は哲平もこらえきれずに頭を押さえて唸りだした。アツシの乱暴なスキャンは容赦がない。脳全体に直接手を突っ込まれてかき混ぜられる。そんな幻影さえも浮かんでくる。


「ううっ」


 めったなことでは弱音を吐かない哲平も、かなり辛そうな表情だ。

「ふん、やっぱりね。レイナ。こいつは見ているよ、USBの中身を」

 アツシが小さく笑い声を上げる。ようやく見つけた。テレパスとしてのプライド。

「本当なの?アツシ。それでどんな?」

「無茶言うなよ、ルカ。誰もが綾也みたいなグラフィックメモリストじゃないんだ。ましてやただの一般人のこいつが、構造式など覚えているわけがない」

 哲平が悔しげに肩で息をする。悟られてなるものか。





 永遠に続くと思われた攻防戦は、しかし荒々しげな複数の足音でいきなり平衡を破られた。


「哲平さん!」

 綾也の部屋のドアをいきなり開け、叫んだ理香子たちが見た光景は…。


「……な、何だこりゃあ」

 遠藤たちが絶句するのも無理はなかった。

 全く免疫がないところにいきなりサイ能力を見せつけられて、すんなり納得できる人間などそういない。

 Sのメンバーたちは突然現れた幾人もの男たちと中村姉妹の姿を認めると、哲平への力を緩めた。あわてて遠藤が連れてきた若い男が哲平に駆けよる。彼は思いきりむせ返り、ぜいぜいと苦しい息をくり返していた。

 もう一人と遠藤が、アツシたちに向かってゆく。しかしトオルは巧みにそれをよけさせる。


「こいつらは誰?」

 レイナが叫ぶ。アツシは半ば楽しげに遠藤らをスキャンしてゆく。途端に頭を抱える彼らたち。

「週刊誌の連中だ!ほら、そこにいる女はこの間の…」

 彼女は冷酷な視線を理香子に向ける。ぞくっ。理香子の背中が凍り付く。

「騒ぎを起こしたくないわ。撤退するわよ」

 彼らが一箇所に集まろうとしたとき、いちばん後ろに隠れるように見ていた加奈子が叫んだ。

「待って!綾也くん!」


 その瞬間、空気が止まった。








「加奈子!離れなさい!」

 必死に理香子が叫ぶ。

 しかし加奈子は全く意に介さず、まっすぐに綾也に向かって行った。周りのプロジェクトSのメンバーでさえ何も言えないほど。

 そのまま彼女は、そうっと綾也の身体を抱きかかえた。

「まだ痛むのでしょう?大怪我をしたって聞いてすごく心配してた。もう一度、どうしてももう一回だけ逢いたかった。このまま終わりだなんてイヤ!」

 加奈子の瞳からは大粒の涙が次から次へとあふれ、化粧気がないにもかかわらず長いそのまつげを輝かせていた。泣くまいとこらえるその表情が、切なげに綾也を下から見上げていた。

 綾也はその目を大きく見開いて、どうしていいかわからずとまどっていた。


 怖くはないのか、この僕が。


 この場で首をくびりひねることなどいくらでも出来る。

 現にあれだけ愛していたみすずでさえ、この僕は何のためらいもなくめった突きに刺すことができたのだ。

 なのに、何故このか弱い生命体は僕の身体を抱え込み、優しい声をかけるのか。

 綾也にはどうしても理解ができなかった。そしてSのメンバーもそれは同じ思い。


 こんな敵の真ん中に飛び込んでくる弱々しい女がいるなど全くの想定外で、レイナは指示を出すことすらできずにいた。これが屈強な先程の男どもならいくらでも戦闘の命令をためらいなく出せるだろう。しかし…。

「……き、君が最初に僕を拒絶した。恐ろしいバケモノを見る目で泣き叫んだのは、君だ」

 ようやく絞り出した綾也の声。

 ラルクでの事件で、彼女の心を傷つけた。しかし本当は自分こそが深く傷ついた。それに目をそらしてきた。

 僕はバケモノだと思い知らされたのはこの女のせいだと、暴れてみせればよかったのに。

「そうよ、だから謝りたかった。何度でもいくらでも。助けてくれたのは綾也くんなのに、あなたはわざと何でもないフリをして私をかばってくれたわ。あなたは優しい人」

「違う!」

 綾也が大声を出す。加奈子がびくっと身体を震わせる。

「おまえも優しい僕しか認めない。恐ろしい力を見せられ、怯え、去っていく多くの虫けらどもとしょせんは同じだ」

 怒りというよりも哀しみの色。朱に染まる瞳は愁いを帯びる。

「じゃあなぜ私を助けてくれたの?あなたの力はたくさんの人を助けた。誰も傷つけたりなんてしなかった。変わってゆくあなたを見て怖いと思った、それは本当。だけど実際のあなたは誰をも守る優しさを持ってる」

「わかったような口を利くな!」

 綾也の口調が激しさを増す。思わず理香子が一歩踏み出そうとするのを、遠藤が手で制した。そっと首を振る。


「好きなだけではダメ?あなたに逢いたかっただけではダメなの?どうしてももう一度その笑顔を見たかった。穏やかに微笑むあなたを見ていたかった。なぜそんな怖いフリをするの?あなたの心が泣いてる。こんなことしたくないってつぶやいてる。どちらが仮面?私は信じてる、あなたのことを」

 加奈子は指を伸ばして綾也の頬に触れた。そのやわらかな細い指で彼のこわばった表情を温め溶かすように。


「……かな…こ、ちゃん」

 綾也の瞳から炎の色が消え、ふっと力が抜ける。おずおずと腕を上げて加奈子の肩に手を置く。華奢でしなやかな身体の線が温かさを彼に伝える。

「君は…僕が怖く…ない、の?」

 ほとんど聞き取れないほどのささやき声。信じられない、それは綾也自身が一番信じられないことだった。僕は恐れられるべき存在。誰もが僕の力の前では恐怖の表情を浮かべ、逃げまどう。


 ボクガバケモノダカラ。ニクムベキテキダカラ。ダカラ、タタカイツヅケナケレバボクハ。


 強い激しさを持つオーラは消え、綾也はかつての気弱で人のいいただの学生の姿に戻ったかのように思われた。

 その背後から、ものすごい形相で加奈子を睨みつけ、何者かが中空へと飛び上がった。

 もちろんそれは……ルカ。


 ハッとしてその場にいた高文社の誰もが、加奈子をかばおうと駆けよった。しかし、一番先に彼女をかばったのは、綾也自身だった。

 ルカの発した衝撃波をまともに胸に食らい、綾也は思わずその場にうずくまった。実際の傷の痛みもまだ癒えてはいない。あまりの苦痛にうめき声を上げる。


「お兄ちゃまなど、Sには要らない!」

 仲間割れか、こりゃ都合がいいぜ。

 哲平は先程まで自分が痛めつけられていたことも忘れ、綾也の元へと走りより、腕をつかんで立たせようとした。

「大丈夫か、綾也。やっぱりおまえにはこんなおっかねえ姉ちゃんどもより、おれたちの世界が合ってるんだよ」

 Sには聞こえないようにすばやくささやき、綾也をこちらへと引き寄せようとする。しかしすぐに、軽くルカにはじかれてしまった。

 その哲平に冷ややかな視線を向けるのは、アツシ。

「ボクらの苦しみも知らずに、勝手なことを言うなよおじさん。ボクらが今までこうやって生きてこられたのはラボラトリがあったからだ。博士がいてくれたからだ。あんたたちが何をしてくれたっていうんだ!世間という名前の恐ろしい集団とマスコミというボクらよりよほど酷いバケモノたちは、あっという間にボクらを食い物にするんだろ?」

 心からの叫び声。それらはSの、いやラボラトリにいる子どもたちみなの思い。床にひざをつき、苦しげに息をする綾也を取り囲むようにSのメンバーは集まった。

 それはその場にいた男どもも理香子も、そしてもはや加奈子にすら近寄れるものではなかった。

 世間という実態のない集団への燃えたぎるほどの憎悪。それらが綾也を隠してしまう。

 まだ抵抗して空へと浮かび続けるルカを半ば強引に引っ張り込みながら、トオルは一瞬にして全員のテレポーテーションを行った。





 霧が立ちこめ、彼らのいた痕跡は何一つ残ってはいなかった。

 ものが散らかり、荒れた部屋がそれと言えば言えなくもないが。


 誰もが無言だった。気力だけで持ちこたえていたのだろう、哲平ががくんとひざを折る。


「哲平さん!」

 理香子がそばに寄るが、彼は荒い息をしつつも大丈夫だと返事をかえした。

「借りができちまいましたね、遠藤さん」

 どこまで強い精神力なのか、こんな状況でも彼はニヤリと笑って遠藤に向かって言った。遠藤は若い連中に目で合図をすると、哲平を脇から支えさせた。そしてソファまで連れて行く。

「てめえに貸した分なんぞ、これまでいくらあると思ってやがる。借金の棒引きはねえからな。全部きっちり身体で返してもらうぜ」

 タバコを取り出し一息つく遠藤に、勘弁してくれ、おれには親父趣味はねえと減らず口を叩く。

 遠藤が苦々しそうに哲平をにらみ返した。


「バカやろう!若いお嬢さま方の前でだな!……本気で春秋に入る気はねえのか?」

 彼はあくまでも目を合わせようとはせず、きつい口調で吐き捨てる。

 だがそこに、以前までの悪意は感じられなかった。もちろん哲平にもその変化は伝わってきた。哲平はただ黙って、大先輩の横顔を見返していた。

 遠藤もこの目で見てはっきりとわかったのだろう。哲平が追い続けてきた敵の恐ろしさと大きさを。

 そしてこれを、決して闇に葬ってうやむやにしてはいけない問題だということも改めて。


 特集班は明日から、またさらに忙しくなるな。遠藤は心の中でつぶやいた。





「加奈子、どうしてあんな無茶…」

 部屋の隅では理香子が静かに涙を流し続ける加奈子の肩を抱き寄せていた。あれほど思い切った行動をこの子が取るなんて思いも寄らなかった。

 そのことにも驚かされたが、あの綾也の変化は…。

「好きなの、お姉ちゃん。今までの男の子たちとは全然違う。とても逢いたくてとても心配で、本当にずっと想っていたくて。綾也くんのこと、好きでいていいよね?」

 大事な大事な妹、世間知らずで甘やかされて育ってきた可愛い子。とてもあんな怖い人たちに近づかせるわけにはいかない。

 理香子の理性はそう警告を出していたが、それと同時にここまで純粋に人を想える妹がうらやましくもあった。


「二度とあんなふうに一人で行動したらダメよ。そんなことしたら連れてこないし、梶尾くんにも逢わせない。約束できる?」

 加奈子は涙を一杯ためた瞳で大きく頷く。

「それから、梶尾くんに逢うのは事件がきちんと片付いてから。待てるわよね?」

 それにはやや不満げな表情をしたが、加奈子は答える代わりに姉にぎゅっと抱きついた。

 妹のためにも、そしてラボラトリにいる子どもたちや綾也、最終的にはおそらくプロジェクトSのメンバーたちのためにも、早く解決してあげなければ。

 私のできることはほんの少し、でもそれでも、すべてのマスコミと世論を味方につけてこの計画をつぶさなくてはいけない。


 理香子は、そう決意を新たにした。








『シリーズ・国防省の知られざる陰謀~マインドコントロールの恐怖~』


 ようやく刷り上がったゲラ原稿を見ながら、特集班の面々は感慨深げだった。

 最初から過激にはつっこみはしない、しかし横槍が入る前までにはかなり情報を流してしまいたい。そこのぎりぎりを班キャップの金子は苦心しながら微調整していた。

 もちろん書店に並ぶまでは極秘扱い。こんなことが書かれているとわかれば、いかに高文社が一流出版社だとしても差し止めを食らうのがオチだ。


 これはただの宣戦布告。社運をかけてもこの陰謀は食い止める。


 それだけの気概がまだこの会社にはあったということなのだろう。上層部は止めはしなかった。まずはおとなしく、国防省と青龍会との関係を。そこから徐々にPSDの若者への蔓延を警告する。PSDとSTEとの関係は、まだ伏せたまま。最後には一気にSTEの実態をぶちまける。


「そんなにうまく行くもんかね。どこまでシリーズが続くか、見ものだな」

 遠藤は自身が特集班の一員であるにもかかわらず、皮肉げにそう言い放った。確かに事実には違いない。しかし、その言葉に刺がないことは誰にでもわかっていた。

 みな、徹夜明けの憔悴しきった顔でにやにやと聞き流した。


 その中で、哲平は一人焦りを感じていた。

 強力な援護射撃が欲しい。それはもちろん、梅村代議士の国会質問。事を公にしたい。つぶされる前に早く。

 焦っているのはSTEも同じだろう。どんな汚い手を使ってでもヤツらは妨害してくるに違いない。

 とても班の連中と喜び合う気持ちにはなれなかった。


 ふらっと外に出ていこうとする哲平に、理香子がすばやく声をかけた。


「哲平さん、これから原稿の最終的な詰めが…」

「わりい、おれはちょっと」

 その表情の暗さに、彼女は無理やり哲平の腕を引っぱって部屋の隅に引き寄せた。大先輩だろうが何だろうがかまわない。彼女もたくましくなったものだ。

「今は個人プレーじゃなくてみんなでやっていきましょう?それが特集班の持ち味じゃないですか。せっかくここまでまとめ上げたのに。哲平さんの力ですよ?」

「おれは群れるのは苦手でね。仲良しごっこには本来付き合っちゃいられねえ。大手さんはどうだか知らんけどね」

 何か隠してるでしょう?それでも詰め寄る理香子に苦笑いを返す。


「お嬢ちゃんがよくもまあそんな口を叩けるようになったな。せいぜいお仲間様たちに鍛えられろや」

「哲平さん!私は本気で心配して…」

 情報提供者に会いに行くんだよ、誰にも言うなよ。哲平はそっと耳打ちした。どこの組織の方です?の声に、「そんな極秘機密もらすヤツがいるか、このウスラボケ!」と悪態をついて彼は出ていった。

 そう大きくない彼の背中が寂しげで、理香子は動けずにいた。





 …まるでスパイ映画だな、こりゃ。


 哲平は自嘲気味に心の中で独りごちた。

 昼下がりの公園のベンチで待ち合わせ。偶然を装い、間隔を開けて座る。隣にいるのはもちろん…国防省情報部の郡山。携帯メールに夢中になるフリをして、哲平がささやく。


「春秋は明日発売の号で特集記事を組みます。国防省内でそれに対する反応はどうなんですか」

 新聞を広げた郡山は、静観と言ったところだと静かに答えた。たとえ大手でも、一出版社がいくらほえ立てたところで信憑性はほとんどないと判断されるだろう。

 扇情的な憶測記事。だったら下手に反論するよりは放っておけ。役所なんてそんなものだ。彼は吐き捨てた。


「STEの動きは?」

「PSDの構造式探しに躍起になっている。どうやら完全なる研究論文は、危険を察した谷田貝によって隠されてしまったようだからな。どんなネズミでもバカじゃない。その前に命を落としてしまったのだから、どちらでも同じだろうがね」

 おれを狙ってくるか、あるいは周辺を嗅ぎ回るか。

 あっちは綾也という切り札さえ出してきた。たどり着くのも時間の問題…。


「狙ってきますかね、高文社の連中を」

「我々は公務員だ。いくら何でもむやみやたらに民間人を襲ったりはしない。ただ、漆原だけは別だからな。彼は目的のためには手段を選ばない」

 だろうな。言うなれば特集班の連中はおれが巻き込んだ。一人たりとも犠牲者を出してはならない。


 新聞を忘れたような仕草で郡山が立ち上がる。


 しばらく時間を取ってからそっと哲平が手にしたものは、一枚の書類だった。PSDと青龍会とのつながりを示すルート。その仲介を国防省が取り持ったという記述。

 裏を取りに行くとするか、哲平も立ち上がろうとしたそのとき、携帯が震えた。


 小仲…?

 携帯で仲良く電話するお相手になったつもりはねえがな、哲平は首を傾げた。


「津雲さん?大変です!」

 まさか、誰かすでに?さすがの哲平も顔色を変えた。


「それで誰だ?誰がやられた!早く言え!」

「はあ?やられたって何の話ですか」

 小仲は素っ頓狂な声を出した。こいつは全くこっちの空気なんぞお構いなしだ。じゃあ何をそんなに慌ててやがる!


「大変なんですよ!首相付の記者からの情報なんですが、今ね、極秘の閣議が行われていて、すぐにでも解散総選挙が行われかねないって!」

 そんなことになったらボクがあんなに苦労して作った資料が全部パーですか?津雲さんのおかげで何十箇所も取材に回されて、情報引き出すのだってそりゃあもう大変で、聞いてるんですか!

 もちろん哲平はもはや小仲の泣き言なんぞ聞いてやしなかった。


 解散総選挙。


 梅村のババアの出番がなくなれば、この記事の信憑性がぐんと低くなる。国防省の狙いどおり、ただの扇情記事だ。

 どうする?津雲哲平。どこかにいいコネは、いや手駒は。いくら哲平でもそこまでの人脈はあろうはずがない。彼はまた深く自分の思考に入り込んでいった。





 加奈子は姉の部屋でひざを抱えていた。胸に抱きしめているのは大きなぬいぐるみ。あの日、初めて綾也と出かけた遊園地。いつも冷静で穏やかな彼が子どもっぽい表情をたくさん見せてくれた日。

 理香子はあれから加奈子に、けっして一人になってはいけないと言い聞かせていた。秘書課の社員たちが交互に彼女を見張る。

 もちろん、父も母も心配してのことなのはわかっている。でも加奈子にとっては見張られているのも同然。これでは万に一つも綾也には再び逢えない。

 今だって部屋の前には誰かが立っている。見えないストレスが少しずつたまってゆく。

 せめて姉がいてくれれば。

 その思いから加奈子は眠ることもせずに、こんな夜中にもかかわらず起きていたのだ。どうしても彼女には信じられない。綾也が、あの綾也があんな怖い人たちの仲間だなんて。


 足音が聞こえる。こちらに向かうその音は、心なしか疲れ気味だ。いや実際疲れ切っていることだろう。

 入社一年目など、先輩についてまずは一通りの取材の仕方を教わり、雑用係にも等しい扱いだろうと聞いている。なのに姉のやっていることは無茶も無茶、一番大変な特集班の一員として走り回っているのだから。

 ドアが開くとそれでも、ホッとして加奈子は姉を見上げた。


「お帰り、お姉ちゃん」

 理香子は大きなバッグをその辺りに放り出し、ベッドにどさっと倒れ込んだ。口を聞く元気もないようだ。しかし健気にも妹の方に顔を向ける。おそらく不安だっただろう加奈子を安心させるように微笑んだ。


「またそのぬいぐるみ?よほど大事なのね」

「パーピーって言ってよ。綾也くんが、彼が買ってくれたんだから。これを持って綾也くん、ジェットコースターにも乗ってくれて。あんなにいつも落ち着いてるくせに、本気で怖がって…」

 にっこりいつものように笑おうとした加奈子の瞳から、ひとすじの涙。

 あれからなんて離れてしまったんだろう、私たちは。何が起きたというのだろう。

 考えてもわからない。彼に好きな年上の人がいることは知っていた。でもゆっくりと友達から始めて、いつでもそばにいる存在にいつかなれたら。そんな淡い期待を持っていただけなのに。

 加奈子はクセになったかのように、ぬいぐるみにつけたストラップを無意識に握りしめる。


 赤くて周りが銀色に光るスタイリッシュなデザイン。可愛らしいパーピーとは対照的な…。


「そんなものついてたっけ。またどこかのブランドショップで買ったの?」

 できるだけ穏やかに理香子は話しかけた。今はお互いがお互いを癒し合う、そんな気持ちが強かった。しかし加奈子は首を横に振った。


「違うの、これはお守り。ほら、パーピーのポケットにちょうど入るでしょ?綾也くんが私にってわざわざ買っておいてくれたんだって、哲平さんが…」

 その言葉に、理香子はがばっと起き上がった。それっていつのこと?大きな声にびくっと妹が身体を震わせる。理香子はできるだけ平静を保ちつつ続けた。


「綾也くん本人からもらったんじゃないのね。哲平さんがくれたの?」

 今度は大きく加奈子が首を縦に振る。


 大きさは十センチ×二センチほどの薄い直方体。ホルダータイプで中に何かが入れられるようになっている。


 何かが……。

 どうしても中を開けて見たい欲求に理香子はかられた。それを必死でこらえる。もしかしてこれは………考えてはダメよ、理香子。あっちにはテレパスがいる。

 彼女が自分の理性で何とか自分自身を律すると、大事に大事にするのよ、と妹に声をかけた。

 たぶん震えていたことだろう。しかし妹はいつもの表情を取り戻すと、綾也くんのだもんとにっこり笑った。


 軽快な電子音が鳴り響く。部屋に置きっぱなしにしておいた私用の理香子の携帯だ。

「やっと出た、理香子ちゃん。いくらかけても気づいてもらえないから」

 小仲の不機嫌そうな声。バイブレーションに気づけないほど疲れていたのだろうか。

「ねえ、解散総選挙があるかも知れないんだって!ボクたちどうしたらいい?せっかくあんなに必死にSTEの資料作ったってのに。これで梅村センセが質問できなかったらボクたちの苦労が……」

 延々と続く小仲の愚痴を、理香子すらも聞き流した。行儀悪く耳を押しつけて加奈子も一緒に聞く。二人は思わず顔を見合わせた。

 ここで内閣を解散させるわけにはいかない。国会が流れてしまえば私たちの計画に大きなダメージを食らう。

 何とか回避する手段は。


「ねえ、ちょっと小仲くん!それ哲平さんにも伝えた?」

 みんなに連絡して回ってるよ、もう全員不機嫌そうに黙っちゃってさ、ボクがせっかく情報を…。いつまでも続く小仲のおしゃべりを無理やり叩き切る。


「…私たちならできるかも知れない。どうする?加奈子」

 加奈子は姉の顔を見つめて、唇を噛んだ。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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