喪失
どかっ。
ワーキングブーツの先が綾也の胸に食い込む。ごほっと咳き込むが相手は容赦しない。
両腕はしっかりと他の若い男たちに握りしめられ、動くこともできはしなかった。
綾也のひざが、わずかによろめく。それを持ち上げるようにしてもう一度、今度は腹にケリが入る。
「顔には傷をつけるな。そのメガネが吹っ飛ぶとやっかいなことになるらしいからな」
おそらく工事現場か採石場か。大きな重機があちこちに停められている。綾也が動くたびに白い粉のような細かい砂が辺りに舞い散る。
顔を直接殴られた訳でもないのに、綾也の口元からは血が流れていた。おそらく肋骨にはひび、いや二、三本折れてしまっているのかもしれない。
三年前までは当たり前だった痛みも、市井で暮らしたこの穏やかな年月は綾也を変えてしまっていた。苦しさに目も開けられない。痛む胸を押さえたくとも、それすらさせてもらえない。
完全に彼のひざから力が抜け、綾也は腰が砕けたようにへたへたとそこへ崩れてしまった。
そう見るとヤツらは今度は彼の腕を逆手に持ち、力を加えてきた。これ以上少しでも負荷がかかれば、腕までも折れてしまう。あまりの痛みに綾也はうめいた。
それでも、僕さえ、僕さえ我慢してこの場が治まるのならば。
気を失えたらどれだけ楽だろう。しかしそんなことで許してもらえるヤツらとも思えない。
痛い、痛い。誰か助けて。
初めて綾也の口から弱気な言葉が出たところで、加勢は手を上げてヤツらをいったん止めさせた。
「どうですかい、梶尾さん。少しは話そうって気になったんじゃありませんかい?」
ねちっこい口調。人を脅すということに慣れた男たち。
「……僕…は、何…も、知ら……な…い」
とぎれとぎれに綾也がつぶやく。折れた胸が痛い。それだけで血の気が引きそうなくらい、もう僕は戦えなくなっているのに。
「谷田貝がいつも言ってたよ。何かあったらこっちには切り札があるってな」
谷田貝教授が、そんなにもこいつらと関わりがあったっていうのか。彼は入学したての僕を分子生物学へと誘ってくれた、面倒見のよい穏やかな大学の指導教官だったはずだ。プレマスターの申請も、研究テーマも彼が一緒に世話を焼いてくれた。人に優しくされることに慣れない綾也に、温かく接してくれたのは彼が初めてではなかったか。
僕は…僕は!
誰を信じたらいいのだろう。綾也の目にうっすらと涙がにじんだ。誰もが僕を利用しようとする。誰一人僕自身を見ようとしない。僕は生きているのに。ここにいるのに。
存在自体が悪なのか。僕がいるからこそ、すべての人びとに邪念を引き出してしまうのか。
だったらここで僕を殺して。なぶり殺されるのでもいい。蹴り飛ばされ、身体中の骨を折られ、痛みに耐えながら徐々に弱ってゆくのが僕にはふさわしいのかもしれない。
全身の力の抜けた綾也に、加勢は近づいていった。手に持つものは何らかの錠剤。
「どうしても梶尾綾也が目覚めなければ、こいつを与えればいい。そう言っていた。さあてと、何のショーが始まるのかねえ」
加勢の不穏な笑い顔。まさかその薬は。
「ダメだ!それだけは、お願いだから止めて!」
逆効果だとわかっていながらも、綾也は叫ぶのを止めることができなかった。これだけはどうしても僕が口にしてはならない。何が起こるのか、わかっているのか?
口を開けさせろ、ドスの利いた声で周りの男たちに命令する。綾也の必死の抵抗など、鍛えられた男たちにとっては何にもなりはしない。軽々とあごに手をかけられ、加勢はそこへ十何錠もの薬を放り込んだ。
もちろんそれは……PSD。
無理にでも吐き出そうとする綾也の顔を押しつける。そのあとにミネラルウォーターを流し込む。用意はすでに万端だったのだ。最初からそのつもりで。
飲まない、これだけは!それなのにあごを思いきり持ち上げられ、首を絞められた綾也は思わず反射で飲み込んでしまった。むせると胸が飛び上がるほど痛い。
しばらく荒い息で固く目をつぶっていた綾也を、周りの連中はにやにやと眺めていた。
シルバーフレームの奥で伏せられていたまぶたがゆっくりと開く。
それはすでに朱く朱く燃えたぎるあの色。
「腕を離してよ、痛いじゃないか」
何気なく言った綾也の言葉の鋭さに、気性の荒いはずの男どもが思わず手を開いて彼を自由にする。
「おい!」
焦った加勢が怒鳴ろうと、もはや誰も綾也に近づけるものはいなかった。
それほどの気迫。
綾也は自分でゆっくりとメガネを外すと、胸ポケットへとさした。目がゆっくりと細められる。口元はアルカイック…スマイル。
「PSDはあんたたちなんかに扱えないよ。さっさと手を引きなよ。じゃないと、組織ごとぶっ潰されて終わりだよ?」
おかしそうに笑う綾也の声は、さっき前のおどおどとしたおとなしい学生とは全く異なっていた。
「何…だと?」
それでもさすがに加勢は綾也から目を離さず、側近の連中を彼に差し向けた。
それぞれの武器を手に、綾也へと向かう十数名の男たちは、まるでバリアに弾かれたかのように宙へと舞った。そのまま地面へと叩きつけられる。綾也は一歩も動いてはいない。彼にとって当たり前の光景。しかし加勢にとっては…。
しかし加勢もだてに青龍会の若頭を名乗っている訳ではなかった。
「これが噂のあんたの手品ってヤツか。その手には乗らねえ。おい、連れてこい」
後ろに停められていた高級車から一人の男が引っ張り出される。周りの青龍会のヤツらがそいつをこづいている。
哲平だった。
「わりいなあ。情報を手にしたんでちょっくらもういっぺん本部に乗り込んでみたらよ、大層ご機嫌が悪かったらしくて今度はとっ捕まっちまった。おれのことはいいからな、自分の身は自分で何とかすらあ」
哲平は相変わらず減らず口を叩いては、周りの連中にうるせえと怒鳴られていた。
「どうする、素人さんよ。仲間をあっさり見捨てられるかい?」
その言葉を聞いて哲平に視線をちらりと送った綾也は、さもおかしそうに大笑いした。
「あはは、ははは、まさか彼のことを人質に取ったつもり?何それ」
「何?」
加勢の顔色が変わる。
「殺したければ勝手に殺せばいい。だからどうした。僕には何の関係もないね」
それでも傷が痛むのか胸を押さえつつも、綾也は笑いが止まらないというようにおかしそうに声を上げ続けていた。
綾也がふっと横を向き、そばにあった重機に目をやる。それは重さを感じさせないほどふわりと持ち上がり、空中で粉々に砕けた。
「ひい!」
見ていた組員たちが逃げまどう。その頭上に、今度はわざと二台のクレーン車をぶつけてみせる。
破片が彼らに降り注ぎ、あるものは頭に、あるものは腕にそれぞれ当たり、悲鳴を上げた。
「てめえ、ふざけた真似を」
それぞれが銃を取り出す。綾也は一つ一つそれをはじき返していたが、途中で面倒になったのか、彼らをすべて空中へと浮かべてしまった。
ぎゃあ!と声が上がる。
「止めろ、綾也!こんなところで暴れて何になる!」
哲平の声が耳に入らない。こんな綾也は、彼にとってさえも初めてだった。
腕をねじ曲げられ、身体はあらぬ方向を向く。梶原が話してくれたとおりの光景がくり返される。
そこかしこから、闘い慣れたはずの戦闘員たちの悲鳴が響く。
「ふん、面倒くさい」
綾也は、空中に浮かぶ彼らをすべて地上へと叩きつけた。その中にはもちろん加勢も。
綾也は近くに落ちていた自動拳銃を手に取った。たまたま意識があったのだろう、もがき続ける一人の男に狙いをつける。
「よせ!殺すんじゃねえ!」
哲平は必死に叫んだ。
「おまえに人を殺せる度胸がある訳ねえ!いい加減にしろ綾也。そこまでにしておけ!」
綾也は哲平の声を無視して、安全装置をはずした。そのまま引き金に力を込めようとする。
「綾也!」
「うるさいなあ、殺すな殺すなって。僕はずっと人を殺すために育てられてきたんだよ?」
綾也はようやく哲平の方を振り向き、彼に話しかけた。にじり寄ってくる男に、銃把の部分で頭を打ちつけた。そいつはあっけなく気を失い、動かなくなった。
綾也が哲平に能面のような表情を向ける。
「僕は人が殺せなかったからSTEを追い出された。僕には居場所なんてない」
「おまえには人は殺せない!」
試してみる?ゆがんだ笑い顔は、ますます彼の表情を変えてゆく。
「PSDがあれば、僕にだってできる。哲平さん。あなたを名誉ある第一号にしてやるよ」
PSD…そのための合成麻薬?
哲平がそんな悠長なことを考えていられたのも一瞬だった。
邪悪な仮面をかぶった綾也が、一歩、さらに一歩と近づいてくる。
「なぜ人を殺してはいけない?」
笑みさえ浮かべながら綾也が問う。
「難しい禅問答なんか関係ねえ!おらあなあ!おまえの手を血で汚したかねえんだよ!」
綾也の目がさらに細められる。あの頃の思いを一瞬でたどるように。
「僕の手などはなから血にまみれている。母を殺したあの日から……」
目を覚ませ!正気に戻れ!哲平の叫び声は届かない。いつのまにか彼の手は意に反してぐいぐいと動かされ、頸元へと近づけられていった。
「止めろ!今のおまえはおまえじゃない!」
「これが本当の僕だ。僕以外の人間など存在する価値もないね」
冷ややかで人を切り捨てた言葉。まだ見ぬ梶尾教授か、それともSTEの漆原か。綾也の周りにいた大人とは、そんなヤツしかいなかったのかよ!哲平は虚しさとやりきれなさに猛然と腹が立った。
「ざけんな!おまえはあれだけの戦闘で誰一人殺しちゃいねえ!おまえには、おまえには何かあるはずだ。そうだろ、綾也?」
頸元に入れられた力は緩まない。ぐいぐいと締め付けてくる苦しさの中でそれでも哲平は必死で叫び続けた。
「おまえの中の優しさの元は何だ?それだけの辛い生活の中で、おまえを支え続けたものはいったい何だ?そいつがおまえを殺人鬼にしないでいるんだ。人なんか殺せねえ!目を覚ませ綾也!」
僕の中の……もと。
ふと、綾也の中に浮かんだものは母の泣き顔。そして最期のメッセージ。たどってゆけば、その前の記憶。咲き誇る庭で花と戯れる幼い僕と母の笑顔。
哲平の手が緩んだ。彼もまた荒い息をくり返す。綾也の中にある潜在意識。うまくすればPSDにすら勝てるかもしれない。
哲平が混乱状態の綾也に近づこうとしたとき、何者かがわずかにうごめいた。それは若頭の加勢だった。
「…こん…の、ばけものめ…」
「危ない!避けろ綾也!」
ハッとして振り返った綾也の両目が朱く燃えるのと、加勢が内ポケットから出したオートマチックを二発撃つのが同時だった。
加勢は再び吹き飛ばされて動かなくなった。
そして…。
「綾也!おい、しっかりしろ!」
綾也は、右胸を撃ち抜かれてひざから崩れ落ちていった。
何も音のしなくなった採石場に、哲平の叫び声が虚しく響くばかりだった。
哲平は急いで自分のシャツを切り裂くと、綾也の肩から胸に縛り付けた。気休めだとはわかっていても放っては置けなかったのだ。
「待ってろ、綾也。すぐに助けが来るからな!」
携帯を取りだし、緊急電話をかけようとした彼は、何かの気配にふと顔を上げた。
足元を地面につけずに宙に浮く三人の男女。一人はよく見覚えがある。白いフリルにたくさんのリボン。
「わりいな、ロリータ姉ちゃん。今このとおり取り込んでんだ。ややこしい話はあとにしてくれねえか?」
哲平の声はとがっていた。今さら現れたっておせえんだよ!ざけんなこいつら!
「梶尾綾也をこちらに渡してもらおう。彼は、我々の仲間だ」
「ふざけたことぬかしやがると、おれだって黙っちゃいねえぜ?おまえらがこいつを見捨てたんだろうが。もう、おまえらの仲間でも何でもねえよ!こいつはな、ひょろひょろで気弱な、ただの大学生だ」
そのとき、綾也がそっと目を開けた。メガネをかけてはいなかったが、その瞳は穏やかに澄んでいた。痛みに耐えかねてゆがんではいたけれど。
「……哲平…さん。ねえ、僕…」
「何もしゃべるな、大丈夫だ」
「痛い…よ。すご…く、苦し…い…。どうし…て?」
胸からも口元からも溢れ出る血を押さえ、綾也の意識は混濁していた。
哲平は正視するのも辛くて、大丈夫だとくり返すしかなかった。急がなければ出血が酷すぎて生命に関わる。
空に浮くSのメンバーなどを全く無視して電話をかけようとした哲平は、ルカによってその携帯をはじき飛ばされた。
「何しやがる!早く救急車を呼ばねえと大変なことになるぞ?」
「その必要はないわ」
冷ややかにルカがそう告げる。
彼女は手にした携帯を今度は哲平の顔面めがけて投げつける。彼が思わず叫び声を上げて手を離した隙に、ルカは綾也をすうっと持ち上げた。
そのまま、Sの三人は彼を抱きかかえた。
「よせ!肺に穴が開いているんだ、下手に動かしたりしたら死んじまうぞ!」
全く感情の感じられない微笑みを残して、三人はその場から去っていった。
テレポーテーション。
「消え……た」
めったなことでは驚かない哲平が、言葉にならない声でつぶやいた。
後には彼一人だけが残された。
「おれじゃねえ!」
まあ、犯人は誰でもそう言うわな、つい最近も同じセリフを言った覚えがあるぜ。港署の山口は呆れ顔で哲平を見返した。
「だいたいてめえらが綾也を青龍会なんぞにさらわれたりするから、こんなことになるんだよ!」
哲平は思いきりやつあたりとも取れる捨て台詞を吐いた。
「聞き捨てならねえ言葉だな津雲。なぜおまえが梶尾を拉致したのが青龍会だと知っていたんだ?」
山口の鋭い目でさえも、痛くもかゆくもなさそうに哲平は言い返した。
「ざけんな、おれを誰だと思ってる。天下の津雲哲平様だぜ?」
ふう、山口のため息が聞こえる。
「なあ津雲、現場に残された多量の血痕は梶尾のものと判明した。仲間割れか?あ?それからあれだけの猛者ぞろいの青龍会を、ぼこぼこに痛めつけたのは誰だ?全員が全治一ヶ月以上の大怪我。もしやったのがおまえなら、東京湾に浮かぶのも時間の問題だな」
おれじゃねえよ、そんなの若頭の加勢が一番よく知ってるさ。うそぶく哲平に、じゃあ誰だ?と山口はすかさず口を挟む。
「さあな、おれが行ったときはもうあんな状態だったしなあ」
あきらかな適当な返答に、若い安西がいきり立つ。
「まあまあ、落ち着け二人とも。津雲、このままじゃおまえも先がねえだろう」
さすが落としの山口だぜ。哲平は取調室の机にあったタバコを勝手に一本取ると、もらうよ、と火をつけた。
「…わかったよ、本当のことを言うよ。言うからもっと偉いヤツをここに連れてきてくれ」
何だと?いい気になるな!と言いかけた安西を山口は手で抑える。
「わかった、いいから課長を呼んでこい」
「はん、そんな下っ端で話になるかよ」
哲平はうまそうにタバコの煙を吐き出すと、ニヤリと笑った。
「そうだなあ、最低でも本庁の管理官クラスか、公安部長あたりなら話してやってもいい」
何?温厚な山口も、これには顔色を変えた。安西に至っては今にも殴りかからんばかりだ。
「どういう意味だ、津雲」
それでも必死に自制して山口が問う。
「できればたぶんまだ公安にいる、藤堂さんてヤツを呼んでくれ。STEについて話したいと言えばすっ飛んでくるぜ?」
その声にただならぬ様子を感じ取った山口は、署長を通してすぐに本店へと連絡を取った。
こいつらの動いているヤマは現場で何とかなるものじゃない。
哲平の言うとおり、公安が港署へと来るまでにそう時間はかからなかった。
「警視庁公安部管理官の藤堂です」
その言葉を聞くなり、哲平は苦笑いを返した。
「四年経っても管理官、ですか。大変ですな藤堂さんよ」
「余計なことに首を突っ込んでしまったのでね。すっかり出世街道はあきらめたよ」
それに余裕の笑みで返す藤堂は、自分より若い部下を一人携えてやってきた。おそらく藤堂はこの問題の専属管理官といったところなのだろう。
先程の無機質な取調室と違って、明るい会議室。コーヒーまでついてやがる。待遇もここまで変わるもんかねえ。哲平は脚を組み替えた。
「単刀直入に聞こう。どこまで知ってる」
声を低くして藤堂が問う。
「まあ、国防省が絡んでるというところまでは」
最初のうちは腹の探り合いが続く。負けるような哲平ではない。行儀悪く肘をつき、相手の目をのぞき込む。
「STE…スペシャルセオリーエデュケーションラボラトリー。表向きはあくまでも頭のいいガキを集めて英才教育を施すエリート養成塾。だが実際は国防省直属の極秘機関」
バカバカしい、スパイ養成所とでも?鼻で笑いかけた若い部下を藤堂は目で冷たく制した。
「君は発言を控えたまえ、柏本くん。それで?」
何だよ、こっちの情報ばっかり引き出してあとはポイのつもりか?冗談めかして哲平が愚痴をこぼす。
「もっとバカバカしい話をしてやるよ、柏本さんとやらよ。どうやらこちらの上司様はよくご存じのようだがね」
カマをかけた哲平の言葉にも藤堂はポーカーフェイスを通した。
「ガキの頃から目をかけておいた超能力者を鍛えておいて、有事の際に生物兵器として使う。それがSTEの研究テーマだ。そうだろう?」
「それは、その可能性を持つものの潜在能力を、将来的に活用できないか研究しているということか」
静かな藤堂の口調が、よけい柏本を緊張させ、黙らせていた。
「いや、もうすでに実戦段階だ。四年前のシブラク大統領襲撃事件。警察官僚なら忘れたくても忘れられねえイヤな思い出だろう?特に、あんたにとってはな」
「……」
「警備部の腕っこきと特殊部隊の先鋭たちがたった一人の少年に倒され、戦闘不能になった。隊員のほとんどは重傷を負い、未だに後遺症に苦しむものもいる。だが誰一人として死者は出ることはなく、事件も闇に葬られた」
「…なぜ君がそれを知っている?」
藤堂さん!柏本が慌てて叫ぶ。おそらく公安の中でも極秘情報なのだろう。梶原が一般人に話したのも、おそらくおれたちが初めて。
「その少年が……梶尾綾也だからだよ」
バカな!彼はPSDの情報保持者としてマークされているはずの…。思わず口をすべらせた柏本を、藤堂は叱責する。
「それは、気づかなかったな。完全な私の失態だ」
「無理もねえ。朱い瞳の綾也と普段のあいつを結びつけられる人間など、そうそういるはずがねえからな。ましてやもう、四年も経っているんだ」
「四年……か」
藤堂は物思いにふけるように、目をそっとつぶった。過去の凄惨な事件とかつての部下たちの苦しむ姿に思いをはせているのだろうか。
哲平は哲平で、別の思いを抱いていた。そうか、公安そして警察内部はあいつをあくまでもPSDと結びつけて追いかけていたのか。ここでSTEとPSDがつながればあるいは、警察の強力なバックアップが得られるかもしれない。あれだけの目に遭わされたんだ。黙っているつもりはないだろう。
「彼は今どこにいる?」
「プロジェクトS、STE内の特別チームが連れていっちまった。おそらくラボラトリ内か、関連施設にいることだろう。かなり酷い怪我を負っている。おれはヤツを早く助け出したいんだ」
国防省がついているのなら安全だろう。柏本の言葉に哲平は声を荒げた。
「あいつは、もう戦いだのサイコキネシスだのそういうにはうんざりしてるんだ。綾也自身は戦いたい気持ちなどこれっぽっちもありゃしねえ。あいつの願いはただ一つ、普通の人間として静かに暮らしたい、それだけなんだ。おれは、おれは…あいつに普通の生活を送らせてやりたい。当たり前に笑って日常生活を、普通の大学生として!」
哲平の言葉に、藤堂は歯を食いしばりながらつぶやいた。
「あれだけの犠牲者を出しながら、か」
哲平も負けてはいなかった。真っ直ぐ藤堂を見据え、きっぱりと言い切る。
「綾也はずっと大人たちから道具にされ続けてきた。あいつは被害者だ!」
しばらく二人はにらみ合っていた。どちらにも思いはあるのだろう。煮えたぎるようなお互いの激しい思いが。
哲平がつぶやく。
「どうする藤堂さんよ、綾也を逮捕するかい?」
ようやくポーカーフェイスを取り戻した藤堂は冷静に言葉を発した。
「私一人ではどのみち決められることではない。本庁の公安部に懸案事項として持ち帰る。貴重な情報提供をありがとうございました、津雲さん。ご協力に感謝いたします。それでは私どもはこれで」
立ち上がり、ドアを開けかけた二人に慌てて哲平は声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ藤堂さん!おれをこっから出していってくれよ。動きが取れねえで困ってんだ!」
先程までの気迫はどこへやら、どこか気弱そうな哲平の声に藤堂が初めて苦笑いをする。
「…仕方がないですね。柏本くん」
部下へ指示をすると、靴音を立てて藤堂は去っていった。
哲平はその背中をいつまでも見つめていた。
哲平は久しぶりに東都大学に足を運んだ。うっそうとした木が茂り、歴史を感じさせる建物が随所に見られる閑静な文教地。ここで何が行われ、誰が命を落とし、今苦しむものがいるかなど知らぬであろう静かなキャンパス。大勢の学生が笑顔で通り過ぎる。
主を失った谷田貝研究室はどうなっているのかも心配ではあったが、まず綾也の学籍上の手続きを終えないことには心配でならなかった。笹倉に連絡を取り、無理を言って休学届けの役を買って出た。その書類を胸に一張羅のスーツで哲平は教務課へと向かった。
いつ手元に戻れるかわからないあいつが、このまま大学を辞めさせられでもしたら。あいつには普通の生活をさせたい。今となってはそれだけが哲平の望みだった。
すべてを知っても、怖さを目の当たりにしても、なお。
あれだけの生活の中で失わずに来た人間的な部分と優しさ。あいつは本当の意味で一番強いのかもしれない。哲平はそれをどうしても守りたかった。自分でも理解できない感情ではあったが。
「お忙しい中恐れ入ります。実は医学部医学科三年の梶尾の保護者代理で参りました。休学届けについておたずねしたいことが…」
暇そうにしている一番手前の初老の事務員に声をかけた。腕には未だに黒いカバーをつけているところが年代を感じさせる。
しかし、そんな呑気な思いを吹き飛ばすようなことを事務員は言い出した。
「ああ、梶尾さんの休学事務ですね。すべて処理は済んでますよ」
にこにこと人当たりのいい笑顔で彼は答えた。哲平は目を丸くする。
「はっ?あの、どういうことでしょう…か」
「Mb三年の谷田貝先生のところにいらっしゃった梶尾綾也さんでしょう?休学届けも出していただきましたし、期限は判らないからととりあえず一年の医師の診断書とともに処理を終えておりますよ」
哲平の頭の中がぐるぐるしだした。どういうことだ?もちろんすばやく対応はする。
「申し訳ありません。保護者が海外にいるもので、意思の疎通がうまく図れずにお手間を取らせてしまって」
「いえいえ、お手数をお掛けしてしまったのはこちらの方ですよ。申し訳ありませんねえ」
それで、誰が?訊くのもイヤだぜ、そんな感情は必死に押し込めて哲平は尋ねてみた。
「ああ、ほらご本人ですよ。療養が長引くということで郵送とお電話のやり取りでしたが。どうぞお大事になさって下さいね。まああそこの研究室は、今回は事情も事情でしたから」
ありがとうございます、と頭を下げて、哲平はその場を立ち去った。
STEは綾也が大学にいることにまだ意味があると感じているのか。すべてが終われば戻すつもりなのか。それとも、東都大学とのつながり自体を重く見ているの、か。
恐るべきPK能力を持ち、いざとなれば殺戮兵器ともなりうる、PSDすら作り出せる研究者。もし本気で国防省がそんなことを考えているとしたらぞっとしねえ話だな。
哲平は、一時期通い慣れた研究室に向かおうとした。彼らはみなばらばらに振り分けられてしまったのだろうか。それとも。
古くさい大学院棟に歩いてゆくとあの頃とちっとも変わりはなかった。綾也がいて、それを探りに毎日顔を出し、そこで谷田貝と小暮に会い。
ふと、ほんの少し前の過去を振り返っていた哲平に、遠くから呼びかける声があった。
「津雲さーん!梶尾のお兄さーん!」
見るとそれは、同じ研究室の山田だった。
「ああよかった。梶尾のいとこの津雲さんですよね!お久しぶりです」
人の良い山田は、微笑みながら津雲に話しかけた。
「よお、ひさしぶり。みんなどうしてる?」
ついあの頃のように、気さくに声をかける。どうしたんですか、スーツなんか着ちゃってなんて冷やかされつつ。
「今回は大変だったな」
「教授が研究のことであんなに悩まれていたのに気づけなかったなんて、本当に僕たち申し訳なくて」
下を向く山田に、そんなことねえよ、おまえらのせいじゃ絶対にねえからと念を押した。
「優しいんですね、津雲さんは。やっぱり梶尾と同じだ。病気、酷いんですか?」
「まあ、今回は入院が長引きそうなんでね」
山田の話によると、谷田貝の死が急だったために補充の教授もすぐに見つかることができず、周りの教授連と准教授で当面は研究生たちの面倒を見ることになるということだった。
「谷田貝先生も梶尾もいない研究室なんて、寂しくて」
「三人娘がいるだろうが」
ここにいるのは辛いからと、企業への就職も考えているみたいですよ、みんな。山田はさらに寂しげに笑った。
谷田貝が本当はどんなヤツだったのかなど、こいつらは一生知ることはないのだろう。罪の意識に苛まれ、辛い思いをするのだろうな。哲平は空を見上げた。
「そうだ、津雲さんにお渡ししたいものがあるんです。研究室に寄ってってください!」
とまどう哲平の腕を取って、山田は歩き出した。
ぎしぎしする廊下、立て付けの悪いドア。ああそうだった、こんな薬品くさい部屋だったな。
これ、と差し出す山田の手にはUSBがあった。
「U…SBメモリ…」
「レポートを書くからと彼から借りたまま、返しそびれてしまって。津雲さんからお返しいただいてもいいですか?」
いったいいつ頃の?震える声に気づかれなかったか。哲平は思わず息を飲んだ。もしやこれは……。
「それから、彼の私物はどうしますか?もしすぐ復学するなら置いておくけれど」
「いや、いったん持ち帰るよ。静養が第一な病気なんでね」
お見舞いに行けないのが残念です。感染性なら仕方がないけど。そう言いながら山田はてきぱきと荷物をまとめ始めた。
「大したものはないんですよ、あいつは。本なんか読めばすぐ覚えちゃうからみんな人にあげてしまうし、教科書も持ってないくらいだし。これくらいかなあ」
山田がぶつぶつ言いながらそれでも四、五冊の本を紙袋に入れていると、奥からおずおずとドクター三人娘が出てきた。
「よ、見目麗しきレディーのみなさん、お久しぶりで」
「これ、梶尾くんの使ってたカップと、いつか来たら渡そうと思ってた革のペンケース。お誕生日に渡せなかったから」
恵美も蘭子も真由美も目に涙を浮かべていた。
「もう、逢えない訳じゃない…し」
思わず哲平の声も詰まった。
「あいつはここで、どんな学生だったんだ。友達はいたのか、それとも一人ぼっちで」
哲平の声に思わず目を見合わせた三人は、静かに話し出した。
「梶尾くんはいつも穏やかで物静かで、でも勉強するのが本当に楽しそうで。試験前なんかみんなかりかりしているでしょう?でも尋ねに来たクラスの子たちにていねいに教えてあげたりして、みんなから好かれてた。自分を強く主張なんかしなくても存在感があって、ここの、谷田貝研究室にはいなくてはならない人で、本当にいい子で」
笑ってた?哲平が無理に自分も苦笑いしながら訊くと、三人娘はあふれる涙をぬぐいもせずに笑い出した。
「そう言えばさ、梶尾くんて日本酒強いのよねえ」
「そうそう、それで片平講師のしつこい愚痴を延々聞かされても、酔っぱらってるから全然平気で、にこにこしてうなずいてたよね」
「で、花見のときだっけ?酔いつぶれた片平を、救急法の実習だとか言いながら介抱させたり」
「一番下っ端だからって、あれ買ってこいこれ買ってこいってよくパシリに使って」
「あんな、日本に二人といない天才児をみんなでこれでもかって、からかって」
恵美がぽつりと言う。
「そんなときは、いつも谷田貝先生も一緒だった。みんな本当に仲がよかったんです。毎日楽しくて」
とうとう彼女は両手で顔を伏せてしまった。他の連中も鼻をぐずぐず言わせている。
哲平はしばらく黙って聞いていたが、きっぱりと言い切った。
「大丈夫、きっと綾也は復学させる。何ヶ月、何年かかるか判らないけれど、それでもここに戻ってこられるようにするから。それだけは、約束だ」
「ありがとう津雲さん。大事な仲間なんです、梶尾は」
「……それが聞けて、よかった」
大きな並木道を一人歩きながら、哲平は心の中でつぶやいた。
「あいつにとって初めての学校、初めての友達、普通の生活。ごく当たり前の日常生活。ちきしょう、なぜそれをヤツらは奪おうとするんだ!あいつが何をした!穏やかな生活、何も起こらない日常、ささやかな幸せ。おれはあいつに絶対取り戻させてやる。どんなことをしても」
運命に翻弄され、ただ流され傷ついてゆくばかりの綾也を救いたい。哲平はおれだけはあいつの味方になって戦おうと心に決めた。
都心の高級マンション、哲平にしたら一生縁のないはずのだだっ広い部屋に帰り、着替えもそこそこに彼はPCを立ち上げた。
綾也が山田に渡したというUSBメモリ。まともなものであるはずがねえ。
差し込んでも当たり前にファイル名が書かれているだけ。おそらくこれがレポートの課題なのだろう。そして…。
容量のわりにはスカスカなそのUSBの中身を探ってゆく。人目に触れないところにひっそりと隠してあった一つのファイル。思った通りにパスワードが設定されている。
さあてと、見た目と裏腹に底意地の悪い綾也がどれだけのミスを許してくれるか。哲平は片方の口元だけでニヤリと笑った。
行くぜ。
「kajioもryoyaも、あり得ねえな。じゃあまず、これで行くか」
哲平は慎重に「misuzu」と打ち込んだ。エラーが出る。あの堅物が女の名前なんか入れねえか。次は「kanako」。これもはじかれる。人の名前じゃなければおれは別に超能力者でも何でもねえしなあ。
こんな簡単なパスワード、解除してもらおうと思えばいくらでも方法はあるだろう。しかしこれ以上誰かを巻き込んで、この情報を共有するということは考えるだに恐ろしい。
あと何回、やれるかとりあえずやってみよう。哲平は皮肉げに「ruka」と入れてみた。
いや、嫌みなあいつのことだ、ひょっとすると英語名かもしれない。
思いついて哲平は「luke」と。やはりダメか。
「ちっきしょう、これじゃいつまでたってもらちがあかねえ」
ヤケになった哲平はそばにあったバーボンを一飲みすると、目をつぶった。
これで四回。エラー設定は五回か十回か。十回であってくれ。
頭に浮かぶ綾也の姿。笑顔で当たり前の生活を送る大学生のあいつと、Sのメンバーとしての全く別人格の…。
「裏切り者」、ルカの叫び声。
そっと目を開けた哲平は「judas」と打ち込んでみた。かちりと音がして、パスが解除された。
ユダ……裏切り者、か。はん、自虐もほどが過ぎるぜ綾也さんよ。
哲平の心の奥にちくりと痛みが走った。それでも実行ボタンをクリックする。
途端に流れ出す画面に彼はとまどった。
「な、何だよこりゃ!」
ひたすらスクロールし続けるPC画面を見つめ続ける。何十ページあるか判らない。
ようやく止まったそれをあわててコピーし、現物のUSBを大事にしまい込む。
哲平は決して理系に強い訳ではない。理化学系のゴーストライターも務めたことはあったが、理解し切れているはずがない。
しかし、彼は丹念にその情報を最初から読み取っていった。
どうやらこれは、PSDの分子構造式。そして製造方法。しかもごていねいにも最後の方は途中で終わっている。
これ一本では用をなさないということか。手が込んでいるというか何というか。
そりゃそうだろう。もし綾也の頭の中にすべての情報が入っているとすればあいつのグラフィックメモリーは完璧だ。こんなUSBを作る必要などない。しかもSにはテレパスといって他人の思考を読み取る能力を持つものがいるのだろう?綾也が手に入ればすべて終わるということ。しかし、その中途半端な構造式がここにあるということは……。
「あいつ自身も知らない情報がまだあるということだな。それさえこっちの手元にあればまだチャンスは残されている。しっかし、こんなもん持ってたらよ、命がいくらあっても足りねえや。さあてと、このジョーカー、どこで誰に使う?思案のしどころだぜ津雲哲平さんよ」
彼は内容の深刻さと裏腹に、さも面白くなりそうだという顔つきでグラスを傾けた。
理香子は梅村智実代議士の事務所で、膝の上のハンカチを握りしめていた。
ここへ来ることは誰にも伝えていない。もちろん編集長はおろか、直属の上司にさえ話をしていない。こんなことがバレでもしたら、始末書で済めばラッキー。この不景気、クビを切られても文句は言えまい。ただの新米記者。独断で進めるにはあまりにもことが大きすぎる。そもそもこんな大物に単独で取材したことすらない。
判ってはいたけれど、理香子はどうしてもあの哲平の言葉が忘れられなかったのだ。
…てめえなんかにゃ到底できやしねえよ、取材なんか。てめえみてえなお嬢ちゃんにはよ…
悔しくて、でも何も言い返せなかった自分がイヤだった。今まで能力で人に負けたと思ったことはなかった。私が理系なら確実に会社を継いで事業を大きくすることを選んだだろう。でも、この仕事にどうしてもつきたかった。そのわがままを許してくれたのは大好きな父。
私一人でも立派に取材してみせる。第一ここまでは一人で調べ上げたのだもの。
STE研究所。民間のギフテット養成塾。こんなにガードの堅い調査対象なんて、彼女にとって初めてだった。高文社の週刊春秋の名刺を出せば、たいていのことは話してくれるものと過信していたところもあった。でもこれ以上一人でできないのなら、私は私なりの方法で行くまでよ。
衆議院議員で教育問題、特に幼児虐待とカルト集団との関係に詳しい梅村代議士が応接室に入ってきた。後ろにつく秘書は忙しそうに携帯で連絡を取っている。分刻みのスケジュールなのだろう。解散総選挙もあり得るという情報もあるくらいだ。理香子に与えられた取材時間はたったの十分。それでも、必死に電話で頼み込んでようやく勝ち取ったもの。あることないこと、まるで哲平のように。
「初めまして、わたくし高文社週刊春秋の…」
「梅村です、よろしく。ごめんなさい時間がないの。手短にお願いできる?」
初老にさしかかろうというかつてはさぞ美しかったであろう代議士は、グラスチェーンをはずすと理香子の持参した資料をざっと読み始めた。
「STE…研究所?」
「こちらの調査では数十名の学童期の子どもたちが、親元を離れ集団生活を余儀なくされています。どの子もIQが異様に高く、幼い頃から神童と呼ばれて有名だった子どもたちです。私はこの団体もカルト宗教の一種ではないかと。有名な某団体に高学歴者が多かったように、日本ではあまり支援の対象にならないギフテットという知的能力の特出した子どもたちを利用しようとしているのではないかと思われます」
「ギフテット…ねえ。確かに海外への頭脳流出は歯止めが利かず、少しでも賢い学生はみな海外に出てしまうわ。日本にはギフテットを受け入れる素地がない。そもそもその概念すらない。神童も二十歳過ぎればただの人、と揶揄されて、ね」
初めてそこで、梅村は理香子を見つめてにっこりした。
「それで、あなたは私に何をして欲しいの?」
笑顔のままだったが梅村の目は決して笑ってはいなかった。それだけの情報さえ伝えれば食いついてくるのではと思い込んでいた理香子は、言葉を失った。
これ以上なく頭をフル回転させる。しかし言うべき何かがすぐには出てこない。
「親元に全く帰さずにさらわれた訳ではないのでしょう?事件になっていると聞いたことはないし。お互い納得しているのならよいのではなくて?」
「でも、これだけの子どもたちが適切な義務教育も受けられず…」
「この子たちに必要なのは、本当にありきたりの義務教育なのかしら」
ここで梅村の線が途切れたら、取材はまた振り出しに戻る。理香子は必死だった。
「研究所を追い出された青年が、一人行方不明になっているんです。何らかの事件に巻き込まれたものと思われます。それにこれだけの施設が国の援助なしに運営されているとは思えない。バックにもし教育文化省がついているとしたら、いったい何のためにこんなに秘密裡に行う必要性があるのでしょうか」
先生お時間が、秘書が梅村にささやく。それを受けて彼女は立ち上がった。
「興味深いお話ね。また何か判ったら事務所の立野に伝えて頂戴。それでいいかしら」
「あ、あの梅村先生!ことはとても重要かつ急を要する話で!」
少なくとも事件は警察に、カルト宗教なら公安へどうぞ。それでは失礼、お嬢さん。それでもやわらげな声で梅村が答える。
「週刊春秋の中村です!」
最後は梅村の後ろ姿に叫ぶように、理香子は必死にすがった。梅村は足を止め、顔だけを振り向かせるとこう言った。
「お嬢さんなんてごめんなさいね、中村さん。入社何年目?」
「い…一年目です」
思わず正直に答えてしまった理香子に、春秋さんもこんな若い子にずいぶんと冒険させること、と微笑んだ。
よろしくお願いいたします、と頭を下げた理香子に手を上げて梅村は去っていった。
身体中の力が抜けて、ソファにどさりと座り込む。こんなに疲れる取材なんて初めて。中村は興味を持ってくれたのだろうか。反応はあまりに薄かった。それでもつながりができたのだから良しとしよう。
理香子は自分をそう励まして奮い立たせた。
(つづく)
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