予兆
#プロローグ
朱に染まる瞳が細められる。そこに浮かぶ蔑みの表情。
彼の周りに巻き起こる空気の渦が、すべてを拒絶しているかのように、ごうごうと音を立てる。
誰も近寄ることはできない。彼自身の力を持ってしても、もはや止められない。
時は満ち、戦いは始まってしまったのだから。
ファイヤー・バード。炎を上げる鳥の群れ。すべて燃え尽きてしまえ。
この世界など、存在する意味すらない。
彼の憎しみはそれほどまでに深く、大きい。
誰がそれを防げるというのだろうか。遠くから響く爆発音。
彼がゆっくりと腕を上げる。それを合図にしたかのように、鳥たちはあらゆる方向へと飛び立っていった。
東都大学医学部は都心からやや離れた閑静な文教地区にあった。東都自体が大きな総合大学であり、それらを収めるためにかなりの広さのキャンパスを要した。
郊外とはいえ都内であり、これだけの敷地を確保するには苦労したのではないかと思われたが、やはり、国内外で高く評価されるその実績がものを言うのだろう。
大学入試レベルで言えば国内でも最難関の医学部だった。
綾也はいつものように谷田貝研究室の古ぼけたドアを開けた。年季が入っていて開けるたびにきしむのだけれど、修理の手が加わることはなかった。
そんな予算があれば、実験用の薬品を購入する方に回してしまうのだろう。部屋自体にもさまざまな薬品が染み込んでいるのか、一口では言えない匂いが漂う。
もっとも彼ら研究室の住人にとっては、慣れてしまって気にもならないらしい。そこに入り浸って平気でコーヒーを入れ、ケーキを食べる。
三年生の綾也にしても、何かつまめるものがあるかもしれない、学部の授業の合間に少し顔を出しておくか、その程度の気持ちだった。
しかし、部屋に足を踏み入れた綾也を待っていたのは、博士課程二年の真由美の激しい手招きだった。
「あれ?みなさんどうしたんですか」
そこには同じ博士課程の蘭子と恵美もいた。
ソファの置いてある教授室の方をそっとのぞき見している。自然と綾也も小声になった。
「梶尾くん、こっち来て。ほらあれ」
真由美の指さす方向には、妙齢の女性がいた。
ショッキングピンクのスーツはカッティングが独特で、あちこちから白いその肌をのぞかせていた。
襟元と袖口、上着の裾にはホワイトのパイピングが施されてアクセントになっている。
かなり短い丈のタイトスカートからは、すらりと伸びた美しい脚を惜しげもなく晒している。足元は深い切れ込みの入ったピンヒール。
こげ茶の髪を綺麗にカールし、肩の上に豊かにはずませている。濃い目だがセンスの感じられる化粧をのせた顔立ちは、その服装やたたずまいからすればずっと若々しく見えた。
どことなくあどけなさの残るうっすら朱に染まる頬。大きな瞳はマスカラとアイラインでしっかり縁取られ、つややかに光っている。
腕を組み、じっとテーブルをにらむ。組んだ脚がなまめかしい。
「あの方は、どなたなんですか?」
遠慮がちに訊く綾也に向かって、まあまあまあこれ持って、と真由美は紅茶の入った盆を手渡した。
「はい?」
「いやあいいところに来てくれたね、梶尾くん。さすが我が谷田貝研究室の良心!プリンス!貴公子!救世主!」
貴公子、と言われるのも無理はなかった。
長身で抜けるほど色が白く、整った顔立ちの綾也は、まるで本当にどこかの貴族ではないかと思わせる品の良さがあった。
しかし言われた当の本人は、真由美の隠された意図をはかりかね困惑していた。
「何てったって性格温厚冷静沈着、歩くスーパーコンピュータ、医学科三年にして研究室生の梶尾くんでなきゃ、あの女には対抗できないわ。ほら、行ってお茶出してきて」
蘭子がよくわからない援護射撃で綾也の肩を押す。教授はいないって言うのよ、恵美もささやく。
「谷田貝教授のお客様なんですか。本当に先生は」
綾也に最後まで言わせず、ドクターコースの女の子たちは彼を教授室へと押しやった。
彼女が目を上げる。
鋭い視線が綾也をねめつけた。
彼はため息をついてカップを彼女の前にそっと置いた。
微かにかちゃんと音を立てる。彼女はそれに見向きもせずに綾也の目をじっとのぞき込むようにした。
「あの、申し訳ありません。谷田貝教授は外出しておりまして」
「……。じゃあ戻るまで待たせてもらうわよ」
思ったより低い声で彼女が言葉を投げつける。ドスのきいた、とでも言うのだろうか。多分に迫力があって、綾也は思わず顔をひきつらせた。
入り口の方を見やる。真由美と蘭子が顔の前で大きくバツを作っているのが目に入った。何てわかりやすいブロックサイン。
だったら自分で言えばいいのに、綾也は繰り言を無理矢理飲み込むと彼女に向かった。
「いえ、あの、それが、何軒か回るとのことで、帰りが何時になるのかわかりかねるのですが」
ばん!彼女がテーブルをその左手で思い切り叩く。驚いて綾也はびくっと身体を震わせた。
「ふざけんじゃないわよ!またそんなこと言って。こないだも散々待たされたあげく居留守使われたのよ!いるのはわかってんだから、早く恒夫ちゃん出しなさいよ!」
つねおちゃんって、そりゃ教授の名前は谷田貝恒夫だけど……。綾也の頭の中に疑問符が充満する。
それでも気を取り直して彼は、健気にこう言った。
「あの、僕でよければ教授に責任持って伝えておきますから。お名前とご用件をお話しくださいませんか?」
その言葉を聞くと彼女は、いささかトーンダウンして脚を組み替えた。
「は……ん。あんた学生?女性に名前を聞くんなら、まず自分から名乗るのが礼儀ってもんじゃないの」
綾也ははっとして彼女の方に顔を向けると、にっこり微笑んだ。
「大変失礼しました。僕は東都大学医学部医学科三年、梶尾綾也と申します。谷田貝研究室にはプレマスターとして在籍しています」
彼女が改めて綾也の顔をまじまじと見ているのが感じられた。
色白で髪は栗色、あご辺りまでの長さでストレートな毛先がゆれている。
真ん中から分けて頬のところに一筋たらし、耳を出している。
瞳は澄んで優しい光をたたえている。すっと通った鼻筋も広めの額も、薄く形のよい唇もその賢しさを表していた。
華奢でまるで女の子のような長く細い指先と手足、鍛えられているとはお世辞にも言えなかったが余分なものが何もない身体を黒いハイネックシャツで包んでいる。
聡明さのイメージを助長するかのような銀縁の細いメガネが、光を受けて反射していた。
「へっー、あんたも天下の東都大生ってわけ。プレマスターって何よ」
頬杖をついて彼女は言った。
通常の大学や学部であれば、卒業学年になって何らかの研究室に所属し、卒業論文を作成するのがよく見られる流れである。
基本的には医師養成機関である医学部医学科はこれとやや違ったシステムをとることが多い。研究者を志すものだけが大学院に入ってから研究室に入り、修士課程、博士課程と進んでいく。
綾也のように学部生のうちから研究室に所属するケースは、稀だ。プレマスターコース、つまり修士課程の前段階から飛び級的に研究に従事することを許されているというわけだった。
「僕は医師になるつもりはないので、医師免許も取りません。研究者になりたいんです」
静かな微笑みをたたえて綾也はそう説明した。言い方によっては自慢げになりがちな内容も、彼の知的な雰囲気にはとても説得力があった。
彼女は視線をつと外すと、へっー、とまた声を上げた。
「頭いいのねー。ところで、君、彼女いる?」
「はっ?」
文脈がつかめず、綾也は目を白黒させた。いませんが、とだけ何とか答える。
彼女は顔をやや斜めに上げると、薄く笑ってこう言った。
「てことは、まだ童貞?」
とうとう綾也は絶句してしまった。この余裕の笑みを浮かべる童顔の美女に何か言い返してやりたかったが、どうしても言葉が見つからない。
彼女は涼しい顔で言葉を続けた。
「君、二十歳くらい?まだ未経験ってさ、今時の子にしたら奥手すぎない?お勉強ばっかしてるとたまっちゃって大変だよー?」
「あ、あの、その、ですから」
綾也の困惑顔をみるのがおもしろいのか、彼女はクスリと笑った。
「あたしは、銀座のクラブ華恋のみすず。本名も片岡美鈴って言うんだけどね。この歳になると源氏名つけるのもかったるいっていうか。これでも一応、ナンバーワン張ってるのよ」
口で言うほどには年を重ねてはいないだろう、おそらくまだ二十代。しかしみすずには、夜の仕事を身体一つで渡ってきたという自信があふれていた。言葉を続ける。
「恒夫ちゃんとは、そうね、かれこれ一年くらいの付き合いになるかしら。ただの客とホステスじゃないわよ。深い仲。わかる?」
すっかり綾也をガキ扱いしようと決めたのか、からかうような表情でみすずは視線を向ける。
綾也は何とか体勢を立て直そうと、無駄な抗いをした。
「はあ、しかし教授には奥様も大きな息子さんもいらっしゃるかと思いますが」
「だから何よ。所帯持ちだって恋愛ぐらいするわよ」
あっさりと返される。綾也は口をつぐんだ。悔しいがとてもこの方面で彼に勝ち目はない。
綾也にとって深い仲になって付き合う恋愛どころか、片想いすら経験したことがなかったのだから。
誰かを好きになる感情とは何か、それを教えてくれる人も場所も、綾也にはなかった。
「なのに最近、ちっともお店に来なくなっちゃって。二人だけのときは子どもみたいな甘えキャラの恒夫ちゃんなのに、ずっと会ってもらえなくて。あたし……あたしさみしくて」
みすずの声がほんの少ししめり気を帯びる。その変化に綾也はとまどった。
彼女の頬に少しばかりの涙。綾也は息を飲んだ。
「……片岡さん」
多分に同情心で声をかけた綾也を全く無視して、みすずは勢いよく席を立った。あっけにとられる彼をしり目に、彼女は大声を張り上げた。
「とにかく!このお腹の子を認知してもらうまでは、何度でもここに押しかけて来るからって、恒夫ちゃんに言っといて!」
「お、お腹の子?認知、です、か?まさかそれを僕に伝えろ……と?」
あまりの驚きに声も途切れ、綾也は呆然と立ちすくんだ。完全に彼の理解の範疇を超えていた。
みすずは、ふふっと笑うと、ヒールの音を甲高く立ててドアの向こうへと消えていった。
「ふう、あの女は行ったかね」
彼女が出ていったのを確かめるかのように、谷田貝が奥の部屋から顔を出した。
「教授!いらしたんですか。どうしてお会いにならなかったんですか。認知して欲しいとのことです」
いつもの綾也らしくない大声に、教授はやや顔をしかめてため息をついた。
「何が認知、だ。私の子である証拠は何もない」
その言葉に、博士課程三人組の女子が敏感に反応した。腕組みをして仁王立ち、気の弱い男子ならそれだけで逃げ出すような迫力だ。
「男らしくないですよ、身に覚えがあるのでしょう?」
真由美の声はとがりきっていた。今回が初めてではない。谷田貝教授の性格は熟知しているつもりだったが、それでも抑えきれずに彼女は年かさの教授に食ってかかった。
「ええい、君らにはわからんのだよ。人生経験の乏しい君らにはな。ちょっと梶尾くん、来たまえ」
「これは?」
谷田貝がそっと手招きして、他の女子にはわからないようにへと綾也に封筒を手渡した。辺りをかなり警戒しているのは、よほど彼女たちが怖いのだろう。
「今度あの女が来たら、これを渡してくれないか。初期の中絶費用ならこれで十分だろう。病院なら紹介するから、と」
「ぼ……僕がですか?」
「こういうときには、変に世慣れていない方が好都合というものだ。まあ君も、いい社会勉強になるかと」
「谷田貝先生!梶尾くんに何渡したんですか」
恵美がめざとくその仕草を見つけ厳しく問いかけるのに、教授はあわてて綾也を別室に引っ張り込んで頭を下げた。
「彼女たちには内緒だぞ、いいな。君を男として見込んでのことだ」
「は、はあ」
困惑しきった綾也を残し、谷田貝教授は足早に研究室を出て行った。
後に残され、追求されるのも疲れた綾也がようやく解放されたのは、夜もだいぶ更けてからであった。
しかし、その後みすずが谷田貝研究室を訪れることはなかった。あのときの勢いでは毎日のように押しかけるかと思われたのに。
綾也は机の引き出しにしまったままの茶封筒が気になって仕方なかった。
教授から渡された現金は、未だみすずには渡っていない。彼が認知するつもりなど毛頭ないことも彼女には伝わってはいない。
どうするつもりだ、一人で産むのか。もし仮に中絶するとなると、法的にも肉体的にも適切な時期というものがあるのではなかったか。
いくら医師免許を取るつもりがないとは言え、綾也にもそのくらいの医学的知識はあった。
こんな面倒を押しつけた後ろめたさからか、教授はあきらかに綾也を避け、最近では研究室にもろくに近寄ることをしなかった。
「どうしよう、これ」
こんなとき、気軽に相談できる女友達などいない。研究室の連中には話せない。かと言って綾也と同じ学部生の友達には、こんなシチュエーションは理解するのも難しいに決まっている。
みすずの意志のはっきりとした大きな瞳。
綾也は彼女のあどけなさの残る横顔を思い浮かべた。
なぜ気になるのだろう。彼女は自分なんかよりずっと大人で、強いだろうに。おそらく誰に頼ることなく、自分の力だけで生き抜いて来ただろうに。綾也など、あっさりと子ども扱いされて終わりだろうに。
なのに、どうしても彼女のことが心配でならなかった。彼女の流した、ほんの一瞬の涙。それが本心なのではないか。
綾也はため息をつくと、パソコンから印刷した一枚の地図を手に立ち上がった。
銀座は昼間のすました顔を引っ込め、ネオンと嬌声の化粧をまとっていた。
こんな時間に夜の街を出歩くことなど、綾也はもちろんしたことがなかった。わずかに経験があると言えば学生街の駅前の居酒屋。それも大学に入ってできた初めての友人らに、無理やり腕を引っぱられてのものだ。
人生経験の乏しい。確かに綾也ほどその言葉がふさわしい人間もいないだろう。
東都大学に入るまで、彼は人並みの生活などしたことがなかった。都内に自宅があり、今は大学近くの彼名義のマンションに一人住む。
はたから見れば、恵まれた環境に育った苦労知らずのおぼっちゃまに見えるに違いない。
誰も彼が過ごしてきた本当の姿など知らない。彼にとっても知らせるつもりもなかった。
言ったところで信じてはもらえまい。
学校など、行ったこともなかった。それどころか幼い頃は家を、いや部屋を一歩も出ることは許されなかった。光の差さない地下室に一人、膝を抱えて壁を見つめる。それが彼の日常だったのだから。
彼が十二歳になって住む場所が教育研究所に移ってからも、状況はたいして変わることはなかった。外出許可は月に一度。それ以外は過酷な訓練の日々。
こんなまぶしい夜の照明は、だから綾也には刺激が過ぎた。ただでさえ過敏な、色素の薄い彼の虹彩は、あふれる光をあきらかに持て余していた。
目眩がする。
綾也は軽く頭を振ると、メガネの上からそっとまぶたを押さえた。
インターネットで探したクラブ華恋の地図は、綾也の手の中に小さく折りたたまれている。一応持っては来たが、実はもう見なくともわかる。細い道のすべての位置や、細かく書かれた数多くの店の名前でさえ頭に入っている。
グラフィックメモリー。
綾也の記憶力は優れていた。一度聴いたきりの講義も、ぱらぱらめくっただけの教科書も、細部まですべて覚えてしまうだけの能力を彼は持っていた。
なのに地図を持ってきてしまったのは、一人だけでこんな場違いなところに来るという不安感からだったのだろうか。手を握りしめる。
雑居ビルの二階に上がる。思いのほか静かな廊下に綾也はたじろいだ。意味もなく足音を立てないように進む。すすけた壁に不似合いな重厚な木製のドア。こげ茶のプレートには華恋の文字。こういったときにはノックをするものかどうか逡巡する。
綾也が今まで経験したシチュエーションのどこを思い出しても、銀座のクラブへ足を踏み入れる方法などわかりようもなかった。
もちろん、彼の読んだどんな書物にもありはしない。
いかに記憶力が優れていようとIQがずば抜けて高かろうと、このドアの前では彼は無力だった。
振り上げた手をどうしたものか迷い、綾也はため息をついた。
みすずの顔が頭をよぎる。
かわいい人。自分よりいくつも年上だろうに彼はそう感じていた。
今まで他人に必要以上の好意を抱いたことなどなかった。家族はいないも同然であったし、研究所の連中は同志ではあったが友情すら持てる状況にはなかった。そんな生半可な感情など育ちようもない環境に、彼はずっと置かれていた。
大学に入って友人もできた。声をかけてくる知人も増えた。だが、綾也の心に入り込むことのできた人間は皆無だった。
なぜ、彼女だけそんなふうに気になるのだろう。頼まれもしないのにこんな所まで来てしまった。教授の愛人、年上のおそらく経験豊富な。
今日の僕はどうかしている、自分の役目はこの封筒を渡すことだ。綾也はメガネの支柱を軽く押すと、気を取り直してドアに向かって一歩踏み出した。
彼がノブをにぎるのと同時に、ドアは内側から勢いよく開いた。
「いったあ……」
額とメガネを扉に思いきりぶつけて、綾也は反射的にしゃがみ込んだ。
中から出てきた一行には、ドアの陰でどうやら彼が見えなかったらしい。頭の上から、何も気にしていないかのような嬌声と低い笑い声が降ってきた。
「じゃあみすずちゃん、あんまり無理しちゃいかんよ」
「小暮さん、もう帰っちゃうの?今夜はせっかく同伴して下さったのに」
「君のしんどそうな顔を見るのは辛くてね。みすずちゃんも今日はもう帰りなさい」
恰幅の良い壮年の紳士がみすずの肩に手を置く。一目で上質とわかるダブルのスーツ。どこかの社長か役員か。連れの部下が何やら彼に話しかけている。携帯電話を取り出し、忙しそうにどこかに連絡を取りだした。その二人をエレベーターホールまで見送って、みすずは何気なく振り向く。動きが止まった。
「な!何やってんのよ、あんた!」
綾也はまだ額を押さえたまま、立ち上がれずにいた。教師に叱られた小学生のような切なげな顔でみすずを見上げる。
「あんた確か恒夫ちゃんのとこの、梶尾綾也」
「どうして片岡さん、僕の名前を?まさかあなたも……」
こんなところで同じグラフィックメモリー保持者に会えるというのか。綾也は勢いよく立つとみすずに詰め寄った。
「は?客の顔と名前は瞬時で覚える。ホステスの基本でしょうが。あたしがこの仕事何年やってると思ってんのよ」
「ホステス、客……ああ、そうですよね。でも僕は客じゃない」
最後の方は力なくつぶやく格好になってしまった綾也に、みすずはふっと笑顔を見せた。
「こんな時間にこんなとこいると、補導されちゃうぞ。天下の東都大生が」
ゴールドのハイヒールにラメ入りのストッキング。淡いブルーのシフォン生地がふんだんに使われている膝丈のワンピースが、彼女の細い身体を包んでいた。豊かな巻き髪は今日も肩先で揺れている。長くカールしたまつげに縁取られた大きく光る瞳。それがじっと綾也を見つめる。彼はどぎまぎした。次の言葉が出てこない。
「あたしに一目惚れして会いに来た、って訳じゃなさそうだしね。恒夫ちゃんが何か言ってきたの?堕ろせって?どうせそんなとこでしょ」
「片岡さん、あの」
綾也は思わず口ごもる。みすずは寂しげな表情でつと視線を外した。口元だけはかろうじて微笑んでいたがそれはとても辛そうで、綾也は何と声をかけていいのかわからず立ちすくんだ。何かを吹っ切るようにみすずは彼を見返した。
「恒夫ちゃんに言っといて。もう安心してよって。認知しろなんて言いに行かないわ」
「どうしてですか。だってこの間はあんなに元気に片岡さんは」
言いかけて綾也は、みすずの顔が青白いのに気づいた。そういえばさっきの客が何か言っていた。
彼女が目をつぶる。ふらっとその身体が傾いだ。思わず綾也は彼女に向かって手を差し出した。
みすずが彼の手の中に身体を預ける。思わぬ軽さに綾也はたじろいだ。
「大丈夫ですか?片岡さん。あの、妊娠初期は貧血になりやすいと聞きます。どうか無理しないで」
「医者になるつもりはなかったんじゃないの?意趣替えして産婦人科にでもなりたいわけ?綾也は止めといた方がいいわよ。とんだ誤診だわ、それ」
寂しそうにつぶやく彼女を、そっと支える。
「子ども、ダメだったから。これで三度目よ。うまく育ってくれないの」
みすずの瞳から涙がこぼれる。綾也は息を飲んだ。
自販機で買ったココアの缶が温かい。
綾也はそれをそっとみすずへと手渡した。甘い物は気持ちが落ち着くから、そう言い添えた。
彼女は両手で受け取ると大事そうに胸に抱えた。
「愛してらっしゃるんですね、教授のこと」
男女の機微のことなど何もわからない綾也だったが、みすずのやつれた表情に、ついそう声をかけてしまった。どこか、自分では気づかない淡い嫉妬心が隠れていたのか。
その言葉に、みすずはふっと自嘲気味の笑みをもらした。
「まさか。そりゃ恒夫ちゃんはエリートのお金持ちだから、いい金づるになるかもしれないって思ってたけど。さっきあんたがくれたこの封筒、いくら入ってたと思う?中絶費用の相場の最低ライン。九万五千円だって。笑っちゃうわよね、だったら切りよく十万入れなさいって」
吐き捨てるように言うその口調が、どことなく寂しげだったのは、綾也がそう感じたいと願っていたからだったろうか。少し離れて腰を下ろす。
「恒夫ちゃんの子だったら、きっと頭のいい男の子が生まれるなんて勝手に思ってたの。別に認知してもらわなくてもよかった。結婚だってもうこりごりだし。でも、子どもだけは欲しかったな。綾也みたいな賢そうな綺麗な息子がいたら、どんなに幸せかなって」
ご両親はさぞ自慢でしょうね、みすずの言葉に今度は綾也が寂しげな笑顔を返した。
「母は僕が小さい頃に亡くなりました。父とはそれ以来疎遠で」
「そうなんだ。じゃあお互い、家族の縁は薄いって訳ね。うちなんか、なまじ生きてるだけたちが悪いわ。だからなおさら、本当の自分の家族が欲しいの」
研究室に乗り込んできた強気の姿とは別人のように、みすずはうつむいた。そうしているとあどけなさが目立つ。まだ本当に若いのではないか。綾也は自分より人生経験の豊かなこの女性のことを、守ってあげたいとふと思った。僕なんか、相手にもしてもらえないだろうけれど、どこかそんなあきらめの気持ちもあったが。
「とにかく、このお金は恒夫ちゃんに返すわ。もう、必要ないから」
「ダメです。僕は教授から必ず渡すように言われましたし、渡したからにはもうこれは片岡さんのものです」
珍しく強い口調で綾也は封筒を押し返した。これじゃ足りませんよね、そうも付け加えた。みすずの精神的苦痛を考えたら、とてもこんなはした金では許せるものでもないだろう。
憤る綾也に、みすずは幾分明るさを取り戻して微笑んだ。
「じゃあさ、このお金で何かおいしい物でも二人で食べちゃおうっか。銀座にはいいお店がたくさんあるし、それくらい付き合ってくれてもいいでしょ?」
「片岡さん」
「みすずでいいわよ。週末電話するから携帯教えて?それとも、こんな場末の女なんか関わりたくない?」
「場末だなんてとんでもない!片岡さんは、みすずさんは素敵な女性です。独りで立派に生きてらっしゃるじゃないですか。強くて、綺麗で、そのあの……」
普段言ったこともないセリフに、自分自身が一番動揺していた。
語尾はもうしどろもどろで、とうとう綾也は唇を噛んで黙り込んでしまった。
そんな彼にみすずはありがとう、と言葉を返した。缶を開けて一口飲み、ほうっとため息をつく。
彼女の横顔をそっとうかがっていた綾也が、ふいに動きを止めた。
耳元に微かなキーンという金属音。
覚えのある、いやと言うほど聞き慣れたこの音。まさか、ここにも。
綾也は静かに立ち上がった。
素早く周囲に視線を這わせる。その表情はさっきと打って変わって厳しく引き締まった。
「どうしたの、綾也」
とまどいがちに声をかけるみすずに、しっ、と人差し指を立てる。
「僕が合図をしたら、みすずさんは走って逃げて下さい。走るのが無理なら、車でも何でも見つけて、ここから離れて下さい。いいですね?」
「何それ?あんたみたいな弱っちいのが何気取ってるのよ。悪いけど立ち回りならあたしの方が場数踏んでるわよ。その辺にヤクザかラリってるガキでもいるっていうの?」
「そんなんじゃない!いいから早く逃げて!」
言うが早いか、綾也は一つの路地に向かって走り出した。
音の発信地はあきらかにそこだと感じられたし、今はできるだけみすずと離れたかった。
巻き込むわけにはいかない。おそらく、いや、確実にターゲットは自分自身。
路地に入った途端、まるでビル風のような突風が綾也を襲った。頬にかかった髪が揺れる。
ザザッという音を立てて空気のかたまりは容赦なく打ち付けてくる。
あまりの風圧に呼吸ができずに苦しい。目を開けているのもやっとだ。
それでも必死に綾也は辺りを見回した。どこだ、どこにいる。あいつなのか?
表通りのきらびやかな照明が届かない路地奥で、夜のとばりは深い闇をもたらし、彼の淡い瞳に映る人影は何もなかった。
ただ激しい風だけが、何らかの悪意の存在を主張していた。
突然、空気の流れは鋭さを増し、綾也めがけて向かってきた。
とっさに右手で顔を覆い防御しようとしたが、突風の方が早かった。
がつんと音を立ててメガネが外れる。それを必死になって追い求めるが、綾也の伸ばした手からは届かない。
彼の瞳に、薄い影が差し込む。
目を細める。
ゆらりと立ち上がった彼の身体の周りには、まるでバリアのように無風の空間がぽっかりと空いていた。
さらにその周辺を、激しく風が吹き荒れる。嵐の中心に綾也が立つ。
襲われていたのは彼のはずだったのに、もうすっかり風は手なづけられてしまったかのように、従順に綾也に従っていた。彼の目がさらに細められ、光を帯びる。
バシュッ。
辺りに閃光が走り、風は一瞬にして霧散した。静けさが戻る。
綾也は口元をわずかにゆがめ、片方の頬だけでうっすらと笑った。
普段の彼には見ることのない妖しさを帯びた表情。
邪悪な風の元凶を捜し出そうと彼が一歩を踏み出したそのとき、悲鳴が上がった。
みすずか?
はっと我に返った綾也は、近くに落ちていた自分のメガネを拾うとあわてて掛けた。瞬時に瞳にはいつもの優しさが戻る。急いで路地奥から出て、彼女に駆け寄る。
綾也よりかなり年上であろう背の低いやせた男が、みすずの腕を取って車に押し込めようとしていた。
みすずは必死に抗うが、女の細腕ではなすすべがない。
「みすずさん!」
綾也は思わずその男に向かっていった。二人の間に割って入り、右腕で彼女をかばうように自分の後ろへと下げる。
男は突然現れた綾也に驚いたように目を見開いた。
「嫌がってるじゃないですか!止めてください!」
「ガキはすっこんでろ。おれはな、この女に用があるんだ」
ゆるやかなウエーブの短髪に丸いフレームの薄いサングラスを掛けた男は、狡賢そうな目で綾也をねめつけた。彼を無視するように腕を伸ばすと、みすずの肩に手を掛けた。
「みすずさんに触るな!」
その腕に夢中でしがみつく。男が大きく手を振り上げた。
あっさりと綾也は振りほどかれ、道路に転がった。とっさに手をつき素早く立ち上がる。
もう一度向かっていったとき、ふいに男の拳が綾也の左頬めがけて飛んできた。
酷い衝撃を受けて綾也はよろめいた。思わず右手の甲で唇をぬぐう。
口の中が切れていた。鉄の味が広がって気持ち悪い。
痛みというよりも左頬全体が脈を打っていてしびれている。
「綾也!」
みすずが心配そうに声をかけるが、綾也は何も答えられない。肩で息をしている。
男は両手をだらんと下げたまま、重心をわずかに落とした。どうとでも動けるような自然体のかまえ。相手は実戦で鍛えられたケンカのプロであることは、綾也でもわかった。普通に考えて勝ち目はない。
どうする、相手は車を持っている。路地にでも逃げ込むか。だが体調に不安を抱えるみすずを連れて、走って逃げ切るだけの自信はなかった。綾也の細い身体ではいくら軽いとは言え、彼女を抱き上げることも難しいだろう。
男がじりじりと間合いを詰めてくる。綾也はみすずを押さえたまま後ずさった。
「人の女に手を出すとな、痛い目を見るっつうことを教えてやるよ。若い兄ちゃんよ」
男がゆらりと上体を傾けたそのとき、綾也は掛けていたメガネをわずかに下にずらした。
瞳に浮かぶ妖しい光。
綾也がほんの少し目を細める。
男の身体が大きく跳ね上がった。そのまま街路樹の太い幹に叩きつけられる。
どさっという音を立てて彼が道路に倒れ込む。うめき声を上げて彼がうずくまる。
綾也は視線を彼の車へと移した。次の瞬間、前輪のタイヤが大きなバースト音を響かせて爆発した。
辺りに焼けたゴムの匂いが立ちこめる。
「行こう、みすずさん」
何事もなかったかのようにメガネの支柱をそっと押し上げると、綾也は硬い表情でみすずの肩に触れた。みすずが怯えた顔で彼を見上げる。何が起こったのか理解はできていないだろうが、もっと原始的な恐怖心が、彼女を襲っているようだった。
「綾也、一体何が……」
「この間から気功術を習っているんです。手を使わないで人を倒せるって聞いてたけど、こんなにうまくいくとは思わなかった」
わざとおどけた口調で綾也が声をかける。とっさに口から出たでまかせの嘘に、それでもみすずは少しばかり安心したようだった。人は合理的な解釈を心のどこかで求めるものなのだ。
「へえ、ただの弱っちい東都大生って訳でもないんだ。だったら殴られる前に出しなさいよ、その技」
「中国四千年の歴史ですから、出し惜しみしてたんです」
思わず見つめた目で笑い合う。
先程の通りとだいぶ離れてから、綾也はみすずに向き直った。無理に微笑もうとすると腫れた頬が痛む。みすずが手を伸ばして、それにそっと触れた。
「痛い?ごめんね。あの人あたしの……」
「みすずさんが無事でよかった。これからも十分気をつけてください。戸締まりはきちんとして。決して一人で出歩かないで。何かあったら、僕を呼んでください」
みすずに最後まで言わせまいと、綾也は言葉をつないだ。
彼女はそんな綾也の唇にそっと指を置いた。そのまま彼の頭を、黙って引き寄せる。
綾也はされるがままに顔を彼女に近づけた。
みすずは自分の唇を彼のそれに重ね合わせると、潤んだ瞳で彼を見上げた。
驚きに身体を硬くしてすくんでいる綾也に、優しく微笑みかける。
「本当にありがとう、綾也」
そう言い残して、みすずは大通りのタクシーに向かって手を上げた。
緑の車体に彼女の身体が吸い込まれるように消えてからも、綾也はその場を動くことができなかった。
軽い目眩。
綾也は大きくため息をつくと、固く目をつぶった。
きらめくネオンに輝く銀座の夜は、まだとても終わりそうにはなかった。
(つづく)
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