嘘と惚れ薬と婚約破棄
手の中にあるのはガラスの小瓶。
中身は惚れ薬です。惚れ薬。
――この薬を王子に盛るの。そうすれば王子はあなたの虜になって、衆人環視の夜会でここぞとばかりに婚約者の公爵令嬢と婚約破棄を宣言する。そしてあなたを妃にと望むわ。絶対に。
ぱっとしない男爵令嬢が成り上るにはそれしかないと、母がいかがわしい魔法使いから大枚をはたいて入手してきてしまいました。
(ん~~~~、甘いと思うのですよ母上様。悪役令嬢物語の読み過ぎです。王太子と公爵令嬢の婚約なんて、国の政治レベルの話であって、恋愛の入り込む余地などないはずです。たとえ殿下が人前で「婚約を破棄したい!」なんて口走っても「御乱心」「気の迷い」「はっはっは、御戯れを」って、いつも殿下のそばに学友の名目でうろついているお目付け役たちがひねりつぶすに決まっています。絶対に)
王太子アーノルド様は、黒髪黒瞳の細マッチョ。性格は大らかで細かいことを気にしないタイプ。悪戯好きの悪童がそのまま青年になったような茶目っ気があり、少し危なっかしい。
王宮サイドもそのことはよくご存じのようで、同年代の多く集う学び舎においては、由緒正しき家柄の貴族の青年たちが常に周りを取り囲み、何かと目を光らせている。もちろんそれは、女性関係においても例外はなく。
同じ学校で机を並べて学んでいるとはいえ、これ幸いと殿下に近づき、色目を使うような令嬢はことごとく排除されてきました。
その厳戒態勢をかいくぐり、なぜ一介の男爵令嬢如きが王子に接近してその皿やコップに一服盛れるというのか。惚れ薬計画は、そこからしてすでに破綻している。
とは、いうものの。
「レベッカ、おはよう。今日も可愛いね」
卒業間近の学院にて、朝の教室。
背後に咲き誇る薔薇を背負って現れたのは、公爵令嬢のジャスティーン様。
蜂蜜色に輝く金髪に、くっきりと彫りの深い顔立ち、紺碧の瞳。王子やその取り巻きに劣らぬほど背はすらりと高く、いつも首まで襟のあるドレスを身に着けています。肌や胸を露出することのないデザインですが、それはジャスティーン様の魅力を損なうことはなく、むしろ清楚に引き立てていてよく似合っており、いまや王都の流行を牽引しているほど。
髪も凝った形に結い上げるどころか、後頭部で軽く一房束ねてあとは肩に流しており、動きにそって光を放つかのように煌いています。
「おはようございます」
並んで座っただけで、あちこちから視線を感じる。もちろん、私へのものではなく。ジャスティーン様見納めの時期が近づいていることに焦燥を覚えた令嬢たちが、熱い視線を注いでいるのです。
もうおわかりですね。
鬼モテです。主に女性から。
そのジャスティーン様と仲良くなったのは、ほんの些細なきっかけ。
今を遡ること、三年前。
体を鍛えるのが趣味というジャスティーン様は、学院でのカリキュラムや自由時間だけでは足りないそうで、夜に女子寮をこっそりと出ては走り込みや滝行をなさっているとのこと。その帰りに、二階にあるご自身の部屋に戻る為、木を上っているところにばったり出会ってしまったのです。
――そこで何をしているんですか!?
月明かりの中に見えたそのシルエットはシャツにズボンにブーツで、まるで青年そのもの。てっきり女子寮に忍んできたどなたかの逢引き相手かと勘違いしてしまったのでした。
誤解はすぐにとけましたが、「君こそ何をしていたの?」と聞かれた私は寮の裏庭の片隅で子猫を飼っていることを打ち明けることになりました。その数日前、親とはぐれたらしい子猫を見つけたのですが、部屋の中で飼う許可が下りずにやむなく隠れて餌を運んでいたのです。
――ふふっ。面白い子だね。
ジャスティーン様は私の秘密を実に楽し気に笑い飛ばしてから、お互いの行動を黙認するように提案してきました。私に否やがあろうはずもなく、私たちは秘密の共有者となりました。
もっとも、猫に関してはジャスティーン様が寮にかけあってくださって、室内で飼う許可をもぎ取ってくれたため、私が隠れて外に出る理由はなくなったのですが。
その後も夜中の鍛錬を続けていたジャスティーン様は、ご自分の部屋に帰る前に私の部屋を経由することがしばしばありました。昼間話す機会がなくても、私たちはそこでしっかりと友情をはぐくみ、親友と呼べる間柄になったのです。畏れ多いことですが。
ハイレベル美形で鬼モテな上に身分も高く王太子の婚約者であるジャスティーン様。普通なら近寄る気も起きない相手であり、親友面などしようものなら、妬みひがみからどんな嫌がらせを受けるか知れたものではありません。
怯える私に対し「絶対に守るから」とジャスティーン様は宣言し、遠くから突き刺さる視線だけはどうしようもないものの、いじめのようなものとは無縁に過ごすことができました。このまま、なんとか無事に卒業を迎えられそうだと思っていた矢先に。
この間柄に、母が目を付けたのでした。
――ジャスティーン様なら、アーノルド様に近づく機会なんていくらでもあるでしょう。ちょっとお願いしておそばに連れて行ってもらえばいいじゃない。それで惚れ薬を盛ってしまえばいいのよ。
(無理がありますって。世の悪役令嬢物語に出て来る王子たちはこぞって婚約破棄をしますし、ぱっとしない男爵令嬢に惚れ込んだりしますけど、お母様の目は節穴ですか。だいたいにして正ヒロインは婚約破棄される「悪役令嬢」ですし、ぱっとしない男爵令嬢の役どころといえば当て馬ザマァ要員ですよ。このまま私がもし奇跡に奇跡を重ねて惚れ薬を盛って王子を一時的に振り向かせたとしても、絶ッッッ対にザマァされて流刑・投獄・拷問・死刑・奴隷落ちといっためくるめく断罪ルートですよ。無理)
そもそも、別に王妃の座に魅力を感じていません。アーノルド様は見目麗しい青年だとはわかるものの、恋心を抱いたことはないのです。
ジャスティーン様との友情の方が、何千倍も尊い。
もし二人がこのまま順調に結婚する運びになった場合、私はジャスティーン様を思って枕を涙で濡らす自信がある。今でさえ身分差があるのに、王妃様になったら手が届かないな、という意味で。
「レベッカ。私の気のせいでなければ、最近何か悩んでいない?」
甘い響きのハスキーボイスで、ジャスティーン様が囁くように尋ねてきました。
冴え冴えとした紺碧の瞳が、心配そうに細められている。心の奥底まで見通すかのような瞳。
(ジャスティーン様を裏切るなんて、とんでもない)
手の中にガラスの小瓶を握りしめていた私は、思い余って母の企てを打ち明けることにしました。
* * *
「惚れ薬、惚れ薬。ふぅん。惚れ薬ね」
内容が内容だけに、教室の授業の後、人目をはばかって馬場の隅の木陰で打ち明けました。ひひーん、という馬のいななきや蹄の音が響き渡っているものの、見晴らしはよく近くに人が潜んでいるということもない。
木の根元に腰を下ろしたジャスティーン様は、乗馬スタイルでジャケットにズボンにブーツ。そのジャケットをさっと脱いで、惜しげもなく草地に置いて私に座るように促してきました。
「君のドレスが汚れる。遠慮しないで」
「まさか、ジャスティーン様。そこはジャスティーン様がお座りください」
私が困って言うと、考え込んだジャスティーン様はいきなり私の手を引っ張って座らせ、背後から抱きかかえるようにして腰を下ろしました。
「くっつけば二人座れる。だめ?」
耳元で囁かれて、私は顔が赤くなるのを自覚しながら「だめじゃないですけど……」とうわずった声で答えてしまいました。体はがちがちに固まっています。
(あちこちぶつかっているし、緊張します!!)
普段から身長差は感じていたけれど、視界に入る手、無造作に広げられた足など、サイズ感が違う。すらっとして見えていたけど、シャツ越しに見える腕は骨太そうでよく鍛えているのが伝わってきます。
右手には、ガラスの小瓶。
「この液体が本当に惚れ薬という証拠はどこにもない。もし中身が毒だったら、君は王太子暗殺に手を染めることになる」
耳のごく近くで囁かれて、その言葉を理解した私はさーっと青ざめたと思います。血の気がひくのが自分でもわかりました。
「それはそうですね。体よく利用されていて、騙されているだけかも……! ああ、もともと使う気はなかったんですけど、良かった。というか、そんな初歩的なこともっと早く自分で思いついていれば良かったです。処分してから、母にはそう言っておきます。よくわからないものを、他人の口に入れることなどできないと」
誰かの差し金で、母が騙されて王子暗殺に加担させられている線も無くはない。
「君の母上は、どうしてそこまで思いつめてしまったの?」
背後から穏やかな声で尋ねられて、私は溜息をついて答えました。
「思いつめたといいますか、『悪役令嬢物語』を読み過ぎたんだと思います。王子は婚約破棄をするものだと決めつけているみたいですけど、その後ですよ……。そんな軽はずみに婚約破棄をする王子と結ばれても幸せにはなりませんし。ましてや、私べつにアーノルド様のことは……」
「あいつのことが好きじゃなくても、王妃の座は魅力的じゃない?」
ぎりぎり、触れ合わないように体を精一杯小さくしていても、背後でジャスティーン様が声を立てて笑うと振動のようなものが伝わってきて、緊張します!
(ジャスティーン様にドキドキしている場合じゃないんだけど……!!)
この方婚約者のいる、女性ですし。
「王妃の座……にふさわしいものを、私は何一つ持ち合わせてないので。国を傾けてしまうかも。そんなの荷が重くて」
「そう? レベッカなら結構うまくやれるんじゃないかと思うけど」
「まさか。ジャスティーン様以上に適任はいません。全国民納得だと思います」
「レベッカは?」
体を傾けて、後ろから顔を覗き込まれた。目が合うと、にっこりと笑いかけられる。
(し……至高……! うつくしすぎるこの笑顔!)
こんな近くで見られるのもあと少しですねと噛みしめつつ、私はジャスティーン様の目を見つめた。
「私ももちろん、納得です。ただ、本音を言えば、アーノルド様がうらやましいです。ジャスティーン様と結婚できるなんて。役得だと思います」
視線を絡めたまま、ジャスティーン様はふっと、甘く微笑みました。
「そこまで言ってもらえると照れるね。やっぱり、アーノルドとは婚約破棄しようかな」
「いまの話で、なぜそういう流れに」
「なぜって。私もべつにアーノルドのことを特別好きなわけじゃないからね。結婚の自由があるなら好きな相手と結婚したいというだけの話だ。たとえば私のことをこんな風に思ってくれるレベッカと」
くすくすと笑いながら私の手をとり、手の甲に唇を押し付けました。
ぞくっ。
すばやく辺りを見回して、誰も見ていないか確認してしまった。
(殺される。さすがにこれはファンの皆様に見られたら命とられる)
私の焦りなどどこを吹く風、ジャスティーン様は立ち上がると、私の正面に回り込んで片膝をつき、まっすぐに見つめてきました。
手にしていたガラスの小瓶を私の目の前で静止させて、ひとこと。
「飲んで良い?」
「なんでですか!? 毒かもしれないって自分で言っていたのに、だめに決まってます!!」
慌ててそのガラスの小瓶を奪い取ろうとしたのに、ひょいっと逃げられてしまう。
「惚れ薬ってどういう効果なんだろう。本当はレベッカに飲ませてみたいんだけど、毒だったら困るから。飲むなら私が」
「処分しましょう!」
提案しているのに、蓋を開けるとジャスティーン様はあっという間に唇を寄せて瓶を傾けて、中身を飲んでしまいました。
「あーっ……!!」
悲鳴を上げる私の前で、ジャスティーン様は顔色を変えることなく「ふぅん」などと言っています。
「平気ですか……? こう……何か痛かったり苦しかったり」
恐る恐る声をかけると、「うっ」と言いながらジャスティーン様は胸をおさえて俯いてしまいました。綺麗な蜂蜜色の髪がさらりと肩をすべります。
「ジャスティーン様あああああ、死なないでくださいいいいいいい」
両肩に両手で掴みかかると、ジャスティーン様は顔を上げてどことなく辛そうな笑みを浮かべて言いました。
「レベッカ、好きだ。レベッカのことが好き過ぎて胸が苦しい」
「惚れ薬効いた!!? 本物だったんですか!!?」
思わず素で「私もです」と言いそうになったが、そんな場合ではない。これはただ薬の作用、気の迷いですらない。いわば、言わされているだけの状態。
(解毒しないと)
ジャスティーン様をこの状態にはしておけない。
そう思ったところで、ジャスティーン様はにこっと笑いました。
「……なんてね?」
「うそですか……」
「嘘じゃない方が良かった?」
青い瞳に光を湛えて、低めた声で囁かれて、私はほーっと息を吐く。
「ドキドキしました」
「そう。嬉しいな。嘘じゃないから」
ジャスティーン様はくすくす笑いながら、私の顔をじっと見つめて、一言。
「好きだよ、レベッカ」
私もです、って言いたいけど。
このひと、王太子と結婚する方ですからね。さすがにそういうわけにはいきません。
* * *
「ジャスティーン、今日この日をもって、君とは婚約破棄をする」
なのになのになぜか始まってしまいました、婚約破棄イベント!
卒業パーティーの会場で、アーノルド様が宣言。
(取り巻き! 早く止めてください! このままだと王子御乱心で国王陛下が乗り出してきて廃嫡だなんだの大騒ぎに……!!)
と思っているのに、なぜか誰も止めない。
今日も今日とて肌を露出しないドレスを身に着けたジャスティーン様は、腰に手をあて、片手で扇を開いてにこにこと笑って聞いている始末。ええええ。
しかも、けろっとした調子で言い出しました。
「待ってたよこの日を。せいせいする。婚約破棄、気持ち良い」
ええええええ。
(どうしよう……、この二人の会話がわからない)
ジャスティーン様のお友達的ポジションですぐそばにいた私に、アーノルド様がふと視線を向けてきました。
「さてそれでものは相談なんだが。俺は以前からそちらの御令嬢を憎からず思っていた……、というか、正直に言えば好みです。レベッカ、俺と付き合っては頂けないだろうか」
好青年だけど特に恋心を抱いたことはないアーノルド様からの、まさかの告白。
(うっそ……。なんでこう、悪役令嬢婚約破棄ルートに入ってるの……。フラグなんか今まで何ひとつ立てていないと思うのですが)
「すみません、気の利いたセリフが思い浮かばないんですけど、無いです。無理です。王太子妃? というか未来の王妃様? 無理無理無理無理です。どうぞジャスティーン様と」
予定通り結婚を。
皆まで言わせてもらえませんでした。
背後に回り込んで、耳元に唇を寄せてきたジャスティーン様に、低い声で言われてしまったのです。
「俺いまフリーなんだけど。俺にしとかない?」
声が。
いつもと違う。
普段から低い声だったけど、御顔を見ないで聞けば男性としか思えないような声でした。
「ジャスティーン様……?」
振り返ると、近い位置でにこりと笑われてしまう。
「アーノルドとは生まれる前から婚約関係で。俺が生まれたときに、『占い師は女で間違いないって言っていたけど、男でしたー!!』って言い出せなかったんだって、父上も母上も。引っ込みつかないまま、長らく嘘の婚約関係を続けてきたんだけど、卒業を機に解散することにしていたんだ。すっきりした」
騒然。
周囲で黄色い悲鳴が上がっていますが、悲鳴を上げられ慣れているジャスティーン様は全く気にしていません。
私の目をまっすぐに見つめてきて言いました。
「好きだよ、レベッカ。あの日の惚れ薬がまだ効いているみたいだ。俺の体にしたことの責任、とってくれるかな……?」
「責任」
たしかに、変なものを飲ませてしまった覚えはありますが、これは責任をとるべき場面なのでしょうか。
ドキドキしながら、念のためお伺いしました。
「飲ませたのではなく、勝手に飲まれた気がするのですが……。その、ジャスティーン様の体の変異はあのときからですか。つまりその」
私を好きになったというのは。
さすがにそこまで言わせるのは図々しいかなと段々声が小さくなってしまいます。
だいたい、婚約破棄即告白ってありなのでしょうかと思ったのですが、アーノルド様は笑顔で見守っていました。目が合うと力強く頷いて親指を立てて来ました。完全にこの恋、応援されているようです(そうえいば当て馬的告白までなさってましたものね! 王子なのに!)。
「うん。今のは俺が悪かった。薬関係なしに、ずっと前から俺はアーノルドのことは特に好きじゃなかったし、レベッカのことが好きだった。結婚を前提に家同士の付き合いをしつつ婚約をしたいんだけど、どう?」
(その告白、アーノルド様のくだりは余計では!? ジャスティーン様、たまに一言多いですよね!?)
傷ついてないかな、と思ってアーノルド様に目を向けてみたけれど、「オッケー、オッケー!」と言わんばかりに片目を瞑って、両手で親指を立てていました。あ~もう、全力で認めてますね……。
それどころか取り巻きさんたちも妙に安らかに「うんうん」と頷いている。もしかしたら彼らもずっと前からジャスティーン様の秘密をご存知だったのかもしれない。
頭の中は真っ白でしたが、覚悟を決めて、ジャスティーン様にお返事をしました。笑顔で待っていらしたので。
私も、笑顔だけは負けないように、心の底から笑って。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
★こちらの作品を長編化した作品もあります。
「王子様カフェにようこそ!~秘密の姫君は腹黒王子に溺愛されています~」
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