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空を飛べればそれでいい

作者: 仁崎 真昼

 道士が宝機を作り、魔女がそれを操る。長年争っていた二国の技術者が手を取り合うその町の名は、中津セントラルシティ。

 宝機街とも呼ばれるその町の、雑多に家屋や工房が並ぶ下町の、一階に大きな鎧戸のある古い建物の前で、掲げられた看板を睨み付ける少年が一人いた。

「ごめんください!」

 中から返事はない。黒髪の少年は少し待ち、鎧戸横の呼び鈴を鳴らした。

「ごめんください! もしもし!」

 さらに二、三度呼び鈴を鳴らそうとした少年の目の前で、不意に扉が開いた。

 顔を出したのは二十代半ばの女性だった。すらりとした長い脚と白い肌。陽光に透けるような淡い金髪は寝ぐせで跳ねており、赤色の瞳はいかにも眠そうに瞼から見え隠れしている。寝起きの様なだらしない格好であることを除けば、典型的なセントリエラの人間だった。

 女性は隠そうともせずに大きくあくびした後、気だるそうに尋ねた。

「お客さん? 悪いけど、今社長いないんだよねー」

「しゃ、社長? 事務員さんとかはいないんですか? じゃ、じゃあアンナ女史は」

「アンナさんは今日はレースだよ。知らない? A級魔女(レーサー)昇格が今日のレースで決まるの」

 少年は予想外な言葉に呆然と固まってしまった。

 人生の終わりの様な顔をする少年を哀れに終わったのか、金髪の女性は扉を開け放った。

「ま、ま、とりあえずなんかあるなら事情は中で聞くけど、入る?」

「あの、お姉さんは魔女ですか?」

「私エリー。よろしく。C級魔女。もうじきB級」

「C級……」

 少年が不満そうな顔をしたのを見て、エリーと名乗った女性は逆に興味を惹かれたようだった。少年の肩を抱くと、強引に中に引っ張り込んだ。

「なんか面白そうじゃないの。どうぞどうぞ。腕利きの魔女を捜しているなら君は運がいい! 入って!」

「いや、僕は急ぎで――」

「だーめ。話は聞かせてもらう、もう逃がさない。だって面白そうだもの」

「いや、でも、た、たすむぐぐ……」

 危険を察した少年は道行く人に助けを求めようとしたが、それより早く扉は閉められてしまった。

 エリーは少年を客用の椅子に座らせると、食品棚を漁って舌打ちをした。出せる茶菓子がない。おまけに茶もない。仕方なく罅の入ったコップにお湯を注ぐ。

「いらっしゃい、北ノ社の事務所へ。本日はどういったご依頼で?」

「あのぅ。僕、本当に時間がなくて、急いでるんです」

「なら丁度いい! 移動? 届け物? どちらにしても北ノ社ほど安くて速いところはない」

「僕が必要としているのは安全性なんです」

「んー? ということは、厄介ごと?」

 エリーが目を輝かせているのを見て、少年は観念したようだった。

「僕、鴻といいます。先日祖父が亡くなりまして」

「わかった。遺産相続で問題が出たのね」

「あ、そうです、はい。で」

「その大事そうに抱えている資料をどこかに出す必要があるということね!」

「そうなんです、けども」

 鴻と名乗った少年の目に警戒が宿る。あまりに話が速すぎる。まるで最初から鴻の事情を知っていたかのように。

 しかし、エリーは鴻の警戒を知ってか知らずか、からからと笑いながら言った。

「すごいすごいまるで『円クル』みたい! じゃあ、セントリエラの貴族に小さい頃に結婚を約束した幼馴染が三人いたり?」

「いません」

「……一人くらいいない?」

「いません。許嫁が複数人いたら問題だと思います」

「うーん、惜しい。それは惜しい」

 えんくるというのが何かは分からなかったが、鴻が危惧したような事態ではなさそうだった。

「まあいいわ。『円クル』面白いからすっごい泣けるからそれ届けたらすぐ読みなさい。損はしないから」

「はあ、小説か何かですか? 一応読んでみますが、ってそうじゃなくて。申し出は有難いのですが、これはとても大事な物なんです。申し訳ないんですが最低でもB級の――」

 そう言って断ろうとした鴻の眼に、一枚の写真が写った。

 それはエリーと黒髪の少年が並んでいる写真だった。二人の背後には巨大な宝機が浮遊している。一見なんでもない魔女と道士の写真だが、鴻はその少年に目を奪われてしまった。

「真如燧蓮道人!? とその宝機である翡翠号!?」

「お、知ってるねぇ。……待て待て。なんで煉のこと知っててバディのこと知らないのよ」

「ということはまさか貴女は風狂いのエリーさんですか!?」

「あー、龍園国の人はこっちの見分けつかないって本当だったのね。そうです。さっきも言ったけどエリー。よろしく」

「なんてことだ、ということはここは真如燧蓮道人の炎竜山風源洞……。下町の片隅にひっそりとあると言われていた幻の洞府。あまりにも巧妙な擬態だったから全く気付かなかった」

 全てを網膜に焼き付けようとあちこちを見回す鴻に、エリーは呆れたように声をかけた。

「君、宝器マニア?」

「い、いえ違います。ただ龍園国で一度でも道士を志した人ならばあの若き天才の名前を知らない人はいません。だって森藍真人の再来と呼ばれる英傑ですよ!? あああ同世代に生れることができた僕はなんて幸運なんだ」

「因みに私たちは隠れてもいないし隠してもいないから。その方が面白いからって雑誌とかが情報伏せてるだけだから」

「そんなまさか! 僕らの街では風源洞の工房というお題で小論一つ書けるくらいなんですよ! そんな――」

 指を立てて語り始める鴻の言葉を、爆発音と振動が遮った。

 鴻は体を硬直させ、顔から血の気を引かせる。

「今、のは」

「爆破系宝器が事務所に直撃したっぽいわね。劈点雷かな?」

「な、なんで僕らは何もないんですか?」

「ここコース沿いの区画だから。結構な頻度で宝機が墜落してくるっていうのに備えをしてないわけないじゃない」

 目を白黒させる鴻とは対照的に、エリーは落ち着いた表情で背伸びをした。

「とはいえ、今はレース時間じゃないし、街中で宝器ぶっぱなしてくる馬鹿がいることは事実。のんびりしてちゃ駄目ね。行きましょうか」

「え?」

「それ届けちゃえば私たちに用はないでしょ? お届け物なら、北ノ社におまかせを」

 再び爆音。ぱらぱらと天井から埃が降り、鴻は頭を抱えた。

「どうする? 余裕はなさそうだけど」

 にっこりと笑うエリーに対し鴻は数瞬迷っていたが、選択肢がないことを悟ったのか、深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「決まりっ!」

 エリーは自身のロッカーから魔女用の装備を引きずり出した。

 事務所の階段を下り格納庫に入った鴻は、緊急事態だというのに思わず歓声を上げてしまった。

 目の前にあるのは一機の宝機。いくつもの宝器をくみ上げて作られた、宝器技術の結晶ともいえる一品。

 稲妻のように二度折れ曲がったメインフレームに座席が二つ乗り、先端には可動加速子が一つ、後部には無数に細く伸びる固定加速子群とその周囲上下左右に四つの可動加速子がついている。外見としては巨大な箒のような形状をした宝機だ。

「お、おおおおぉぉぉぉ。燧熄飛翔機肆式・翡翠。本物だ。原典にも聖書にもない独自の命名とあまりに常識からかけ離れた形状操縦方法から発表当初はあらゆる方向から非難された迷機。本当にこの微小な加速子を一つ一つ制御しているのか? 歪んでしまった迦楼羅鳥の巣木をこんな形で利用するなんて発想が常人には思いつかない。うわっ、この傷は伝説の雷神との競技会でついた傷か」

「はい、そこまでー」

 エリーは宝機を撫でまわす鴻をひょいと持ち上げると、二つある座席の後部座席へと投げ上げた。そして、股間を打ち悶絶している鴻を気にも留めず、自身も宝機に跨った。

 部屋の隅に繋がっている固定索を外し、エリーは保護眼鏡をつける。

「お客さん、準備はよろしい?」

「は、はい。興奮しすぎました。すみません」

「操舵核グリーン。固定索は外して、グリップ問題なし。游動加速子待機状態、微動確認するが問題なし。四方補助加速子点火、異音なし。炎形正常。主加速子群燧熄。誤差閾値内」

「うわ、抽象化段階が低すぎませんか。もしかして加速子の出力を手動で調整してるんですか?」

「そりゃ道士(メカニック)はね、疾って叫んだら自動で走る宝機しか使えないんだろうけど、私はセントリエラの魔女よ。自分で精気(オーラ)を注入して加速子を調整できたほうが自由に飛べるの」

「人力じゃ制御しきれませんよ。三元命令式の方が現実的で、だからこそ一般的になってるんです」

「偽・太極図起動。緩衝結界展開視認。オールオッケー」

 空間系宝器、偽・太極図が起動し、翡翠号と周囲の空間の接続が緩む。音も光も衝撃も、全てがぬるま湯につかったかのようにぼやけ始める。

「まあまあ見てなさいって。あの真如燧蓮道人のバディと翡翠号の力をね」

 エリーの迫力に圧され、鴻はこくこくと頷いた。ぐだぐだと何を言おうと、結局は任せるしかない。そう諦めかけた鴻は、何か一つ忘れている気がした。

「そういえば、翡翠号って、かなり特殊な宝機だったような……」

「じゃあ、シャッターが開くと同時にぶっ飛ばすよ」

「えっと、あの、一つ伺いたいんですが」

「しっかり掴まっててね。腰にて回して、ほら」

「今から、多分荒くれ物の中に突っ込むわけですが。宝器の打ち合いとかやることになると思うんですが」

「で、このポシェット二つ持っといて。あとで中の使うかもしれないから」

「攻装と防装は確認しましたか?」

 攻装とは、宝機に積む攻撃用の宝器のことだ。防装は防御用の宝器。

「勿論したわ」

 エリーは振り返って鴻の眼を見ると、にっこりと笑った。

「翡翠号には攻装も防装も載ってないけどね」

 鎧戸が重い音をたてて開くと同時に、エリーは操舵核に精気を流し込む。音を立てて加速子が発光し、翡翠号は瞬時に加速した。

「翡翠号、発進!」

「やっぱりおろしてくださいぃぃぃ」

 鴻の悲鳴を無視し、翡翠号は開いた鎧戸から通りに飛び出した。

 鎧戸の前にいた人間が慌てて飛び退く。手には小型の刃物のようなものを持っていたが、それをエリー達に押し当てる前に翡翠号はすり抜けていった。

 飛び出すと同時にエリーはレバーを引き、宝機の前方についている游動加速子を側面に固定。精気を注ぎ込み宝機の機首を道沿いの方へ変更する。そして、加速。

 飛び出した勢いを制御し、向かいの家の壁面すれすれを舐めるように飛ぶ。爪先を擦った鴻の悲鳴は更に大きくなる。

 さらに加速しようとする翡翠号の上方から、前方に二機、進路を塞ぐように下りてくる。

「こ、哮天猫! 多分追手です!」

「掴まってて!」

「近距離攻装はミニトライデント!」

「知ってる!」

 一瞬で衝突しそうなほど近づいてきた二機から、三つ又の槍が左右に展開される。鋭く輝く刃物は通り抜けざまにエリーたちを斬り裂くには十分な鋭さを持っている。

 しかし、エリーは片方の宝機に真正面からぶつかるように進路を逸らすと、衝突を怖れて一瞬減速した哮天猫の上を掠めるように通り抜けた。

「余裕!」

「あ、足が掠りました!」

「まだまだやるからしっかり畳んどいて!」

 哮天猫が反転して追いかけてくる間に距離を離せる。そう安堵する鴻の視界の隅に嫌なものが映る。

「風火輪Mk-Ⅲ! そんな、設計書が公開されたばかりなのに!」

 脚部と背部を覆うようにして配置された加速子と、それを繋ぐように下半身を包む装甲。装着するように乗るという奇妙な形態をとった、人型の宝機。従来の宝機とは段違いの軽量さにと機動力を持ち、地上走行に特に優れている。

 エリーはしかし、それを聞いても舌なめずりをしている。

「熱くなるわよ」

「何を暢気……あ、火尖鎗βか!」

「そういうこと! ちょっとくらいの火傷は勘弁ね!」

 風火輪Mk-Ⅲに乗る魔女がバックパックに手を伸ばし、取り出した棒を伸ばす。その棒の先端からは赤い炎が羽のように伸びる。火尖鎗β。近距離攻装の傑作と呼ばれている逸品だ。

 並走しながら振るわれる槍を、翡翠号高度を上げて躱した。屋根を踏み台にして振るわれた飛び込んできたもう一機に対しては、機体を寄せることにより槍の根元で受ける。

「あっつ! あ、あつ!」

 火尖鎗βの穂先が緩衝結界を焼き、結界内の温度が急激に上昇した。

 エリーは補助加速子をふかして水平に一回転し、風火輪Mk-Ⅲを弾き飛ばすと、一瞬の逆噴射で即座に体勢を立て直す。そして、追撃に跳躍してきていたもう一機を高度を下げることで躱すと、地面を噴炎で焼きながらすれすれで飛行する。

「髪が焦げてます!」

「男なら気にしない!」

「エリーさんのです!」

「消しといて!」

 ふーふーと髪に息を吹きかけつつ、鴻は上空を指さした。

「なんで上空に逃げないんですか! 風火輪Mk-Ⅲの弱点は高度を稼げないことですよ!」

「街中は高度制限があるの!」

「無視しましょうよ!」

「免許取り消しになる!」

「気にしてる場合ですか!」

 エリーは游動加速子と補助加速子によって機体を回転させ、主加速子群を一瞬だけ停止させる。そして、機体が目的の方向を向いた一瞬を見計らって主加速子群を再点火し、速度を落とさずに角を曲がる。

「街を出たらね! ほら、門!」

 エリーは慌てて門を開けている門番に敬礼しつつ、投げつけられた火尖鎗βを蹴りで弾くと、速度を落とさずに駆け抜けた。

 門を抜けると同時に放たれた矢のように瞬時に加速した翡翠号は、機首を上げて空に向かって飛翔した。

 弧を描いて上昇し、一瞬だけ空中で制止した翡翠号から、エリーは地上付近を観察する。

「哮天猫が八機、レッドキャップが二機、風火輪βが二機、よくわかんないのが二機」

「レッドキャップ!? 軍用機ですよ! 積んでる攻装の数が段違いです!」

 悲鳴を上げる鴻は、慌てた口調で更に続ける。

「最後の二機は火眼獣です! レッドキャップの上位互換機! 防装こそ薄目ですが、速度は哮天猫に並びます!」

 十二機は翡翠号に向け機首を上げ始めている。それを見てエリーはにんまりと笑った。

「ほど良い緊張感、ゾクゾクするわー」

「急いでください! 相手は軍用機ですから、追いつかれたら撃墜されちゃいますよ!」

「レースにもレッドキャップぐらい出てるわよ。まあ安心しなさい。私、C級に上がってから十二回しか撃墜されてないから」

 鴻が、多すぎる! と叫ぼうとしたその瞬間、翡翠号が加速した。

「まずは遅いのを振り切るわよっ」

 鴻は慌てて口を閉じる。宝機に乗るのは初めてではなかったが、それでもそうせざるを得ない加速力だった。偽・太極図によって衝撃が緩和されていても尚引きはがされそうなほどだ。

 これならば、とも思うし、確かに尋常ではない加速力だ。しかし、それだけでは逃げ切ることはできない。いくら翡翠号が速くとも、二人分の重量を載せた宝機と、攻撃の為だけの攻装では速度が違う。

 ぽん、という間の抜けた破裂音と共に、腕程の長さの円筒状の物体がレッドキャップから射出される。

「じゅ、十里起雲煙射出! 四本です!」

 鴻の警告を聞き、エリーは愉快そうに口の端を歪めた。

「さて、宝器マニアの君。十里起雲煙の弱点はなんでしょうか?」

「え、え、いきなりなんですか、問答なんてしてる場合ですかっ!」

 咄嗟にそう叫ぶが、根が真面目なせいか鴻はつい答えを探してしまう。

「十里起雲煙は爆発系宝器なので起爆の指示が必要で、十里起雲煙は大抵一定量の精気に反応するように設定されています。なので弱い攻装に反応して勝手に起爆してしまうこともあり、それを利用して逸らすことが多いですが……翡翠号は攻装がありません!」

「正解! だけどおしいね! 翡翠号は、こうする!」

 エリーはぐいっと踏ん張り翡翠号の機首を強引に下に向けると、そのまま機体を激しく左右に振る。

「こ、こんなんじゃ、十里起雲煙の追尾は、あっ!」

 次の瞬間、翡翠号の遥か後方で十里起雲煙が爆発した。ほぼ同時に二度。それは射出された十里起雲煙同士が反応しての爆発だった。

「相手だってこれを考慮して間隔を開けて射出してたはず」

「翡翠号の加速力を舐めて貰っちゃ困るわ。あんなとろとろ飛ぶ弾同士をぶつけるなんて朝飯前! 今回はコースもコース外もないし、やり放題よ」

「でも、今ので少し距離が」

「大丈夫。まだまだ光学系宝器の有効射程外。ぶっちぎるよ!」

 更に二度、三度と射出される十里起雲煙はその度に数を増すが、エリーはそのこと如くをぶつけあって落としていく。

「無駄無駄ぁ! 私がレースでどんだけ集中砲火を受けてると思ってんのよ!」

「更に二本、計六本です! あ、でも四本落ちました!」

「翡翠号を落としたいなら雷神でも連れてきなさいな」

 更に加速する翡翠号はじりじりと後続を引き離す。特に足の遅いレッドキャップはすぐに視界から消えた。

 だが、まだまだ十機以上は射程距離内だ。

 おまけに、前方を見据えるエリーの視界に、更なる宝機が目に入った。

「ま、待ち伏せ!?」

「十機。全部ユニコーンね。かああ、お金持ちめ! いや、君とその書類がそんくらい価値があるってことか!」

「ユニコーンは標準装備としてヘリオスの矢を積んでます! いくら翡翠号でも光学系宝器は!」

「わかってる! うーん、タイム!」

「待ってくれませんよ!」

「高層蟻巣に身を隠す!」

 エリーは機首を地表へ向け、地表に立ち並ぶ巨大蟻塚に向かう。

 身を隠せることに一瞬安堵した鴻の背後を、光線が通り過ぎて行った。

「ひぃっ、光線が!」

「へーき! とりあえず偽・太極図が壊れるまでは!」

「それ壊れたらもう終わりじゃないですかぁ!」

「まだ遠いから当たらない! 勝負は高層蟻巣を飛び出してからよ!」

「ああ、十里起雲煙射出! それに、あれは乾坤珠!」

「蟻巣にぶつけちゃいましょ! 爆発系も打撃系もあたらなきゃ同じ!」

 じりじりと距離を詰めてくる攻装に、鴻はひっ、ひっと息を詰まらせる。当たるまではまだ時間があるというのに、自身の体が爆発する想像が止まらない。

 エリーは翡翠号を全身で制御し、蟻巣の間を縫うように飛んだ。曲がるたびに土壁に肘がこすれる距離で曲がり、側面を這う蟻が風圧で飛ばされていく。

 十里起雲煙のうちの一本が蟻巣に直撃して爆発した。鴻の全身が強張る。更に、もう一本もぶつかり、鴻は目を閉じた。

「蟻さん、ごめんね!」

 最後に重い音共に乾坤珠が土柱に埋まり、エリーは胸を撫でおろした。

 樹木のように伸びる蟻巣の間を縫い、エリーは呼吸を整える。浅い呼吸を繰り返す鴻も同じ。上空には追手が飛び回り、背後から追手が迫っているのは理解しているが、すぐさま攻撃されるわけではない状況というのは大きい。

 エリーは冷静に状況を考え、頭を掻いた。

「ちょっと困った」

「ちょっとですか?」

「だってあんなにいると思ってなかったもん。おかわりもいるとか思ってなかったもん」

「いや、僕もそうですけど」

 エリーは勿論、鴻にとっても追手の規模は想像以上だった。最新型の宝機が二十数機で、いずれも攻装を十分過ぎるほど積んでいる。小さな村なら制圧できるていどの戦力だ。子供一人を追うには多すぎる。

 エリーはこの後の状況を想像し、げんなりした。

「鴻くんだっけ。君にもちょっと手伝ってほしい。君は道士を目指してたんだよね?」

 鴻の青い顔からさらに血の気が引いた。

「い、いや、僕は」

「最低限の精気の扱いは知ってるんだよね?」

「僕は、できなくて、技術も、最低限で」

「免許は? 四級? 三級?」

「よ、四級です! 三級には上がれませんでした」

 鴻は否定のために声を張り上げ、すぐに力なく項垂れた。

「駄目なんです。三級の試験に、僕は四回落ちました。煉さんは、真如燧蓮道人は、僕より二つも下でも、一級の免許を取って仙号をもらっているのに、僕は」

 言葉に詰まってしまった鴻に、エリーは肘鉄を食らわせた。

「うっ」

「君、頭はいいのに馬鹿ね。煉は超超超超天才なんだから比べる必要はないのに」

 エリーは更に二度肘による追撃を行う。

「それに根性なしだわ。たった四回の失敗で諦めちゃうなんて」

「……その通りです」

 そして、力なく項垂れる鴻の頭をエリーは優しく叩いた。

「そんな君に問題です。B級魔女の精気操作は、道士でいえば何級相当でしょうか」

 鴻は目をぱちくりと瞬かせた。そして、なんのために問われているのかを理解する前に、反射的に口は答えてしまう。

「一般的には四級相当と言われています。A級魔女で、三級相当。二級道士相当に扱える魔女はいないとされています。一般的には、ですけど。魔女と道士では操作精度に差があり、瞬発力は魔女が遥かに優れてますが、時間をかけてよいならば道士の方が精度は高い、という話です」

「満点。何が言いたいかというと、君に渡したその宝器は、私より君の方が上手く使えるということ」

 そう言ってエリーは二つの巾着を指さした。それはエリーが出発時に鴻に持たせていたものだった。

 鴻は巾着を手に取り、改めて中を確かめる。片方には簡素な鞘に収まった短剣が、もう片方には十枚ほどの硬貨が入っている。

「これは……?」

「煉の作った宝器。片方は性質の多重定義を、もう片方は虚式展開を籠めてあるって言えば、なんとなくどんなものかわかる?」

「まさか、あの? 初めて使用された時の映像は何度も見ました。論文も読みました」

 鴻の顔がおもちゃを前にした子供のように明るくなる。目に力が戻っている。それを見てエリーはにやにやと笑った。

「使ってみたいでしょ?」

「うっ、それは、勿論そうですけど」

「使い方を教えとく。短剣の方は鞘から抜いて起動するだけ。精気の量は適当でいい。ただし、硬貨の方は起動がかなりシビアで、起動前に一四五五以上かつ一四六二未満の気量を注いでおかないといけない」

「誤差七気量以内!? 無理ですよ、そんなの!」

 エリーは振り向いてじーっと鴻の眼を見つめた。鼻が当たりそうなほどの至近距離で見つめられた鴻は、その赤い輝きに狼狽えながら目を逸らした。

「ま、前を向いてください」

「もう少ししたら、高層蟻巣を脱ける。で、包囲網になっていることを祈る。勿論北東の方向は固められているだろうけど、網状になっていれば、それでも多少は薄くなっているはずだから。で、真正面から北東を突っ切る。一応頑張るけど、正午までにつきたいなら、そうしなきゃ間に合わない」

 鴻は太陽を見た。エリーの見立ては恐らく正しかった。

「君が決めてくれて構わない。どうする? 別方向に逃げるだけなら余裕。少し遅れても大丈夫なら少しだけ安全。けど、時間内につきたいなら、かなり危険な北東。私も全力で君の命は守るけど、絶対無事だとは保証できない」

 エリーは前方へ向き直り、やや目を伏せた。金色の長いまつ毛が影を落とす。

「私が無理やり連れてきたからこうなった。ごめんね、謝る。憲兵に任せるべだったかも」

「それは……」

 その言葉に、その可能性を想像し、鴻はすぐに否定した。

「それは違います。あの場でエリーさんに断られていたら出てすぐに捕まっていたでしょう。他の人を探す時間はありませんでしたし、すぐに見つかったとしても街から出ることすら叶わなかったと思います。二十機以上の宝機に狙われてまだ生きていられるのはエリーさんと翡翠号のお陰です」

 それをはっきりと口にして、鴻はいくらか冷静になれた。

 憲兵に助けを求めるという選択肢はあった。自身の身の安全のみを考えれば、いくらでもやりようがあった。だが、鴻はそれを選ばなかった。資料の郵送を三度失敗した後、自身の手で届けることを即決した。諦めるという選択肢は浮かばなかった。危険を承知で、鴻は今ここにいる。

 恐怖と恐怖を天秤にかけ、鴻は歯を食いしばった。

「北東でお願いします。僕は、諦めるわけにはいかない」

 エリーは振り向かずに頷いた。そして、手袋の紐を締め、気合を入れ直した。

「作戦はこうね。ヘリオスの矢の有効射程外からユニコーンをつり出して、乱戦にする。で、なんとか横一列のよーいドンに持ってく」

「かなりあやふやな作戦な気がしますが……その後は?」

「そしたら勝ち。ぶっちぎって終わり。包囲網が狭まる前にその状況に持ってく」

 土柱の切れ目が見えてきた。高層蟻巣の端だ。鴻がエリーの腰に巻いた腕に力を籠めると、エリーの体にぐっと力が入ったのが分かった。

 鴻は驚いた。エリーの身長は鴻と大して変わらない。腕はやや逞しかったが、骨太な男性に比べるとやはり華奢に見える。しかし、今掴まっている胴体は鋼のようだ。凄まじい密度の筋肉。無駄のない引き締まった体。それらが服の上からでも感じ取れる。

「見てなさい」

 ボッと主加速子群が音を立て、翡翠号がぐんと加速した。

 土柱の横を抜け出すと共に鴻の目が空を見回す。

「正面方向は、ユニコーン二機、哮天猫が四機、風火輪Mk-Ⅲが一機、火眼獣が一機です!」

「ぶっ飛ばすよ。手加減できないから、しっかり掴まってて!」

 翡翠号が最初に狙ったのは北西。哮天猫が二機しかなく、北に抜けるならば一番薄いからだ。

 相手も当然にそれに気づき、すぐにユニコーンを寄せてくる。

「十里起雲煙! 一、二……五本です!」

 エリーは斜め前方から飛んでくる十里起雲煙を見ても減速しなかった。代わりに、機首をもち上げ上昇に転じる。

 哮天猫二機もそれに反応して追いかける。エリーの予想通り、まともな遠距離攻装は積んでいないようだった。積んでいても中距離の爆破系攻装、劈点雷くらいだろう。

 だとしたら、射程は長くない。エリーは哮天猫をできるだけ多く引っ張ることにした。

 翡翠号がそのまま上昇を続けると、包囲網も距離を保ったまま高度を上げてきた。とにかく足止めをしたいらしい。防装を展開する気配が全く見られないのは、翡翠号が攻装を持っていないことを察したからか、または元から知っていたからか。

 知っているなら、やりやすい。エリーは唇を舐めた。

 哮天猫に気付かれない程度に速度を落とし、わざと距離を詰めさせる。そして、劈点雷の射程内に入ったと思うと同時に反転。今度は機首を落として降下を始める。

 全力の加速で哮天猫を振り切り、今度は北東へ。その合間に十里起雲煙同士をぶつけて数を減らす。

「火眼獣、来ます!」

 エリーは真っすぐに突っこんてくる火眼獣と垂直に進むよう舵を切ると、そのまま時計回りに今度は南へ。

 ぴったりと張り付いてくる火眼獣から散弾が射出され、翡翠号に被弾した。主加速子群の一部が煙を吹き、鴻は悲鳴を上げた。

「小陽針です! 銅磚も下方から来てます!」

「追尾系は無視! 全部追いつけない速度で飛ぶから!」

「小陽針は!」

「主加速子群に当たるから無視! いくらか壊れても飛べる!」

 好機とばかりに包囲を狭めてくる宝機たちに、鴻は上ずった声を出した。

「囲まれます!」

「こっから!」

 翡翠号の機首を下げ、瞬時に切り返す。反応の遅れた二機が下降し、一部の方位に穴が開く。

 すぐさまそちらに向かうと見せかけ、今度西へ下降。そこにできかけて居た穴を塞ごうとするユニコーンを無視し、今度は東へ。

 合間に十里起雲煙を起爆させ、銅磚と乾坤珠をぶつけ合わせる。絶え間なく攻装は射出されていたが、小陽針以外には掠ることもなく無効化する。

 鴻はその技量に目を剥くとともに、ある種の感動を抱いていた。

 エリーは、機首を変える時、前方の游動加速子や後方の補助加速子だけでなく、自身の全身を使って変えている。踏板を踏みこみ、取っ手を引っ張ることにより、自身の筋肉も使って変えている。

 他の宝機がそんなことをすればあっという間に姿勢を崩して制御できなくなる。宝機の主演算器は魔女による外力まで取得、演算するには至らず、かといって魔女が毎回必ず同じ動作をできるはずもなく、転回の動作は全て宝機に委ねることが基本となっているからだ。

 全長が人二人分ほどしかなく、搭乗部を守る装甲もない、非常に軽量な翡翠号だからこそ。個々の加速子を手動で制御しているエリーだからこそできる、最速の転回技術。

 翡翠号を射程に捉えそうになった火眼獣にはユニコーンを盾にし、翡翠号を挟みこもうとした哮天猫たちの間を微塵の躊躇も見せずにすり抜ける。

 上昇、転回、加速、下降。

 減速、転回、転回、加速。

 数多の宝機と攻装が飛び交う空は、混沌と化していた。

 鴻は必死にエリーの背中にしがみつきながら、深呼吸をして気持ちを落ち着けようとする。しかし、緊張は否が応でも高まっていく。

 エリーは背中に目がついているかの如く状況を把握している。C級魔女とは思えない操縦技術で躱し続けている。しかし、飛び交う宝器の数が異常だ。いつかは破綻するのは確実だ。

 だから、と鴻は懐の硬貨を握り締めた。時が来たらやらなければならない。自分が守るのだ。預けられた宝器を使って。

 冷たい硬貨に体温が移り切るほど握り締めた鴻は、エリーに声に我に返った。

「落とせる?」

 鴻が慌てて振り返ると一本の十里起雲煙がいつの間にか翡翠号の後方に張り付いていた。

 鴻は硬貨を握り締め、それを起動しようとした。しかし、何故か握り締めた手を開くことはできなかった。

 単発の爆破系宝器。ぶつけ合わせて消すことはできない。自分がやらなければ、偽・太極図は壊れ、緩衝結界は消え、翡翠号は落ち、二人とも死ぬ。そう理解して、目の前にじりじりと迫ってくる十里起雲煙を目にしても、体は動かなかった。

 叫びそうになった鴻の体がぐるりと回転する。

 数瞬遅れて爆発音が響くが、熱も痛みも鴻の体を襲うことはなかった。

 混乱しながらも、鴻は目の前で起きたことを正確に理解した。エリーは翡翠号の尻を振り、噴炎を十里起雲煙に反応させ、爆発する一瞬前に機体を回転させ、爆発を翡翠号の腹で受けた。結果、本来ならば機体の真横で起こるはずの十里起雲煙の爆発は、機体の全長の半分だけ遠くで起きた。

「大丈夫!」

 エリーの全身は汗に濡れていた。そして異常なほどに冷え始めている。これだけ運動している状況で体温が上がるどころか下がるというのは、精気を使い切ろうとしている証拠だ。

 見ると、エリーの手はぶるぶると震えていた。足もぱんぱんに腫れている。全身を使った急転回の繰り返しに、筋肉も限界が来ているのだ。

 心身共に見えてきた限界。それでも尚、エリーは自由自在に翡翠号を操る。

「大丈夫だから、失敗しても! 大丈夫!」

 その言葉に、鴻は頭を殴られたような衝撃を受けた。図星だったからだ。鴻は失敗を恐れた。失敗して死ぬことではなく、失敗すること自体を恐れた。自身の命よりもちっぽけな自尊心を守ろうとした。

 これ以上なく情けない、弱虫の根性だ。

 引き付け、牽制し、翡翠号はいまだ宙を飛び続ける。

 エリーの言葉の通りに。

 そんな翡翠号に業を煮やしたか、止めとばかりに一斉に攻装が射出される。

 十里起雲煙、乾坤珠、十里起雲煙、小陽針、十里起雲煙、十里起雲煙、銅磚、乾坤珠、ヘリオスの矢、十里起雲煙、十里起雲煙、ヘリオスの矢、銅磚、乾坤珠、十里起雲煙。

 絶体絶命の危機だが、エリーはその時を待っていた。

「抜けるよ!」

 加速。宝器射出による一瞬の減速の隙を衝き、翡翠号は全力で加速する。

 全ての宝機が北東の方角に対し、翡翠号と同じか、それより後方にいるこの瞬間。

 エリーは主加速子群に全力で精気を注ぎ込んだ。

 ――もう追いつかれない!

 そう思うと同時に、エリーは自分の失策に気付いた。

「内布門……!」

 それは光学系宝器の中でも特殊な性質を持つ宝器だった。その特性は、隠蔽。周囲にある物質を見えなくする宝器だ。

 内布門に隠されて前方に敷き詰められていた劈点雷を見て、エリーは瞬時に思考を巡らせた。

 ――減速、追いつかれる。上方はレッドキャップ、下方には風火輪Mk-Ⅲ。転回、左右に向けると包囲は立て直される。全部避ける、無理、まだ内布門の可能性。被弾覚悟、却下。

 減速して、南に逃げるしかない。

 エリーが翡翠号の加速を緩めた瞬間、鴻は叫んだ。

「やります! そのまま進んで!」

 その言葉には悔しさと怒りが満ちていた。恐れたことへの悔しさ、恐れたことへの怒り。激しくのたうつ負の感情だが、、そのどちらもが、十分過ぎるほどの原動力だ。

 驚きつつもエリーは不敵に笑うと、その言葉の通りに全力の加速をする。

「疾――」

 鴻は懐の短剣を取り出し、僅かに刀身を鞘から抜いた。剣身が陽光をきらりと反射し、前方の劈点雷を映し出す。

 ありったけの精気を注ぎ込み、鴻はその名を呼んだ。

「莫邪の剣片!」

 瞬間、その短剣にあり得ないほど高密度に精気が凝縮し、世界が闇に包まれる。光学系遠距離宝器、莫邪の剣片の第一段階。光の収束がはっきりと目に見える形で現れる。

 そして、第二段階。光の発散。剣身から放たれた光線は翡翠号の数十倍にまで膨らむと、前方の劈点雷を根こそぎ消滅させた。

 しかし、前方の障害を取り除いたのも束の間、翡翠号の僅かな減速により、後方から十を超える攻装が追いついてくる。

 それに対し、鴻は震える腕を叩くことにより黙らせ、呼吸を整えた。

「疾――」

 鴻は振り返り、硬貨を投げる。

「落宝卑金銭」

 宝器の多重定義。それは器に入りきらない量の性質を重ねて籠め、それを寸分の狂いもなく同時に起動することにより、器の容量を遥かに超える術式を発動させる技術。手元の短剣は砕け散ったが、それでも十全に威力を発揮した。

 そして、宝器の虚式展開。こちらも原理は単純で、器から存在に必要なだけの性質さえも抜き取ってしまうというもの。その起動により、発生する現象も単純。

 周囲の物質のあらゆる性質を吸い取り、無力化する。

 投げられた硬貨に近づくと共に、光線は輝きを失い、物質は推進力を失った。虚空に消え、落ちて行った。十里起雲煙は爆発することはなく、小陽針は炸裂することなく、全ての力を失い、消えてゆく。

「……やった」

 鴻は成功したことが信じられないかのように、自分の両手を見る。誤差七気量。一級道士でさえ三回に一回は失敗するような精気操作だ。それを一発で成功させた。その事実に鴻の手が震えてくる。

 しかし、それはとても迂闊な行為で、両手を離した鴻の態勢が致命的に崩れた。座席から尻が浮き、ゆっくりと翡翠号と離れていく。

 落ちる、と顔を歪めた鴻は、自身の死を悟った。

 そんな鴻を繋ぎとめたのは、エリーの片腕だった。エリーの肘と肩はみしみしと鳴り、骨と肉が悲鳴を上げる。いくら速度が乗っていないとはいえ、もうすぐ青年になろうという少年を女性が片手で支えるのは無理がある。しかし、エリーは鴻の予想を裏切り、筋肉にものを言わせて鴻を無理矢理引き寄せると、そのまま自分の脇に抱え込んだ。

「ナイス! 後は、任せて!」

 鼻息荒く、エリーは目を輝かせた。

「翡翠号の速さは、世界一。それを体感させてあげる」

 エリーの手が操舵核に触れると、操舵核の色が緑から赤に変わった。

「主加速子群、全点火」

 ドッ、と音を立てて衝撃波が散る。

 鴻はそれを知っていた。話としてそういう現象があるとは聞いたことがあった。もし鴻の直感が間違えて居なければ、それは音の壁を越えた音だ。

「精気五重供給、制限解除」

 更なる加速。風景が線となって流れ始める。同時に機体の先端が発光し始める。初めは赤く、段々と、黄色味を帯び、最後には緑色に。

 鴻はわかった。これが熱の壁を越えた色だと。

「速く! 速く! 速く!」

 精気を吸い取られたエリーの体がさらに冷えていくのを感じる。しかし、本人はこの上なく楽しそうだ。限界はとうに迎えているはずなのに、どこからその力が湧いてきているのか、鴻にはさっぱり見当がつかない。

 だが、楽しそうな理由はわかる。ひと呼吸する間に景色が流れ、二十数機の追手を遥か彼方に置き去りにして、翡翠色の軌跡を空に残す。その快感は、控えめに言って、最高の体験だった。

 翡翠号はあっという間に山を越え、大河を渡り、二つの街を通り過ぎ、目的の街に到着する。

 エリーは門を無視して町に飛び込み、そのまま裁判所の前庭に突っ込むと、その機体を反転させて逆噴射することにより強引に停止した。

「時間は!?」

「間に合いました!」

「そんじゃ、オラ!」

 エリーは礼を言おうとする鴻を投げ落とすと、裁判所の方を指差し、叫んだ。

「走れ、鴻!」

 遥か彼方にいるだろう追手の方を見て逡巡する鴻。

 それに対し、エリーはにっと笑った。

「大丈夫! ここは絶対安全だし、あいつらはもう終わり。だって、あいつらは私たちの街で暴れた。そんなのを放っておくような、優しい奴ばかりじゃない」

 エリーの指の先、彼方の追手がいるだろうあたりに、黒々とした雲が湧いていた。先ほどまでは逃げるのにまったく不向きな晴天だったというのに、今は稲光さえ見えている。明らかに自然現象ではない。

「だから、走れ!」

 鴻は深々と頭を下げ、走り去る。

 エリーはその背後に向け、ぶんぶんと両手を振った。

「またご入用の際は、ぜひ北ノ社をごひいきに!」

 遠雷が微かに響く中、エリーは保護眼鏡をかけ直した。

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