第一話 80億人の選択
第一話
キッチンからトントントンと響いてくる野菜を刻む音と、フライパンを揺らすゴトゴトと鳴るリズミカルな音で、アラームが鳴るよりも早く俺は目が覚めた。
布団の中で仰向けに寝ている自分。寝相は昔からいいほうだが、直前まで見ていた夢のせいなのか今日は手や足が布団の外に出ている。
だが、夢の内容は思い出せない。
横に置いてある時計を見て、7時3分か。今日は月曜日だから学校か。何てぼんやりと考えた。
部屋の外のほうから、ベーコンが焼ける良い匂いが漂ってきたので、俺はガバッと起き上がり、体を伸ばしながら大きくあくびをして部屋を出て、洗顔と歯磨きをして匂いのする方へ歩いていった。
*
うちは2階建ての洋風建築になっており、2階は寝室、1階はリビングとキッチンが一体化した、リビングダイニングとかいうやつだ。
ぎしぎしと軋む階段を下りて向かったのはそのリビングダイニング。
リビングに来た俺は、キッチンで歌いながら料理をしているエプロン姿に向かって声をかけた。
「おはよう。母さん」
「おはようございます。今日は早いじゃない。ご飯できてるわよ」
キッチンにいたのは俺の母さんだった。まぁ、この家には俺と母さんを含めて3人しかいないし、今ここにいないもう1人がキッチンに立って野菜を刻んだりする姿を俺は想像もしてなかったので、当然だ。
顔をこちらに向けながら微笑みかけて、冷蔵庫に何か取りに向かう母さん。
名前は明星陽子、専業主婦。年齢は……おっと、何故か睨まれた。
ライスとベーコンとアスパラガス、目玉焼きに味噌汁という日本ならではの和洋折衷メニューが並んだテーブルを見て、イスに座る俺。
横から母さんがコップを置いて、そこにほうじ茶を注いでくれた。
「はい、陽子特製、朝から元気の出る健康ごはん! 完成です!」
「ありがとう。美味しいよ」
「美味しいかしら? 良かったー! 作った甲斐がありました。お母さん塩とお砂糖を間違えたんじゃないかと思って心配で……。……えっ!? もう食べてるじゃない! ちゃんといただきます言った!?」
「……いただいております」
もぐもぐと咀嚼していたアスパラガスとベーコンをごくりと飲み込んでから小声で言った。
リビングにはTVも置いてあるが、今はOFFの状態だ。
明星家のルールで、食事中はTVをONにしない。というルールがあるからだ。
この時間は無音、まぁ窓の外を見ると庭に小鳥がやってきて囀る音が聞こえてくるぐらい。
小鳥のラジオを聞きながら美味しい朝ごはんを食べる。それが明星家の朝の日常風景だ。
*
「ごちそうさまでした」
朝食を食べて手を合わせて合掌。
壁掛け時計を見れば、時刻は7時30分を過ぎていて、そろそろ家を出る時間だ。
「じゃあ母さん、俺そろそろ学校いくから」
料理に使った道具を洗っている背中に話しかける。
母さんは振り向くと、手は止めずに少し怪訝な顔をした。
「学校、あるの?」
俺はいつも通りの様子で答える。
「このご時世だから、自由に好きなことをしなさいって、先生がさ。だからいつも通り学校いくよ」
それを聞いて母さんは、驚いているような感心しているような微妙な表情になった。
「そう……そうね。春人がしたいこと、学校に行きたいなら。いってらっしゃい」
「うん。いってきます」
そんなやり取りをしてから俺はリビングを出て、2階に向かう。
制服に着替えなきゃいけないし、学校で必要なノートとか色々と持っていくものもある。
それから、まぁ、うちのあと1人の家族にも話しかけてから家を出るのが俺の日課だ。
そいつの部屋の前に立ち、すうっと息を吸って、一度大きく吐いて、もう一度息を吸って気持ちをほぐす。
毎度のことながら、なぜか話しかけるのに少し緊張する。
「行ってくる。帰りにコンビニ寄るから、要るものあったらメールしろよ」
「……」
返事はない。これも、いつも通りだ。
返って来ない返事の代わりに、部屋の中で布団がもぞもぞと動く音がして、俺は部屋から離れた。
これは以前からやっていることで、前から引きこもりを続けている妹に毎日声をかけてから学校に行くのが朝の習慣になっている。
自分の部屋に戻り、学校の制服に着替えた後、ポケットに鍵とスマートフォンを入れて、バッグを持って1階に向かう。
階段を下りながら、俺はリビングから漏れてくるTVの音を聞いた。
『――世界中の有名アーティストたちが集う過去最大規模の国際チャリティーコンサート、「ALIVE WIND」が開催される場所について、各国のメディアが報道している内容が食い違っており、情報が錯綜していますが、これについて委員会の会長がSNSにて、正式なことは決まっていない。開催場所については現在協議中とコメントしました……』
少し進んで1階の廊下の途中で立ち止まり、そこはちょうどリビングの扉の横だ。
俺はそこでTVを横目に見て通り過ぎようとして、だが今日は立ち止まった。
いつもならそのまま玄関から靴を履いて外へ行くところだが、今はTVの内容が気になったからだ。
どうやらニュース番組の類らしく、連日どの局も似たようなことを放送しているのだが、それが今最も求められていることだと理解しているからなんだろう。
俺は扉から顔を出して、ニュースを放送するTVに注目した。
ニュースは次の内容に移っていた。
『3か月後に最も接近するとされている、観測されている謎の天体の接近に伴い、各国の首脳が15日、会談を行うことが決定しました。人々の関心はそこでの話し合いの結果に集まることでしょう』
それを聞いて俺は「3か月後かぁ」と、ぼうっと考える。
そう。この地球に大きな黒い塊が近づいてきているらしい。
地球に近づくというよりも、地球が吸い込まれる、引き寄せられているといった表現が正しいのかもしれないが。
ニュースにもなっているぐらい、この謎の天体とかいうやつが地球に近づくと、大変なことになるらしい。
専門家が色々な説を提唱しているらしいが、その中でも最も有力……という説が、地球滅亡説だ。
その黒い塊に最も近づくと言われている3か月後。
この星は黒い塊に飲み込まれて消滅する。
跡形もなく、消える。
世界が、終わる。
「……」
ニュースは続く。
世界中の人たちがそれぞれ終わりに向けて少しずつ動き出しているという。
ある人は、俺と同じように今まで通りの暮らしを望み、最後の日が来るまでいつも通りに過ごす。
ある人は、天体望遠鏡を買ってハワイに行き、毎日黒い塊が近づくのを覗き、誰も見ることがない日記を毎日書いて過ごす。
ある人は、今までやりたかったことを全部やるために仕事を辞め、世界中の国を旅行したり、豪遊して楽しく過ごす。
ある人は、家族のために美味しいご馳走を振る舞ったり色んな楽しみを見つけ出して過ごす。
ある人は、世界的に有名な大企業を経営する社長だったが、会社をたたんで全従業員に多額の退職金を支給して全員をリストラした。自分はというと、忙しすぎて一度も会うことができなかった孫に会いに行き、一度抱きしめたあともう思い残すことがないと言って田舎の故郷で過ごす。
ある人は、この星で終わりをただ待つことを拒み、宇宙船に乗って別の惑星に行く手続きをする。だけど同じような方法はお金持ちで権力のある人が既に全て押さえていて、一般の人たちは実行には移せないらしく、途方に暮れて過ごす。
他にも色んな人がいる。
何十億の人がいれば、考え方も何十億通りの考え方がある。
俺は壁掛け時計が7時40分になっているのを見て、「まずい、学校に遅れる!」と思わず声に出してしまい、母さんがこちらを向く。
「あら、今から出るところですか? はい。お弁当」
「母さんありがとう! いってきます」
「はい。いってらっしゃい。今夜は生姜焼きにしますからねー。暗くなる前に帰ってらっしゃい」
「いってきます」
難しいことを考えるのはやめて、とにかく一日一日を大切に、普通の毎日を生きよう。
古したスニーカーを履いて、つま先をトントンとノックする。さて、行くか。
がちゃりと玄関を開けて、外に出る。今日も快晴だ。
*
街に出かけて外の空気を吸い、輝く日差しを浴びて道を歩く。気分は何一つ変わっちゃいない。
外に出ている人はけっこういる。乗車率はいつもより高めだが電車もバスも普通に動いているし、車も走っている。
朝のランニングをしている運動部の学生もいるし、会社に向かうスーツ姿のおっちゃんもいる。
この時間はいつも近所で竹ぼうきで道を掃いているステレオタイプのおばあちゃんがいるのだが、その人とも普通に朝の挨拶を交わす。
ブロック塀の上では猫と猫がけんかをしている。
こうしていると、3か月後に世界が滅ぶなんてやっぱり嘘なんじゃないか? なんて思う。
20分ほど歩いて、学校に着く。
まだ4月だというのにまぁまぁ暑くて、汗をかいた。
先生たちにも挨拶をして、教室に入って席に座る。
時刻は8時10分。ホームルームが8時40分にあるので、聞けばかなり余裕のある時間だと思うだろう。
だが俺は朝のこの静かで爽やかな空気が好きで、いつも少し早く来ているのだ。
俺以外にも教室には数人のクラスメイトがいる。が、実際にはクラスメイトではなく、同じ学年の他クラスの生徒もいる。
学校側からは、『自由に好きなことをしなさい』と言われているので、学校に来ている生徒自体が少ない。なら、同じ学年の生徒は一つの括りにまとめてしまおう。というのが理由だ。
だから顔見知りのやつもいれば、まったく知らないようなやつもいるし、不思議な感じだ。
なんとなく周りを見ていると、一人の生徒が目を引いた。
見ない顔で、知らないやつなんだが、窓側の席に座っている。
顔は窓の方を向いていて、窓から見える景色を眺めていて、俺の席からだとちょうど横顔だけが見えた。
まっすぐな黒髪が肩のところでウェーブがかった特徴的な髪形の女子だ。
その女の子は、外の景色を見ながら、不安げな、それとも何か悩んでいるか悲しんでいるか、複雑な顔をしていると思った。
さすがに知りもしない人をずっと見続けているのは失礼だ。はっとして、俺は明後日の方を見た。
それから、1時間目の授業は何だったかな? と黒板の横に書いてある予定表を見ていると、小さな声が聞こえてきた。
その方向に向き直ると、さっきの女の子の位置だった。
女の子は、嗚咽がこみ上げており、声にならないように必死に我慢して吐息が漏れているが、今にも声を上げて泣きそうな顔になっている。
瞳から涙が溢れてきたのを見て、もういよいよ涙ダムが決壊してしまう。その時だ。
俺は考えるよりも先に体が動いてしまい、席を立ってその子の横にいた。
何をしているんだ俺は、と思ったが、その子に気づかれてしまい、顔を見られた。
顔を見られた。ということは。その女の子も自分の今の顔を見られている、と気づいたってことだ。
泣き出しそうだった顔は、『見たのか――!?』という警戒の顔に、驚くべきスピードで変わっていて、俺の方も『あ、見てしまった……』という顔になっていたと思う。
このままじゃまずい。俺は何ということをしてしまったんだ!? とにかく、ここじゃまずい。場所を移動しなければ。
「い、いきなり、すまん。ちょっと来てくれ、話がある」
俺は周囲に聞こえないよう気を配りながら小声で話しかける。
「え……何? 意味分かんないし、あんた誰よ……?」
その女の子も同じ声の調子で話す。
「質問は後だ。とにかく場所を移動しよう。お前もこのままじゃ……ほら、分かるだろ?」
「…………分かった」
俺に続くようにしてその女子もついてきて、俺たちは誰にもバレないように教室を出た。
*
中庭には涼しい風が吹いていて、俺は気を遣って人がいないこの場所を選んだ。
無言で歩いている俺は頭の中で「どうしよう。どうしよう? いやほんと俺なにやってんだ?」と考えている。
「ねえ。ねえ、ちょっと」
「……」
こういう時どうすればいいんだ? 頼む俺のねずみ色の脳細胞よ。今こそ、その持てる英知を発揮する時――。
「ねえってば! どこまで行くの!」
「……! あ、あぁ。ここで話をしよう」
はっとして俺は振り返って答える。
こうして立った状態でお互いを見るとよく分かるが、その女の子は俺よりも頭一つ分身長が小さかった。化粧などを含め顔はナチュラル。制服も着崩したりしていないことから、まぁ割と真面目なタイプなのだろう。
というか、今このご時世で学校に来ているようなやつは多分真面目なやつしかいない。
「あたしは話なんてないんだけど? なんなの、あんた」
シラけた顔をして、こっちを見ながら片手でウェーブがかった髪の毛先を弄る。
まぁ当然の疑問だろうな。俺も君の立場ならそう思うよ……。
だから誠実に、ちゃんと思ったことを言おう。
「……泣いてたよな?」
「……」
こっちを見ていた視線が、分かりやすく逸れた。
視線は、こっちを見ないようにして、左を見たり右を見たり、池で飼われている亀を見たり、落ち着かない。
「……あんたには関係ないでしょ」
それが答えだと言わんばかりに重いトーンで吐き出されるように言われたその言葉に、俺は空気まで重くなるのを感じた。
さて、どうしたものか……俺のねずみ色の脳細胞よ。頑張ってこのバリヤを取り除いてくれ。
「確かに……関係ないし、俺はついさっき君のことを初めて見た。正直泣いてるのを見てヤバいって思ったし、変な奴だから関わらないほうがいいって思ってたんだけど……」
俺の言葉を遮るようにして、彼女は言った。
「はぁ!? 誰が変なやつでヤバいやつよ! 急に話しかけてきて人気のないところに連れてきてっ! あんたの方がよっぽど変なやつじゃん! あたしはただ、波切先輩に告白してフラれたらどうしようって思って――」
そこまで言ってはっとして彼女は黙った。
「……」
「……」
2人の間に沈黙が訪れる。
思った通り、何か深い事情があるようだ。
さっきはつい体が動いてしまったが、泣いている女の子を放っておけるほど俺は心が冷たくない。
「なぁ。もう言っちゃっていいんじゃないか? 何か悩んでいるのは分かる。俺で良ければ話を聞くよ」
「…………」
長い沈黙の後、彼女は口を開いた。
「分かった、わよ」
… … …
これは、
世界が滅ぶ日まで、いつも通りに過ごすと決めた少年と。
世界が滅ぶ日までに、願いを叶えたい少女。
2人が出逢い、やがて来る世界の終わりを迎えるまでの物語である。