家畜転生 ~たしかにマヨネーズがほしいと言ったけれども!~
広がる不毛の大地。
川は涸れ、空はよどみっぱなし。
ひび割れた黄土色の平原。
まずしい身なりの痩せた母と娘がいた。
「お母ちゃん、お腹空いたよ……」
「世界は滅びたのよ……そのあたりの土でも食べてなさい……」
なんと哀れなことか。
周囲には雑草さえなかった。
二人はこのまま飢えて死ぬしかないのか?
そう思われた時であった。
「お母ちゃん、アレ……」
少女は何かを発見する。
母はそれを見た瞬間に全身を硬直させた。
それはおぞましき四足歩行の生物だ。
異様に長い四つ脚の上には球体そのものの胴があった。
背中にはあらゆる植物が咲き誇っている。
首が長い。
そして首の先についているのは、人の顔だった。
穏やかな男性の顔を持つ異様に全高の高い四足歩行の生き物がゆったりとした動作で近付いてくる。
そいつは飢えた親子を見つけるとニコッと笑った。
「に、逃げないと……!」
食物がなくとも生きることをあきらめなかった親子だ。
母には娘を生かしてやりたい想いがある。
その想いが逃走を選ばせた。――確信する。アレはかかわってはならぬ生き物だ。早々に記憶から消さねば気が狂うたぐいの異常そのもの。
母は娘の手を引いて逃げようとする。
けれど足が竦んでしまって動けなかった。
娘は娘でケタケタと笑っている。「変なの! 変な生き物! おかしい! おかしい! おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい――」
生物が長すぎる脚を動かして近付いてくる。
母は全身を震わせ、娘は涙と吐瀉物をまき散らしながら笑い続けていた。
生物は言う。
「安心してほしい。俺は家畜なんだ」
生物は無害さをアピールするかのように長い首をもたげて顔をよせてきた。
母親はガタガタ震えるばかりで返事もできない。
「お腹が空いているのだろう? ――俺の顔をお食べよ」
生物が好青年めいた顔を寄せてくる。
ちょうど、母親の口の前に、頬をくっつけるように。
――食べる? コレを?
母親は震えも忘れた。人だ。四足歩行で奇妙なシルエットなのだけれど、顔だけがまごうことなき人間だった。よりにもよって、一番人っぽい部分を食べさせようとするのか? 背中に生えた草とかではいけないのか?
しかしこの異常生物に逆らうのも恐ろしい。
母親は意を決した。
娘のために修羅となったのだ。
がぶり。
思い切ってかじれば、生物の頬は楽に噛みちぎることができた。
食感はかなりいい。柔らかく、口の中でホロホロと崩れていく。
味は甘く、香りは香ばしかった。そう、これはまるで――
「甘い、パン?」
「わかってくれたかい」
かじられた頬から歯列を剥き出しにして生物は笑う。
「俺は食べられるべき家畜なのさ。顔はアンパン、背中にはあらゆる野菜が茂り、乳からはマヨネーズが出る。スイッチが見えるかな? 切り替えれば五種類のモードに可変するんだ。今はシシガミ形態だから菜食主義者も安心な仕様だけれど、他の形態なら肉が好きな人にも楽しんでもらえる……ああ、待っててくれ、今、卵が……うっ……で、出る……!」
ころん、と生物は卵を産んだ。
そして、
「どうぞ。栄養豊富な鶏卵だよ」
「えっ」
今、目の前で生んだものを食べさせられようとしている。
何度だって思うが、背中の草とか、比較的安全性の高そうなものをいただくわけにはいかないのだろうか?
しかし母親は娘のために生理的嫌悪感を乗り越えた。
卵を拾い、生物の胴体と見比べ、それから目を閉じて深呼吸をした。
割って、生のまま食べる。
生卵なんか人生で一度だって食べたことはなかったが――
「ま、まろやかでコクがある……!?」
「俺の卵は地鶏級なのさ。……さあ、娘さんにマヨネーズを吸わせてあげて。高カロリーだよ」
「む、娘は許してください……! 私がなんでもしますから……!」
「けれど俺は家畜だから、空腹な者を見たら何がなんでも胃袋を満たしてやらねばならないんだ。家畜とはそういうものなんだよ。生きるなら空腹を満たすべきだ。もし空腹を満たしたくないっていうなら生きる気がないものと判断して、君たちも誰かの糧になる」
殺される。
いや、あるいはもっと、想像もつかないようなおぞましい目に遭うことになるだろう。
母親は涙を流した。
そして顔を紫色にしながら笑い続ける娘の背中をポンポンと叩く。
「……あなたにこんなことをさせてごめんなさい……けれど、吸わないと殺されるわ……吸って。お願いだから、吸って」
娘は説得に応じたのか、笑いながら生物の胴体の下へ歩む。
生物は長すぎる四肢を曲げて――脚一本につき関節が四つある――娘へ覆い被さるようにした。
「ああッ……!」
母親はそれ以上見ていられず、顔を覆った。
音だけが聞こえてくる。
娘の苦しげな笑い声。
「んむっ!?」無理に口をふさがれたような、そんな声。
「ぐっ……うぐっ……!?」苦しげな息を漏らし、バンバンと――たぶん生物の胴体を叩く音。
しかし逃れられない。
娘の声は次第に小さくなり、だんだんとある音が際立つようになってきた。
ドクッ、ドクッ、ドクッ……
何か粘性のあるものを流し込むような、そんな音だ。
娘の声は聞こえなくなっていく。
抵抗の音さえなくなった。
そして――
「さあ、栄養補給はできたはずだ」
母親はおそるおそる目を開ける。
視界に移ったのは、仰向けに寝転がされ、口元を白濁した液体で汚した娘の姿だった。
「ああ……ああ……!」
母親は絶望感で膝から崩れ落ちる。
光を失った娘の目は、あきらかに心を砕くほどの乱暴狼藉を受けたあとの姿だった。
「……ぱ……みぃ」
娘がかすかな声で何かを言っている。
その声を聞き取るため、母親は這うようにして娘へと近付き、その口元に顔をよせる。
ツンとした臭気の漂う娘の口がかすかに動き、こんな言葉を紡いだ。
「すっぱくて、くりーみぃ……」
「マヨネーズだからね。宴はこれからだ……! マヨネーズ、野菜、卵、そして肉もある……! 焼き肉パーティーの始まりだ……! さあもてなされろ!」
生物が迫ってくる。
母は娘を抱きしめたまま震える。
――ああ、もてなされる!
◆
あとには幸福と満腹感が残った。
脚を折りたたんでペタンと地面に座り込んだ生物の胴体によりかかり、母と娘は満ちたお腹をさすっている。
はち切れるほど腹に入れた。立ち上がることもできない。
食事をしただけだ。そのはずなのにこの快楽と多幸感はなんなのだろう……母親は少しだけ恐怖を思い出したけれど、満腹感と生物の腹部のフカフカした感触の前に恐怖を抱き続けることは難しかった。
「世界を救いたい」
生物は言った。
素晴らしいことだと親子は感じた。
「滅びて不毛の大地と化したこの世界で、それでもまだ生きることをあきらめない人々を救いたい。俺がこんな生物として転生したのはきっと、そういう使命があるからだと思うんだ」
親子は涙した。
その優しい心遣いと、このような奇妙な生き物と化してもあきらめない強い意思に感涙を流したのだ。素晴らしい。なんと素晴らしい。満腹のせいでうまく動かない頭の中で幸福がドバドバ出てくる。
「けれど世界は広い……だから仲間が欲しいんだ。君たちも、俺と一緒に、世界のみんなを満腹にしてくれるかい?」
母と娘は同意する。
けれどあまりに無力な存在だ。こんな草も生えぬ世界で、人の満腹のために自分たちができることなどあるのだろうか?
「大丈夫。君たちも俺と一緒に家畜になればいいんだよ」
なるほど、と思った。
それは素晴らしい考えだ。家畜になると世界が救えるのだから、もうそれしかないような気さえしてくる。
「わかりました家畜様。私たちも微力ながらお手伝いいたします」
「お母ちゃんと一緒にあたしもがんばります、家畜様!」
親子は生物の脇腹に顔を押しつけながら言った。
魅惑のモフモフ食感なのだ。漂ってくる瑞々しい花の香りも最高で、思わず生物を吸ってしまう。
「ありがとう。じゃあ、行こうか。こうして協力者を増やして、世界を家畜で満たそう」
こうして世界を満腹にする旅は始まった。
遠くでは、雲の切れ間から夕暮れが差しこんでいた。
その黄昏を目指して、家畜三人は歩き出した――