空語:髪は女の命
鬼童 真珠は、鳳 鈴に捕まっていた。
「鬼のいぬ間に何とやらってね」とニコニコ笑った鈴は、真新しい白いタオルを真珠の肩に引っ掛ける。
動くに動けない、というより最早動く気があるのかも分からない真珠は、そのまま体を左右に揺らす。
鬼の居ぬ間に、とはよく言ったものだと考えた。
真珠の双子の兄は、鬼童 玄乃といい、割と重度なシスコン――シスターコンプレックスだ。
――真珠本人も重度なブラザーコンプレックスを患っているのだが。
兎にも角にも、真珠が風呂上がりに髪を乾かさずにいるのが見付かれば、驚く程の速さでタオルやドライヤー、ブラシなどを用意することだろう。
何なら、美しい髪を保つための椿油も出すだろう。
そんな玄乃が現れれば、鈴の仕事は無いも同然。
寧ろ、何故そこにいるのかと、暗に最初から眼中に無いと言われるのが落ちだ。
しかし、そんなことを一々口にする必要も無く、真珠は大人しく座り、鈴はまた別のタオルを取り出し、真珠の髪を包み込む。
ぽふぽふ、控えめな音が響く。
真珠は日本生まれの日本育ちで、両親共に日本人だが、その髪は長い白銀で、肌色も透き通るように白く、唯一瞳だけが色濃い黒をしていた。
まるで絹のような髪を拭う鈴は、ほう、感嘆の吐息を漏らす。
全体的に白っぽく、余計な色を持たない真珠に対して、鈴は髪は黒く瞳は焦げ茶という、相反する色味とも言える。
「濡れててもボリュームあるわね」
タオルに水気を吸い込ませた鈴が、タオルを片手にそう呟いた。
見下ろす白銀の髪は色味のお陰で軽そうに見えるが、如何せん量が多い。
長さもあり、座っていると床に触れてしまう。
次にドライヤーを手に取った鈴は、温風で長い髪を根元から乾かしていく。
ゴウゴウと響く風の音に、真珠が眉を寄せる。
どうにも真珠はこの音が苦手で、鈴にしろ玄乃にしろ、真珠本人よりも真珠の髪を懇切丁寧に世話しようとするので、ドライヤーの時間が長い。
温風が終われば、冷風、通常よりも倍の時間が掛かってしまう。
思い返せば、掃除機も苦手だった――真珠が寝間着である着物の裾を握る。
片手で髪を梳きながら、もう片方の手でドライヤーを細かく動かしながら、風の向きを変える鈴。
至れり尽くせり、というものだ。
完全に乾き切り、冷風で熱を持った髪から熱を取り除くと、やっと、カチリ、ドライヤーのスイッチが切られる。
そこでやっと、真珠が握っていた寝間着の裾を離す。
鈴の手は次に、とブラシへ伸びる。
乾かしている間にもサラサラと絡まりのない髪になっているが、しっかりと乾かしてから終わるのだ、そんな心情が伝わってきた。
背中でそれを受け止める真珠は、まだか、と僅かに足を崩す。
「真珠の髪は細くて綺麗ね。本当に絹糸みたい」
「そう。自分としては、鈴の髪なんて羨ましいよ」
さらり、さらり、撫で付けるようにブラシを通していた鈴だが、真珠の言葉に手を止めた。
鈴の髪は混じり気のない黒で、肩に触れれど、胸上程度の長さしかない。
更に言えば、真珠の髪に執着する割に、自分の髪に対して頓着せず、水気だけを取って終わることの方が多かった。
「それは……変わった趣味ね」
「あら、そう?淀みない黒に、毛先に癖があって柔らかいでしょう。自分は好きだな」
世間一般的に方言も特有の訛りも無しに、自分、という一人称を扱う真珠は、非常に楽しそうに笑っていた。
背後に回り、真珠の髪の世話をしていた鈴には見えないだろう。
当然、真珠も背後で耳まで赤く染めている鈴の顔は見れないが。
しかし、その初々しくも青臭い空気をぶち壊したのは、残酷にもその空気を作り出した張本人である。
ブラシを持った状態で固まり続ける鈴に、そうだわ、と声を上げたのが真珠だ。
ぽん、両手で軽く自身の膝を叩き「髪と言えば、こんな話があったわね」滑らかに、薄く弧を描いた口から物語を紡ぎ出す。
***
大層髪の美しい娘がいた。
ぬばたまの色の髪、烏の濡れ羽色の髪、緑の髪、翠髪――そうした美麗句の似合う美しさだ。
彼女自身、その髪を自慢に思い、毎日毎日鏡の前で手入れをしていた。
求婚者は並ぶ程おり、何処かの城に上がるやも知れぬと、両親もそれはそれは喜んでいたらしい。
そんな彼女の家に、旅の僧侶が一晩の宿を求めて立ち寄った。
彼は徳の高い僧侶だったようで、歓待の為のに、その髪の美しい娘も表へ出る。
僧侶もまた彼女の美しさに感嘆するだろうと思われたが、僧侶は表情を曇らせた。
そして憐れみを込めた目で娘を見るものだから、どうにも気になった両親が理由を尋ねる。
すると、とんでもないことを言った。
「髪は女人の命と云うが、この娘は正しくその通り。世にも希な事に、娘は髪に魂を宿している。並人ならば心の臓を曝け出して生きているのと同じ事。これまで、丁寧に丁寧に髪を扱ってきたので、健やかにあるが、髪を一本でも粗雑に扱えばたちまち死んでしまう運命にある。くれぐれも、自然に抜け落ちる以外に、髪を殺してはならぬ」
何て恐ろしいことだ、と両親は震えたが、当の娘はきゃらきゃらと笑って言う。
「どうして自慢のこの髪を粗雑に扱いましょう。心配することはないですよ」
僧侶はそれでも、くれぐれも大切に扱うようにと言い、翌朝には去って行った。
それから数年が経ち、娘は妻となり、子を産み、育て始める。
優しい夫と愛らしい子供達に囲まれ、未だ容色衰えぬ女は幸せに暮らしていた。
そんなある日、夫が妻の旋毛を見下ろすと、煌めく白髪を一本見つける。
夫は妻に言った。
「なぁ、お前。連れ合ってもう随分となるなぁ。お前も白髪が生えるような年になったのだな」
心底感慨深そうに言う夫に対し、妻の方は心底嫌そうな顔をした。
老いの象徴である白髪など憎くあっても、他は無い。
美しい黒の中に一本混ざった白は、酷く見苦しいように思えてならなかった。
妻は「何と醜い白髪でしょう。こんな死んだ髪等いるものか」と言って、その白髪を引き向いてしまう。
すると何ということか、突然妻は糸の切れた人形のように倒れてしまった。
驚いた夫が慌てて駆け寄るが、妻は二度と目を覚ますことはなかったそうだ。
周囲より一等美しい髪の持ち主は、この娘――女と同じように髪が命の事が偶にあるらしい。
綺麗だからと迂闊に髪に触れると、命をうっかり、抜いてしまうかも知れないのだ。
***
ゴトリ、ブラシを取り落としたのは鈴だ。
真珠が首を捻るようにして振り返れば、焦げ茶の瞳を、溢れ落とさんばかりに見開いた鈴がそこにいる。
落としたわよ、ブラシを拾い上げた真珠だが、鈴はそれを受けることなく後退った。
すると、丁度閉じていた襖が開き、その奥から真珠にとって最愛の兄が友人を連れて現れる。
玄乃もその友人である羽衣 鳴も風呂上がりらしく、お互い肩にタオルを引っ掛けていた。
「おい、リン。危ない」
未だ後退りを続ける鈴の肩を掴んだのは鳴で、揺れる瞳を見て首を捻る。
一体何があった、そう声を上げたのは玄乃の方だ。
真珠本人も首を捻り「さあ?髪を梳かしている途中だったのだけれど」持っているブラシを揺らした。
すると、最愛の妹が困っているのならと手を伸ばした玄乃。
「俺がやる」そう言ってブラシを受け取ろうとした瞬間――ドンガラガッシャーン、ギャグ漫画でしか聞かないような音が響いた。
玄乃が受け取るはずだったブラシは相変わらず真珠の手にあり、それを受け取ろうとしていた玄乃の体は、鈴の手によって突き飛ばされている。
部屋と部屋を仕切る襖に突っ込んだ玄乃に、鈴は何故か玄乃ではなく真珠の方を見て「大丈夫?!」声を荒らげた。
状況を飲み込めない鳴が眼鏡の奥で瞬きをし、若干意識の飛んでいた玄乃が呻き声を上げる。
しかし、兄が好きな割に無事だと信用している真珠は、兄の心配をせずに「おやまあ」と笑っていた。