第1章 ⑥
「セジ。いい加減にしないと、私はここで大声をあげる」
「…………仕方ない、な」
セジは渋々、アリーシャを解放した。
言いようのない甘い感覚に縛られていた体が自由になって、アリーシャはほっと一息つく。
……が、次の瞬間セジの骨張った手は、アリーシャの首の後ろに伸びていた。
「ひゃっ!」
冷たい指先が首筋に触れて、アリーシャは肩を竦めた。セジは強引だった。手を離す気はないらしい。
「胸元が寂しいと思ったので、これを」
言いながらセジの手は、器用にアリーシャの首の後ろで金具を留める。
ふと見下ろすと、アリーシャの胸元には暗闇の中でも燦然と輝く宝石があった。
それは、人差し指くらいの大きさの可愛らしいものだった。
「一体、これは何の真似なんだ。セジ?」
「見て分かりませんか。首飾りですよ」
「そのくらいの知識は、私にだってある」
顔を曇らせてアリーシャが答えると、セジはきょとんとした顔でこう言い返した。
「いまだに理由が分からないなどと言うのですか? 愛情もないのに女性にこんなことをする男はまずいないでしょう」
「…………だから」
アリーシャは話が通じていないと、首の後ろに手を伸ばして首飾りを取ろうとした。
しかし、その手をセジが強くとらえた。
「もしかして、気に入りませんでした? 大きなものを贈ったら絶対怒るだろうと思って、あえて控えめなものにしたのですが?」
「そういう問題じゃないんだ。分からないのか? 君はおかしくなっている」
「何が? 前々から疑問に思っていましたが、何がどんなふうに俺がおかしいんです?」
平然と問いかけてくるセジに、とうとう黙っていられなくなったアリーシャは真率に頭を下げた。
「私がすべて悪かった」
「はっ?」
「君に……、変な薬を飲ませてしまったから」
「…………薬?」
「そうだ。去年の卒業舞踏会の日に、私は舞踏会に参加していたんだ。それで、あまりにもさびしかったものだから、自分で飲もうと杯の中に薬を混ぜた。でも急に君が来て私は驚いて物陰に隠れたんだ。だって思いもしなかったんだ。下級生の君が舞踏会にいるなんて」
「俺は去年舞踏会の手伝いで、参加していましたけれど」
手伝いという状態ではなかった。
アリーシャが見る限り、今日と変わらずセジは舞踏会の主役だった。
自分と違い、大勢の女性に囲まれ、堂々と振る舞っているセジを目の当たりにして、アリーシャは複雑な心境になった。
幼馴染みは遠く、何て自分は無様なのだろうかと悔しくなったのだ。
それで……。
「……貴方が飲もうとしていた薬を、俺が間違って飲んでしまったというわけですか?」
アリーシャは無駄なくらい何度も首肯した。
「まさか君が、私の杯と勘違いするなんて思いもしなかったんだ」
去年、露台には一つだけ白い円卓が出ていて、その上にアリーシャは杯を乗せていた。
セジは男友達とふらりと露台にやって来て、談笑をしていた。
そして、自分の飲んでいた杯ではなく、アリーシャの飲んでいた杯に手を伸ばして、よりにもよって一気に飲み干してしまったのだ。
同じアトレア水という果物の絞り汁を飲んでいたということも災いしたのかもしれない。
だが、それにしたって、せいぜい従者の一人くらいは、セジにつき従っているはずだ。
あんなことになるなんてアリーシャは思いもしなかったし、あっという間のことで、アリーシャが止める時間などなかった。
「昔と同じじゃないですか? 俺が貴方の作った薬の実験体になるっていうのは」
セジは、肩を揺らして笑う。むやみに楽しそうだ。
アリーシャにとっては、腹立たしいことだった。
それからずっとアリーシャは、セジに罪悪感を抱き続けていたのだから……。
「笑わないでくれ。セジ。私はこの一年、色々と悩んだんだ」
……大丈夫だと、あの夜何度もアリーシャは自分に言い聞かせた。
試作品ではあったし、どんな効能があるかは未知数ではあったが、薬の効果は精々一日程度だと。
聖院の補習で、学院に行く機会はあるから、その時にでも、ちらりとセジの無事を確認できれば良い。
そう開き直って向かった学院で、アリーシャはいきなりセジから愛を告白された。
……何故? どうして?
それは、有り得ない展開だった。
二人の間の空白の時間は六年近くある。
出会って共に過ごした月日よりも、何もない期間の方が長いというのに、どうしてここに来て、恋情にまで発展してしまうのだろうか。
二人の仲が復活するにしても、せめて友達からじゃないのか。
アリーシャは過去のことも含めて、セジが哀れになった。
何が悲しくて、前途洋々の若者であるセジが今更アリーシャなんかに恋をしなければならないのか。
ーーすべては薬のせいだ。
アリーシャはそう結論づけた。
「じゃあ、俺が飲んだものは、惚れ薬だったとでも貴方は言うんですか?」
他人事のように淡白なセジに物足りなさを感じながらも、アリーシャは腕組みをして考えてから、静かに肯定した。
「それ以外、考えられない。セジが薬を飲んだ直後、慌てて身を乗り出した私と一瞬目が合ったんだ。もしかしたらと思ったけれど、最初に見た人間に好意を抱くとかいう、とんでもない代物だったのかもしれない。あるいは、アトレアという果実と混ざり合ったせいで違う効能が出来てしまったのか……」
「それで?」
「それでって」
原因追求に頭をめぐらせていたアリーシャは、目を丸くした。
セジは、まったく気にしていない。
普通はどうしてくれるんだとか、人生返せとか怒るものなのではないだろうか。
いや、今も薬の効果が切れていないのだから、自分はアリーシャが好きなのだと勘違いしたままなのだろう。
「すまないな、セジ。君の人生を返すことは出来ないけれど、私は今日のためにちゃんと解毒剤は作って持って来た。これを飲めば君も……」
「アリーシャさんは、以前と同じように俺なんかと口も利きたくないというわけですか?」
初めてセジが苛立ちを見せたので、アリーシャは懸命に首を横に振った。
「それは違う。違うんだ。セジ。私は君と昔のように話すことが出来て本当に楽しかった」
「……じゃあ、良いじゃないですか。俺が貴方を好きでいたって……」
……良い?
セジがアリーシャを好きで?
アリーシャは何か心に引っ掛かりを感じながら、勢いに押されて頷きかけた自分を恥じて頬を軽く叩いた。
やはり、問題がすり替わっている。
……良いわけがない。
アリーシャの両親は、セジとの友情が復活したなんて知ったら、何をするか分からないし、未来のラティス公が薬屋の、しかも魔女の血統なんかと仲良くするのは良くないことだ。
常識的に考えても、友情ですらアリーシャとセジの間には成立させてはいけないことが分かる。
いや、何より。
アリーシャが辛いのだ。
二人の間には深い溝がある。また二人で話すようになって、これ以上深い溝になってしまうのが怖い。
どうせ、セジは遠からぬ未来に、アリーシャから離れていく。
だったら、昔のまま。綺麗な思い出の中に、セジがいればアリーシャは十分だった。
関係が木っ端微塵に壊れるのを確認するよりも、その方がずっといい。
アリーシャはセジと出会った頃のように、聞き分けない子供を諭すような先生のような口調で、言い放った。
「でも、セジ。私達には立場があるじゃないか。君と私とでは何もかもが違う。そんなこと嫌というくらい、お互い子供の頃に学んだはずじゃないか? でも、君と私の友情は変わらないよ。たまに話すくらいなら、ラティス公もお許しして下さるだろうし……」
「そう……ですか」
それきり、セジは無言だった。
沈黙がアリーシャの心を抉った。
自分の選んだ言葉は間違いだったのかもしれない。
しかし、これから歩む道が絶対的に違うセジに対して、アリーシャは一体何を言えば良かったのだろうか?
何か言い重ねることが出来れば良いのに、気の利いた言葉が思い浮かばない。
やがて、室内から華やかな円舞曲が流れ始めた。